モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
図書館で借りた川上弘美の「森へ行きましょう」(日本経済新聞出版社 2017年10月)を読む。日経新聞の夕刊に2016年1月から2017年2月まで連載されたもの。連載中に断続的に読んだ記憶はあるが、単行本になったものを読むと全く違う印象。日経の夕刊は連載小説や連載エッセー、家庭欄も含めてなかなか面白いと思うのだが、夜、飲んで帰ることが多いものだから読まずに寝てしまうことも少なくない。だから連載小説はストーリーが飛んじゃうのね。「森へ行きましょう」はしかし、大変面白く読んだ。主人公は1966年ひのえうまの日に誕生した留津、とルツ。2人はパラレルワールドに生きている。パラレルワールドがこの小説のテーマのひとつ。人生にはいろいろな可能性があり、どう転ぶかわからない。ルツは理系の学部を出て研究所の技官になり、留津は女子大を出て中堅の薬品会社に一般職として入社、見合い結婚でブルジョアの御曹司、俊郎と結婚する。ルツの理系女子の独身生活、留津の姑に振り回される結婚生活も「深刻さ」を伴わず描かれる。川上弘美はお茶の水女子大の理学部出身だからルツの描き方には自身の体験も反映されているかもしれない。後半、社長夫人となった留津は小説家としてデビューし、ルツは遅い結婚をする。相手は没落した御曹司で始末屋の俊郎。パラレルワールドに生きるのは留津とルツの2人だけではない。夫を殺してバラバラにする瑠通、50歳で死んでしまう、る津。留津と鏡を通して会話する流津、そして研究所で研究に没頭するるつ。留津とルツの1966年から2027年までが描かれる本書は、「こうあったかもしれない」人生をパラレルワールドという舞台設定によって巧みに描き切ったといえるのではないか。

11月某日
HCMの平田高康前会長が亡くなる。82歳だった。平田さんにはこの20年ほど親しくさせてもらった。天龍寺の末寺に生まれ、同志社大学に進学。永大産業に就職して年金住宅福祉協会を創業した故坂本専務と出会う。協会が新規融資を停止した後も協会を陰で支え続けた。奥の深い腹の座った人だった。
夜、SCNの高本代表、SMSの長久保君、竹原さんと神田の葡萄舎で呑む。長久保君も竹原さんも北海道札幌出身。竹原さんは早稲田大学商学部からJR北海道、東急エージェンシーを経てSMSへ。JR北海道では主に不動産開発を担当したという。長久保君も竹原さんもギラギラしたところがなく私は付き合いやすい。

11月某日
会社が「森田さんを送る会」を「跳人」で開いてくれた。大山社長以下の社員のほか、社会保険研究所の川上会長、鈴木社長、谷野編集長、フィスメックの田中会長、小出社長、社会保険出版社の近藤取締役、民介協の扇田専務、ネオユニットの土方さん、フリーの沢見さんたち30人近くが参加してくれた。6時開催だが、私は5時から李さんと「ビアレストランかまくら橋」でビールを飲む。李さんにご馳走になる。「跳人」が終わると「かまくら橋」で2次会、3次会は「葡萄舎」に寄ったらしいが覚えていない。4次会はひとりで久しぶりに根津の「ふらここ」へ。常連の文科省のミヤちゃんの勤務先が国立歴史博物館だったことを思い出して、現在開催中の60年代末の学生反乱を回顧した「1968年展」を見に行く旨、伝えてとママに頼む。

11月某日
私の会社員生活最後の日。午前中、当社の石津さん、フリー編集者の浜尾さんと青物横丁にある町田学園の女子高の藤原校長先生に挨拶。藤原先生は石津さんの中学時代の恩師。三宅島噴火のとき三宅島高校の校長で貴重な経験をしたという。16時に会社を後にして我孫子の七輪へ。ホッピーを2本開けて愛花へ。

11月某日
図書館で借りた「永山則夫の罪と罰」(井口時男 コールサック社 2017年8月)を読む。永山則夫は極貧の少年時代を送り、東京に集団就職。転職を繰り返し横須賀の米軍基地で盗んだ拳銃で4人を射殺、殺人罪で起訴され死刑が確定、1997年8月1日に刑が執行される。獄中で「無知の涙」を執筆、刊行され話題を呼び、その後小説も執筆、新日本文学会新人賞を受賞する。永山は犯行時19歳だったため、犯行時未成年への死刑判決が当時議論になった。井口はとても丁寧に永山の生い立ちや上京生活、犯行、獄中をたどる。獄中で女子高生を殺害し死刑になった李珍宇の獄中書簡集「罪と死と愛と」を読み、李珍宇に親近感を抱くようになる。永山則夫のことを知ることは私にとってとても「痛い」ことだ。「痛い」が知らねばならぬことと思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その3

