顧問の酒中日記 12月その3

12月某日
「人口と日本経済」(吉川洋 中公新書 2016年8月)を読む。少子高齢化が進むなか、支えられる層(私たち65歳以上の高齢者)の人口増大と支える層(生産年齢人口)の減少が日本社会の将来に大きな影響を与えると言われている。吉川の論は、人口減少は重大な問題だが、わが国は「人口減少ペシミズム」が行き過ぎているというもの。先進国の経済成長を決めるのは、人口ではなくイノベーションであると技術開発の重要性を強調する。私は吉川の論に基本的に賛成の立場である。介護業界の人材不足が言われて久しいが、管理部門のIT化、直接部門でのロボットをはじめとした機器の導入によるイノベーションにより人材不足への対応と「介護の質」をあげることは可能と考えている。産業革命や農業革命によって工業と農業の生産性は向上し、人口は飛躍的に増大した。しかし先進国の人口はアメリカを除き縮小している。私たちは子育て支援政策によって「子どもを産み育てる環境」を整えると同時にイノベーションに果敢に挑む社会を作っていかなければならないと思う。

12月某日
リクルートの週刊住宅情報の元編集長、大久保恭子さんが「モリちゃんの社長退任を祝う会」に出られないからと一席設けてくれる。場所は銀座の「玉亭」。玉亭の女将はこれも元リクルートで月刊ハウジング情報の編集長だった渡辺尚子さん。私が年友企画に入社したのはプレハブ新聞社に在籍していた30年以上前、年友企画を通して週刊住宅情報にアルバイト原稿を書いていたことに始まる。当時、年住協の企画課長だった小峰さんの紹介だ。年友企画に入社したら主に戸建ての注文住宅を対象にしたハウジング情報が創刊され、その創刊準備号から手伝った。渡辺さんにはその頃からお世話になった。「玉亭」に着くと大久保さんはすでに来ていた。「玉亭」は店をオープンして20年になるそうで渡辺さんは還暦を迎えたそうだ。ということは渡辺さんは30そこそこでハウジング情報の編集長をしていたことになる。
日本住宅建築センターの社本顧問、国交省の伊藤明子審議官も顔を出してくれる。社本さんは私がプレハブ新聞の記者をしていたころ、当時の建設省住宅局民間住宅課の補佐で住宅金融公庫の担当だった。当時は今と違って金利が高く低金利の公的住宅融資が住宅建設に欠かせなかった。プレハブ新聞としても社本さんは重要な取材源だった。社本さんは住宅生産課庁を最後に退官、パナソニックで専務を務めた後、日本住宅センターの社長を務めた。伊藤さんとは私が年友企画に移り、住文化協議会の活動に参加してから。伊藤さんは住宅生産課の係長だった。雑誌で「高齢者と住まい」というテーマで座談会を企画し、当時のシルバーサービス対策室長の阿曽沼さんに出席をお願いしたら例の調子で「女性が出るなら出てもいい」という。伊藤さんは「向こうが室長ならこっちもそうしないと」と渋ったが無理にお願いして座談会は実現した。ふーん、なんかお世話になりっぱなしだなー、私の人生って。

12月某日
読まないでいた「思想としての全共闘世代」(小阪修平 ちくま新書 2006年8月)を読む。ウィキペディアによると、小阪はこの本が出版されて1年後、急性心不全で亡くなっている。小阪は66年に福岡修猷館高校を卒業、現役で東大に入学した。私より年齢で1歳、大学の学年では2年違う。しかし東大全共闘が医学部闘争を契機として結成されたのが、私が早大に入学した1968年であり、全共闘体験の中身は別としてスタイルとしてはほぼ重なる。自分自身のことをいうと、私は小阪のように「思想として」全共闘の体験を深化させることはなかったが行動様式は全共闘体験を色濃く引きずっているように思う。それは何かといわれると明確に言葉にできないのだが、一つは「逃げない」こと。これは最終的には逃げてしまうにせよ、ギリギリ現場に踏みとどまろうとすることと言ってもよいかもしれない。二つ目は「結果より過程」。「成功するか失敗するか」というもちろん結果は重要なのだが、過程がそれなりに充実していれば、もっというと楽しければそれでいいとしてしまう。これはまぁ私の全共闘体験なので異論は多いと思うが。小阪の本は真面目に全共闘世代の思想に迫っていると思う。

