モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
プレスセンターでの「虎ノ門フォーラム(医療福祉政策研究フォーラム)」に参加。定刻の6時半に少し遅れたので国土交通省住宅局の伊藤明子審議官の「新しい住宅のセーフティーネット」の講演はすでに始まっていた。労働力人口が増大し経済も急成長を遂げていた時期と、現在のように労働力人口は減少し経済も低成長しか期待できない時期とでは、おのずと住宅政策の目指す方向性は違ってくる。戦後の住宅政策は住宅金融公庫の低利融資を中心とする持ち家政策と低所得者向けの公営住宅政策が主として担ってきた。しかし1世帯1住宅が実現し空き家が急増するという現実の前に住宅政策は大きな転換を余儀なくされえる。住宅金融機構は住宅支援機構に組織変更し持ち家融資からは撤退した。賃貸住宅政策も地方公共団体が直接供給し管理する公営住宅オンリーから特定優良賃貸住宅の認定による民間活用やサービス付き高齢者住宅やセーフティネット住宅の登録による民間支援へとその幅を大きく広げつつある。そこら辺を伊藤審議官は実に歯切れよく話す。大したものである。虎ノ門フォーラムが終わった後、結核予防会の竹下専務、高齢者住宅財団の落合部長、記録映画の制作会社の佐藤千久枝さん、当社の酒井と飲みに行く。

6月某日
会社を休んで上野動物園へ。ウイークデイだが動物園は家族連れで大賑わいだった。上野動物園から会社近くの千代田区立体育館のプールで水中ウォーキング。5時過ぎに「跳人」でブログの更新などで世話になっている李さんに合流。我孫子駅近くの「愛花に」よる。

6月某日
「寂しい丘で狩りをする」(辻原登 講談社 2014年3月)を読む。雨の日、タクシー乗り場には長蛇の列。タクシーへの相乗りを許した男は強姦目的だった。男は逮捕され実刑判決を受けて下獄する。男は服役後、被害者女性への復讐を誓い付け狙う。女性は女性探偵に身辺の警戒を依頼する。実は女性探偵も別れた男からの執拗なストーカー行為に悩まされている。一種の犯罪小説だが、女性被害者も女性探偵もとても魅力的に描かれているように思う。

6月某日
セルフケア・ネットワークの「グリーフケア勉強会」に参加。関西学院大学人間福祉学部の坂口幸弘先生の講演を聞く。「相手の思いを尊重する」ことがグリーフケアの基本ということではないかと思う。先生は川本三郎の「いまも、君を思う」から、豆腐屋のおかみさんに「最近、奥さん見ないけど」と聞かれ「6月に亡くなりました」と答えると「おかみさんは、頭にかぶっていた手拭いをとって深々と頭を下げてくれた。私の知らなかった家内がいる。近所の人に親しく記憶されている。そのことがうれしかった」を引用、「生物学的な死≠社会的な死」で「故人は生きている」と言う。川本三郎のエッセーは好きなので少しうれしかった。勉強会の後に先生を交えて食事会。先生を送った後、神保町のイタリアレストランで二次会。社会保険出版社の高本社長にごちそうになる。

6月某日
「無名鬼の妻」(山口弘子 作品社 2017年3月)を読む。「無名鬼」とは思想家で小説家、歌人でもあった村上一郎の個人誌のタイトルである。村上一郎は私の学生時代は独特の存在感を持った思想家だった。1970年11月25日、作家の三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊で隊員に決起を促すも容れられず、「盾の会」の森田必勝と自刃する。私はこのとき早稲田の3年生、確か食堂のテレビの速報でこのことを知り、そのころ付き合っていた女子大生(今の奥さん)と市ヶ谷に駆け付けた。もちろん基地内には入れなかったのだが、そのとき村上一郎が基地の歩哨と何か交渉をしているのを目撃している。村上一郎は1975年に自殺している。本書は村上を支えた妻、「えみ子」からの聞き書きである。村上は海軍大尉で戦争を迎え、日本共産党に入党レッドパージに会い職を失う。えみ子さんが会社員や内職をしながら、躁と鬱を繰り返す夫の文筆を支えたことが分かる。それにしても今の若い人には吉本隆明はともかく村上や桶谷秀昭は遠い人なんだろうな。

