モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
社会保険福祉協会で「介護職のためのグリーフケア研修」の報告と打合せ。1時30分にセルフケアネットワークの高本代表と待ち合わせ。社福協は本田常務と岩崎さん。打合せの後、社福協近くのHCMへ。高本代表が「40歳からの介護研修」の話を大橋社長にする。HCMにネオユニットの土方さんが資生堂パーラーのケーキを手土産に来る。私はモンブランを頂く。ちょっと中座して弁護士ビルに大学の同級生、雨宮弁護士を訪問。HCMに戻ると高本代表は帰っていた。大橋さんと土方さんと3人で「うおや一丁」へ。ここは北海道のお店。「タラの白子」が美味しかった。大橋さんにご馳走になる。帰りに我孫子駅前のバー「ボンヌフ」へ。

2月某日
金曜日、会社から帰る電車の中で読みかけの文庫本を会社に忘れてきたことに気が付いた。土日に読む本がないというのも何なので我孫子駅前の東武ブックストアに寄る。読みかけの本があるのだから、この場合は厚い本はダメである。薄い文庫本に限定して探す。桜木紫乃の「誰もいない夜に咲く」(角川文庫 平成25年1月初版)を買う。巻末に「本書は2009年12月に小社より刊行した単行本『恋肌』を改題したうえ、大幅な加筆・訂正をしたもの」という「但し書き」のようなものが添えられていた。「大幅な加筆・訂正」というのがいい。桜木という作家の文学的な誠実さを表しているように私には感じられた。7編の短編が収められている。冒頭の「波に咲く」は中国人の嫁を迎えた北海道の酪農家の青年のストーリー。嫁を守るために青年は家を出て農協に就職するのだが、2人の飾らない誠実さが描かれていて好感が持てる。私の読んだ桜木の小説はすべて北海道が舞台。北海道は人口が減少する一方、札幌への一極集中が進んでいる。つまり札幌以外は寂れる一方と言っていいと思う。その中にも人々の生活があり出会いと別れがある。桜木の小説は少子高齢化が進む地域の姿を先取りしているといういい方もできる。少し前にも手元に読む本がなくて本屋に入った。そのときも桜木紫乃の文庫本(ワン・モア)を買ったことを思い出した。

2月某日
天理市に出張したときに古本屋で買った半藤一利の「ノモンハンの夏」(文春文庫 2001年6月 単行本は1998年4月)を読む。1939(昭和14)年に日本モンゴル国境で発生した日本軍とソ連・蒙古軍の間で発生した軍事衝突、ノモンハン事件のドキュメントである。それも戦場だけでなく、関東軍の本拠があった新京、陸軍参謀本部があった三宅坂、さらに軍事、外交の最終的な決定権を握っていた首相官邸、宮城を結ぶ多角的なドキュメントとなっている。さらに加えるならば第2次世界大戦の開戦を控えたベルリン、モスクワの動きも克明にとらえている。ノモンハン事件は高校の日本史でさらっと学んだ程度の知識しかないので本書は実に新鮮であった。日本が陸軍を中心に日独伊三国同盟を推進しようとしていたとき、ドイツとソ連は突如、独ソ不可侵条約を結ぶ。平沼内閣は「欧州情勢は不可解」と総辞職する。天皇と海軍は三国同盟に消極的というか反対であった。ノモンハン事件は5月に始まり(第1次)、一時休戦を経て8月にソ連軍の機甲部隊が関東軍を襲う(第2次)。その兵力は日本軍にたいして、歩兵1.5倍、砲兵が2倍、飛行機は5倍であった。勝負にならない闘いであった。主力の第23師団は出動人員1万5975人中の損耗(戦死傷病)は1万2230人、損耗率は76%に達している。日本はノモンハン事件から何も学ばず、無謀な対米戦争に突入する。