顧問の酒中日記 12月その2

12月某日
16時から西国分寺の「にんじんホーム」で児童虐待パンフの打合せがある。その前に花小金井の有料老人ホームに入居している荻島道子さんを訪問。荻島さんの部屋へ行ったら、九段高校の同級生というひとが来ていた。ということは亡くなった荻島国男さんとも同級生ということでひとしきり荻島さんの思い出話をした。たまたま結核予防会の竹下さんの名前が出たら、結核予防会の会長をしていた青木さんという人は随筆家の幸田文(幸田露伴の孫娘)の娘の青木玉(この人も随筆家)の夫ということだった。ふーん、世間は狭いというか生きているといろいろな出会いがあるものだと感じた。荻島さんと別れて近くの白梅学院大学の山路先生(元毎日新聞の記者)に社長退任の挨拶。西国分寺駅でフリーの編集者の浜尾さんと落ち合って「にんじんホーム」へ。石川理事長に担当の楮本(かずもと)さんを紹介される。珍しい苗字で出身は秩父ということだった。楮(こうぞ)はクワ科の植物で和紙の原料として知られる。先祖は秩父で和紙を作っていたのだろうか。打合せを終わって石川さんに西国分寺駅前の「味の山家」でご馳走になる。

12月某日
東大の高齢社会総合研究機構の辻哲夫さん(元厚労次官)に退任の挨拶をしに行く。辻さんは「社長退任を祝う会」にも「先約が入っているので遅れるけど出ます」と言ってくれた。それから根津の青海社の工藤社長にも退任の挨拶。工藤さんと最初に会ったのは我孫子の「愛花」だ。「愛花」のママが「こちらも出版社の社長さん」と紹介されたのだ。工藤さんは糖尿病と診断され、最近あまり吞んでいないようだ。その代り毎日、西日暮里から根津の会社まで歩いているそうだ。一病息災とはよく言ったものである。青海社から茗荷谷の「健康生きがい開発財団」へ。この財団は辻さんが理事長で実務は常務の大谷さんが仕切っている。大谷さんと会社へ戻る。大谷さんと「千両箱」へ。鰺の叩きを頼んだら骨をから揚げにしてくれてこれが旨かった。日本酒をひとり3合ほどいただく。

12月某日
図書館にリクエストしていた「株式会社の終焉」(水野和夫 2016年9月 ディスカヴァリー21)を借りる。人気があるらしく裏表紙に「この本は次の人が予約してまっています。読み終わったらなるべく早くお返しください」と書かれた紙が貼られていた。新書版230ページの本だが、経済学に門外漢の私としては小説を読むようなわけにはいかず、結局、1週間かけて読了した。水野の本は何冊か読んだが歴史的、俯瞰的に日本経済の現状を分析するという視点が気に入っている。理論経済学というか高等数学を駆使した現代経済学は信用できないというのは、私の根拠のない決めつけだが、経済史や経済学史は「歴史」ということから一応信用できると思っている。私が水野の理論を十全に理解したとは言い難い。だが経済が成長し、人口も増大していくという私たちの常識はたかだか19世紀の産業革命以降に当てはまるに過ぎないし、黒田日銀総裁の物価2%上昇の公約の実現も困難となった今、人口も減少し始めた日本では「成長理論」に代わる理論とシステムが求められているということであろう。もちろんそれはアベノミクスではありえない。

12月某日
「居酒屋の戦後史」(橋本健二 2015年2月 祥伝社)を読む。居酒屋を通して戦後の日本社会を描くというのは面白い視点だ。しかし橋本の本質は少し違う気がする。彼の専門は階級・階層論で、その視点から日本の酒を受容してきた文化を論じているのだ。経済的格差の拡大によって日本の酒文化は衰退の危機に瀕している、酒好きならば格差拡大に抗して政治闘争に挑めとアジっている。異議なーし!