6月某日
「音楽運動療法研究会」に参加。今回は認定音楽療法士の丸山ひろ子さんから「音楽療法」についてのレクチャーを受ける。また関係者へのアンケート調査も実施することになっているが、その前に音楽療法を実際に行っている現場を見てみたいと提案、了承される。

モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
我孫子駅前の東武ブックスで買った「そこへ行くな」(井上荒野 集英社文庫 2014年7月)を読む。井上荒野の小説は割と好きで読んでいる。でもこの短編集はどう要約したらいいのだろうか。フランス文学者の鹿島茂が巧みに解説している。鹿島は都市に住む私たちは「匿名性の原則」に支配されているという。そして本書は「この匿名性の原則が支配する都市のそれぞれの場所において、なにかしらのきっかけで匿名性の原則を破ってしまった人々を描いている点にある」という。一番最後に収められている「病院」は同じクラスで無視されいじめの対象となっている少女「泉」と「僕」との交情が描かれている。この頃の子供たちの「無視」や「いじめ」は匿名性の最たるものである。しかし「僕」はその匿名性の原則を破って泉と交流を深める。鹿島は「いずれの短編も、匿名性を原則とする都市と、有名性を原則とする小集団(家族はその最小単位だ)が接する臨海面で物語が紡ぎ出されている名編ぞろいである」とする。なるほどねぇ。鹿島に座布団一枚!

6月某日
図書館で借りた藤沢周平の「闇の歯車」(講談社文庫 2005年1月を読む。巻末の解説(磯貝勝太郎)によると、この小説は昭和51年(1976年)9月、「別冊小説現代」(新秋号)に掲載されている。同じく巻末の年譜によると藤沢は1927年、今の山形県鶴岡市に生まれ、1942年国民学校高等科を卒業し鶴岡中学夜間部に入学。山形師範に進学し1949年22歳のとき県内の中学校に赴任する。24歳のとき肺結核により療養生活に入る。1957年療養生活を終え上京し2、3の業界紙を転々とする。1960年日本食品経済社に入社、以後14年数ヵ月同社に勤め、日本加工食品新聞の編集に携わる。1971年、オール読物新人賞を受賞、1973年、46歳のとき直木賞を「暗殺の年輪」で受賞、1974年、日本食品経済社を退社する。長々と藤沢の経歴を書いたが、ひとつは戦前戦中期の「学歴形成」について考えてみたかったからである。
成績優秀で家の暮らしにゆとりがある小学生は旧制中学(5年制)に進学し、さらに上の旧制高校、大学へと進むものもいた。旧制中学に進ませるゆとりがない家庭の子弟は高等小学校(3年制)に進学し、成績優秀であれば商業学校、工業学校、あるいは師範学校へと進学した。藤沢の場合は夜間の中学を出た後に師範学校へ進学した。商業学校、工業学校の上は高等商業、高等工業で、その上は東京商大(今の一橋大)、東京工大であり、師範学校の上は高等師範、東京文理科大学(戦後、東京教育大のちの筑波大学)であった。ちなみに吉本隆明は東京下町の高等小学校、工業学校を卒業後、米沢高専で終戦を迎え、東京工業大学へ進学した。戦前の教育制度は戦後の6・3・3制に比較すると「複線」であったように思うし、貧しくとも成績優秀であれば、進学の途が不十分とはいえ用意されていた。
もうひとつ考えてみたいのは業界紙という選択肢である。藤沢の場合、年齢も30歳を過ぎ結核という病歴があれば業界紙という限られた選択肢しか残されていなかったといえる。私の場合は学生運動で、公務執行妨害、傷害、現住建造物放火等々の罪名で逮捕、起訴された前歴があり、まぁ業界紙(日本木工新聞)という選択肢しかなかったように思う。私が藤沢の小説に共感を抱くのはそんなところにも一因があるかもしれない。
「闇の歯車」は1976年、別冊小説現代に「狐はたそがれに踊る」というタイトルで発表された。門前仲町を過ぎて蜆川に沿って右に折れると一軒の飲み屋がある。その常連で恐喝まがいで暮らしをしのいでいる、佐之助が物語の主人公である。同じく常連の駆け落ちして主家を離れ病妻を抱えた浪人、縁談が持ち上がっているが年上の情婦と別れられない商家の若旦那、若いころ刃傷沙汰を起こし30年の江戸払いから帰って娘の嫁ぎ先に居候している老爺、佐之助を含めたこの4人の常連に「押し込み強盗」の誘いがかかる。押し込みには成功するものの思わぬところから露見してしまう。「闇の歯車」によって庶民は動かされ、押しつぶされていく者もいるのだが、藤沢の小説はそこに一筋の光明、救いを見出す。

