社長の酒中日記 8月その4

8月某日
西国分寺の「にんじんホーム」で石川はるえ理事長に面談。石川さんが進めている虐待防止の絵本制作プロジェクト「いのちすこやかプロジェクト」について意見を具申。共通の友人である長岡市長の森さんが新潟県知事選挙に出馬することについても意見交換。そのあと西国分寺駅北口のイワシ料理の店「たつみ」でご馳走になる。この店は何度か連れて行ってもらったが、料理が美味しいうえお店で働いている人がとても感じがいい。

8月某日
SMSで「カイポケマガジン」編集長の田中君、当社の迫田と次号以降の打合せ。SMSは住友不動産芝公園タワービルの2フロアを使用している。世間的な知名度は高くないが介護事業者に介護報酬請求などのソフトを販売したり、介護人材情報の提供などで業績を伸ばしている新興の優良企業。ネットマガジンの編集などを請け負っていたが「カイポケマガジン」は介護事業者向けの活字媒体だ。田中君はなかなかの好青年で打合せを終えた後で「吞みに行こう」と約束していたが、頚椎を痛めたとかで今回は参加できず。元厚労省で長崎県立大学の客員教授をしている堤修三さんに声をかけていたので「飲み会」の方は予定通りに実行。SMSの長久保君に声をかけたら「空いてます」ということなので誘うことにした。西新橋の「花半」に行くと堤さんはすでに来ていた。ビールで乾杯のあと冷酒に。遅れて長久保君が来た頃にはだいぶ酔っていた。

8月某日
久しぶりに吞もうとプレハブ建築協会の合田専務と高齢者住宅財団の落合さんにメール。今日が都合がいいということなので神田駅前の葡萄舎に集合。6時半過ぎに行ったら合田さんがすでに来ていた。落合さんが遅れてくるということなので先に始める。合田さんは元建設省の住宅技官。私が日本プレハブ新聞で建設省住宅局の住宅生産課を取材していたとき、プレハブ住宅担当の係長だった。昔話をしていると落合さんが来る。落合さんは高齢者住宅財団で企画や調査、機関誌の編集などをやっている(と思う。仕事の話はあまりしないのでよくは知らない)。合田さんとは30年以上、落合さんとは20年以上の付き合い。
合田さんは熊本地震への仮設住宅の対応で今週は熊本出張ということだ。

8月某日
図書館から借りた佐藤雅美の「八州廻り桑山十兵衛 花輪茂十郎の特技」(文春文庫 08年4月 単行本は05年4月)を読む。佐藤雅美は物語の筋が面白いうえに時代考証がしっかりしていて私にはお気に入りの作家。主なシリーズに「半次捕物控」「物書同心居眠り紋蔵」「縮尻鏡三郎」「町医北村宗哲」それにこの「八州廻り桑山十兵衛」などがある。八州廻りとは関東取締出役の通称。八州は武蔵、相模、伊豆、下総、上総、下野、上野、常陸の八か国のこと(だと思う、多分)。将軍家お膝元の江戸近郊ということになるが、小藩と天領、旗本領が入り組み、治安の維持に苦慮した幕府が勘定奉行の配下に八州廻りをおいた。八州廻りの日当は一人一日銀十二匁六分、両に換算すると0.12両となり、年に実働300日として63両になる。その他「使い捨て(領収書の要らない出費)が日に300文、年に13両の合計76両。これに桑山十兵衛の90俵3人扶持を金に換算するとおよそ40両弱。つまり年収で言えば116両と言ったところ。八州廻りは町奉行で言えば同心と同格のようだから「お目見え」以下の御家人、幕府の官僚組織では直参の旗本をキャリア官僚とすれば御家人はノンキャリの専門職か。と言うようなことを考えながら読む楽しみも佐藤雅美の小説にはあるのだ。