12月某日
奈良県の天理市で「地域で安心して暮らせるためのプラットフォームづくり」を目指して異業種交流を行っているNPO法人「つむぎ」の勉強会にセルフケアネットワークの高本代表と参加。京都まで新幹線、京都から近鉄で天理市へ。先週、みのもんたの司会するテレビ番組で「天理スタミナラーメン」のことを放送していたので、昼飯にそれを食べようと高本代表に提案したのだが、「お昼からニンニクたっぷりはダメ!」とあえなく却下、「笑家(えみや)」というレストランに入り、「生姜焼き定食」を頼む。これが正解で食後のコーヒーを含めて実に美味しかった。タクシーで「つむぎ」に迎い、中川代表と山本専務に挨拶。ワークショップに参加させてもらう。ハウスクリーニングをやっている「TRUST CLEAN」の井上さんが面白かった。近鉄で京都へ。京都から新幹線で私は名古屋で下車。「わが家ネット」の児玉さんが迎えに来てくれる。そのまま新幹線口の「YONEZAWAYA」へ。以前、「わが家ネット」の勉強会で会った加藤さんとハウジングアイチの鬼頭さんが来てくれた。シミュレータの販売について打合せ。

顧問の酒中日記 12月その1

12月某日
川村女子学園大学教授の吉武さんから「福岡の羽田野弁護士と8時過ぎに根津の「ふらここ」に行くから」と電話。羽田野弁護士は吉武さんとは福岡修猷館高校の同級生。滋賀県大津市で毎年開催される「アメニティフォーラム」で吉武さんに紹介された。「福岡に出張のときは連絡ください」と言われたので健康生きがい財団の大谷常務と福岡に出張したとき遠慮なく事務所を訪ねたら、歓待されてしまった。羽田野さんは九大法学部出身だが、九大柔道部のOBとしても活躍している。というわけで8時までの時間つぶしに大谷さんと神田の「福一」で吞む。大谷さんと「ふらここ」へ行ってしばらくすると吉武さんと羽田野さんが来る。福岡へ行ったとき羽田野さんの行きつけのバーで「切り絵」の腕前を披露されたけど、今回もその場で「切り絵」を切ってくれ、博多土産のお菓子までもらってしまった。

12月某日
「フォーティ 翼ふたたび」(石田衣良 講談社 2006年2月)を読む。自宅の本棚に読まずに積まれていたものをたまたま手に取って読むことにする。主人公の吉松喜一は大手広告代理店に17年勤めた後、脱サラ、40歳にしてフリーの広告プロデューサーになる。弱所代理店のモリタニADの片隅に机を置かせてもらっているのだが、以前の大手広告代理店に在籍したころに比べれば仕事は激減、冴えない日常を送っている。その日常がAV女優からメールによる仕事の依頼から変わり始める。創業した会社を追われたAV女優の恋人は、創業者利得で巨万の富を得たものの、毎晩六本木のクラブをはしごするなど荒んだ日々を送っている。AV女優は恋人を心配し何とかならないか、と吉松に依頼する。吉松の真摯な対応により恋人は再生を果たす。これは吉松が関わった再生の物語であり、再生に関わることにより吉松自身が再生されていく。そんな物語が7編ほど収められている。私も社長を辞めて「さぁ何をやろうか」と思案する日々である。社長のときと同じことをやってもしょうがないし、むしろやってはいけないだろう。私なりの「第2の人生」をデザインしようと思っている。

