社長の酒中日記 9月その1

9月某日
日刊企画の小見山社長とニュー新橋ビル2階の「初藤」で待ち合わせ。小見山氏は私が大学を出て初めて務めた「しば企画」という印刷屋の同僚。私は「スピカ」という写植機で文字を拾い、小見山氏は私たちが印字したフィルムを切り張りして新聞やチラシの原版に仕上げていた。私は学生運動に挫折して、当時付き合っていた女性(今の奥さん)と所帯を持とうと思ったものの、志望した出版社の試験には軒並み落ちてしまった。学生運動の流れで大学2年のとき懲役1年6カ月執行猶予2年の判決を受けており試験に落ちるのも当然なのだが、「どうしようか?」と思っていたら、友人の村松君が「俺の親戚がやっている印刷屋に行かないか?」と誘ってくれたのが「しば企画」である。私や村松君だけでなく就職にあぶれた学生運動崩れが何人かその会社に拾われた。私や村松君は2年ほどでその会社を辞めたのだが、小見山氏は踏みとどまって苦労したらしい。小見山氏は日本製版というフジサンケイグループの印刷会社に移り、その後、日刊企画という会社を立ち上げた。23歳からの付き合いだからもう45年の付き合いである。とは言え小見山氏には一方的にご馳走になる関係が続いている。本日もご馳走になってしまった。

9月某日
茨城県の常陽カントリー倶楽部でゴルフ。元社会保険庁長官の末次さん、元社会援護局の高根さん、それと我孫子在住で川村女子学園大学の教授の吉武さんと回った。吉武さんのベンツに乗せてもらってゴルフ場へ向かう。私はゴルフは元々下手なうえ脳出血で右半身の自由が利かなくなってからさらに下手になった。それでも末次さんたちは私の「健康のため」を思って誘ってくれる。ありがたいことである。今日はミドルコースでパーをひとつとることが出来ました。

9月某日
吉武さんに誘われて医療事務を教えている大学や専門学校の団体、日本医療福祉実務教育協会全体研修会に参加する。輝生会の小林由紀子常務理事の講演は、初台のリハビリテーション病院の例を上げての講演で、私が入院していた船橋市立リハビリテーション病院も輝生会の経営なのでなつかしかった。講演会後、隅田川を遊覧しながら懇親会にも参加。

9月某日
健康生きがい開発財団の大谷常務から借りた「唐牛伝-敗者の戦後漂流」(佐野真一 小学館 16年8月刊)を読む。唐牛とは60年安保の全学連委員長だった唐牛健太郎のことだ。唐牛は函館で生まれ北大に入学、60年安保の前年に全学連委員長に就任、60年安保後、右翼の田中清玄から資金が渡っていたことが暴露され、北海道で漁師をしたり新橋で居酒屋を経営したりした後、最期は徳洲会と組んだ。唐牛は函館の実業家が芸者に産ませた庶子だった。そのことが唐牛に大きな心理的な影響を与えたというのが作者の佐野の考えだ。佐野が正しいかどうか分からないが、唐牛は戦後日本が生んだ最大の異端児だと私は思う。60年安保闘争は大衆運動としては空前絶後の規模で戦われ、その実質的な指導は全学連が担っていた。全学連は当然、共産主義者同盟(ブント)の指導を受けていたわけだが、全学連の委員長と言えば文句なしのスターだった。当時のブントや全学連の指導者は青木昌彦、西部邁、加藤尚武のように学者になった人も多いが唐牛の生涯は異彩を放っている。佐野がその異彩を十分にとらえられたかどうか、私は「惜しい」と思うものです。

9月某日
大谷さんと元全社協副会長で東京海上日動の顧問をしている小林和弘さん、東京海上日動の公務開発部の小林中部長、国際厚生事業団の角田専務、健康生きがい開発財団の藤村次長とで「ビアレストランかまくら橋」へ。6人で赤ワイン2本、白ワイン1本を空ける。このメンバーは仕事と関係ないわけではないけれど、仕事の話をするでもなく楽しく歓談させてもらった。

9月某日
三田国際ビルのヤマシタコーポレーションのショールームで杖を購入。今持っている杖は6年前に船橋リハビリテーション病院に入院しているときに購入したものだが、先日、社会福祉法人にんじんの会の石川理事長を訪ねた際に忘れてきてしまった。事務長の伊藤さんに保管をお願いしたが、この際新しいのを買うことにした。新しい杖をつきながら経済産業省の産業機械課ロボット政策室に、介護現場に適応するロボット開発の現状を取材に行く。当社の迫田に同行。取材に応じてくれた栗原優子補佐は、役人にしておくのはもったいないほどの美人であった。聞くと着任して3か月、それまではアメリカに留学していたとのこと。天はときに二物を与えるものですね。インタビュー後、西新橋の社会保険福祉協会が入っているビルの地下の「風林火山」へ。HCMの大橋社長と待ち合わせ。迫田と生ビールを吞んでいると大橋社長が来る。「風林火山」は小林さんと角田さんがよく利用すると言っていたが、確かに料理は安くて美味しかった。