社長の酒中日記 9月その4

9月某日
三島由紀夫賞の受賞会見で著者、蓮見重彦のとぼけた受け答えで話題となった「伯爵夫人」(新潮社 16年6月刊)を読む。舞台は戦前の東京、中国大陸と欧州の戦火が拡大し太平洋での新たな戦争も予感される昭和16年。主人公は来年、帝大の受験を控える二朗と二朗の屋敷に同居する謎の伯爵夫人。伯爵夫人は倫敦で高級娼婦やスパイもどきの冒険を経験した過去を持つ。伯爵夫人の性体験が「熟れたまんこ」「金玉」という俗語、卑語とともに明らかにされる。この小説はひとつの文化の成熟、爛熟と退廃を背景にして成立する。明治から大正、昭和にかけて成熟してきたひとつの文化は、昭和戦前期の爛熟、退廃を経て敗戦により終焉を迎える。同じように江戸の文化は文化・文政期の爛熟と退廃を経て明治維新により終焉する。小説の本旨とは違うが小説を読みながらそんなことを考えた。

9月某日
夜半に目が覚め何気なくNHKBS1にチャンネルを合わせるとチェ・ゲバラの映像が。キューバ革命が成功してからゲバラは中央銀行総裁、工業相などを歴任しながら、やがてすべての要職を辞任しアフリカ、コンゴや南米ボリビアでの武装ゲリラ闘争に赴く。番組ではその背景には現実主義者のカストロと世界革命の理想を追うゲバラとの確執があったことを、当時のゲバラの側近や歴史家、ジャーナリストのインタビューを通して明らかにしていく。キューバとアメリカが国交を回復し、日本とも国交を回復した。カストロは昨年、国家評議会議長の座を弟のラウルに譲った。一方、ゲバラは50年近く前の1967年10月、ボリビア山中で政府軍に捕えられ銃殺されている。カストロの路線が正しかったことは明らかだが、ゲバラの考えや彼が理想としてきたことは人民の記憶に永久に残ると思う。

9月某日
佐野真一の「唐牛伝-敗者の戦後漂流」の出版記念報告会に参加。受付で唐牛さんの未亡人、真喜子さんと浪漫堂の倉垣君に挨拶。報告会は2部構成で1部は元外務省の孫崎と佐野の講演。孫崎と佐野の講演はそれなりに面白かった。講演会後のパーティでは唐牛さんの墓をデザインした秋山祐徳太子や元ブント叛旗派の三上治といった人たちが挨拶していた。結核予防会の竹下さんと途中で抜け出し、新橋の「鯨の胃袋」へ。フィスメックの小出社長も来る。3人で神田のスナック「昴」へ。

9月某日
図書館で借りた佐藤雅美の「物書同心居眠り紋蔵-魔物が棲む町」(講談社文庫 2013年2月 単行本は2012年2月)を読む。物書同心とは今でいう調書を取る人。居眠り紋蔵は今でいうナルコレプシーなのか、所かまわず居眠りをしてしまう。ついたあだ名が居眠り紋蔵である。町奉行の長官には直参の旗本が就任する。今でいうキャリア官僚である。しかしその下の与力、同心は一代限りの御家人が当たる。ノンキャリアである。したがって佐藤の捕物シリーズは現代でいう警視庁の刑事ものということになる。佐藤の時代小説は時代考証がしっかりしているからだろうか、読んでいると自分もその時代に生きているよう気がしてくるのである。

9月某日
休日出勤。国際厚生事業団に出向している伊東和也君が出勤していた。午後、花小金井のベネッセの経営する有料老人ホームに入居している荻島道子さんを訪問。道子さんは20年ほど前に亡くなった厚生官僚の荻島國男さんの奥さん。私は荻島國男さんとは老人保健制度のパンフレットづくりを手伝ったことから親しくさせてもらった。というか荻島さんをきっかけに同期の江利川さんや酒井さん、川邉さんたちと親しくなり、厚生省のネットワークが次々と広がっていったような気がする。私の大恩人なのだ。私が11月で社長を退任することを伝え、退任パーティでご子息の良太君にサックスを演奏してもらいたい旨お願いする。花小金井から池袋の芸術劇場へ。社会福祉法人にんじんの会の理事長で立教大学大学院の客員教授の石川はるえさんと現在進めている虐待防止パンフレットの打合せ。芸術劇場のレストランでビールとワインをご馳走になる。我孫子へ帰って駅前の「愛花」へ。しばらく店を閉めていたがママの実家に不幸があったようだ。