12月某日
柳美里の「JR上野駅公園口」(河出書房新社 2014年3月)を図書館で借りて読む。JR上野駅は私が日常、通勤で利用している駅だし、公園口は東京博物館や西洋美術館、動物園に行く際、たびたび利用している。タイトルに惹かれて借りたのだが、中身は哀切極まりないものだった。1933年、今の天皇と同じ日に福島県相馬郡で「私」は生まれる。自作農とは言え、所有する田圃はわずか。国民学校を卒業するとともに小名浜へ出稼ぎに。それから「私」はひたすら出稼ぎで高度経済成長を支える。しかし長男がレントゲン技師の国家資格に受かったとたんに下宿先で突然死する。60歳になりやっと妻と2人だけの暮らしを楽しもうとしたら妻は急死してしまう。動物病院の看護師をしている孫娘が同居し面倒を見てくれるのだが、「私」はある日、「突然いなくなって、すみません」の置手紙を残して家出する。それから「私」は上野公園でホームレスとして過ごすことになる。ここには希望は描かれない。東日本大震災の津波で孫娘は流され、ラストは「私」が上野駅で鉄道自殺することが暗示される。希望を与えられることのない人生。それを描くのもまた文学であると思う。

12月某日
カイポケマガジンの取材で西東京市のNPO法人サポートハウス年輪の安岡厚子理事長を訪問。安岡理事長に会う前に田無病院の高岡さんに社長退任の挨拶に行こうと思っていたら当社の迫田が「どうせなら取材させてもらいましょうよ」。高岡さんは西東京市の在宅療養連携支援センターのセンター長になっていたのでセンターのある西東京市保谷庁舎へ。高岡さんの取材を終わって「年輪」へ。介護保険外のサービスの位置づけは「外」であるが故に介護保険の本質を巡る話になってくると思う。夜は酒井英幸さんが叙勲されたということなのでささやかなお祝いを富国倶楽部で。社会保険旬報の谷野編集長と酒井さんが富国倶楽部の前で待っていてくれた。この2人に私、当社の岩佐や村井などと10年以上前によく山歩きをしたものだ。酒井さんは変わらずお元気だった。

12月某日
日経OBの尾崎雄さんが「2025年、高齢者が難民になる日 ケア・コンパクトシティという選択」(日経プレミアシリーズ 2016年9月)送ってくれたので早速読む。地域包括ケアシステムとコンパクトシティを合体させたケア・コンパクトシティはこれからのまちづくり、コミュニュティづくりに欠かせない概念だと思う。私の住む我孫子市も人口10万人(未確認)程度だがJRの成田線沿いに合併により広がっていった。高度経済成長期と人口の増大期にはそれでよかったかもしれないが、これからは自ずとケア・コンパクトシティづくりを進めざるを得ないと思う。

社長の酒中日記 11月その5

11月某日
愛知県の(一社)わがやネット(児玉道子代表)の水曜塾で「胃ろう・吸引シミュレータ」の話をさせてくれるというので「勤労感謝の日」だけれど名古屋へ。会場には工務店の経営者、リフォーム業者、訪問看護ステーションの理学療法士など10数人が集まる。シミュレータの実演はいつも介護士や看護師が対象なのだが、今回はちょっと違う雰囲気。でも皆さん発信力の強そうな人なのでアナウンス効果としてはかなり期待できそうだ。何人かと名刺交換をしたが、そのうちの一人が上京した児玉さんと一緒に神田で吞んだ(株)ノダ建材事業部の長田さん。日本福祉大学の大学院にも在籍しているそうで、たまたまこの日、中村秀一さんの講義があったという。世間は広いようで狭い。

11月某日
大学の同級生の雨宮弁護士の事務所へ社長退任の挨拶。5時を過ぎたので雨宮君に「今日予定入ってるの?」と聞くと「空いてるよ」というのでそのまま飲みに行く。弁護士事務所の近くの日本酒をたくさん置いている店に連れて行ってくれる。「雪の茅舎」など日本酒をぬる燗で。「日本酒はやっぱりぬる燗」で雨宮君と一致。雨宮君にすっかりご馳走になる。