6月某日
「ケア・センターやわらぎ」で「命すこやかプロジェクト」の打合せ。代表理事の石川さん、画家の生川さん、フリーの編集者の浜尾さんが参加、引き続き「やわらぎ」の小島さんが参加して「やわらぎ」30周年、「にんじん」20周年の写真集の打合せ。終わって生川さんが三重の日本酒を差し入れてくれたので、それで乾杯。4合瓶を吞み終わって5時を過ぎたので近くの寿司屋で石川さんにご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「へるぱ!」の取材でドクターの川島実さん(42歳)インタビュー。川島さんは東大寺学園から京大医学部へ進学、大学1年からボクシングを始める。23歳でプロデビューし29歳で引退し、戦績は9勝5敗1引き分け。医師として徳洲会病院の沖縄や山形県の荘内で救急医療の現場を担うが、その間に漢方医学やコメ作りにも挑戦。2011年の東日本大震災のときは医療ボランティアとして宮城県気仙沼市へ。その後、気仙沼市の市立病院の院長に。現在は本拠地を地元、奈良市に置きフリーランスのドクターとして複数の病院を掛け持ちしつつ、月に6日は被災地へ。今回のインタビューも気仙沼から奈良に帰る途中、東京駅近くでのインタビューとなった。川島さんは坊主頭に作務衣姿でインタビュー会場に現れた。東大寺学園の先輩の誘いで華厳宗に得度、在家の僧侶でもあるのだ。現役で京大医学部に合格しプロボクサーとしてデビューし、医師として被災地に向き合い、コメ作りに精進する。「なんだかバラバラの人生だな?」というこちらの疑問を見透かしたように、「すべてのことに意味があり、すべてのことには無駄がありません」と川島さん。参りました。

6月某日
「源義経―伝説に生きる英雄(新訂版)」(関幸彦 清水書院 2017年)を読む。巻末の「「新訂版」によせて」によると、初版から30年経過しているそうだが、そうした古さは全く感じられなかった。義経の生涯を史実に基づいて描くとすると「吾妻鏡」「玉葉」というきわめて限られた資料に頼らざるを得ない。室町期に成立されたとされる「義経記」にしても英雄伝説として生涯が物語られている。史実と伝説のバランスのとれた叙述が本書を成功させている。著者は一の谷から壇ノ浦に至る破天荒とも言える作戦は、「将たる器に根ざした行動とは必ずしも言えない」とする。義経は政治家としても戦術家としても“未完”であったとする著者の分析には説得力がある。

6月某日
四谷の弘済会館で開かれた「潮谷義子先生、河幹夫先生感謝会」に出席。土井康晴さん、小林和弘さん、山崎康彦先生、白石順一さんなど懐かしい顔に出会うことができたしアットホームないい会だった。潮谷さんは福祉の世界から熊本県の副知事に登用され、知事の突然の死去により知事に担ぎ出された。帰りにいただいた「潮谷義子聞き書き 命を愛する」(西日本新聞社 一瀬文彦 2017年6月)にその辺のことも詳しく述べられている。「金太郎」とあだ名された腕白お転婆少女時代、夫となる人と出会った社会事業大学、自治体の職員、社会福祉法人の経営者、知事としての日常が飾らない人柄そままに語られる。知事時代のハンセン病元患者宿泊拒否事件、川辺川ダム建設問題、水俣病への対応なども誠実な語り口で淡々と語られている。

6月某日
民介協の扇田専務に誘われて映画「ケアニン」の試写会を見に虎ノ門のニッショーホールに行く。この映画は介護福祉士の新人が小規模多機能施設に就職、元幼稚園教諭の介護、看取りを担当することで介護福祉士としても人間としても成長する過程を描いたもの。神奈川県で小規模多機能の「あおいけあ」を運営する加藤忠相さんが監修したことで介護業界では話題になっているらしい。認知症の利用者、働く職員、家族の不安や悩みが丁寧に描かれていると思った。同時に映画で描かれたよう利用者や家族に寄り添うケアが、普通の介護現場でなされているのだろうかという疑問も残った。でも認知症の人を抱える家族や介護事業所の経営者や職員には見てもらいたい映画と思う。