9月某日
「コーポレート・ガバナンス―経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行 日本経済新聞出版社 2010年1月)を図書館で借りて読む。コーポレート・ガバナンスについて論じた本は多いが、経営者の交代や報酬にからめて論じられたものは少ないように思う。本書はそれをアメリカと日本を対比して分かりやすく論じている。日本に比べてアメリカの大企業の経営者の報酬は驚くほど高い。ストックオプションなど自社の株価に連動した報酬体系になっているからだ。だがそれがエンロンなどの不正を呼んだとの指摘もある。さらにアメリカの経営者は株価に反映される短期的な利益の追求に走りがちという批判もある。著者の考えを乱暴に要約すれば、日本の経営者の報酬は企業への業績の連動性がアメリカのそれに比べると圧倒的に低い。アメリカ並みにせよとは言わないがもう少し高めた方が企業にとっても経営者にとってもいいのではないか、というものだ。この考えは正しいと思うが、そもそも経営マインドとは金銭的インセンティブのみに左右されるものなのか、という疑問が残る。私としては金銭的インセンティブも大切だが、会社の業績が悪いときは「武士は食わねど高楊枝」というのも大事だと思いますね。

社長の酒中日記 9月その3

9月某日
共同通信の城さんには日頃から色々とお世話になっているので夕食に誘う。当社の迫田、アルバイトの酒井君にセルフケア・ネットワークの高本代表理事、SMSの竹原さんが参加。
場所は西新橋のイタリア家庭料理の店「LaMamma」。私以外は全員女性なので、西新橋で弁護士事務所を開業している大学の同級生、雨宮君を誘う。雨宮君は検事出身の弁護士。通称「ヤメ検」だが、最近の若い人には通じなかった。

9月某日
厚労省の老健局長、蒲原さんにインタビュー。総合事業などについて丁寧に説明してくれる。当社の迫田が「現場をよく知っているし、偉そうじゃないし、いい人ですね」と言っていた。午後、社会保険出版社で打合せ。このところ社会保険出版社からの受注が増えている。中村秀一さんの単行本を現在進行しているが発売元を社会保険出版社にすることについて大筋合意。その後、虎ノ門フォーラムに中村さんを訪ねて報告。

9月某日
民介協の研修会に参加。テーマは「すぐに始めたい中小介護事業者の災害対策」、講師は東日本大震災で被災した石巻市のパンプキン、渡邊智仁社長。私は震災の2か月後、石巻市に入り当時常務だった渡邊さんと今は会長となっているお父さんに取材した。今は柔和な笑顔で話をしてくれる渡邊さんだが、当時は震災直後なだけに随分と厳しい表情だったのを覚えている。だが、私がそのとき一番感心したのは渡邊さんのお父さんの話だ。それも震災の話ではなく彼の半生についてだ。彼は20歳ごろトラックの運転手をしていて交通事故に巻き込まれた。私と同い年と言っていたから50年近く前の話である。「最初の病院に担ぎ込まれたらここでは治せませんっていわれてさ。そりゃそうだよ、そこは産婦人科だったんだ」と彼はなかなかユーモアのセンスもあるのである。大腿部から足を切断するほどの大ケガだったが、足の切断は免れた。しかし体はギブスで固定され身動きもままならなかった。20歳を超えたばかりの青年は荒れに荒れ、様子を見に来る看護師に当たり散らしたという。そんな彼を変えたのは看護師長の献身的な看護だったという。病院で勉強を続け、各種の資格試験にも合格した。2年間の入院生活を経て、入院中に取得した無線技士の資格を活かしてタクシーの配車係に就職。結婚した相手が栄養士だったこともあり、タクシー会社を経営する傍らレストランにも進出する。これがのちの配食サービスや移送サービスにつながることになる。ギブスで体を固定された絶望の日々からみごとに復活したわけである。看護師長の献身的な看護に触れ「いつかはそんな仕事がしてみたい」という思いが今の介護の仕事につながっているわけである。大震災であれ大事故であれ、生きてさえいれば、希望を捨てなければ復活できるのである。渡邊智仁さんの話を聞きながらお父さんの話を思い出した。

