モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
訪問看護ステーション「バリアン」の川越博美さんを招いてセルフケア・ネットワークが「在宅看取り」の講演会をやるというので、九段下の千代田区の高齢者センターまで聞きに行く。川越さんは私と同じような年恰好。全然偉ぶったところがなく、話もたいへん分かりやすかった。「本当に偉い人は偉ぶらない」「本当に賢い人は難しい話を易しく話す」というかねってよりの私の「理論」が立証された。

5月某日
ケアセンターやわらぎの石川はるえ代表と「児童虐待パンフレット」の件で厚生労働省雇用均等・児童家庭局の山本麻里審議官を訪問。神ノ田母子保健課長と竹内虐待防止推進室長も同席。(児童相談所などで)明らかになる児童虐待も問題だが、アンダーテーブルで行われている児童虐待も深刻という認識では一致した。ついで内閣府の「まち・ひと創生本部」の唐沢さんを訪問、唐沢さんは1時間近く話を聞いてくれたうえ、適切なアドバイスもしてくれた。

5月某日
図書館でリエストしておいた「春に散る(上)」(沢木耕太郎 朝日新聞出版 2017年1月)を読む。朝日新聞連載中から評判だったらしいが、確かに大変面白く2日ほどで単行本240ページ余りを読んでしまった。下巻のリクエストはまだ届いていないので、ストーリーを忘れないために記しておこう。広岡は元プロボクサー。日本タイトル戦を明らかなミスジャッジで敗れ、アメリカでボクシングに挑む。しかし世界の壁は厚く、食べるためにホテルへ就職、ホテルマンとしては成功して何棟かのホテルを経営するまでになるが、心臓発作を起こしたことをきっかけに40年ぶりで日本に帰国することにする。日本で所属していた真拳ジムを訪れると、亡くなった会長の娘、令子が会長としてジムを経営していた。令子と広岡の間にはかつて恋愛感情のようなものがあったことが暗示される。
真拳ジムには広岡を含め、誰が世界チャンピオンになってもおかしくないと周囲から言われていた4人組、四天王がいた。四天王の一人は傷害事件を起こして山梨の刑務所に、もう一人は郷里の酒田市でボクシングジムを経営していたが失敗し酒田の郊外に逼塞していた。最後の一人は横浜で小料理屋を経営していた恋女房を亡くしたばかりだった。広岡はかつての四天王が真拳ジムで合宿生活を送ったように再び4人で暮らすことを決意する。家を探すなど何かと面倒を見てくれるのが不動産屋の女事務員、土井佳菜子。彼女にも普通ではない過去があることが暗示される。4人が共同生活を始め、お祝いに佳菜子を交えて街に繰り出す。チンピラに絡まれ、プロボクサーのライセンスを持っているらしい一人を広岡は殴り倒す。殴り倒された青年をタクシーに乗せて病院へ送るところで上巻は終わる。

5月某日
高橋源一郎の「僕らの民主主義なんだぜ」(朝日選書)が面白かったので、図書館で高橋の本を検索する。「吉本隆明がぼくたちに遺したもの」(加藤典洋・高橋源一郎 岩波書店 2013年5月)を借りることにする。加藤典洋は1948年生まれ、高橋源一郎は1951年生まれで団塊の世代。私と同じで吉本には大きな影響を受けた世代だ。私が影響を受けた吉本の著作は、「擬制の終焉」「芸術的抵抗と挫折」「自立の思想的拠点」などで、情勢論や転向論が主で、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論序説」などは確か買うことは買ったが、理解できなかった。学生運動に敗北し転向を余儀なくされた私にとって、かれの既成の権威からの自立の訴えや非転向それ自体には積極的価値を認めない転向論はひとつの救いだったかもしれない。この本には高橋と加藤の講演と対談が収められているが、思想家・吉本隆明の業績がある必然性を持って展開されていることがおぼろげながら理解できた。また晩年の吉本がオウム真理教の教義や原発の存在にも理解を示したことについても、その意味が一定程度理解できたと感じられる。吉本はまぎれもなく戦後最大の思想家のひとりだが、その思想的射程は時間的には戦前、中世、古代までにも遡る。本書で旧約聖書の「ヨブ記」についての吉本の論考や「アフリカ的段階」への考察を通じて、その思考は「先端と始原」にまで及んでいたことを明らかにする。

