モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
新宿歌舞伎町にあったクラブ、「ジャックの豆の木」の元マスター、三輪さんは今、奥さんの実家のある鹿児島で暮らしているが、病気治療のためときどき東京に出てくる。慈恵医大の帰りに西新橋のHCMに寄ってもらう。HCMから烏森口へ。私が年友企画の前に勤めていた日本プレハブ新聞があったビルに案内する。そこは「魚金総本店」となっていた。せっかくなので「魚金総本店」で呑むことにする。歴博で見た日大闘争のルポライターの橋本克彦さんの映像の話をすると、三輪さんは「橋本さんと言えば」と携帯電話を取り出してもう一人の橋本さんに電話を入れる。もう一人の橋本さんとは「ジャックの豆の木」の常連で、当時、渋谷区の職員だった。「森田さん、職員向けの旅行優待チケットがあるんだけど来年度から廃止されるから行こうよ」と確か水上と鬼怒川温泉に行ったことがある。現在は沖縄に移住して基地反対闘争をやっているらしい。電話にでは会議中とのことだったが、来月上京するのでそのとき3人で会うことを約束。

12月某日
中村秀一さんの新刊「2001-2017年 ドキュメント社会保障」(発行・年友企画、発売・社会保険出版社)が刊行されて好評発売中だ。著者の中村さんが関わった人たちにお礼がしたいと、広尾のイタリアン「ラ・ビスボッチャ」に招いてくれた。編集を担当した年友企画の酒井さん、装丁の工藤強勝さん、帯の文章を書いてくれた慶應大学の権丈善一先生、それに私が招かれた。お店に酒井さんと連れ立って行くと、中村さんと工藤さんはすでに来ていてシェリー酒を呑んでいた。少し遅れて権丈先生が到着したところでシャンパンで乾杯、料理とワインとおしゃべりを堪能した。中村さん国際医療福祉大学の教授もやっているし、工藤さんは最近まで首都大学東京で教授としてデザインを講義していた。ということは私と酒井さん以外は大学教授か教授経験者ということになる。図らずも「ドキュメント社会保障」は私の年友企画での最後の仕事になった。「いい仕事をさせてもらった」と中村さんに感謝である。

12月某日
現在、お世話になっているHCM社の忘年会が西新橋の「虎ノ門パスタ」で。大橋社長、川島役員、三浦部長に社員2人、ゲストがデザイナーの土方さんと映像担当の横溝君。「虎ノ門パスタ」は床に銀杏の落ち葉を敷き詰めてしっかり冬化粧。土方さんは「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者、横溝君は映像その他でシミュレーターの販売をフォローしてくれている。川島役員から京都の漬物、土方さんから紅茶、三浦さんからは青森のスルメをお土産にいただく。2次会は烏森口の「陽」。久しぶりにカラオケを歌う。

12月某日
「40歳からの介護研修」の打ち合わせで日本橋小舟町のセルフケアネットワークへ。奈良県天理市のあいネットグループの中川社長とNPO法人つむぎの山本代表はじめ、関西から4人が参加、セルフケアネットワークの高本代表と私の6人。なかなか身のある議論ができたと思う。事務所の近くの「恭悦」で食事。日本酒をぬる燗でいただく。我孫子へ帰って「愛花」による。常連の市橋君とケイちゃんが来ていた。市橋君は今年、奥さんを亡くした。「立ち直れないよ」とポツリ。愛妻家だったんだ。市橋君がボトルを入れてくれる。

12月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の単行本の件でフリーライターの香川喜久枝さんとHCMの事務所で打ち合わせ。私はその後、7時半から虎ノ門で打ち合わせがあるので、虎ノ門界隈で2人で食事をする。「桂園」という中華料理屋に入る。中国人のやっている店だ。こういう店は値段の割に安い店が多いがこの店もそうだった。香川さんと別れ虎ノ門で打ち合わせ。打ち合わせ後、千代田線で根津へ。「ふらここ」へ寄る。佐倉の歴博へ行ったことなどを話していると、サラリーマンは引退したが、近所の子供たちに囲碁を教えている常連の大橋さんが来る。大橋さんが持ち込んだ新潟の日本酒をいただく。これも常連の板前さん、キヨチャンが作って持ってきてくれたというカラスミをママが出してくれる。日本酒に最高の肴であった。終電近くに我孫子に帰る。

モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
先週に続いて佐倉の歴史民俗博物館へ。先週は京成佐倉駅に「ふらここ」のママと「ふらここ」の常連の「ミヤ」ちゃんと14時半に待ち合わせた。企画展示の「1968年」(無数の問いの噴出の時代)を観るためだが、見落としたものが多くあるように感じたのと、今回は前回、買い求め損なった「資料集」を購入するため。前回はJRの金町から京成金町→京成高砂→京成佐倉というルートだったが今回は成田線で我孫子から成田、京成成田→京成佐倉というルートをとる。成田線の時間さえ合えばこちらのほうが早い。企画展示は明日で終了なので、平日なのにそこそこ混んでいた。学生らしい若い女性が数人、引率の教官らしき人に連れられてきていた。日大全共闘の映像をじっくり見る。やはり新宿の「ジャックと豆の木」の常連だったルポライターの橋本さんがアジ演説をやっているのが映っている。来週にでも元マスターの三輪さんに会うので報告しよう。資料集を購入して帰る。我孫子駅前の「七輪」で一杯。

12月某日
東大全共闘の代表だった山本義隆の「私の1960年代」(金曜日 2015年10月)を図書館で借りて読む。山本の1960年代は60年安保の年に東大に入学し、物理学の大学院に進学し学究の道を歩みながら大管法反対闘争やベトナム反戦闘争にかかわり、学園闘争の頂点だった東大闘争の代表を引き受けた10年間だった。大管法つまり大学管理法反対闘争の章に豊浦清さんのことが紹介されていた。豊浦さんは確か日比谷高校から東大に進学、第2次共産主義者同盟の結成に参加、政治局員となり後にマルクス・レーニン主義者同盟の幹部となった。東大闘争の安田講堂防衛隊長だった今井潔が国会議員になったとき秘書を務めた。私が知り合ったのは豊浦さんが秘書を辞めた後、社会保険研究所の関連会社の社長に就任したころだ。経歴とは関係なくちっとも偉ぶらない立派な人だった。数年前、がんで亡くなったが、そういえば「偲ぶ会」には山本義隆も来ていたっけ。「東大闘争のころの話、聞かせてよ」と私がせがんだら「俺、そのころ川崎に労働者として入ってたからよく知らないんだ」と答えられたことを覚えている。
「私の1960年代」は、東大闘争の話がメインであるのだが、山本は「なぜ、東大闘争に至ったか」を幕末、明治維新にさかのぼり論じている。日本の科学はそのころから軍事や産業の振興のためという性格が強かったということだろう。もうひとつ東大闘争が特異だったのは闘争の主体が院生や助手だったことだ。「学問とは何か?」を真剣に問いかけざるを得なかったのだ。翻って私の場合は浪人時代の1967年の10.8羽田闘争にショックを受け、1968年4月に早大に入学、4月にはべ平連のデモに参加、王子野戦病院反対闘争にも野次馬として参加した。5月のゴールデンウイーク前まではそれでも真面目に授業に出ていた覚えはあるけれど、6.15で日比谷野音で中核派と反帝学評が小競り合いを起こしたあたりから学生運動にのめり込んでいった。私が入学した政経学部の自治会執行部は反帝学評が握っており、行きがかり上私も反帝学評の青いヘルメットをかぶっていたのだ。7月の都学連大会の後、夏休みで帰省し、東京に戻ってきたら三里塚闘争が待っていた。「学問とは何か?」なんて真剣に問いかけることもしなかったし、だいたい授業もろくに受けていないのだから学問を論じる資格もなかったわけだ。