2月某日
我孫子市民図書館に行く。「名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前とは関係ないのか」(小谷野敦 青土社 2011年4月)を借りることにする。小谷野敦は文芸評論も書くし、小説も書く。東大の文学部から大学院で比較文学の博士課程を修了し、カナダに留学、阪大で教師をやっていたが今は辞めているはず。私は彼の小説の「母子寮前」「ヌエのいる家」を読んだことがある。肉親との葛藤を描いた私小説で私は面白く読んだ。本書は律令時代に定められた官職名や官位が時代とともに変質してきていることを論じたもの。タイトル名になっている筑前守は、秀吉が信長の臣下であったときに名乗った官命だが、秀吉は筑前地方に赴任したことはなく無関係である。律令が実質的に機能しなくなった平安時代から、官職名は行政官や領主の仕事の内容や支配関係と無関係になり、支配機構(藤原氏、平氏、鎌倉、室町幕府、織豊政権、徳川幕府)における臣下のランク付けに使われたのであろう。ところが江戸時代、国持大名の島津は薩摩守、前田が加賀守、山内が土佐守を名乗っており必ずしもすべてが無関係だったわけではない。また、吉良上野介の上野介は上野の国の次官であることを示している。これは「親王任国」といって上野、上総、常陸の三国は親王が国主に任ぜられるのだが、実際には赴任せず、「介」が実質的なトップであり、「守」より格下というわけでもなさそうだ。というようなことが延々と書いてあるのだが、中世史や近世史を専門に学ぶ人ならともかく一般の人には興味は薄いと思われる。しかし、小谷野のある種の凄さはそこにあるのではないか?つまり自分の興味、やりたいことが先にあり、それが世間に受け入れられるかどうかは二の次なのである。

2月某日
日本橋小舟町にあるセルフケア・ネットワークで打合せ。事務所から地下鉄の人形町までは歩いて5分。日比谷線で人形町から上野まで出れば常磐線で我孫子まで帰ることが出来るのだが、今日は人形町で都営地下鉄に乗り、立石に行くことにする。立石は我孫子の吞み友だちの大越さんに連れて行ってもらって以来、何度か行ったが最近行っていない。目当てのアーケードの店に行ったらまだやっていなかったのでアーケードを出て、店を探す。「食堂トキワ」に暖簾が出ていたので入る。テーブルが2つ、カウンターが8席ほどの古い店。80くらいのお婆さんと息子と思しき人が2人でやっている。ビールと煮込み、ニラ玉を頼む。テーブル席の2人が最近の映画「沈黙」について議論している。議論は「沈黙」から「カラマーゾフの兄弟」へ移り「ゾシマ長老が…」と進む。立石でドストエフスキーとは、結構似合うかも。新しいお客さんが隣へ座り「マグロと〆さばを半々で」と頼む。私に「ここは刺身がうまいんだよ」と教えてくれる。立石へ一人で来ると必ずと言っていいほど話しかけられる。下町の良さが残っている。

2月某日
図書館で借りた辻原登の「Yの木」(文藝春秋 2015年8月)を読む。短編4編が収められていて「首飾り」と表題作の「Yの木」は主人公が作家で大学教授も兼ねるということから一読すると私小説風であるが、フィクションである。あと2作は完全なフィクション。「たそがれ」は優秀で大阪でOLをやっているという姉を中学生の弟が訪ね、2人でユニバーサルシティに遊ぶ。弟と別れた姉は着替えた後、飛田の娼家で客を待つ。「シンビン」は就職した大手証券会社の倒産後、仲間とベンチャーキャピタルを設立した主人公の女性は心ならずも詐欺に近い未公開株式商法に手を染める。関係書類の処分を携帯で命じた後、彼女が訪れたのは秩父宮ラグビー場。彼女の母校の青山学院と慶應の試合が始まっていた。「青学、がんばってますね」と若い女に話しかけられる。試合は青学の勝利に終わり、若い女は主人公を逮捕に来た刑事であったことが明かされる。辻原は長編もいいが短編もいい。現実の切り取り方が巧みなんだろうか。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
図書館で借りた「日本の死に至る病 アベノミクスの罪と罰」(河出書房新社 倉重篤郎 2016年10月)を読む。毎日新聞の専門編集委員の倉重が経済学者や政治家にインタビューしたものをまとめた。私はもともとアベノミクスは評価していない。ただ確たる理論的な根拠があって評価していないわけではなく、安倍晋三という存在が気に食わないという感情的なものと「実績がともなっていないじゃないの?」という感性的な反発である。この本は14人の経済学者や政治家へのインタビューが掲載されている。吉川洋一氏は、安倍政権の株高、企業業績アップはアベノミクスそのものの実力というより景気循環の上昇期と重なった恩恵を相当受けているとにべもない。財務省出身の森信茂樹氏は消費増税再延期ついて「一番の問題は消費税は政争の具にしないという三党合意が破られたことだ。(中略)要は、国民の政治に対する信頼がなくなった。それが一番大きな問題だ」とし、2番目はいずれの政党も増税は先送り、社会保障財源については赤字国債だとか、別の財源を探すとか、いい加減な話になってきていると手厳しい。批判の矛先は安倍首相だけでなく野党にも向かう。伊東光晴氏は「成長を分不相応に望まないこと。今あるパイの中で富を高齢者から若者にシフトする再分配政策を取ること」とコメントする。しかし安倍自民党は選挙で国民の信託を受けた。自民党内でも安倍は一強多弱である。どうなる日本‼。