5月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の講師依頼で厚労省へ社保研ティラーレの佐藤社長に同行。老健局の三浦明振興課長からは講演のテーマ等についてアドバイスを頂く。聞けば昔、介護報酬の改定で社会保険研究所にはよく出向いていたらしい。昔は診療報酬や介護報酬の改定作業を社会保険研究所の分室でやっていたことがあって、通称「タコ部屋」と呼んでいた。まぁ昔の話ではあるが。前回の講師である社会保障担当参事官室の度山室長に写真を届けた後、次回の講師の野崎政策企画官、内山障害福祉課長に挨拶。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
「心に龍をちりばめて」(白石一文 新潮文庫 平成22年1月)を読む。ヒロインの小柳美帆は医者の娘で誰もが振り返るような美人、お茶の水女子大を卒業後、イギリスに短期留学した後フードライターとして年収2000万円を稼ぐ。恋人は東大法学部卒業後、共同通信社に入社、保守党から国政への進出を目指す。こう書くと嫌味なカップルと言わざるを得ない。しかしこれは美帆の抱えるもう一つの現実を際立たせるための小説上のテクニックだ。美帆のもう一つの現実とは、孤児として医者の家で育てられ、幼馴染で弟の命の恩人の仲間優司は、「俺は、小柳のためならいつでも死んでやる」と美帆に言うが、福岡でヤクザとなっていた。恋人の子を妊娠した美帆は恋人と別れ、優司とドライブの最中、優司に恨みを抱くヤクザに襲われる。こう粗筋をたどると典型的な通俗小説にしか見えないし、事実これは通俗小説である。しかし私は大変、面白く読んだ。多分、これは読者と作者の「相性」の問題と思う。

5月某日
「キャンセルされた街の案内」(吉田修一 新潮社 2009年8月)を図書館から借りて読む。エアメールを模した表紙がお洒落だ。帯には「デビューから『悪人』までの、そのすべてのエッセンスが詰め込まれた必読のマスターピース」とあるけれど、私には全10編のうちほとんどが印象に残らなかった。唯一、表題作に奇妙な印象が残った。故郷の長崎から風来坊の兄が上京し「ぼく」の部屋に居候する。「ぼく」は別れた恋人の母親に可愛がられ、母親の家に入り浸る。「ぼく」は船会社に勤務の傍ら私小説を書いているのだが、現在とその私小説と故郷の軍艦島の思い出が交差する。短編ならばこういうちょっと複雑なストーリーが最近の私は好みのようだ。

5月某日
会社の帰りに上野駅構内の本屋「ブックエクスプレス」に寄って、本を眺めていたら元年住協の林弘幸さんから携帯に電話。今、神田にいるということなので「ブックエクスプレス」で待ち合わせ。林さんは新松戸に住んでいるので新松戸で吞むことにする。市松戸の駅近くの「GUI吞み」に行く。ここは新横綱の稀勢の里の写真とサインが飾ってある。林さんによると稀勢の里の所属する部屋(田子の浦部屋)が以前、松戸にあり、その関係で力士が顔を出していたことがあるという。稀勢の里は今でも年に何回かこの店に来るそうだ。林さんは3月で前の会社も退職、今はフリー。定期のないのがつらいのと、昼食を自分で作ると麺類中心となり塩分が多めになるのが悩みと言っていた。なるほどね、参考になります。

5月某日
我孫子駅前の本屋で文庫本を物色していたら藤沢周平の「一茶」(文春文庫 2009年 単行本は1978年)が目についたので買う。以前は藤沢周平は好きでよく読んだがこのところご無沙汰だった。「一茶」はもちろん面白かったが、今回は藤沢の文章の巧みさに感心した。一茶は50を過ぎて江戸での生活を切り上げ故郷の信州に帰る。そこで思いもかけず嫁の話が持ち上がる。その話を聞いた後の文章である。「外に雪囲いがしてあるので、家の中は昼も薄ぐらく、出るまで気づかなかったが、外に出ると珍しく日が照っていた。大きな千切れ雲が、ゆっくり空を走っていて、二乃倉を出て野に出ると、雪の野は雲が走り去るとまぶしく日にかがやいた」。江戸期ならば老年であろう50過ぎ。その老爺に持ち上がった嫁取り話に沸き立つような喜びが伝わってくる風景描写である。一茶といえば子供や小動物に優しい俳人というイメージがあるが、藤沢の描く一茶は、前半生は俳諧師としてスポンサーの顔色を伺いながら句作に励む日々を送り、後半生は親の遺産を巡って親族と争い、嫁との間に設けた子供にも死なれ、ついには嫁とも死に別れるという我々のイメージを大きく裏切る一茶である。藤沢は故郷の師範学校を出た後教職に就くが、ほどなく結核に倒れ療養生活を余儀なくされる。教職への復帰はかなわずハム、ソーセージ業界の業界紙に就職する。私には藤沢が「思いならぬ人生」を一茶に託して描いたと思えるのである。

