7月某日
2日間にわたった「第13回地方から考える社会保障フォーラム」が無事終了。「社会保障政策を立案する厚生労働省と、地方議員の橋渡しができれば」という想いから始めたのだが今では定員の55名に対して毎回、70名以上の参加申し込みがある。地方行政の花形は以前は道路や箱モノの建設といった公共工事関連だったが今は、高齢者問題を中心とした福祉に関心が移っているということだと思う。毎回、講師を務めて頂いている厚生労働省をはじめとした中央省庁の官僚の皆さんに深く感謝である。
7月某日
中村秀一さんが主宰する「医療介護福祉政策研究フォーラム」に参加。今回の講師は財務省の宇波弘貴総合政策課長。テーマは「財政からみた社会保障の現状と課題」。中村さんが保険局の企画課長のとき課長補佐で厚労省に出向していたというし、総合政策課長の前は主計局で厚生労働担当の主計官というからこのテーマを語るとしたらまさに適任。社会保障制度の持続可能性を担保するためには、①経済成長②財源の確保③社会保障費の伸びの抑制、が必要という論はまさに正当。しかし①はともかく②と③は国民の痛みを伴う改革が必要だ。ポピュリズムに傾斜する安倍政権、何でも反対の民進党、彼らに任せておいて大丈夫なのか!フォーラム終了後、結核予防会の竹下専務とプレスセンタービル地下の焼鳥屋「おか田」で吞む。
7月某日
ケアセンターやわらぎの石川さんと内閣府の唐沢剛さんを訪問。「にんしんSOS」の中島かおり代表理事が同行。児童虐待防止のための勉強会について相談。社会福祉法人にんじんの会の石川施設長、当社の酒井が同行。その足で石川さんと私と酒井は虎の門フォーラムの中村理事長を訪ねる。中村さんの新しい単行本「社会保障改革に伴走して」(仮タイトル)の打合せ。打合せ終了後、私と石川さんで虎ノ門の居酒屋へ。「赤まる 虎ノ門店」はタイガースファンの店。大型テレビが4台ほど設置してある。石川さんはタイガースファンということで店長とタイガースの話で盛り上がっていた。石川さんにご馳走になる。我孫子に帰って「愛花」に寄る。
7月某日
図書館で借りた「ヒトラーと第2次世界大戦」(三宅正樹 清水書院 2017年5月)を読む。これは1984年に刊行したものに加筆・修正を施して新訂版として復刊したものだが、基本的な論旨、考え方は変わっていない。アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアとドイツの国境の町、ブラウナウで生まれた。父はオーストリア‐ハンガリー帝国の国境の税関の官吏であった。ヒトラーは第1次世界大戦ではミュンヘンでドイツ軍に志願、兵長で敗戦を迎えている。敗戦直後の1919年9月、ミュンヘンの群小右翼政党のひとつに過ぎなかった「ドイツ労働者党」に入党する。やがて党名は「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチ党)とかえられ、1921年には党首となっている。1933年1月、ナチ党は議会の過半数は制していなかったが、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領から首相に指名される。ヒンデンブルグ大統領の死後、ヒトラーは「総統」(フューラー)に就任する。ヒトラーはアーリア人種の代表としてのドイツ民族が、ヨーロッパの東部に自己の生活空間(レーベンスラウム)をきずく権利を有することをくり返し「我が闘争」のなかで主張し、チェコスロバキアの解体、ポーランド分割、英仏への宣戦布告(第2次世界大戦)を通して実践される。
政権奪取後のヒトラーは、ナチ党と軍部の力を背景に独裁権力を強化する。しかしヒトラー暗殺計画が軍の一部で企てられるなど、その独裁権力は必ずしも盤石とは言えなかった。またヒトラーの世界戦略は、最終的には英仏を屈服とソ連の解体を目指したにせよ、西部戦線と東部戦線の2正面作戦に加えて、米国の参戦により破たんし、ドイツは敗北しヒトラーは自殺する。ヒトラーにとって日本を三国軍事同盟に参加させることは、ソ連をけん制する意味からも重要であった。日本では主に陸軍と近衛が三国同盟を推進した。海軍は省的な反対に止まり、三国同盟は締結され日本も対米英戦争に踏み切らざるを得なくなる。ドイツも日本にも開戦を踏みとどまるという選択肢は残っていたし、開戦後も和平の機会はいくつかあった。しかし結局は敗戦国の日本とドイツだけでなく戦勝国も多くの犠牲を払うこととなる。このような犠牲の上に現在の平和があるということを忘れてはならない。