6月某日
「神去(かむさり)なあなあ日常」(三浦しをん 徳間文庫 2012年9月)を読む。高校の卒業式を迎えても進路が定まらない「俺」は高校の教師や両親の奨めで、三重県中西部の神去村に林業の研修生として赴任する。村人との交流や実際に林業に携わりながら成長していく「俺」の日常を三浦しおんはユーモラスに描く。まぁ一種のビルディングロマン(教養小説)である。昨日試写を観た映画「ケアニン」も新人介護福祉士が人間としても成長していく過程を描いており、その意味では同じジャンル。

6月某日
「アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの40年」(朝山実 角川書店 平成24年2月)を読む。連合赤軍事件を描いた長編マンガ「レッド」が話題になったことがあるが、「レッド」の作者、山本直樹に著者がインタビューしたのがこの本が生まれるきっかけになっている。連合赤軍事件後逮捕され実刑判決を受けた前澤寅義、加藤倫教、植垣康博、雪野建作の4人へのインタビューと山本直樹へのインタビュー(アエラでのインタビューに加筆)が収められている。私が感じたのは4人の革命への強い想いである。とくに京浜安保共闘出身の前澤、加藤、雪野にはそれを強く感じた。この3人に対して、植垣は弘前大学全共闘から赤軍派にオルグられたこともあって全共闘気質(よく言えば統一戦線重視気質、悪く言えばある種のいい加減さ)を残しているように感じられた。巻末に「少し長めの解説」を椎野礼仁が書いている。椎野さんは慶應大学のブンド戦旗派出身で今は編集者。10年ほど前に友人の友野君に紹介されたことがある。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
白梅大学の山路先生と、荒川区尾久の(株)介護ユーアイを訪問する。介護ユーアイの馬木社長も山路先生も、そして私も西武池袋線の江古田にあった国際学寮の出身。国際学寮というのは財団法人の「力行会」が運営する学生寮で、もともとは南米移民のための研修施設だったようだが、私が在籍していたころ(1970年から1972年3月)は学生運動の活動家や活動家OBも受け入れていた。私が入寮したころには山路先生はもう退寮していたが、毎日新聞で社会保障を担当しており、知り合って15年くらいになる。馬木社長とは国際学寮当時から仲良くしてもらった。その寮には色んな大学から入寮しており、例えば山路先生は慶應だし、馬木社長は上智、私は早稲田だ。その他、東大や東京教育大、東京外語大といった国立大生もいた。同じ寮にいた早稲田の戦旗派(ブント)だった森君が69年の4.28でパクられ、同房だった土方の親方、水野勝吉さんと知り合い、私も含めて国際学寮の何人かがアルバイトとして土方をやらせてもらった。私が69年の9月に早大の第2学生会館屋上で逮捕され、東京拘置所に送られたとき、水野さんから「自分も若かったら君たちと一緒にやりたい」というような「激励の手紙」をもらったことがある。今から50年近く前のことだが、そうしたことは覚えているものだ。
昔話になってしまったが、介護ユーアイは居宅介護支援、訪問事業所に加え、デイサービスを2か所運営している。その2か所のデイサービスを見学させてもらった。従業員がとても明るく、その「気分」が利用者に伝わるのか、雰囲気はとてもよかった。しかし介護ユーアイのような中小の事業所が生き延びるのは、介護報酬の引き下げなどを考えるとなかなか厳しいものがあると思わざるを得ない。智と情を備えた馬木社長ならできると思う。