9月某日
みずほ銀行の清木さん、フィスメックの小出社長、社会保険福祉協会の内田さんと富国倶楽部で会食。この3人は年金転貸融資の団体、全住協の出向仲間。当社もシンポジウムの開催、運営やパンフレットや機関誌の制作でお世話になった。約束の5時半に少し遅れて富国倶楽部へ着くと小出社長がすでに来ていた。少し遅れて内田さんが来る。富国生命ビルに一番近い旧第一勧銀の本店ビルで働いている清木さんが一番遅れて6時半過ぎに登場。銀行は忙しいのである。

9月某日
SMSの山田浩平君とSMSで打合せ。当社の迫田とアルバイトの酒井佳代君が同行。山田君は介護事業関連のコンサルを経て入社、カイポケマガジンの編集の他、コンサルタント業務もやっているとのこと。酒井君は9月からアルバイトとして手伝ってくれている。酒井君は昨年、拓殖大国際学部を卒業、シルバー産業新聞に入社、8月に同社を退社するとの挨拶メールをもらった。当社も慢性的な人手不足だが新たに社員を雇用する余裕もないことから取り敢えずアルバイトとして入社してもらった。打合せ後、山田君も一緒に会社近くの「跳人」で呑み会。健康生きがいづくり財団の大谷常務も参加。大谷常務に川村女子学園大学の吉武さんから修猷館高校の同窓会があり、福岡の羽田野弁護士が上京しているので根津の「ふらここ」に9時頃行くとの連絡が入る。大谷さんと福岡に出張したとき羽田野弁護士にはたいへんご馳走になった。「跳人」のあと、大谷さんと「ふらここ」へ。吉武さん、羽田野さん、大谷さんと私は同じ年。羽田野さんだけが髪黒々であった。

9月某日
図書館から借りた「自由の思想史―市場とデモクラシーは擁護できるか」(猪木武徳 新潮選書 16年5月刊)を読む。猪木は「まえがき」で本書について「一学徒が人間精神の自由、政治経済体制としての自由の問題を、個人的な思い出をまじえて著した回想の記ともいえる」と書いているが、ソクラテス、アダム・スミス、ヒューム、福沢諭吉、ケインズ等々内外、古今の学説を紹介をしつつ、そこに個人的な回想(たとえば学生時代の麻雀から学んだことなど)を交えたエッセーである。たいへん魅力的な語り口で好感が持てたが、私の知識不足、それは教養不足と言い換えてもよいが、理解は不十分だったと思う。

9月某日
高校の同期会が銀座の「銀波」で16時から。私の卒業した高校は北海道室蘭市の道立室蘭東高校といって、私が入学したのは昭和39年、前年に創立されたばかりの学校であった。普通高校としては旧室蘭中学の栄高校、旧室蘭高女の清水が丘高校に続く市内で三番目の高校。要するに急増するベビーブーマー世代の受け皿だったのだろう。とうに役割を終えて何年か前に室蘭商業高校と統合されて名前も東翔高校となったらしい。普通科3、商業科2の小さな高校だが、普通科3クラスは仲が良く何年か前から出光のOBの品川君が幹事になって年に1回、首都圏の同期が集まっている。隣に座った竹本君ともっぱら話す。竹本君は高卒後、千葉県の民間企業に就職、県警に入り刑事畑を歩み警部まで昇進するが親の介護で早期退職した。介護や福祉について驚くほど詳しい。

社長の酒中日記 9月その2

9月某日
介護ロボットの取材で厚労省老健局高齢者支援課の介護ロボット開発普及推進官の小林毅さんに取材。小林さんは作業療法士で現場経験も豊富で教員の経験もあるという。ロボットにしろ車椅子やスライディングシートなどの機器や道具は上手につかいこなせるかどうかがカギのような気がする。過度に期待するのは禁物と思いながら、人工知能の開発などを見聞きすると鉄腕アトムのような人型ロボットも夢とは言えないかもしれない。夜、フィスメックの田中会長と神田の「福一」へ。当社にバイトで来ている川隅さんから頂いた日本酒、「酒一筋 赤磐雄町」を持ち込む。