12月某日
桐野夏生の文庫本の最新刊、「奴隷小説」(文春文庫 2017年12月)を読む。単行本になったとき図書館で借りた記憶はあるのだが内容は覚えていないのがほとんど。私の記憶力に問題があるにせよ、読むたびに新鮮な気持ちで読めるというメリットもある。文庫本には解説が付いているが、奴隷小説は政治学者の白井聡が書いている。白井は1977年生まれの40歳。早大政治経済学部卒業、一橋大の大学院を満期終了、「永続敗戦論」「未完のレーニン」などの著書がある。白井は桐野の小説は平成のプロレタリア文学ではないかと論じる。「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」というのである。私はこの数年、桐野の小説に強く惹かれるものを感じてきたのだが、白井の解説を読んで「そういうことかも」と腑に落ちた。

12月某日
大谷源一さんと日暮里駅前の「いづみや」へ。10数席のカウンター席と小上がりにテーブル3つほどの店。大谷さんが来るまでに日本酒を常温で呑む。つまみはマグロのぶつとポテトサラダ。大谷さんが来る。大谷さんは長岡出張の帰りで日本酒をお土産にもらう。大谷さんは生ビールに肉豆腐を頼む。2時間ほど呑んで日暮里から常磐線で我孫子へ。駅前の「愛花」による。お土産にもらった日本酒をママに渡す。日本酒好きの常連「ソノちゃん」が来た時にでも呑みましょうということ。

モリちゃんの酒中日記 12月その1

12月某日
国際医療福祉大学大学院の特別講演会を聞きに行く。講師は前長岡市長の森民夫さん。森さんは東大建築学科出身、建設省の住宅技官当時に知り合った。平成11年に長岡市長に当選、5期連続市長を務める。新潟県知事選に出馬するも惜しくも落選した。講演は長岡市の福祉政策を高齢者福祉政策、子育て支援、総合支援学校のカリキュラム改革、医療福祉に絞って行われた。縦割りの行政も「現場で横につながる」ことが人工透析患者への交通手段として「乗合タクシーの提供」などを通して語られた。与えられる福祉から参加する福祉への転換や「縦割りと縦割りの間には宝が埋まっている」ことがよく分かった。森さんは障害児の親と懇談して「とても市役所には相談できない」と言われてとてもショックだった、と語っていた。普通の市民にとって役所の壁は厚くて高いのだ。それを感じることのできる森さんも立派と思う。

12月某日
国立歴史民俗博物館の企画展示「1968」を観に行く。副題に「無数の問いの噴出の時代」とあるように、60年代末の学生の反乱を中心として「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)などの市民運動や反公害運動に焦点を当てたものだ。京成佐倉駅で根津のスナック「ふらここ」のママ、半谷さんと待ち合わせ。というのは「ふらここ」の常連の「ミヤちゃん」が文科省の職員で現在、歴博に勤務中。ママを通して案内を頼んでいるのだ。改札口を出るとミヤちゃんが迎えに来てくれていた。歴博は佐倉城址の一角に建てられている。開館は1981年、想像していた以上に立派な建物だ。企画展示では全共闘では東大、日大をはじめ北大、弘前大、京大、広大が展示されていた。映像も流されていたが日大の映像では新宿の「ジャックと豆の木」の常連だったルポライターの橋本さん(元日大芸闘委)らしき人がアジっていた。早大全共闘には何も触れられてなかったのは残念だけれど、早大の全共闘は結成当初から対大学当局というよりも対革マルが最大の闘争課題で次が対民青、国家権力・機動隊だった。大学当局は少なくとも私の頭の中ではあまり重要ではなかった。その意味では全共闘運動のなかでも早稲田は特殊だったかもしれない。当時のアジビラも展示されていたが、当時は謄写版印刷だった。当時の謄写版(ガリ版)も展示されていて懐かしかった。そういえば謄写版に文字を刻むことをガリ切と呼んでいたっけ。会場の入り口には当時の立て看板(タテカン)を模して「無数の問いの噴出の時代!」という看板が。私が「なんか違うんだよなぁ」とつぶやくと私と同年代の女性が「そうよ。私だったらもっとうまく書くよ」と応じてくれた。ミヤちゃん案内されて常設展も覗く。歴博は第2連隊の兵舎の後に建てられたことを知る。銃剣を装着した三八歩兵銃はさすがに迫力があった。焼け跡闇市、初期の公団住宅の再現やゴジラも展示されていた。ミヤちゃんの案内で佐倉駅前の呑み屋さんへ。つまみも女将さんの勧める日本酒もおいしかった。我孫子に帰って駅前の「愛花」へ。常連のケイちゃんとこれまた常連の姉弟、姉の夫が来ていた。ケイちゃんの家で焼き肉パーティをやった流れらしい。