6月某日
図書館で借りた「連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)」(山平重樹 徳間文庫 2011年2月)を読む。1972年2月、多くの人々がテレビの中継に釘付けとなった。連合赤軍の5人が軽井沢の山荘、あさま山荘に管理人夫人を人質にとって立てこもり、機動隊を相手に銃撃戦を展開していたからだ。5人が立てこもってから10日目、機動隊の強行突破により5人は逮捕された。今となっては信じられないことだが、私は当時、半ば本気で「日本でも本格的な武装闘争が始まるのか」と思ったものだった。だが、あさま山荘事件から数日たって私たちは衝撃的な報道に接することになる。連合赤軍のアジト「山岳ベース」で「総括」と称するリンチ殺人が行われていたことが明らかにされる。殺された中に横浜国大生の大槻節子がいた。前述したように69年の9月3日に私が早大の第2学生会館で逮捕されたとき、留置されたのは大森警察署であった。翌4日に1人の女子大生が留置所に送られてきた。愛知外相訪ソ阻止闘争で逮捕された大槻節子だった。留置所の金網越しではあったが楚々とした姿が目に焼き付いている。そんなこともあって「連合赤軍物語」は一気に読み通してしまった。読み終わってほかに連合赤軍関係の書物はないか図書館で検索すると「マイ・バック・ページ」(川本三郎 平凡社 2010年11月)が出てきたので借りることにする。
川本三郎は1944年生まれ、東大法学部卒業後、1969年朝日新聞社に入社、「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者として、当時の大学闘争の現場や三里塚闘争の取材を行うが、1972年1月、自衛隊朝霞基地の自衛官殺害事件に絡んで埼玉県警に「証憑湮滅」(しょうひょういんめつ)容疑で逮捕され、容疑事実を認めた段階で朝日新聞社を解雇される。川本三郎の評論、エッセーは割と好きで何冊か読んでいる。川本のたんたんとした文章に潜む「ある陰翳」に魅かれるのかもしれない。

6月某日
川村学園女子大学の食品科の福永先生は日本に帰化しているが台湾出身。福永先生が台湾の恩師と知人を我孫子に呼んでいるので「モリちゃんも来ないか?」と元厚労省の年金局長で川村学園の先生をやっている吉武さんから誘いの電話。吉武さんが車で迎えに来てくれてまず、我孫子の農家で市会議員をやっている日暮さんのお宅で福永先生一行と待ち合わせ。マイクロバスで福永先生たちが到着し日暮さんの農園を見学。都市近郊農家という特徴を活かして都内のレストランなどに出荷しているらしい。日暮という姓は珍しいが、我孫子では割と多い。日暮さんによると江戸時代の初めに九州から我孫子に来たらしい。
福永先生の同僚がワインやチーズなどを用意してくれたので日暮さんの軒先で軽く乾杯。その後、我孫子駅前のうなぎ屋で懇親会。台湾の若者の話が聞けて楽しかった。

モリちゃんの酒中日記 5月その4

5月某日
HCM社で「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレータ」の後続商品、「気管カニューレシミュレータ」の記者発表。シルバー新報の吉田記者が来てくれる。こちらはHCMの大橋社長とネオユニットの土方さん、開発時からいろいろとアドバイスをもらった看護師の大津さん。大津さんは現在、介護士の医療行為研修の講師をすることが多いので、講師という立場から「シミュレータ」が教えやすいと語ってくれた。記者発表が終わった後、映像やホームページで協力してくれている横溝君が来てくれたの飲みに行くことに。しかし私は先約があったので銀座8丁目の「久保田」へ。前日、「ケアセンターやわらぎ」の石川さんから「中村秀ちゃんと大橋さんと呑むことになっているので来ない?」というメールが届いた。大橋さんというのは社会事業大学の学長を務め、現在テクノエイド協会の理事長をやっている大橋建策先生のこと。私の中学時代の友人、奈良君に4~5年前に札幌で会ったとき、「大橋建策先生が札幌に来ると俺が運転手をするんだよ」と言っていた。そのことを大橋先生に話すと「奈良君?」と懐かしそうだった。「久保田」は蔵元の「久保田」の直営店のようで、日本酒もお料理もおいしかった。石川さんにすっかりご馳走になる。

5月某日
HCMの大橋さんに誘われて目黒の勤労福祉会館で卓球をやることに。当社の新人編集者の酒井も小学校時代の友人、花田さんと参加。4人で卓球台2台を借りたが結構、運動量は多い。私は休み休みやったんだけど少々バテ気味。帰りに目黒の「ガスト」で私と大橋さんはビールとハイボール、女性陣はスイーツを頼む。女性陣はこの後、神田明神に行くそうだ。若い人は馬力があるね。

5月某日
図書館で借りた「暗い時代の人々」(森まゆみ 亜紀書房 2017年5月)を読む。このタイトルはハンナ・アーレントの同名の作品にちなむということだが、森は「わたしが描こうとしたのも、戦前の日本で9人の人々が点した「ちらちらゆれる、かすかな光」である」(まえがき)と記している。9人とは粛軍、反軍演説で衆議院を除名された斎藤隆夫はじめ、山川菊栄、山本宣治、竹久夢二、九津見房子、京都で発行された反ファシズムの新聞「土曜日」の発行人、斎藤雷太郎とリベラル派の拠点となった喫茶店「フランソア」の経営者、立野正一、それに古在由重と文化学院の創始者、西村伊作である。森は早稲田の政経学部卒で私の後輩である。もちろん面識はないけれど。地域雑誌「谷根千」を主宰していたことでも知られる。集団的自衛権の容認や共謀罪も衆議院通過など安倍政権の強硬な政権運営手法が目立つ。森のような論調は貴重だ。