8月某日
図書館でたまたま手にした新潮文庫の「消費税 政と官との『10年戦争』」(清水真人 2015年)が面白そうだったので借りることにする。文庫本でも500ページを超えると読み応えがあるが、この本はボリュームだけではなく中身も十分読み応えがある。著者の清水は1964年生まれ。東大法学部卒の日経の記者だが政治家と官僚を中心に、相当なネットワークを築いているとみられる。消費税を巡る政官の10年戦争と言うことだが、絞ると政は自民党、公明党と民主党、官は財政省と厚労省である。なぜ厚労省かと言えば、消費増税分はすなわち社会保障の充実に費やされることになっており、もし消費増税がなかりせば高齢化に伴う社会保障給付費用の増大を賄いきれず、国家財政は破たんを余儀なくされるからである。したがって本書にも江利川、香取、山崎、阿曽沼といった私の知っている厚生官僚たちも登場する。
自公政権から民主党へ、さらに民主党から自公へと、この国は2度の政権交代を経験した。政権交代は無用な混乱を招くことも多々あるが、「政権交代も悪いことばかりじゃないな」と本書を読んで感じた。ときの政権が不安定であることが政権交代の一つの要因だと思うが、不安定であるがゆえに与野党ともに真剣に政策論議を深めるのではないかと思う。その意味では自民党が圧倒多数を占める国会、安倍首相の1強他弱状態の自民党、どっちも緊張感に欠けているのじゃないの?と言わざるを得ません。

社長の酒中日記 8月その3

8月某日
「健康生きがい財団」の大谷常務と日暮里駅で待ち合わせ。日暮里駅前に騎馬の銅像があったので見ると太田道灌の像とあった。狩りの途中、雨にあった道灌が百姓家の娘に蓑を乞うと娘は黙って山吹の花を差し出した。道灌は訳が分からず立ち去って、後で知人に聞くとこれは「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」という古歌に則ったもので「貧しくてお貸しする蓑はない」ことを「実の一つだに無きぞ悲しき」に込めたものだと知る。学問を軽んじていた道灌はそれ以降学問にも精進するようになった、というような説明文が書かれていた。たぶんこのエピソードは戦前の小学校の教科書にのっていたのだろう、戦前世代には広く知られた話だと思う。私は50年以上前、小学生向けの歴史の本かなんかで読んだ記憶がある。これは私には実話とは思えないのだが、そうだとしたらこのような「伝説」はいつ頃どのように形成されるのだろうか。というようなことを考えていると大谷さんが来た。大谷さんが前に行ったことがあるという「ただいま」という店に入る。値段もリーズナブルでつまみ類も充実していた。大谷さんには先日、偲ぶ会が開かれた新木正人さんのことをいろいろ聞いた。

8月某日

その新木正人の「天使の誘惑」(論創社 16年6月)を読む。40年以上前に「遠くまでいくんだ」誌に掲載されたものと書き下ろしなどから構成されている。それにしても「遠くまでいくんだ」に掲載されたものの原型は新木が埼玉県立浦和高校時代に構想されたものというからその早熟さに驚かされる。巻末の小田光雄による解説(「天使の誘惑」に寄せて)に依ると亀和田武が「保田與重郎全集」の月報に新木の文章を保田與重郎の文体に重ね合わせて「私の場合なら、この新木正人という当時もそしてその後もほとんどその名を知られることのなかった人物の書いたものこそ、まさにそうした美しさといかがわしさとあやしさとを兼ね備えた種類の文章であった」と書いているそうだ。「美しさといかがわしさとあやしさ」ね。うーん確かに。ただ私は書き下ろしの「ただの浪漫とただの理性がそこにころがっている」のなかの日本語論「日本語の本質は主語述語ではなく分泌性としての助詞助動詞」という断定に理解できたわけではないが感じ入った。それと新木の定時制高校の教師時代を回想した文章は文句なく素晴らしいと思う。いい先生だったんだろうな。こういう教師に出会った生徒は幸せである。

8月某日
元年住協の林弘之さんと我孫子の「七輪」で6時30分に待ち合わせ。林さんの自宅は新松戸だがわざわざ我孫子まで出向いてくれる。東海銀行で東京営業部の部長をしていた深谷さんのことが話題に出た。深谷さんは亡くなった大前さんとも仲が良く一緒にご馳走になったことがある。深谷さんは私より1~2歳上だと思うが早稲田の法学部出身で学生時代は革マルシンパだったらしい。たまたまその世代の法学部出身者を何人か知っているが、評論家の呉智英が全共闘で下関市会議員の田辺さんの旦那さんが民青で宮崎学をよく知っていると言っていた。多彩ですね。昔話をして吞みすぎた。