11月某日
北海道室蘭市の老健施設に入所している母親に会いに兄と室蘭へ。母は弟夫婦と同居していたが軽い認知症を発症し、日常生活が困難になったために入所することになった。弟に連れられて母を訪ねると一瞬、だれかわからなかったようだが、すぐに思い出してくれた。思えば3人兄弟の中でも私は、一番の親不孝だ。さして経済的に豊かでもないのに東京の私立大学に進学させてもらい、挙句に私は学生運動にのめりこんで逮捕起訴された。でも母も父もそんな私を叱責することもなかった。もちろんほめられはしなかったが。高倉健の歌う「唐獅子牡丹」の歌詞に「つもり重ねた不孝の数を、なんと詫びようかおふくろに。背中で泣いてる唐獅子牡丹」というのがある。若いころよく歌いました。

11月某日
弟の家に2泊させてもらう。老健施設で母と面会。昔の記憶は完璧だが最近の記憶は覚束ない。施設の職員に説明を受ける。要介護2の認定なので特養には入所できない。有料老人ホームへの入所などの選択肢がある。職員はとても親身になって説明してくれる。施設の秋祭りで母がピアノ演奏した写真を手渡される。満面の笑みの母だ。千歳空港で幼馴染のみずえちゃんと奈良君に会うと母に伝えると、母は「あんた、みずえちゃんのこと好きだったものね」。そういうことは覚えているのである。空港のレストランでみずえちゃんと奈良君と食事。奈良君は労働組合で役員をしているときに対馬財団の理事長のお父さんの選挙運動を手伝ったのが縁で対馬財団に入社したという。理事長のお父さんとは炭労(石炭産業の労働組合)出身の参議院議員で後に参議院副議長も務めたという。「もう辞めたいのだけれどなかなか辞めさせてくれなくて」と奈良君。理事長の信頼が厚いのだろう。みずえちゃんと奈良君から「来年の10月、中学の同級会があるからまた来なよ」といわれる。母の見舞いがてら来ようかな。

11月某日
図書館で借りた「日本近代史」(坂野潤治 ちくま新書 2012年3月)を読む。本書は日本の近代を1857(安政4)年から1937(昭和12)年までの80年間の歴史を6つの段階に区分して通観している。改革期(1857-1863)、革命期(1863-1871)、建設期(1871-1860)、運用(1880-1893)、再編(1880-1893)、危機(1925-1937)の6つである。幕末、国論は「尊王攘夷」と「佐幕開国」に二分された。尊王攘夷派は武力倒幕、佐幕開国派は公武合体の勢力とも重なる。尊王攘夷派は薩摩と長州の対外戦争(薩英戦争と下関戦争)を経て、尊王開国、尊王倒幕へとイデオロギーを転換させる。中心的な役割を果たしたのが西郷隆盛であった。というようなことが第1章「改革」、第2章「革命」に書かれている。著者はその時代を生きた有名人、無名人の書簡や日記、さらに地租や米価をはじめとする税や物価の推移を丹念にたどり、歴史が変化していく要因を探ろうとする。我孫子市民図書館が蔵書する坂野の著作はすべて読みたいと思う。平民宰相として名高い原敬も著者からすると大正デモクラシーに抵抗する守旧派として描かれる。目から鱗の歴史観なのである。

11月某日
私の年友企画での最後の仕事となる中村秀一さんの著作「ドキュメント社会保障」の試刷りが届く。中村さんの主催する「虎ノ門フォーラム」で予約販売する。受付にコーナーを作ってもらって、編集を担当した当社の酒井と販売する。といっても私はもっぱら知った顔に声をかけるだけ。元厚労省の高井さん、角田さん、亀井美登利さん、足利さん、フリーライターの長岡美代さんらについでに退任のあいさつをする。本の帯を執筆してもらった慶應大学の権丈先生も来ていたので、「打ち上げ」の日程をすり合わせ。
その前に虎ノ門の中村さんの事務所で打ち合わせ。「虎ノ門フォーラム」開始までに時間があったので社会保険福祉協会の稲村常務と年金住宅福祉協会の和田理事に退任のあいさつ。2人とも「退任してもときどき顔を出してくださいよ」と声をかけてくれる。HCMまで足を延ばして大橋社長と川島さんにあいさつ、会場に向かう。フォーラム終了後、当社の酒井と健生財団の大谷常務と会場のプレスセンタービル地下1階の焼き鳥屋「おか田」で軽く呑む。3人とも千代田線で帰る。大谷さんは西日暮里で京浜東北線に酒井は町屋で京成線に乗り換え。私は終点の我孫子まで一本。

モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
荻島良太さんのサキソフォンリサイタル。市ヶ谷駅で川邉新さん、セルフケアネットワークの高本代表と待ち合わせ。駅近くで軽く食事をとりながら、高本さんが取組んでいるグリーフサポート事業に川邉さんからアドバイスをもらう。川邉さんにご馳走になる。会場のルーテル市ヶ谷センターへ。竹下隆夫さん、田中和也さんに挨拶。荻島さんは亡くなった厚生官僚の荻島國男さんの遺児。私が荻島さんの病室を見舞ったときに見かけた記憶があるが、そのときは中学生だった。愛知県立芸術大学に進学、クラシックのサキソフォン一筋だ。私の退任パーティのときにも演奏してもらった。今回のリサイタルは難度の高い選曲だったと思うが、見事にこなしていた。サキソフォンは確か19世紀にベルギーで発明された比較的新しい楽器。リードを使うので木管楽器だが楽器そのものは金属製。荻島さんの演奏で感じたのだがサキソフォンの高音は和笛に似ている。演奏後、竹下さんにご馳走になる。

11月某日
「音楽・運動療法研究会」で依田明子委員が苑長をやっている川崎市麻生区の特別養護老人ホーム「かないばら苑」を訪問。事務局をやっている宇野裕さんと小田急多摩線の栗平駅で待ち合わせ。依田さんが車で迎えに来てくれる。午前中は新百合ヶ丘の昭和音大で音楽療法の勉強をしている学生と指導教官がボランティアで入居者への音楽療法を実施しているのを見学。入居者の意識は療法を受けているというよりもリクリエーションの一環。「今日はお天気が良くて富士山がよく見えますね」と司会の学生さんが口火を切り、「フジはニッポンイチのヤマ」を参加者と歌う。午後は地域の高齢者のために開催している「ロコモチャレンジ体操教室」を見学させてもらう。見学の後、講師を務めた小泉恵美さんにインタビュー。こちらは90分で参加費用は800円。施設としては赤字だが社会福祉法人の地域貢献事業と位置付けているようだ。私も参加者と一緒に歌を歌ったり体操をしたりしたが、確かに声を出して歌ったり軽い体操をしたりするのは気持ちがよかった。小泉さんによると90分間、体操だけでは高齢者には過激だし、飽きてしまうので歌と体操の組み合わせがキモなのだろう。

11月某日
虎ノ門の日土地ビル地下1階の喫茶店でSCNの高本代表と打ち合わせ。終末期から看取り、グリーフサポートについてのネットワークづくりに挑戦してみることにする。高本さんと別れて私は日土地ビルの別の事務所で打ち合わせ。

11月某日
小学校以来の友人の山本オッチから「みずえちゃんが東京に来ているから会おう」と電話。秋葉原のヨドバシカメラで待ち合わせ。オッチもみずえちゃんも私も、父親が室蘭工業大学の教師で、住まいも近所だった。みずえちゃんは可愛いうえに勉強ができたので、悪ガキたちのマドンナ的存在だったが、愛情表現が未熟な悪ガキ故に「イジメ」の対象となったことがあるかもしれない。3人で3時間ほどおしゃべり。みずえちゃんはこんなにしゃべる人だったかなぁ。私は母の見舞いで来週、北海道へ行くのでその時も会うことにする。

11月某日
「音楽・運動療法研究会」で音楽療法士の井黒さんにインタビュー調査。事務局をやっている宇野さんと三軒茶屋の改札で待ち合わせ。井黒さんが来たので近くのこじゃれた喫茶店でインタビュー。井黒さんの本職は整形外科の事務職だが、国立音楽院で音楽療法を学ぶ。高齢者に加えて自閉症などの障害児への音楽療法をやっている。音楽療法は医療保険、介護保険では対象にならない。作業療法の一部として介護保険の対象になることもあるようだが、あくまでも一部としてだ。放課後デイでも音楽療法を取り入れているところもあるが、音楽療法として例えば支援費の対象ともなっていないようだ。制度的に認められていない、医療保険や介護保険の対象となっていないから、大変だなーということはその通りだ。しかし「制度に縛られない」というメリットもあるように思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
我孫子駅の改札口で川邉さん、吉武さん、大谷さんと待ち合わせ。吉武さんが予約してくれた我孫子駅南口の「海鮮処いわい」へ。ビールで乾杯の後、吉武さんが持ってきてくれた赤ワインを飲む。その後で日本酒。店の女性が勧めてくれた日本酒を呑む。呑みやすい酒だったが、残念ながら銘柄を忘れた。一人5000円でお釣りが来た。3人と別れて私は「愛花」に寄る。