9月某日
日経朝刊の「経済教室」で岩本康志東大教授が「現在の財政政策は、リーマン危機からのケガが癒えても治療を続けているところに、次のケガに備えてさらに治療を上乗せするようなものだ」とし「注力すべきは財政・金融政策ではなく、構造改革だ。そして政府に頼らない民間の強い活力が必要だ」と書いていた。消費増税を延期し追加の財政出動を行うという現状の財政・金融政策に対する批判である。同感です。夜、国立病院機構の古都副理事長と東京駅丸の内口の三菱東京UFJ信託銀行本店ビル地下1階の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」で待ち合わせ。6時過ぎに当社の迫田とまずビールで乾杯、次いで東京介護福祉士会の白井会長と健康生きがい財団の大谷常務が来る。7時ごろに古都さんが来て全員が揃う。

9月某日
図書館で借りた「ニシノユキヒコの恋と冒険」(川上弘美 新潮文庫 平成18年8月初版 単行本は15年11月)を読む。西野幸彦は姿よしセックスよし。女には一も二もなく優しい。だけど最後は必ず女性に去られてしまう。交情があった10人の女性が思いを語るというこの連作小説、私には面白いと感じられた。恋愛とは結局のところ思い込みであり、すれ違いなんだということが書かれているような気がする。川上の「センセイの鞄」もそんなことが書かれていたように思うが、どうなんだろう。

9月某日
「へるぱ!」の取材で茨城県日立市へ。「日立市における新しい総合事業の取組み状況」を取材。総合事業を立ち上げた黒澤さん、保健師の大森さん、看護師の白木さんが取材に応じてくれる。日立市は既存の地域コミュニュティの組織力を上手に活用しているのが特徴。社協やシルバー人材センター、社会福祉事業団がうまく機能しているようだった。それと町内会や老人会、地区社協など市内の23団体で構成される「地区コミュニティ推進会」の働きも見逃せない。保険料と税金だけではこれからの高齢者の暮らしを支えていくのは困難だ。日立市の取組みは住民の互助と行政の連携のモデルケースと言えそうだ。
元三井海上の公務部にいた宮本良雄さん(現在かんぽ生命)と元年住協(現在環境協会)の林さんと会社近くの「跳人」で吞む。医療事務協会に勤める町田智子さん(元国民年金協会)から大分土産の焼酎とカボスをいただいたのでビールで乾杯のあと、早速焼酎の水割りにカボスのスライスを浮かべて頂く。3人とも酒好きなので頂いた焼酎を1本空け、ボトルを預けていたバーボンの残りも空ける。相当酔ったようで、次の日左腕に着けていた腕時計の金属のバンドが破損していることに気付く。そういえば左足の靴が泥で汚れているうえ、左腕に鈍痛が。おそらく帰宅途中に転倒したものと思われるが全然覚えていない。気を付けないとね。反省!

9月某日
桐野夏生の新作「サルの見る夢」(講談社 16年8月刊)を我孫子駅前の書店で購入。桐野は我孫子市民図書館でも大人気で、新作が出るとリクエストは数十人に及ぶ。で、桐野の新刊は書店で買うことになる。450ページの大作だが土曜日の午後に買って日曜日の午前中には読み終わっていた。「巻を置く能わず」という感じで読み進んだ。主人公は元銀行員で現在は女性衣料品製造小売業の「OLIVE」の財務担当取締役、薄井正明59歳である。薄井には銀行の元部下だった愛人がいて彼女のもとに週2回通っている。そのうえ「OLIVE」創業者で現在会長の秘書にも魅力を感じて近づこうと思っている。まぁ女好きでケチな野郎である。だが読み進むうちに主人公に同化していく自分に気付く。「こいつって俺みたい」。社内のセクハラ、母の死と妹夫婦との遺産争い、妻の呼び寄せた謎の占い師といくつかのストーリーが交錯する。それらのストーリーを巧みにつないでいくのは作者の力量であろう。この本の帯に桐野が「これまでで一番愛おしい男を書いた。」というメッセージを寄せている。桐野の意図はわからないけれど、男の欲望(愛欲、物欲、出世欲)が嫌らしくも切なく描かれているのは事実。読後感はちょいとやるせない。