8月某日
ラシスコという発送業者に当社の在庫を預かっているが、確認のために倉庫を見せてもらうことになり当社の大山専務とラシスコの営業マン、江藤さんが運転する車でまず埼玉県三芳町の三芳業務センターを訪れる。昔、当社を担当していた大野さんに挨拶。ついで朝霞市根岸台の物流センターを見に行ったが、私の勉強不足もあるけれど機械化、情報化が進んでいるのに驚いた。江藤さんに朝霞台駅前の料理屋でご馳走になる。埼玉県は海なし県なのだがお刺身のおいしい店だった。

8月某日
地域包括ケアのパンフレットを制作中で、このところ神保町のデザイン会社に足を運ぶことが多い。デザイン会社の帰りに古本屋を覗いたら単行本が3冊500円とあったので、田辺聖子2冊、宮部みゆき1冊を買う。田辺聖子の「男の城」(講談社 昭和54年2月初版)を読む。初出は「女運長久」が文学界の昭和41年9月号で一番古く、一番新しいのは「花の記憶喪失」で問題小説昭和52年12月号であった。田辺聖子は昭和3年生まれだから30代後半から40代後半にかけての作品。小説家としてどのようなスタイルをとるべきか思い悩んでいた時期なのではないだろうか、「男の城」におさめられた短編には作者のそんな思いが私には感じられた。「ミルクと包丁」は田舎の食品スーパーの店員、吉平は窃盗の前科があるうえ妻を病気で亡くし借金で身動きが取れないという身の上。食品スーパーの主人と2人だけの忘年会の帰りにふと民家に忍び込む。民家には美人の後家と子供が寝ていた。吉平は美人の後家に身の上話をするうちにこの後家と再婚することを想像する。そのうちに寝込んでしまった吉平は、後家の機転で警官に踏み込まれてしまうのだが、私には田辺の同情心はさえない男、吉平に注がれているような気がする。「ミルクと包丁」の初出は昭和48年、高度経済成長の真っ只中である。高度経済成長から零れ落ちた男を描いた佳品である。

社長の酒中日記 8月その2

8月某日
図書館から借りた「里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く」(角川oneテーマ21 13年7月 藻谷浩介・NHK広島取材班)を読む。今から3年前に出版された本だが、「地方から考える社会保障フォーラム」のテーマとして「里山資本主義」はどうかと思い、図書館から借りた。里山資本主義はマネー資本主義の対極にある概念である。マネー資本主義とは金融が支配するアメリカ的なグローバリズム経済のことで強欲資本主義とほとんど同義と私は感じた。「里山資本主義」は「足るを知る」経済である。岡山市内から車で1時間半、中国山地の山あいにある岡山県真庭市が舞台だ。建材メーカーの銘建工業が、建材の製造過程で出てくる木くずに着目、「木質バイオマス発電」に挑戦、発電所は24時間フル稼働で、出力は1時間に2000キロワット、一般家庭2000世帯分という。発電だけでは使い切れない木くずは円筒状のペレットに圧縮され、一般家庭の暖房用や農業用ハウスのボイラー燃料として売り出される。これは木材資源の豊富な中国山地の山あいだから成立する特殊解なのだろうか?真庭のような例は特殊解ではなく日本全国に通用する一般解であると藻谷は論ずるのだが、藻谷の射程は空間的にはグローバルに広がっているし、時間的には50年後を見据えている。

8月某日
SMSの発行する「カイポケMagazine」の取材、「介護事業者のICTへの取組み」で日本政策金融公庫総合研究所の竹内英二主席研究員に会う。場所は会社から歩いて5分の大手町ファイナンシャルシティのノースタワー。午後、同じテーマで大田区の介護事業所「カラーズ」の田尻社長に取材する。取材して分かったことはICTは目的ではなく、経営合理化の手段であること。手段ではあるがICTによって組織のムリムダを排除していかないと事業者は市場から退去せざるを得ないこと、ICTの導入にあたってはボトムアップではなくトップダウンでやらなければうまくいかないことなどだ。
夕方、川村女子大学の吉武民樹先生から「モリちゃん、「ふらここ」へ行こうよ。9時頃行くから」という電話。「私は6時半ころ三河島で人に会ってそのまま我孫子へ帰るつもり」と返事すると「いいじゃないか。じゃ9時頃ね」と電話を切られる。仕方がないので時間をつぶして9時頃「ふらここ」へ。しばらくして吉武先生が果物を抱えて登場。私は時間つぶしにワインを6杯も吞んでいるのでほとんど酩酊状態。タクシーで帰る。