11月某日
中村秀一さんの「ドキュメント 社会保障改革」の装丁をお願いしているデザイナーの工藤さんの事務所へ、ブックカバーと表紙の色校正を持っていく。当社の担当の酒井に同行。工藤さんはブックデザイン賞を受賞するなどこの世界では重鎮。でも全然偉ぶらない。工藤さんの事務所「デザイン実験室」のある外苑前から銀座線に乗る。神田まで酒井とおしゃべり。神田で酒井は下車して帰社。私は末広町で降りて「章太亭」に寄るか、上野のガード下を覘くか、銀座線の終点の浅草まで足を延ばすか迷ったが、結局、我孫子へ帰る。駅前の「七輪」でホッピーとウイスキーの炭酸割。

11月某日
我孫子駅前の呑み屋「愛花」の常連のソノちゃんとケイちゃんに誘われて、新潟へ1泊2日の旅へ。ホテルとセットなので新幹線はグリーン車。新潟駅前のホテルに荷物を置いて駅ナカへ。駅ナカでは新潟大学の医学部が糖尿病の検査をやっていたので私とケイちゃんはやってもらう。ソノちゃんは頑なに「やらない」。駅ナカの日本酒館で500円で5種類の地酒を呑み比べ。タクシーで酒蔵「今代司酒造」へ。酒造りの現場を見学。見学の終わりに純米大吟醸、純米吟醸、純米酒などを利き酒。近くの味噌蔵「峰村醸造」で私は生姜の味噌漬けを購入。夕方になったのでタクシーで新潟駅近くの繁華街へ。60過ぎと思われる女将が一人でやっている「えちご」という店に入る。一瞬「大丈夫かな?」と思ったが、これが大正解。新潟でもあまり出回っていないという菅名岳という酒を呑む。エビとツブ貝の刺身、のどぐろの焼き物もおいしかった。近くの「安具楽」という店へはしご。お客が勧めてくれた「緑川」を呑む。タクシーでホテルへ。2日目。朝から雨。新潟市内の観光名所を巡るバスで新潟市美術館へ。国立近代美術館の工芸館名品展と常設展を鑑賞。ミュージアムショップでなぜか立川談四楼の古本を売っていたので300円(+消費税)で購入。新潟駅近くの定食屋で昼食。私はさすがに酒を控えるがケイちゃんは生ビールの小、ソノちゃんは八海山を2合。帰りは越後湯沢で途中下車、ソノちゃんとケイちゃんは買い物、私は駅ナカの温泉へ。新幹線で上野へ戻り我孫子へ。

11月某日
図書館で借りた桜木紫乃の「砂上」(角川書店 2017年9月)を読む。主人公の柊玲央は離婚後、同居していた母とも死別、現在は同級生がオーナーシェフのビストロでアルバイトをしながら小説を書いている。編集者の助言で2年前に懸賞小説に応募した小説「砂上」を全面的に書き直すことにする。桜木紫乃の小説「砂上」が玲央の描く「砂上」のメイキングドラマになっているという言わば「入れ子構造」の物語。玲央の「砂上」では玲央の母は「女がひとり新宿から出て北海道に戻り子供を産んだ」し、玲央は「女の娘も、早くに男を覚えて妊娠し、父のない子を産んだ」と表現される。生々しいストーリーを乾いた文体で表現するのが桜木の特徴だ。玲央は「この世に『生まれた』というよりも、砂の上に『生えた』と表現したほうがふさわしい女たちだった。縛られるだけの親を持たず、縛るような子を持たず、頼むに足る杖を持たずに生きている。それでよしとする己を、せめて自分だけは大事にしてやろうと思う」と書く。これはたぶん桜木の思いとも通じる。それにしても桜木は、川上弘美、井上荒野、三浦しをん、角田光代といった女流作家とほぼ同世代と思われるが、ずいぶん異質に感じられる。生まれ育ち現在も住んでいる北海道という風土もあるが、高卒で就職しながら文学修業に挑んだということも影響していると思う。身近に仲間がいないという強さかもしれない。