2月某日
土曜日だけれど民介協の事例発表会があるので会社へ。会社で少し仕事をした後、事例発表会の会場へ。これからの地域で高齢者の生活を支えるとなると行政やボランティア、社協の力だけでは不十分でどうしても介護事業者の力が必要になってくると思われる。民介協の事例発表会もそうした観点から非常に参考になった。事例発表会の合間にカラーズの田尻社長、エルフィスの阿部社長にあいさつ。事例発表会の後の懇親会で民介協の佐藤理事長、扇田理事長、馬袋特別理事にあいさつ、大阪の在宅介護サービスのヒューマンリンクの西村社長と歓談。西村社長はもともとは障害者支援から介護サービスに入った人のようで「それまでは運転手」と言っていた。そういえばパンプキンの渡邊会長も元運転手。「介護業界の社長にはガテン系が多い」ということは言えないだろうか。懇親会でビールとワインをご馳走になり我孫子駅前の愛花へ。

2月某日
図書館でリクエストした「綴られる愛人」(井上荒野 2016年10月 集英社)を読む。井上は小説家で1992年に66歳で死んだ井上光晴の長女だけれど、今はそんなことを知っている若い読者はほとんどいないだろう。「綴られる愛人」だけが、私は面白く読んだ。主人公の柚は児童小説家。夫は出版社に勤める編集者だが柚のプロデューサーであり、有の創作活動を実質的に支配している。柚はそれに耐えられないが表面的には仲の良い夫婦を装っている。もうひとりの主人公、航大(こうた)は富山県魚津市の大学3年生、恋人はいるが恋愛にも就職活動にも真剣に取り組めない。そんな2人を結びつけたのが「綴り人の会」という文通サークル。柚は28歳の専業主婦、航大は35歳の貿易会社のサラリーマンとして文通を始める。柚は夫に殺意を抱き航大に犯行を依頼する、というようなストーリーなのだが、幸せそうな夫婦の日常に潜む悪意(それは夫にも妻にもある)が巧みに描かれていると思う。

2月某日
川村学園大学の吉武先生から電話。「今夜空いてる?」「社長辞めてから夜はヒマだよ」「学士会館で食事会があってその後フラココに行こうと思うんだけどモリちゃんもどう?9時頃まで大谷さんとでも吞んでいれば」。「うん」と返事をしたけれど、大体9時まで誰と吞もうが俺の勝手じゃないか! とは言え大谷さんに電話すると今、大宮だとか。日暮里駅前の居酒屋「喜酔」で待ち合わせ。私が席に着いて5分もしないで大谷さんが来る。ナマコや刺身の三点盛を肴にビールと日本酒を吞む。大谷さんに「もう社長じゃないから割り勘ね」とお願いする。根津のフラココへ。大谷さんは明日が早いとか言って5000円を置いて帰る。しばらくすると吉武さんが2人連れて来る。なんでも東大のときの先輩かなにかだという。こっちはもう出来上がってしまったよ。勘定は習慣で私が払ってしまった。