9月某日
高橋ハムさんが代表を務める「プロジェクト猪」からニュースレターに同封されて「日大闘争の記録-忘れざる日々」が送られてきた。日大闘争とは不正経理の追求に端を発した日大の全学共闘会議と大学当局、右翼暴力団、警察権力との一連の闘いである。1968年の11月22日の東大安田講堂前で開かれた「東大日大闘争勝利!全国学生総決起集会」には私も青ヘルメットを被って参加した。当時私が1年生として在学していた早大政経学部の自治会が社青同解放派で、当時はセクトによって被るヘルメットの色が決まっていた。ちなみに社学同が赤、中核派が白、革マルは白ヘルの縁に赤いテープを貼って、ヘルメットの正面に大きくZと画いていた。Zは全学連のこと。11月以降、早稲田では解放派と革マルの緊張が激化、解放派は早稲田から放逐され東大駒場に逃れる。私も当初は東大駒場に詰めていたのだが、激化する内ゲバに耐え切れず敵前逃亡した。翌年の1969年の1月18日、19日の安田講堂の攻防戦を経て、4月17日早稲田の反戦連合を核とする反革マル連合は革マルの戒厳令を突破、大学本部封鎖を敢行する。私も前夜から明治大学の学生会館に泊まり込み、確か東西線の神楽坂から隊列を組んで早稲田の正門に向かった覚えがある。早稲田の全共闘運動は、東大や日大に比べると大変に甘く底の浅いものであったと言わざるを得ないけれど、私の人生に与えた影響ははかり知れないものがある。

社長の酒中日記 9月その1

9月某日
日刊企画の小見山社長とニュー新橋ビル2階の「初藤」で待ち合わせ。小見山氏は私が大学を出て初めて務めた「しば企画」という印刷屋の同僚。私は「スピカ」という写植機で文字を拾い、小見山氏は私たちが印字したフィルムを切り張りして新聞やチラシの原版に仕上げていた。私は学生運動に挫折して、当時付き合っていた女性(今の奥さん)と所帯を持とうと思ったものの、志望した出版社の試験には軒並み落ちてしまった。学生運動の流れで大学2年のとき懲役1年6カ月執行猶予2年の判決を受けており試験に落ちるのも当然なのだが、「どうしようか?」と思っていたら、友人の村松君が「俺の親戚がやっている印刷屋に行かないか?」と誘ってくれたのが「しば企画」である。私や村松君だけでなく就職にあぶれた学生運動崩れが何人かその会社に拾われた。私や村松君は2年ほどでその会社を辞めたのだが、小見山氏は踏みとどまって苦労したらしい。小見山氏は日本製版というフジサンケイグループの印刷会社に移り、その後、日刊企画という会社を立ち上げた。23歳からの付き合いだからもう45年の付き合いである。とは言え小見山氏には一方的にご馳走になる関係が続いている。本日もご馳走になってしまった。

9月某日
茨城県の常陽カントリー倶楽部でゴルフ。元社会保険庁長官の末次さん、元社会援護局の高根さん、それと我孫子在住で川村女子学園大学の教授の吉武さんと回った。吉武さんのベンツに乗せてもらってゴルフ場へ向かう。私はゴルフは元々下手なうえ脳出血で右半身の自由が利かなくなってからさらに下手になった。それでも末次さんたちは私の「健康のため」を思って誘ってくれる。ありがたいことである。今日はミドルコースでパーをひとつとることが出来ました。

9月某日
吉武さんに誘われて医療事務を教えている大学や専門学校の団体、日本医療福祉実務教育協会全体研修会に参加する。輝生会の小林由紀子常務理事の講演は、初台のリハビリテーション病院の例を上げての講演で、私が入院していた船橋市立リハビリテーション病院も輝生会の経営なのでなつかしかった。講演会後、隅田川を遊覧しながら懇親会にも参加。