12月某日
次男の知り合いが編集している「酒場人」(オークラ出版)という雑誌が楽しい。「たのしい酒場、たのしい人たち」というサブタイトルからわかるように酒場情報というより酒場でのエピソードが満載なのだ。3号が2017年2月に出て以来、新しい号が出ていない。次男に聞くと「酒場人」の後継雑誌の「酒場っ子通信」の創刊号を持ってきてくれる。総力特集「ハツ」というのも笑えるし、酒飲みとしては「深い!」と思う。「酒場人」以来のテーマの一つが「昼呑み」。今日はそれに挑戦しようと1時過ぎに上野のガード下へ。もつ焼き屋の「大統領」を覘くと昼間から満席。外人客も多い。同じくガード下の「勇」へ。以前2~3回入ったことのある店だ。生ビールに続いてチューハイ、つまみはもちろんハツ、タン、レバ、砂肝。いい気持ちになって我孫子へ帰るとまだ3時。駅前の七輪が4時からなので、同じ駅前の市民プラザのオープンスペースで読書。4時から七輪でホッピーとウイスキーの水割り。昼呑みは確かに楽しい。楽しいけれど癖にならないようにね。

12月某日
「音楽運動療法研究会」の取材。京王線のつつじが丘で主要メンバーの宇野裕さんと待ち合わせ。三鷹市から介護予防事業の補助を受けている「シニアのための若返りリトミック事業」を見学する。講師は国立音楽院リトミック認定講師の船井真知子先生。会場の新川アパート集会場に着くと高齢者が三々五々集まってくる。参加者は500円の会費を払う。人数が揃ったので予定通り1時30分に開始。参加者は12人、男性は世話役の水野さん1人だけ。「冬景色」「きらきら星」を先生のピアノ伴奏に「パタカラ体操」と組み合わせて歌う。「パタカラ体操」というのは「パ」「タ」「カ」「ラ」の4つの音を発することで、咀嚼や嚥下機能を高めるという体操。先生は「12月1日は何の日でしょう?」と問いかける。1人がおずおずと「映画の日」と答える。これは大正解。聞けば若いころ映画館に勤めていたという。「映画の日は1000円で入れる」「私たちは高齢者割引があるからいつでも1000円」と映画館の話で盛り上がったところで、「これ誰かわかりますか?」と先生が往年の映画スターの写真を示す。「岸恵子」「高峰秀子」「佐多啓二」と即座に回答が出る。「回想法」による認知症の予防も兼ねているわけだ。「君の名は」「青い山脈」など映画の主題歌を歌い、「ビルマの竪琴」にちなんで「「埴生の宿」を歌う。「そういえばそろそろ年末、クリスマスも近いですね」と先生が巧みに話題展開、参加者を飽きさせないためだ。クリスマスにちなんで「ジングルベル」、年末ということで「歓びの歌」「トロイカ」を歌う。鈴を振ったりハンドベルを鳴らすことで無理なく体を動かす工夫もされている。予定の1時間半はあっという間に過ぎた。

モリちゃんの酒中日記 11月その5

11月某日
出版健保へ脱退の手続きをしに行く。総務の石津さんが付き添ってくれる。スタジオ・パトリの三浦さんとフリーの編集者の保科さんに退職の挨拶とわたしの「ご苦労さん会」の催促に行く。年友企画にお邪魔してSMSの担当者と年友企画の担当の迫田さんと打ち合わせ。6時から住宅金融支援機構の理事を退任した望月久美子さんのご苦労さん会を「ビアレストランかまくら橋」で。結核予防会の竹下隆夫さん、川村女子学園の吉武民樹さん、プレハブ建築協会の合田純一さん、高齢者住宅財団の落合明美さんが集まる。望月さんとは30年くらい前、住文化研究協議会の研究会で出会った。福岡の修猷館高校の出身で吉武さんとは同窓。お酒は飲めないが気風の良い女性。2次会は竹下、吉武両氏と一緒に葡萄舎へ。いささか呑みすぎ。来年70歳になるのだから少し控えよう。