5月某日
図書館で借りた「『格差』の戦後史―階級社会、日本の履歴書」(橋本健二 河出書房新社 2009年10月)を読む。橋本は以前、「居酒屋ほろ酔い考現学」(毎日新聞社)を読んだことがことがあるが、本職の社会学の本を読むのは初めて。データを駆使して通説に切り込んでいく姿勢には好感が持てる。著者は「格差について語ることは、政治について語ることである」という。政治の最も基本的な機能は資源の再分配にあるからだ。今の自民党政権がその機能を十全に果たしているとは思えないが、野党の民進党にもその自覚があるとは思えない。日本の再分配が最も進んだのは戦中と戦争直後であろう。戦中は総力戦体制のもと「平等」が指向され、戦争直後は圧倒的なモノ不足から結果的に「平等」となった。資源を再分配するにも資源自体が不足していたからだ。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
HCM社で打合せ。終了後、大橋社長から「この後予定入ってますか?」と聞かれる。「何も」と答えると、「ご馳走しますから呑みに行きましょう」と誘われる。「清龍にしようか」と向かうと違う店になっていたので烏森口の縄暖簾に入る。私はホッピー、大橋社長は生ビールからウイスキーの水割り。いい気持ちになったところで烏森口の大橋社長行きつけのスナックへ。ここのママは最近まで明治生命の外務員とママを兼業していたらしい。頭の回転がよさそうだが、外務員としては押しが弱いかも。すっかり大橋社長にご馳走になってしまう。

5月某日
芝パークビルで開かれたシルバーサービス振興会の月例研究会に当社の酒井と参加。講師は一橋大学の猪飼周平教授でテーマは「地域包括ケア化はヘルスケアの生活モデル化―長期的トレンドに基づく支援観の変化「生活モデル化」による地域包括ケア」。いささか難解だったが、当日のレジメをパラパラめくっていたらおぼろげながら理解できた感じがする。「地域包括ケアの総括」では、地域包括ケアが浸透しない原因として「介護保険は様々な議論がありながらも素早く社会に浸透・根付いた」のに対して、地域包括ケアは「多くの自治体にとってはなぜ、地域包括ケアを展開しなければならないのか理由がわからず、積極的に取り組む姿勢になれない」としている。また「労働力人口の減少と財政逼迫に立ち向かう政策の必要性として「ロボット、自動運転、AI技術などによって労働生産性を上げること」「テクノロジーを最大限活用した先に人間にしかできない支援とは何かを今から考えておく必要」を上げていたが、これには共感するところが大きかった。それで肝心のなぜ生活モデルなのかについては、私の理解では「医療モデル」「社会保障モデル」では、援助が必要とされる人の複雑な全体像を把握することはできず、支援モデルが社会保障モデルから「生活モデル」へ移行しつつあるということ。講演を聞いた後、同じ芝パークビルにある企業年金連合会の足利聖治常務理事を訪問する。

5月某日
京大理事の阿曽沼さんからメールで東京出張とのこと。霞が関で仕事ということなので西新橋の「酒房 長谷川」を予約。約束の6時に行くと阿曽沼さんはすでに来ていてビールを吞んでいた。大学の理事というのも結構、大変らしい。まぁ私の今の立場からすると、「全ての人の仕事は大変!」と思ってしまう。私もビールにしてそのあとは日本酒をぬる燗で。阿曽沼さんにすっかりご馳走になる。新橋駅で阿曽沼さんと別れ、私は我孫子で「七輪」に寄る。