5月某日
図書館で借りた「山本周五郎で生きる悦びを知る」(福田和也 PHP新書 2016年3月)を読む。山本周五郎は20年ほど前によく読んだ。宮城県知事だった浅野史郎さんも周五郎を読んでいて「何が好き?」と聞かれて「虚空遍歴」と答え、浅野さんに「あんたも暗いねー」と言われたことを覚えている。周五郎はあらゆる文学賞を辞退したことは知られているが、この本の「あとがき」で皇室主催の園遊会にすら出席せず、「そんな時間はおれにはない。小説家には読者のために書く以外の時間はないはずだ」と語ったことが明らかにされている。福田はそんな周五郎を「取材以外は旅行に行くこともなく、ただ書き続け、呑み続け、仕事場で倒れ、63歳で逝った」(あとがき)と綴る。

5月某日
沢木耕太郎の「春に散る」(朝日新聞出版 2017年1月)の下巻を図書館で借りて読む。若いころに世界チャンピオンを目指して合宿生活を送った4人の老人が、1軒家を借りて共同生活を送るようになる。4人の1人で唯一、アメリカでホテル事業に成功した広岡がスポンサーだ。盛り場で広岡に殴り倒されたプロボクサーのライセンスを持つ翔吾が4人から指導を受けることになる。ともに共同生活を送るようになる不動産屋の女事務員、佳菜子は岐阜県の山奥で新興宗教の教祖にされ掛け、それから逃れた過去を持つ。広岡には心臓に持病がありニトログリセリンを常にポケットに忍ばせている。翔吾は世界選手権に挑み、世界チャンピオンの座に就くが片目に深刻なダメージを負う。翔吾はベルトを返上し、佳菜子とともにアメリカにわたりホテル事業につく決意を広岡に相談する。広岡は承諾し万一の時に備え、アメリカの事業の清算その他の資産についての遺言状の作成を終える。この小説はいろんなことを示唆している。例えば「老い」、例えば「友情」。私はしかし広岡が真拳ジムに入門が許されたときに会長が語った言葉が印象的だった。「ボクサーは無限に自由であると同時に、無限に孤独なんです。(中略)戦いに赴くボクサーは、未知の大海に海図も持たずに小舟で乗り出していく船乗りのようなものなんです。(中略)でも、それはボクサーだけのものじゃない。人間というものは本質的に無限に自由でいて無限に孤独なものなんだと私は思います」。無限に自由でいて無限に孤独。深く納得である。

5月某日
我孫子駅前の東武ブックスで買った田辺聖子の「朝ごはんぬき?」(新潮文庫 昭和54年12月 単行本は実業之日本社より51年9月)を読む。人気女流作家、秋本えりかの家に住み込むことになったハイミスの明田マリ子の目を通して人気作家とその周辺のドタバタ劇が描かれる。しかし田辺ファンの私としては不満が残った。田辺の小説の中には「ハイミスもの」がいくつもあるが、ユーモア小説の衣装をまとってはいてもその底流にはある種のペーソスが存在する。そのペーソス、日本語で言うと哀感、哀愁が不足していると思うのだ。本作には。

5月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いしている権丈善一慶應大学商学部教授と神田の「いく代寿司」で会食。社保研ティラーレの佐藤社長と社会保険研究所の飯島氏が同席。権丈先生は初対面だが、非常に話が合った(と私は思う)。現代の社会保障には救貧機能だけでなく防貧機能が非常に重要になっている。中間層を維持し分厚く形成させること、それなくして先進国では資本主義を維持できない、別の言い方をすれば人類はマーケットを手に入れたことで資本を増殖させることにも成功したし生産性を飛躍的に上げることも実現させた。市場化以前よりも圧倒的な富を獲得したわけである。その反面、市場から放り出される人々、脱落する人々が出てくる、これは市場のもう一つの現実である。そうした人々へのセーフティネットが社会保障ということができる。なんだか月並みになってしまったが、権丈先生に触発された「私の社会保障論」でした。