11月某日
図書館で借りた「西郷の首」(伊東潤 角川書店 2017年9月)を読む。伊東潤は1960年生まれの歴史小説家。わたしは「義烈千秋 天狗党西へ」を読んだことがある。本書は幕末の加賀藩の足軽の家に生まれた2人が主人公。1人は草創期の陸軍に入り西南戦争に従軍、介錯された西郷隆盛の首を発見する。1人は明治維新後の薩長の藩閥政府から疎外された加賀藩の境遇に反発、大久保利通の暗殺を企て実行する。不平士族、それも佐賀の乱や萩の乱、熊本の神風連といったメジャーな不平士族ではなく、石川の不平士族に焦点を当てたのが目新しい。この作者は「天狗党西へ」もそうだが、歴史の谷間に埋もれているもの掘り起こし、巧みにストーリーとする。

11月某日
新潟市立美術館のミュージアムショップになぜか設けられていた300円均一の古本コーナー。そこで買った「大書評芸」(立川談四楼 2005年3月 ポプラ社)を読む。談四楼は「小説も書く落語家」で私も何冊か読んだことがある。本書は談四楼の書評122本を一冊にまとめたもの。第1部「小説の愉しみ」第2部「評論のすご味」第3部「芸人の味わい」の3部構成。私が読んだ本も何冊かあり、同感するものも多い。この人は群馬県の大工のせがれで高卒後、談志に入門、談志のお供で出かけた銀座のバーで何人かの小説家に出会い、それらの小説家の小説を読むようになったのが「本読み」のきっかけ。頭のいい人なんだろうな、文章に無駄がなく的確だもの。

11月某日
北海道の室蘭で弟夫婦と同居していた母が亡くなった。94歳だった。NHKの人気番組「ブラタモリ」で室蘭を特集していたのを見終わったら、弟から電話があったのも何かの因縁か。
通夜・葬儀が室蘭で行われるというので妻と出席する。バニラエアという格安航空券で成田-千歳空港を妻が予約。北海道への往復はいつも羽田からで、障碍者割引を使っても2万円くらいだったから格安である。成田空港まではJRの成田線で我孫子から成田まで、空港線に乗り換えて成田空港まで1駅、1時間ちょいで行くことができる。羽田空港までなら我孫子から2時間かかるので時間も「割安」。ただ成田空港の発着は第3ターミナル、成田空港駅から一番遠いのが難点だが、何しろ「格安」だからね。
千歳空港から高速バスで1時間半ほどで室蘭東町ターミナル。そこからタクシーでワンメーターで葬儀場の「やわらぎ」。無宗教で家族葬なので参列者も20人に満たない。「送る会」では兄と弟が選んでくれた在りし日の母の写真をスライド上映、弟が解説する。先に室蘭入りしていた兄が尿路結石で室蘭の病院の急遽、入院を余儀なくされたので続いて私が挨拶。小学校の低学年のとき「月の満ち欠け」について母に尋ねたら、台所の60ワットの電灯を太陽、銚子を月になぞらえ、銚子を回しながら「月はもともと黒い物体なの。太陽の光を浴びて輝くのだけれどまあるいから光の当たり方によって地球から見ると満月になったり三ケ月に見えたりするの」と巧みに説明されたエピソードを紹介した。ついでに裕福ではない家計から私が無理を言って東京の私学に進学したこと、それにもかかわらず過激な学生運動に参加、私が逮捕起訴されて安くはない保釈金を負担させたにもかかわらず、一言も叱られなかったことにも触れた。「送る会」を終えた後、弟の友人が寄ってきて「私も前科一犯です」という。弟は高校生のとき室蘭で高校生運動に参加、室蘭工業大学の反帝学評グループと共闘していたから、そのころの仲間だろう。68年の末、反帝学評と革マルの内ゲバが東大の駒場であったとき、反帝学評は駒場の教育会館を拠点にしていた。私もそこにいたことがあるが室蘭工業大学の反帝学評も何人か来ていたことを思い出す。