11月某日
年友企画の株主総会で代表取締役社長を退任。社長に就任して2、3年は調子が良かったのだが、その後、社会保険庁は解体されるし年金住宅融資は廃止されるしで舞台は暗転、本当に苦しい時代が続いた。その私を支えてくれたのはやはり社員だ。社員の支えがあったからここまでやれたとつくづく実感する。社長を退任してもシミュレータの販売、「地方から考える社会保障フォーラム」、セルフケアネットワーク、雑誌の「へるぱ!」、SMSのカイポケマガジンなどの手伝いはするつもり。
株主総会の日、つまり私の社長退任の日はたまたま私の誕生日、11月25日だ。SMSの長久保君と神田明神下の「章太亭」で吞んでいたら、店の若女将が「あちらの方も今日が誕生日ですよ」と教えてくれる。私より5歳ほど年長で文芸春秋社の社長をやった池島信平の甥っ子だそうだ。11月25日は1970年のその日、作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監部で総監を監禁、隊員に決起を促すが聞き入れられず、楯の会会員の森田必勝とともに自決した日でもある。そんなことを話しながら社員から退任記念にもらった高級ウイスキーを長久保君と吞んでいたらすっかり悪酔いしてしまった。

11月某日
図書館で借りた「日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」」(森山優 新潮選書 2012年6月)を読む。著者は1962年生まれ、現在は静岡県立大学の准教授。1941年12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃を敢行した。1945年の8月、日本の敗戦によって終結した3年半以上にわたって続いた対米英蘭戦争の始まりである。本書は日本が開戦に踏み切るに至る政治過程を各種資料から丁寧に追跡、明らかにしている。そこで明らかになるのは本書の副題にあるように、当時のリーダーたちの政治的意思決定場面における「両論併記」と「非決定」の実態である。政治的リーダーシップが欠如するなかで「両論併記」と「非決定」を繰り返したうえ、陸軍の主導する開戦論がなし崩し的に国策とされる。「非決定」は今も「決められない政治」として日本の伝統のようになっている感がある。しかし開戦に至るまで「非決定」が続いていれば開戦には至らなかったはずである。陸軍の開戦論を阻止できなかった政府首脳、重臣、そして天皇の責任は重いと言わざるを得ない。

11月某日
「7月24日通り」(吉田修一 新潮社 2004年12月)を図書館で借りて読む。地方都市のOLである「私」は自分の住んでいる町をポルトガルのリスボンになぞらえる。いつもバスに乗る「丸山神社前」は「ジェロニモ修道院前」だし「岸壁沿いの県道」は「7月24日通り」だ。このアイディアは冴えていると思う。地方都市の若いOLの抱える「閉塞感」とそこから脱出を願う「希望」がよく表れている。

11月某日
「星々たち」(桜木紫乃 実業の日本社文庫 2016年5月)を我孫子駅前の本屋で買う。帯に「松田哲夫氏激賞」とあったのでつい買ってしまう。松田哲夫は筑摩書房の編集者。呉智英とも友人で私の1年年長。桜木は北海道を舞台とする小説が多いようだがこの小説も北海道の母、娘、孫娘の三代にわたる性愛にまつわる物語。母は呑み屋の女将を続けながら流浪の男と同棲、困窮のうちに死ぬ。娘は交通事故で片足を失う。こう書くと悲惨な小説のように思われるかもしれないが、三代の女性のひたむきさが伝わり、孫娘の幸せな結婚を暗示するラストも悪くない。

11月某日
「薄情」(絲山秋子 新潮社 15年12月)を読む。この本も絲山のサイン入り。うちの奥さんが絲山のトークショーで買い求めたものだ。高崎市郊外に住む宇田川は神主見習い。それだけでは食べていけないので5月半ばから夏が終わるまで、嬬恋村でキャベツの収穫の手伝いに行く。宇田川と高校の同窓生の蜂須賀や木工芸家の鹿谷などとの交流が、上州弁でたんたんと描かれる。上州弁に限らず、栃木や茨城など北関東のなまりは独特。それが一種のリズムになっている。
さて社長を辞めたので「社長の酒中日記」はこれでお終い。12月中は「顧問の酒中日記」として当社のHPに掲載するが、1月からは独自のブログにしようと思っている。