9月某日
健康生きがい開発財団の大谷常務から借りた「唐牛伝-敗者の戦後漂流」(佐野真一 小学館 16年8月刊)を読む。唐牛とは60年安保の全学連委員長だった唐牛健太郎のことだ。唐牛は函館で生まれ北大に入学、60年安保の前年に全学連委員長に就任、60年安保後、右翼の田中清玄から資金が渡っていたことが暴露され、北海道で漁師をしたり新橋で居酒屋を経営したりした後、最期は徳洲会と組んだ。唐牛は函館の実業家が芸者に産ませた庶子だった。そのことが唐牛に大きな心理的な影響を与えたというのが作者の佐野の考えだ。佐野が正しいかどうか分からないが、唐牛は戦後日本が生んだ最大の異端児だと私は思う。60年安保闘争は大衆運動としては空前絶後の規模で戦われ、その実質的な指導は全学連が担っていた。全学連は当然、共産主義者同盟(ブント)の指導を受けていたわけだが、全学連の委員長と言えば文句なしのスターだった。当時のブントや全学連の指導者は青木昌彦、西部邁、加藤尚武のように学者になった人も多いが唐牛の生涯は異彩を放っている。佐野がその異彩を十分にとらえられたかどうか、私は「惜しい」と思うものです。

9月某日
大谷さんと元全社協副会長で東京海上日動の顧問をしている小林和弘さん、東京海上日動の公務開発部の小林中部長、国際厚生事業団の角田専務、健康生きがい開発財団の藤村次長とで「ビアレストランかまくら橋」へ。6人で赤ワイン2本、白ワイン1本を空ける。このメンバーは仕事と関係ないわけではないけれど、仕事の話をするでもなく楽しく歓談させてもらった。

9月某日
三田国際ビルのヤマシタコーポレーションのショールームで杖を購入。今持っている杖は6年前に船橋リハビリテーション病院に入院しているときに購入したものだが、先日、社会福祉法人にんじんの会の石川理事長を訪ねた際に忘れてきてしまった。事務長の伊藤さんに保管をお願いしたが、この際新しいのを買うことにした。新しい杖をつきながら経済産業省の産業機械課ロボット政策室に、介護現場に適応するロボット開発の現状を取材に行く。当社の迫田に同行。取材に応じてくれた栗原優子補佐は、役人にしておくのはもったいないほどの美人であった。聞くと着任して3か月、それまではアメリカに留学していたとのこと。天はときに二物を与えるものですね。インタビュー後、西新橋の社会保険福祉協会が入っているビルの地下の「風林火山」へ。HCMの大橋社長と待ち合わせ。迫田と生ビールを吞んでいると大橋社長が来る。「風林火山」は小林さんと角田さんがよく利用すると言っていたが、確かに料理は安くて美味しかった。

社長の酒中日記 8月その5

8月某日
当社の石津さんが会社の帰りに御徒町の歯医者さんに行くという。「それじゃ御徒町で吞もう」ということになった。なんでもその歯医者さんは「奥さん公認酒場 岩手屋」の近くらしい。岩手屋というのには、私が日本木工新聞社という業界紙の記者をしていたころ、何回か行ったことがある。もう40年近く前になるのだが、その業界紙を印刷している工場が湯島にあり、校正の帰りに校正部の石渡さんに連れて行ってもらったのだと思う。でも今回は岩手屋ではなく、御徒町駅前のスーパー「吉池」の8階にある「吉池食堂」にする。
ここは「食堂」と言う名前がついているだけにつまみが充実している。石津さんが歯医者さんに行っている間、私は吉池食堂に先行。「晩酌セット」を頼む。晩酌セットは日本酒1合か生ビール1杯につまみが3点ついて、確か800円くらいだったと思う。「セット」と名がついているとつい頼みたくなってしまう私である。30分くらいで生ビールの「晩酌セット」を吞み終わり日本酒に。日本酒を3杯くらい吞んだ頃に石津さんが来る。

8月某日
土曜日だけど出社して残務整理。あまり気が乗らないので14時頃帰ることにする。吉池食堂で抽選券をもらったことを思い出し、御徒町のスーパー吉池に寄ることにする。地下2階の抽選会場に行くと、「3回、抽選機を回してください」と言われる。茶色い球が3つ出て「うどん」か「鮭」を選べということなので「うどん」を選ぶ。日曜日の昼食に食べたが意外においしかった。