モリちゃんの酒中日記 10月その5

10月某日
浅田次郎の「見知らぬ妻へ」(光文社文庫 2001年4月 単行本は平成10年5月)を読む。初出は平成7年から10年の小説宝石や小説現代など。今から20年前後も前に書かれた小説だが、文章の巧みさは今と変わらない。この短編集の共通したテーマは「都会の孤独」だろうか。表題作「見知らぬ妻へ」の主人公花田は札幌で会社を潰し、浮気相手の女子社員と歌舞伎町にやってくる。女はひと月で札幌へ帰り花田はボッタクリバーの客引きで口を糊する。知り合いの出稼ぎ外国人手配師の土橋から、中国人との偽装結婚を持ち掛けられた花田は承知する。玲明と名乗る中国娘との束の間の同棲生活の中で、花田と娘との間に愛情が芽生え始めるが、娘は組織の指令により東京から別の街へ。突然の別れ。「都会の孤独」に飲み込まれていくはかない恋を描く現代のおとぎ話。

10月某日
健康生きがい財団の大谷さんが常務理事退任のあいさつに来る。そのまま会社近くの「跳人」で飲む。我孫子へ帰って駅前の「愛花」に寄る。看護大学の助教の佳代ちゃん、常連の福田さんに挨拶。家に帰って三浦しをんの「天国旅行」(新潮文庫 平成25年8月 単行本は2010年3月)を読む。死をテーマにした短編集である。それも自然死ではなく自死、心中、事故死である。死をテーマにしつつ三浦の文章はときにユーモラスである。そこに才能を感じざるを得ない。

10月某日
図書館で借りた「永山則夫 封印された鑑定記録」(堀川恵子 岩波書店 2013年2月)を読む。永山則夫といっても今の若い人にはピンと来ないだろうな。永山は1968年10月から11月にかけて発生した4件の連続射殺事件の犯人として逮捕され、最高裁で死刑判決が確定、1997年8月に死刑が執行されている。4件の中には2件のタクシー運転手射殺が含まれている。当時、私は早稲田大学の1年生。新宿で高校の同級生と飲んでいて終電を逃し、明大前の同級生の下宿に帰ろうとタクシーを止めたら、運転手から「学生さん?一人だったら絶対乗せないね」といわれたことを思い出す。若い学生風の男が調査対象とされていたのだ。犯人の永山は逮捕当時19歳、私より一歳下の昭和24年生まれだった。本書は永山の精神鑑定に当たった石川医師が心血を注いで作成した「永山則夫精神鑑定書」と、それを作成するために録音された100時間を超える永山の録音テープをもとに書かれている。当時、私は高度経済成長に浮かれつつ過激な学生運動にのめり込んでいくという矛盾した生活を送っていたのだが、貧困から逃れようにも逃れられなかった永山のような青春もあったのである。

10月某日
広島市のデルタツーリング社を取材。ツーリングはtoolingで金型のこと。金型メーカーから出発して、現在は工作機械の設計などにも手を広げている。技能士検定の取材だったが、人材と設備への積極的な投資が特徴。労働力人口が減少する中で日本の中小企業の生き残る一つの方向を示しているように思う。広島出張は日帰り。名古屋を過ぎたあたりから飲み始める。我孫子についたら10時を過ぎていた。駅前の「愛花」に寄る。

10月某日
広島往復の新幹線の中で「日本の宿命」(佐伯啓思 新潮新書 2013年1月)を読む。佐伯は1949年生まれ。東大経済学部卒、東大の大学院では西部邁が指導教官だったのではないかなぁ。民主主義やヒューマニズム、平等と権利などに対する根本的な疑念の表明は西部に近いものがある。したがって私としては親近感を持たざるを得ない。

10月某日
図書館で借りた「石原吉郎セレクション」(岩波現代文庫 2016年8月)を読む。石原のシベリア抑留体験を綴った「望郷と海」(筑摩書房)は読んだことがある。年譜を見ると「望郷と海」の出版は1972年、私が読んだのもそのころ。過酷なという言葉では言い表せられないようなシベリア体験。帰国した石原の目に映った日本は、復興から高度成長をひたすらに歩む日本だった。それは永山則夫の感じた違和感と似たような思いのような気がする。石原は1977年、62歳で入浴中に心不全で亡くなっている。早すぎる死。