5月某日
健康生きがい財団の大谷常務に電話して神田明神下の「章太亭」で待ち合わせ。神田駅でばったりHCMの大橋社長に会ったので一緒に飲むことにする。ここでもビールの後、ぬる燗。大橋社長は忙しくて昼飯抜きで今日初めての食事だそうだ。大橋さんは「章太亭」は初めてだが気に入ってくれたようだ。ちょうど神田明神のお祭りで吞んでいる最中に、お神輿が近くの通りを通る。お店の人も客も神輿を見に行く。お店の女の人は神輿を担ぎだした。この辺りは「ご町内」が立派に機能していると感じた。地域包括ケアシステムの原型があると言えるのではないか。

5月某日
図書館で借りた「ぼくらの民主主義なんだぜ」(高橋源一郎 朝日選書 2015年5月)を読む。高橋源一郎の本は小説を含めて読んだことはない。高橋は1951年生まれ、横浜国大経済学部中退。読んで大変まともなことが書いてあり感心した。朝日新聞の論壇時評として2011年の4月から2015年の3月まで連載されたものがまとめられている。そうなのだ、本書は2011年の東日本大震災の直後から執筆が開始され、当然のことだが大震災や原発事故に対する論評が目立つ。それぞれの時評に高橋の思いが凝縮されている。そのなかでとくに最終章の「「知らない」から始まる」が私は好きだ。高校2年の夏休み、広島で出会ったヤクザの話から始まる。そのヤクザは慶応大学大学院でスタンダールを研究していたが親の家業を継ぐために広島に呼び戻された。広島のヤクザから話は「仁義なき戦い」と続き、そこで主人公のヤクザを演じた菅原文太へと進む。菅原は晩年、政治活動に踏み出し、「行動する知識人」とも見なされる。その菅原について「『知識人』になった後の菅原と、俳優・菅原文太との間に齟齬が感じられなかったは、彼が、演じることを通じて、自然に『知識』を、いや『知性』を身にまとっていったからなのかもしれない。そのことは、実はひどく難しいことなのだった」と述べている。

モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
「日本宗教史」(岩波新書 末木文美士 2006年4月)を図書館で借りて読む。宗教のことは真面目に考えたことがないので戸惑うことも多かったが、興味深く読めた。日本の場合、アニミズムを淵源とする神道に渡来した仏教が加わり、それが互いに混淆するという歴史がある。江戸時代、キリシタン禁教の徹底に仏教寺院の檀家制度が幕府に利用された。幕末から明治掛けて続々と登場した天理教や大本教などの新宗教の存在もユニークである。現代の日本において信仰を持っている人の割合は少ないと思われるが、強い信仰を持たないこそ、天皇制や葬式仏教の問題など日本人の精神に宗教の与える影響は強いものがあるだろう。

4月某日
土曜日だけど「40歳からの介護研修」キックオフミーティングに参加。会場は中央区新川のSCNの高本代表のマンションの集会室。「40歳からの介護研修」を企画・立案したアイネットの中川裕晴代表取締役、山本博美NPO法人つむぎ理事長その他も奈良県の天理市から参加、中川さんから概要の説明を受けた。江利川毅元厚生労働次官(確か介護保険法が成立したときの担当審議官だった)、江利川さんと厚生省入省同期の川邉さんも参加してくれた。キックオフミーティング後、近くのキリンシティで懇親会。懇親会中にネオユニットの土方さんの携帯に映像担当の横溝君から電話。土方さん、横溝君、HCMの大橋さんと私の4人で神田の葡萄舎で吞む。

4月某日
日曜日、カイポケフェスタ2017東京に参加。講演会では2018年の診療報酬と介護報酬のダブル改定へ向けた介護事業所の具体的な取組を聞けた。総じて登壇した経営者は介護保険の将来について楽観的な見通しは持っていないといってよい。介護報酬は切り下げられ、支給範囲は狭められるだろうという見通しだ。その中で管理部門のICT化やAIやロボットの導入は不可避という考えだ。私もまったく同感。会場の品川から東京‐上野ラインで我孫子へ直帰、駅前の「七輪」へ寄る。