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
社長を辞めて出勤時間を遅くしてもらった。社長のときは9時前に出社するようにしていたが、グリーン車を使っていた。費用は会社持ちである。出勤時間を遅くしたら普通車でも座れるようになったので原則、グリーン車は使っていない。通勤時間の使い方だが、朝は日経新聞を読み帰りは単行本を読んでいることが多い。深酒したときは別ですが。さて今日は帰りの電車で読む本がないことに気付いた。家に帰れば読む本はあるのだが、こういう場合は本屋によって文庫本を購入する。厚い本、内容の難しいものは敬遠する。虎ノ門の虎ノ門書房に入り文庫本を物色する。このところ凝っている桜木紫乃の「ワン・モア」(角川文庫 平成27年1月 2011年11月に単行本)を買う。安楽死事件を起こして離島に飛ばされた女医の美和が、高校の同級生でやはり女医の鈴音に懇願されて鈴音の医院に赴任する。鈴音は末期がんの宣告を受けていたのだ。舞台はやはり道東。桜木紫乃の小説は基本的にはウエットだと思う。人情ものと言ってよいのではないか。道東の乾いた風土との調和が何とも言えない魅力になっていると思う。

2月某日
奈良の天理市のNPO法人つむぎを訪ねる仕事があったので京都で阿曽沼さんに会うことにする。阿曽沼さんは元厚生労働次官で、今は京都大学の理事。京都には私が脳出血で船橋リハビリテーション病院に入院していたときの主治医、澤田先生が京都府立医大にいるので一緒に会うことにする。澤田先生は現在、京都府立医大のリハビリテーション学科で教えているので阿曽沼さんは京都府立医大近くの徳寿(のりひさ)という和食の店を予約してくれた。阿曽沼さんと始めていると澤田先生が来る。澤田先生は当直医のバイトがあるとかでノンアルコールビール。元厚生官僚とドクターということもあって共通の話題も多く(私は官僚でもドクターでもないが)、翌日、澤田先生から「楽しい時間をありがとうございました。楽しすぎてトイレに行く時間ももったいないくらいでした」というメールが来ていた。阿曽沼さんにご馳走様でした。

2月某日
京都から近鉄で天理へ。セルフケアネットワークの高本代表と1時30分に改札で待ち合わせ。時間があるので前にテレビで見た「天理スタミナラーメン」を食べに行くことにする。700円の普通盛りを頼む。確かにおいしいが年寄り向きとは言えないね。天理本通りをぶらぶらする。古本屋で半藤一利の「ノモンハンの夏」を160円で購入。定価は590円である。高本さんと合流してNPO法人つむぎへ。つむぎでは「40歳からの介護研修」についていろいろと教えを乞う。この事業所はICTで事務管理部門を徹底して合理化する一方、職員の労働の密度の最適化を図り、コストを圧縮している。感心した。天理から京都へ。高本代表は東京へ帰り、私は「わがやネット」の児玉さんたちと会いに名古屋へ。

2月某日
Apple銀座で介護事業者向け経営支援サービス「カイポケ」についてのトークイベントが開催されるというので健康生きがい財団の大谷常務と聞きに行く。スピーカーはデイサービスを経営している(株)グレートフルの岩崎英治代表取締役、NPO法人Ubdobeの中浜崇之理事とエス・エム・エスの介護事業支援部の藤田和大グループ長、モデレータはフリーアナウンサーサーの町亞聖さん。天理のNPO法人つむぎの話を聞いたばかりだったので非常に面白かった。月末、月初の介護報酬の請求事務が大幅に省力化されたこと、送迎の経路を「カイポケ」でシステム化したことなど参考になった。省力化された時間で職員と職員の家族との食事会を開催したり子ども食堂を始めたりと職員や地域に還元しているのもさすがですね。終わってから大谷さん、東京福祉専門学校の白井副校長、撮影に協力してくれた横溝君、SCNの高本代表、当社の迫田と丸の内北口の「ヴァンドゥヴィ」で食事。

