12月某日
川村女子学園大学教授の吉武さんから「福岡の羽田野弁護士と8時過ぎに根津の「ふらここ」に行くから」と電話。羽田野弁護士は吉武さんとは福岡修猷館高校の同級生。滋賀県大津市で毎年開催される「アメニティフォーラム」で吉武さんに紹介された。「福岡に出張のときは連絡ください」と言われたので健康生きがい財団の大谷常務と福岡に出張したとき遠慮なく事務所を訪ねたら、歓待されてしまった。羽田野さんは九大法学部出身だが、九大柔道部のOBとしても活躍している。というわけで8時までの時間つぶしに大谷さんと神田の「福一」で吞む。大谷さんと「ふらここ」へ行ってしばらくすると吉武さんと羽田野さんが来る。福岡へ行ったとき羽田野さんの行きつけのバーで「切り絵」の腕前を披露されたけど、今回もその場で「切り絵」を切ってくれ、博多土産のお菓子までもらってしまった。
12月某日
「フォーティ 翼ふたたび」(石田衣良 講談社 2006年2月)を読む。自宅の本棚に読まずに積まれていたものをたまたま手に取って読むことにする。主人公の吉松喜一は大手広告代理店に17年勤めた後、脱サラ、40歳にしてフリーの広告プロデューサーになる。弱所代理店のモリタニADの片隅に机を置かせてもらっているのだが、以前の大手広告代理店に在籍したころに比べれば仕事は激減、冴えない日常を送っている。その日常がAV女優からメールによる仕事の依頼から変わり始める。創業した会社を追われたAV女優の恋人は、創業者利得で巨万の富を得たものの、毎晩六本木のクラブをはしごするなど荒んだ日々を送っている。AV女優は恋人を心配し何とかならないか、と吉松に依頼する。吉松の真摯な対応により恋人は再生を果たす。これは吉松が関わった再生の物語であり、再生に関わることにより吉松自身が再生されていく。そんな物語が7編ほど収められている。私も社長を辞めて「さぁ何をやろうか」と思案する日々である。社長のときと同じことをやってもしょうがないし、むしろやってはいけないだろう。私なりの「第2の人生」をデザインしようと思っている。
12月某日
柳美里の「JR上野駅公園口」(河出書房新社 2014年3月)を図書館で借りて読む。JR上野駅は私が日常、通勤で利用している駅だし、公園口は東京博物館や西洋美術館、動物園に行く際、たびたび利用している。タイトルに惹かれて借りたのだが、中身は哀切極まりないものだった。1933年、今の天皇と同じ日に福島県相馬郡で「私」は生まれる。自作農とは言え、所有する田圃はわずか。国民学校を卒業するとともに小名浜へ出稼ぎに。それから「私」はひたすら出稼ぎで高度経済成長を支える。しかし長男がレントゲン技師の国家資格に受かったとたんに下宿先で突然死する。60歳になりやっと妻と2人だけの暮らしを楽しもうとしたら妻は急死してしまう。動物病院の看護師をしている孫娘が同居し面倒を見てくれるのだが、「私」はある日、「突然いなくなって、すみません」の置手紙を残して家出する。それから「私」は上野公園でホームレスとして過ごすことになる。ここには希望は描かれない。東日本大震災の津波で孫娘は流され、ラストは「私」が上野駅で鉄道自殺することが暗示される。希望を与えられることのない人生。それを描くのもまた文学であると思う。
12月某日
カイポケマガジンの取材で西東京市のNPO法人サポートハウス年輪の安岡厚子理事長を訪問。安岡理事長に会う前に田無病院の高岡さんに社長退任の挨拶に行こうと思っていたら当社の迫田が「どうせなら取材させてもらいましょうよ」。高岡さんは西東京市の在宅療養連携支援センターのセンター長になっていたのでセンターのある西東京市保谷庁舎へ。高岡さんの取材を終わって「年輪」へ。介護保険外のサービスの位置づけは「外」であるが故に介護保険の本質を巡る話になってくると思う。夜は酒井英幸さんが叙勲されたということなのでささやかなお祝いを富国倶楽部で。社会保険旬報の谷野編集長と酒井さんが富国倶楽部の前で待っていてくれた。この2人に私、当社の岩佐や村井などと10年以上前によく山歩きをしたものだ。酒井さんは変わらずお元気だった。
12月某日
日経OBの尾崎雄さんが「2025年、高齢者が難民になる日 ケア・コンパクトシティという選択」(日経プレミアシリーズ 2016年9月)送ってくれたので早速読む。地域包括ケアシステムとコンパクトシティを合体させたケア・コンパクトシティはこれからのまちづくり、コミュニュティづくりに欠かせない概念だと思う。私の住む我孫子市も人口10万人(未確認)程度だがJRの成田線沿いに合併により広がっていった。高度経済成長期と人口の増大期にはそれでよかったかもしれないが、これからは自ずとケア・コンパクトシティづくりを進めざるを得ないと思う。