1月某日
内田樹と中田考(イスラム学者)の対談集「一神教と国家-イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」(集英社新書 2014年2月)を読む。イスラム教については新聞、テレビで報道されている以上の知識はないので新鮮に読んだ。近代世界はヨーロッパを中心とした国民国家(領域国家)の成立をとともに始まるが、イスラムにはもともと国家や領域の観念が薄い。それは砂漠で生まれ砂漠で育ったイスラム教の基盤が遊牧民だからだ。内田は遊牧民「柵を作らない人」、定住民「柵を作る人」という比喩を使っていたが言いえて妙だと思う。中田は領域国家に分断されたイスラム世界をカリフ制の再興により再統合することを目指している。たぶんIS(イスラム国)もイスラム世界を暴力的に再統合しようとしているようにみえる。中田は宗教的に平和的な再統合を理念として唱えているのだと思う。
1月某日
「ラブレス」(桜木紫乃 新潮文庫 2013年12月 単行本は2011年8月)を読む。北海道の開拓村で極貧の家に育った百合江と里美の姉妹。百合江は旅芸人の一座に飛び込み、座付きの歌手となり、里美は理容師の道を歩む。文庫本のカバーには「流転する百合江と堅実な妹の60年に及ぶ絆を軸にして、姉妹の母や娘たちを含む女三世代の壮絶な人生を描いた圧倒的長編小説」とある。非常に起伏にとんだストーリーを破綻なくまとめる作家的な力量はさすがというべきだが、私は桜木の経歴に興味を持った。実家は理容室で釧路東高卒業後、裁判所にタイピストとして勤める。結婚して退職、専業主婦となり、2人目の子供を出産後、小説を書き始める。私は北海道という風土の独特さを思わずにはいられない。桜木も祖父か曾祖父の時代に本州から北海道に移住したと思われる。故郷で十分に暮らせたのならば移住の必要はない。貧困やしがらみからの脱出を試み、道民の祖先は移住したのではないか。日本人のなかで「遊牧民」的な気性を最も色濃く持っているのが北海道人だと思う。
1月某日
正月休み。図書館も休みである。我孫子駅前の東武ブックストアも休み。柏まで足を延ばし駅前商店街の新星堂へ。新潮文庫の「夕ごはんたべた?」(新装版)(田辺聖子 1979年3月 単行本は1975年9月)を買う。私の記憶では朝日新聞の夕刊に連載されていたのではないかと思うが、私は当時、田辺聖子には何の興味もなかったので読むこともなかった。主人公は尼崎の下町で皮膚科を開業する吉水三太郎と妻の玉子。子供は大学生の長女と学園紛争に積極的に参加する長男と次男。息子たちは成田や羽田の闘争にも遠征、逮捕され、次男は高校退学を余儀なくされる。実際の田辺の息子2人、といっても田辺が後妻に入った「カモかのおっちゃん」こと川野医師の連れ子なのだが、も高校生のとき学園紛争に参加している。そんな田辺のエッセーを読んだ記憶がある。当時身内にゲバ学生(今や死語だが、ゲバルトに積極的に参加した活動家のことをなかば揶揄してこう呼んだ)を抱えた家族の苦悩が、ユーモラスに綴られている。
客観的にはそういうことなのだが、私は当時ゲバ学生の当事者だったから今さらながら「心配かけたんだろうなぁ」と感慨一入だった。私の両親だけではない。私の奥さんは一人娘だったから、ゲバ学生のところに嫁にやる(結婚前に私は運動から足を洗っていたとはいえ)奥さんの両親の気持ちは如何ばかりであったろうか。それはさておき田辺は自らの気持ちを三太郎に仮託させて次のように書いている。「赤軍派一派のごとき、無謀で独善的な過激理論を是認できない。しかし彼らが一途に煮えたぎってついに煮えこぼれ、自滅してしまった哀れさに、三太郎は人の子の親として涙せずにいられない」。長谷部日出雄は解説で「本当の愛とやさしさとは、おそらく、この世で最も苦しく、悲しく、無残な運命に置かれた人たちにちかい立場に、わが身をおくことなのだ」と書いている。長谷部の言う「この世で最も苦しく、悲しく、無残な運命に置かれた人」とは連合赤軍の永田洋子であり森恒夫であると同時に彼らに総括という名の下で殺された「同志」たちであるだろう。こうした田辺の視線は貴重である。
1月某日
図書館で借りた「激しき雪―最後の国士、野村秋介」(山本重樹 幻冬舎 2016年9月)を読む。野村秋介といっても今の若い人は知らないだろうな。タイトルの「激しき雪」は野村の俳句「俺に是非を問うな激しき雪が好き」からとったもの。野村は今から20年以上前の平成5年10月20日、朝日新聞本社の役員応接室で同社の報道姿勢(具体的には前年の参議院選挙で野村が代表を務めた「風の会」を週刊朝日の山藤章二のブラックアングルで「虱の会」と揶揄したこと)に抗議して、拳銃自殺した。その野村のドキュメンタリーである。もとはと言えば横浜の愚連隊だったが、並外れた度胸で頭角をあらわし、服役中に知り合った右翼の縁で戦前の右翼、三上卓の知遇を得る。俳句、短歌も詠み、仏教にも造詣が深い。何より河野一郎廷の焼き討ち事件、経団連襲撃事件で合わせて18年の獄中生活を送っている。彼のような「激しさ」はとてつもない「優しさ」と並列していたのではないかということがうかがい知れる。こういう人ってこの頃いなくなったなぁとつくづく実感する。表紙の雪を踏みしめている野村秋介のスナップ(宮嶋茂樹撮影)がいい。
1月某日
「籠の鸚鵡」(辻原登 新潮社 2016年9月)を読む。バブル時の和歌山市を舞台にした人間の欲望と暴力をテーマにした小説。和歌山市内でバーBergmanのママ、カヨ子、そこに通う和歌市近郊の下津町の出納室長梶、カヨ子の情夫でヤクザの峯尾、カヨ子の元夫紙谷が主な登場人物。峯尾はカヨ子に梶を誘惑させ、下津町の公金を横領させる。峯尾は対立するヤクザの幹部を射殺、タイへの逃亡資金3000万円を梶に要求する。梶は峯尾の殺害し、自分は自殺することを決意する。紙谷は梶に嶺尾を殺害させ、梶が自殺した後に3000万円を横取りすることを計画、カヨ子の協力を得て、梶による峯尾の殺害には成功する。粗筋はまぁそういうことなのだけれど、和歌山ってちょいと不思議な地域である。中上健次に確か「紀州根の国」という著作があると思うが、地理的には京都、大阪、奈良に近いにも関わらず、「異郷」の雰囲気があるのだ。カヨ子は梶を自殺させることはせず梶とともに自首することを選ぶ。ボートで睡眠薬から覚めた梶は「何や、ここがフダラクか…」と恍惚の表情を浮かべ「ナンマイダ、ナンマイダ」と手を合わせるところで物語は終わる。フダラクは補陀落のことで、和歌山の海上の南に補陀落があるという補陀落信仰を下敷きにしている。カヨ子が伊東静雄の詩を愛唱し梶が吉本隆明の全著作集1定本詩集の「とほくまでゆくんだ」を愛読している。カヨ子が梶に好意を寄せ始めるきっかけとなったのである。