2月某日
立川のNPO法人やわらぎの事務所で「児童虐待防止パンフ」の打合せ。石川代表と絵を描いた成川君、やわらぎの楮さん、フリーの編集者の浜尾さんが集まる。事務所近くの蕎麦屋さんでお昼をご馳走になる。石川代表にトークイベントの話をすると的確な反応が返ってきた。石川さんは介護の事業で業務の標準化の必要性に早くから気付いていた人だ。ロボットにも興味を持っており産総研の委員もやっているそうだ。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
常磐線の亀有駅前の古本もエロ本も売っている小さな新刊書店で買った、「隅田川の向う側-私の昭和史」(半藤一利 ちくま文庫 2013年5月 単行本は2009年3月創元社)を読む。半藤は1930年、東京生まれ。東大文学部卒業後、文芸春秋社入社、「週刊文春」「文芸春秋」編集長、専務を歴任したエリートなのだが、現在は「歴史探偵」を名乗る作家、エッセイストとして知られる。本書は、半藤が文芸春秋の現役編集者のころ、旧暦の正月に豆本形式で知人に送り届けた年賀状がもとになっている。昭和57(1982)年、58年、59年の3か年で、それぞれが空襲下の東京向島を描く第1章「隅田川の向う側」、旧制長岡中学時代の第2章「わが雪国の春」、高校・大学でのボート部の青春を描く第3章「隅田川の上」となっている。随所に挿入されている著者のスケッチ、版画も楽しい。中味は読んでのお楽しみとしておくが、この本を買ったエロ本も古本も売っている小さな書店も「隅田川の向う側」であり、この本だけでなく地元を撮った写真集や郷土史の本を集めたコーナーがあった。店主の見識であろう。正確にいうと亀有は隅田川のもう一つ先の荒川の向う側であり、江戸川の手前なんだけどね。

2月某日
第一生命の営業ウーマンの本間民子さんが神田駅北口の嘉徳園でご馳走してくれるという。当社の石津さんとたまたま当社に来ていた健康生きがい財団の大谷常務とご馳走になる。火鍋がメインの中華料理の店で大変、美味しかった。しかし大谷さんがスパイスアレルギーであることを忘れていた。彼は辛い物を食べると汗が止めどもなく出てくるのである。「せっかくだから」と大谷さんにもすすめる。汗をかきかき食べていた。

2月某日
田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」(角川文庫 昭和62年1月初版)を図書館で借りて読む。表題作を含め9作の短編が収められている。何年か前に読んだことがあるが、表題作以外内容はほとんど覚えていない。今回読んでわかったが、この短編集に通底するのは「性愛」である。山武羅紗の事務員、以和子はお茶の習い事で知り合った大庭と恋仲になる。濡れ場の描写が上品でエロティック。「男の手で、宿の浴衣の紐を解かれるときは、以和子はいつも(初めて!)の動悸を感ずる。自分でも何をしているかわからずに、大庭の手首を抑えて、その動きを押しとどめようとしている。それにはかまわず…」という感じである。

2月某日
「政治が危ない」(御厨貴 芹川洋一 日本経済新聞出版社 2016年11月)を図書館で借りて読む。御厨と芹川は東大法学部で同じゼミで鍛えられた仲という。御厨は東大法学部の教授となり現在は青山学院大学の特任教授。芹川は日本経済新聞の記者となり現在は論説主幹。対談集なので「深み」は求むべくもないが、随所に「なーるほどね」と思わせるところはある。第1章から3章の「菅官房長官は、官僚を知り尽くしている」「国をおかしくした鳩菅政権」「中堅は自民党より人材豊富な民進党」「公募候補は高学歴でイケメンだが、挨拶ができない」「憲法9条は日本の国体である」などだが、私が深く同感したのは、第4章の御厨の、政治はベルリンの壁の崩壊以前は、西か東か、親米か親ソかなど、他律的に規定されるものであったが、1990年代に入って宗教や民族などいろいろな問題が世界で生まれてきた。イデオロギー的他律性がなくなったら、訳の分からない自己主張がどんどんおもてにでてくるようになった、という主張である。これからは私の主張でもあるのだが、今求められているのは他律ではなく自律=自立である。そのうえで社会に対して緊張感をもって対峙していくということではなかろうか。まぁ私が実践できているというわけではないですが。