4月某日
南阿佐ヶ谷の新しい「ケアセンターやわらぎ」の事務所で「虐待防止パンフレット」の打合せ。石川代表、原画を描く生川君、フリーの編集者の浜尾さんと私の4人。5時に打合せが終わって石川さんが「角打ちに行こう」というのでついていくことにする。角打ちとは酒屋さんでお酒を吞ませることを言う。昔は多くの酒屋さんでやっていたと思うが、今は希少価値。コップ酒を買って燗をする場合は自分でレンジでチンをする。ここの角打ちはお寿司屋さんが寿司を握ってくれるところがすごい。その寿司がまた絶品だった。6時半に角打ちを出て私は西荻窪に向かう。西荻窪には兄夫婦が住んでいて改札に迎えに来てくれていた。駅近くの居酒屋で近況を話す。私が最近、辻原登が面白いと言ったら兄も「俺もそうなんだ」。ちょっとびっくり。小説の好みも兄弟で似るのかな。

4月某日
その辻原登の「円朝芝居噺 夫婦幽霊」(講談社文庫 2010年3月)を読む。冒頭は鏑木清方の傑作「三遊亭円朝像」の話から始まり、円朝の噺の多くが速記本として販売され人気を呼んだこと、日本における速記の成り立ちと普及へと話は続く。そして作者である私が速記に興味を持ったいきさつが紹介される。作者は反故同然に保管されていた円朝の噺の速記録を入手し、その速記録に基づく「夫婦幽霊」の噺が延々と続く。「延々」と書いてしまったが、この噺自体が推理仕立てにもなっていてはなはだ面白い。最後に実はこの速記録は円朝の噺の速記ではなく…と真実(あくまでも小説上の真実)が明かされるというストーリー。辻原登は巧みだ。

4月某日
HCM社で大橋社長とネオユニットの土方さんと「胃ろう・吸引等シミュレータ」の販売会議。SNSの活用や記者発表の必要性を議論。終わってから新橋の北海道料理の居酒屋「うおや一丁」で吞む。土方さんが開発したシミュレータの販売をひょんなことから手伝うようになったのは4~5年前、当社の大前さんがまだ元気だったころだ。大前さんが亡くなって販売をHCMに移して2~3年になる。当初は殆ど売れなかったのだが昨年暮れにホームページをリニューアルしたころから徐々に売れ始めてきている。介護職の医療行為の一部解禁も追い風になっていると思う。開発者の土方さんも大橋さん、私も医療については門外漢、それでもなんとかやってきた。

4月某日
図書館で借りた「1941 決意なき開戦 現代日本の起源」(堀田江理 人文書院 2016年6月)を読む。A5判400ページの大著だが開戦に至る日本の指導者層、それも政府、陸海の軍部、枢密院、宮中に至るまで、の動きを克明にたどるだけでなく永井荷風の日記をはじめ、当時の日記や書簡類にも丹念に目を通し、指導者層だけでなく市民や知識人がすでに始まっていた日中戦争や次第に窮屈になりつつある日常生活をどう感じていたかを記す。本書を読むまでの私の太平洋戦争に対する認識は、軍部とくに陸軍の独走に近衛文麿はじめ指導者層が引きずられた結果、開戦に至ったという単純なものだった。しかし本書を読むと何よりも戦前の日本は、ナチスドイツのような独裁国家とは言えず、大政翼賛会によって議会政治は弱体化していたもの、戦争に向けての意思決定は首相、主要大臣、陸海軍の参謀総長と軍令部総長、企画院総裁、枢密院議長が出席し天皇も臨席する御前会議を経て決められていたということがそれとわかる。国家の指導者たる出席メンバーの多くは日米開戦には否定的であった。にもかかわらず日本は開戦の道を選び、広島、長崎への原爆投下をはじめ、膨大な人的、物的な被害を被る。
このような悲劇は我々に多くの教訓をもたらしたはずである。現在、その教訓は正しく生かされているのだろうか?著者は「あとがき」で「開戦前夜における政策決定にまつわる諸問題は、我々にとって他人事ではなく、敗戦を経ても克服することができなかった負の遺産だとも言えるだろう。そのことはごく最近では、福島原発事故や新国立劇場建設問題に至る道のり、およびその事後処理における一連の経緯が明確にしている。より多くの人々に影響を及ぼす決断を下す立場の指導者層で、当事者意識や責任意識が欠如する様相は、あまりにも75年以上前のそれと酷似している」と警鐘を鳴らしている。ところで著者の堀田江理という人の著作を読むのは初めてだが歴史学者としてまた著述家として並々ならぬ力量を感じさせる。1994年、プリンストン大学歴史学部卒業というからまだ40歳台と思われる。もともと本書は英文で発表されたものを著者自ら日本語に訳したものという。すごいですね。