8月某日
年住協の川崎理事長へ挨拶。川崎理事長は厚生省のキャリアだが社会保険庁の経理課長や総務課長、次長も経験し保険庁のノンキャリアにも共通の知人がいる。亡くなった葛原さんとは麻雀の卓をよく囲んだようだ。国民年金福祉協会の理事長もやったということでそのときは浅岡さんが下にいたという。午後、国保中央会に入札の資料を取りに行く。そのついでと言ったらなんですが、新しく国保中央会の理事長になった原勝則さんに挨拶、原さんは理事長室で打合せ中だったが、わざわざ部屋から出てきてくれた。夕方、当社の大山専務、三菱東京UFI銀行神保町支社の当社担当のマキエ君と3人で「ビアレストランかまくら橋」で吞むことになっている。マキエ君からは「少し遅れます」との連絡があったが私と大山専務は6時から「かまくら橋」で吞むことにする。7時近くにマキエ君は到着したがそのころには私も大山専務も出来上がっていた。

8月某日
土曜日だが出社。15時から「新木正人君を偲ぶ会」に出席するために四谷の「プラザエフ」(主婦会館)に行く。新木という人を私は全く知らない。もちろん生前会ったこともない。しかし早稲田で1年上だった鈴木基司さんや高橋ハムさんが発起人に名を連ねているうえ、大谷さんから「「遠くまでいくんだ」の人だよ、一緒に行こう」と言われて顔を出すことにした。会場に着くと大谷さんが案内してくれた。慈恵学園の平田さんや元社会保険研究所の金山さんなど懐かしい顔に出会う。詩人の佐々木幹郎も来ていて挨拶していた。佐々木幹郎は1967年の10.8(ジュッパチと読む、10月8日のこと)羽田闘争で死んだ山崎博昭と大阪の大手前高校の同級生。「遠くまで行くんだ」は中核派の運動から離れた人が多かったようだが基司さんやハムさんもセクト中心の学生運動に疑問を抱き、早稲田で反戦連合を組織した。それはさておき新木という人は定時制高校の先生を長く勤めた人だという。いろいろな人が挨拶していたが、故人の人柄だと思うが「みんなに好かれていたんだな」ということが分かるスピーチだった。

社長の酒中日記 8月その1

8月某日
田辺聖子の「東海道中膝栗毛を旅しよう」(角川ソフィア文庫 16年5月、単行本は講談社から90年)を読む。「東海道中膝栗毛」は戯作者十返舎一九の江戸中期のベストセラー。弥次さん北さんの珍道中をガイドに田辺聖子が編集者とともに東海道を日本橋から大阪まで旅するという趣向である。田辺は昭和3年、1928年生まれだからちょうど60歳を過ぎたころの作品である。田辺は樟蔭女子専門学校国文科卒業であるが、この人の文学的かつ歴史的素養は実に深い。源氏物語を現代語訳していることからもそのことは明らかなのだが、本書にてもそのことは平家物語などの日本の古典、歌舞伎や古典落語からの引用だけでなく、幕末に日本を訪問したシュリーマンや幕末のお雇い外国人パンベリー等の日本訪問記からの引用が少なからず見られることからも「教養の深さ」というものが知れるのである。もっともご本人は「どうもお恥ずかしいことに、私の教養はそのかみの小学校からいくらも出ていない」と謙遜するのだが。

8月某日
当社のシステム管理者をやってもらっている在日韓国人2世の李さん(日本に帰化して日本名は大山さんだけどみんな李さんと呼ぶ)が来社。久しぶりに吞むことにする。その前に暑いのでひと風呂浴びようと銭湯に誘う。会社近くの外堀通りを渡った先に「稲荷湯」がある。皇居一周のランナーが走った後、ここで汗を流し着替えるところとして知る人ぞ知る銭湯である。稲荷湯で汗を流した後、駅近くの「福一」へ。我孫子で久しぶりに駅近くのバー「バンヌフ」へ寄る。

