モリちゃんの酒中日記 10月その2

10月某日
中村秀一さんを虎ノ門の事務所に訪問。現在制作中の単行本「ドキュメント 社会保障改革」の打ち合わせ。当社の酒井も同行。打ち合わせ後、神田で酒井と飲むことにする。神田駅東口の「北海道」へ。当社で総務・経理をやっている石津さんも遅れて参加。酒井は下戸だが、石津さんはビール、私はトウモロコシ焼酎をガンガン頼む。

10月某日
「明治維新 1958-1881」(坂野潤治+大野健一 講談社現代新書 2010年1月)を読む。第二次世界大戦後、韓国や台湾、シンガポールやマレーシアなどで急速に経済成長が進んだ。
これらの国では朴正煕、蒋介石、リークァンユー、マハティールらが権力を掌握し、その独裁的な権力を背景にして開発を進めた。これらの開発独裁のモデルが明治維新以降の日本であったという通説に異を唱えているのが本書である。坂野は日本の近代政治史専攻で東大の社研教授を長く務めた。60年安保のときは東大の院生で、樺美智子の先輩。私の記憶では駒場時代は日本共産党で、本郷ではブントの創設にもかかわったのではないかと思われる。大野は開発経済学、産業政策論が専門。新書版で230ページに満たない本だが中身は非常に濃い。明治維新以降の日本政治と政策は柔構造で担われたという見解を打ち出す。「国家目標と指導者の基本的な組み合わせ」という図版が挿入されている。大久保利通が「殖産興業」、西郷隆盛が「外征」、板垣退助が「議会設立」、木戸孝允が「憲法制定」という4極構造である。大久保と西郷が「富国強兵」で、西郷と板垣が「海外雄飛」で、板垣と木戸が「公議輿論」で、木戸と大久保が「内治優先」でそれぞれ連携している。この4極構造は西郷が西南戦争で敗死し、大久保が暗殺され、木戸が病死してからも基本的に続く。私の能力ではうまく要約できないが、坂野の本はもう少し読んでみたいと思う。

10月某日
「シャレのち曇り」(立川談四楼 ランダムハウス講談社文庫 2008年8月 単行本は1990年3月に文藝春秋から刊行)を読む。買った覚えはないのだけれど、家に積んでおいてあったので読んでみたら、面白くて止まらない。読み進んで行くとところどころに鉛筆で傍線が引いてある。こういう読み方をするのは友人のナベさんだ。多分、ナベさんが「面白いよ」と私にくれたのじゃないかな。ナベさんは車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」も推薦して貸してくれた。小説の「目利き」なのだ。談四楼が高校を卒業して立川談志のもとに入門したのが今から50年近く前の1970年。前座から二つ目、真打に至るまでの師匠と仲間と酒と女を巡る話である。談四楼の本も少し読んでみたいと思う。

10月某日
新宿でクラブ「ジャックの豆の木」の店長をしていた三輪さんは、奥さんの実家のある鹿児島に帰っているが、ときどき東京に出てくる。本日は会社向かいの鎌倉橋ビルの地下にある「跳人」で会食。三輪さんは東京に来ると慈恵医大病院に通っているが、今日は病院の近くの新生堂という和菓子屋さんで買ってきてくれた「切腹最中」もお土産にもらう。新橋から慈恵医大のあたりは昔の田村町。江戸時代は田村右京太夫の屋敷があった。浅野内匠頭が切腹をしたのが田村右京太夫の屋敷だったところから「切腹最中」を売り出したということらしい。三輪さんは新宿歌舞伎町で30年以上も店をやっていただけに話は抜群に面白い。

10月某日
「新装版 アームストロング砲」(司馬遼太郎 講談社文庫 2004年12月)を読む。幕末を扱った9編の短編が収められている。巻末の磯貝勝太郎(文芸評論家)の解説によると、初出は昭和35年から40年にかけてのオール読物や小説新潮などに掲載されている。司馬が30代後半から40代にかけての作品である。史実の断片から短編小説を作り上げていく力量はやはり並のものではない。

10月某日
我孫子のレストラン「コビアンⅡ」で吉武民樹さんと大谷源一さんと待ち合わせ。大谷さんに貸すつもりで持ってきた石井瑛嘻の「ブント一代」を読みながら2人を待つ。石井さんは60年安保闘争を東大医学部で主導、卒業後医者となるが第2次ブントの再建にも関わる。ブントの情況派や松本礼二、長崎浩らとの交流も描かれめっぽう面白い、この本の出版記念パーティに出たとき頂戴したものだが、そのとき読んだ記憶があるが例によって内容は覚えていない。大谷さんに「読んだら返してね」と言って渡す。吉武さんが来たので3人で乾杯。ジジイの淡い付き合いもいいもんだ。

10月某日

「決定版 日本のいちばん長い日」(半藤一利 文春文庫 2006年7月 単行本は1995年6月)を読む。天皇の終戦の詔勅を収めた録音盤を巡る侍従を中心とした宮中と、近衛師団を中心とした反乱軍との攻防戦を縦軸に、鈴木首相の決断や阿南陸相の自決を横軸に8月15日正午に至る24時間を描く。決定版は1995年だが、最初の版は1965年に出ている。諸般の事情から、最初は大宅壮一の名を冠して発行された。半藤は1930年生まれだから当時37歳、月刊文藝春秋の編集次長の職にあった。1965年と言えば終戦の1945年から20年、当時の現場を知る人の多くが存命であった。貴重な証言を後世に残したいという半藤の執念と編集者としてのセンスによって出来た本であろう。