8月某日
図書館で借りた「森は知っている」(吉田修一 幻冬舎 15年4月)を読む。何ページか読んで「あれっ読んだことがある」と気付く。奥付を見ると去年の4月の発行だから1年位前に読んだことになる。読み進むうちにストーリーは思い出してくるのだが、細部は思い出せない。ボケてきたのかもしれないが同じ本を短期間に2度読んで、違った感慨を抱くというのも悪くないと思った。吉田修一にしてはストーリーは荒唐無稽な冒険譚だ。AN通信という通信社を装うある種の秘密結社がある。企業や国家の機密情報を入手して高値で売るという組織だ。組織員は孤児によって構成されている。石垣島の南西60キロの南蘭島の高校に通う鷹野が主人公だ。鷹野は知的障害の弟と暮らす柳とともに高校に通う傍ら構成員としてのトレーニングを受けているのだ。最初に読んだときはAN通信と構成員の裏切りと言ったスリルとサスペンスが主題と思ったのだが、今回読んで感じたのは「子どもの無垢」ということだ。鷹野は幼いころに児童虐待を受け、実の母親に弟とともに自宅にわずかな食べ物とともに監禁される。餓死した弟を抱きながら糞尿にまみれた姿で発見された鷹野はAN通信に引き取られる。この時点の鷹野は完全な被害者であり「無垢」である。柳の知的障害の弟も「無垢」として描かれる。離島の高校生の鷹野も柳も「無垢」である。さてこれからである。柳は知的障害の弟と海外で暮らす資金を得ようと組織を裏切る。鷹野もそれに手を貸す。「目的は手段を浄化できるか?」という話にもつながるのだが、いずれにしても粗削りなストーリーもまた私には魅力的であった。

8月某日
「日本財政 転換の指針」(井手英策 岩波新書 12年12月)を読む。著者は東大経済学部、同大学院博士課程修了で現在、慶應大学の経済学部教授。専攻は財政社会学。財政社会学とは聞いたことがないが、財政を収支で見るのではなく「社会的」に見て評価するということだろうと、本書を読んで思った。「国の借金、1000兆円」というのが独り歩きしたのかも知れないが、私なども財政再建は「待ったなし」だし、消費増税の再延期に対して「愚かなこと」だと思っている。いまさらその考えを変えようとは思わないが、本書を読んで財政の「入り」と「出」だけに目を向けて財政再建を至上命令とする考え方には疑問を持つようになった。人口が増大し経済が成長し続ける時代は終わった。成長の果実を分配する財政から、人口が減少し高齢化が進むなかで負担を公平に分担する財政へと転換しなければならないのだが、それができていない。それを訴える政治家も政党もいないのではなかろうか。

8月某日
元年住協の青木さんと久しぶりに吞む。青木さんとは年住協の広報誌「年金と住宅」の編集をやってからの付き合いだからもう30年の付き合いになる。向かいのビルの地下1階の「跳人」で昔話に花が咲く。近くの「神田バー」に寄って秋葉原で別れる。我孫子で駅前の「愛花」に寄ると、看護師で今は東京有明大学の助教をやっている上田さんが大阪の病院で一緒だった先輩の看護師と来ていた。先輩は今は休業中で「訪問看護」をやりたいと言っていた。

8月某日
「健康・生きがいづくり財団」の大谷常務と神田の葡萄舎へ行く。5時半過ぎに葡萄舎に行くとまだお客は誰も来ていない。店主の賢ちゃんと店を手伝っている賢ちゃんのお姉さんと雑談しているうちに大谷さんが現れる。大谷さんは佐野真一の「唐牛伝-敗者の戦後漂流」(小学館)を貸してくれる。唐牛伝とは60年安保のときの全学連委員長、唐牛健太郎のドキュメントである。私は60年安保のときは小学校の6年生で、6月15日の翌朝、母親が真剣な顔をして「昨日、女子学生が死んだの」と告げ、子どもながらにただならぬ雰囲気を感じたことを覚えている。私自身は唐牛健太郎と面識はないが、唐牛の未亡人の真喜子さんとは何度か吞んだことがあるが、さっぱりしたいい人である。思えば60年安保から60年近く経過しているわけだ。