8月某日
社会福祉法人にんじんの会の石川はるえ理事長を西国分寺の「にんじんホーム」に訪ねる。1時45分に西国分寺駅の改札で映像関係の仕事を依頼している横溝君と待ち合わせていたのだが、私が「かかりつけ薬剤師」のパンフレットの原稿作成に没頭していて待ち合わせを失念、横溝君からの電話で気が付いた。あわててにんじんホームに向かったが1時間遅刻。写真集の制作見積を依頼された、というか石川さんが「もーちゃんのとこできるの?」と聞くものだから、「何言ってるんですか。石川さんとは長い付き合いですけど一度も仕事をもらったことないですよ」と反論、見積だけでも出させてもらうことにした。
夜、たまたまにんじんの会の事務長の伊藤さんとフリーライターの香川さんと西新橋のイタリア家庭料理の店「LaMamma」で会食。実は伊藤さんと香川さんとは30年来の友人。伊藤さんと香川さんが「ナショナル開発」という展示場運営会社にいたとき、私は日本プレハブ新聞社という業界紙の記者をやっていて広告をとりに行ったのがきっかけ。それから幾星霜、伊藤さんはJR東日本系の展示場運営会社の実質的な責任者となり、香川さんはフリーライターとなった。伊藤さんは昨年会社を辞めたことから「にんじんの会」を紹介した。たまに一緒に吞む会が30年にわたって続いているわけである。

8月某日
大学の同級生、弁護士の雨宮君と神田明神下の「章太亭」で待ち合わせ。雨宮君は東京の文京区育ちで茗荷谷近くの公立小学校を卒業した後、中高は開成だった。同じ同級生の内海君も杉並育ちで確か私立高校出身。私など北海道室蘭の出身だから私立高校という選択肢は全くなく、高校も小学区制だったので選ぶ余地はなかった。当時はそんなことにも違和感を感じることはなかったし、今から思うと「選択の余地なし」ということは「迷うことなし」にも通じるわけでまぁそれはそれで良かったのかな。カウンターで雨宮君と開成のことなど話していると、店の女性(名前忘れちゃった、昔可愛いかった面影の残る人)が「あちらのお客さんも開成ですよ」と教えてくれる。ひとりは雨宮君より先輩で、もうひとりは雨宮君と同学年、共通の知人もいるようだった。雨宮君と別れて我孫子駅前の「愛花」へ。

8月某日
手賀沼の花火大会。我孫子で地産地消の会をやっている中沢さんのマンションの屋上に招待される。というか我孫子の川村女子大学の教授をやっている吉武さんから「モリちゃんも来ない?」と誘われた。我孫子からは2か所、柏からも2か所、それから松戸の花火も遠くに見えて、なかなか壮観。わが家は手賀沼のほぼ水際にあるから、特等席と言えないこともないのだが近すぎて全体を見ることはできないうえ、見物客で周囲の道路は混雑するしでこのところ花火大会のときは家にこもっていた。中沢さんの屋上には中沢さんの孫娘が浴衣を着て参加したりなかなか家族的かつ川村女子大学への短期留学生もさんかするなど国際的でもあった。

社長の酒中日記 7月その4

7月某日
運営を手伝っている地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」が10回目を迎えた。初日は小黒一正法政大学教授の「地域包括ケア・コンパクトシティ構想」と安中健厚労省災害対策室長の「災害と住民保護」、そして元厚労事務次官の江利川さんの「地方自治と社会保障」だ。江利川さんは「少子高齢化」と一口に言うが「高齢化」は私たちが望んで手に入れたものだが「少子化」は克服すべき課題として「地方から少子化を克服できないか」と地方議員に訴えた。そして自らの役人人生を振り返りながら、仕事に取り組む姿勢として情報、英知を集め信頼と忍耐、「志」をもって政策を立案する、判断基準は「義」(正しい政策であるか)と「恕」(国民に対して思いやりがつくされているか)と語った。江利川さんとは年に何回かお酒を吞む仲だがこうした話はなかなか聞けない。フォーラム終了後、30年近く前、江利川年金局資金課長の後任で江利川さんの同期の川辺さん、当時の課長補佐だった足利さん、岩野さんらと「ビアレストランかまくら橋」で歓談。結核予防会の竹下専務、SCNの高本代表、当社の岩佐が加わる。

7月某日
愛知県と三重県で管理栄養士として活躍している奥村圭子さんが会社に来てくれるというので休日だけど会社に出勤。奥村さんと当社の迫田と「地域包括ケアパンフ」の栄養支援について打合せ。「高齢者の低栄養」という切り口ではなく「高齢者の暮らし」という幅広い観点から食事や栄養について考えるようなパンフレットにしたいということで一致した。
午後、我孫子の川村女子学園大学で市民向けの食事講座があるというので吉武さんに誘われる。天王台の駅で吉武さんのベンツに同乗、川村学園に向かう。栄養学科の福永先生の指導のもとたくさんの料理が並べられていた。見た目も食欲をそそるが味もなかなかだった。
図書館で借りた「シングルマザーの貧困」(水無田気流 14年11月 光文社新書)を読む。
著者は70年生まれの社会学者だが中原中也賞や晩翠賞を受賞した詩人でもある。シングルマザーとは言うまでもなく「離婚等により一人で子育てする女性」のことだ。日本社会でも女性の社会進出が進み女性の自立度が増すにつれてシングルマザーは増加している。しかし社会そのものが積極的にシングルマザーやその子供たちを受け入れているかとなるとそうでもないようだ。世間というか我々はいまだに「父母と子供」という標準家族の幻想にとらわれている。これから一人暮らしや夫婦のみ世帯の高齢者世帯が増えてくる。家族の個別性、独自性も高まってくると思う。「標準」という幻想には囚われない方がいい。

7月某日
三浦しをんの「まほろ駅前番外地」(文春文庫 12年12月 単行本は09年10月)を読む。三浦は辞書編纂を背景にした小説「舟を編む」に続いて読むのは2作目。ペンネームからは男女が判別としないのでWikipedīaで調べると30代の女性のポートレートが掲げられていた。物語はまほろ駅前で便利屋を開業する多田と多田の高校の同級生、行天を軸として展開される。2人とも30代バツイチ。いろいろなエピソードが積み重ねられながら多田と行天、それ以外の主要な登場人物の過去も明らかにされていく。こういうのは割と好き。こういうのとはストーリーの庶民ひとりひとりに過去があり歴史があるということ。

7月某日
阿曽沼さんが次官のとき次官付きだった伊藤ブーちゃんと健康生きがい財団の大谷常務と富国倶楽部で会食。伊藤さんが同じく次官付きだった石川リコさんを誘って、当社からは迫田が参加。次官というのは言うまでもなく事務方のトップなわけだが、実際に政策を立案し遂行するのは各局部課に任せているし、次官室にはそうした機能はない。逆に言うと事務方のトップではあるが「次官は孤独な存在」と言えるかもしれない。阿曽沼さんは「チーム阿曽沼」として次官付きや運転手をとても大事にしていたように思う。ブーちゃんは現在、老健局の介護支援課の筆頭補佐。迫田の質問にも丁寧に答えていた。

7月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の写真ができたので社保研ティラーレの佐藤聖子社長と厚生労働省に届けに行く。保険局の城総務課長は不在だったが雇用均等・児童家庭局の山本麻里審議官には手渡すことができた。山本審議官は山口市出身。部屋に山口市の大きなポスターが貼られていた。年金局年金課に寄って間課長に「障害年金と診断書」を手渡す。障害年金の特に精神疾患に関する判定は地域によってバラつきがあるようだ。間課長は「こういう書籍は大事ですね」と言ってくれた。医政局の地域医療計画課在宅医療推進室に鈴木幸一さんを訪ねるが不在。「介護職の看取りとグリーフケア」の報告書を置いてくる。鈴木さんは社会福祉士で公益社団の日本医療社会福祉協会から厚労省に出向中。会社に帰ったら鈴木さんからお礼のメールが来ていた。当社の岩佐とフィスメックの小出社長を訪問、地域包括ケアパンフの「地域で支えるメンタルヘルス」の打合せ。打合せ終了後、小出さんに「吞みに行こうよ」と誘うと「いいですよ」。神田の「葡萄舎」へ。

7月某日
八王子市で介護事業所向けに社会保険労務士業務を行っている吉沢社会保険労務士を訪問。地域包括ケアパンフの「介護離職ゼロ」の打合せ。吉沢さんの事務所は八王子市めじろ台。神田から中央線で新宿へ、新宿から京王線の特急でめじろ台へ。駅から数分の閑静な住宅地の一角に吉沢さんの事務所兼自宅があった。吉沢さんは学校を卒業して福祉事業所に就職、希望に反して事務職を命ぜられそこで社会保険関係の業務をやったのが社会保険労務士になったきっかけという。介護事業にも精通した社会保険労務士として貴重な存在だ。帰りにめじろ台の駅前の焼鳥屋「鶏道楽」に寄る。焼き鳥が旨かった。