モリちゃんの酒中日記 12月その5

12月某日
図書館で借りた「日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本」(「歴史読本編集部編 KADOKAWA 2014年6月」を読む。日本史に出てくる官職とは太政大臣、左右大臣、大中小納言、越前守、伊豆守などであり、位階とは従一位、正三位などでいずれも朝廷から賜ることになっている。朝廷の官職とは別にときの政権から任命される官職もある。江戸幕府ならば老中、若年寄、町奉行、勘定奉行などである。厄介なのは江戸時代の大名や幕臣は、幕府の官職と朝廷から賜る官職と位階を二重に持っていた。例えば三代将軍の徳川家光は征夷大将軍と左大臣にして従一位の位階を持っていた。諸大名も同様で御三家の紀伊と尾張は極官(位の上限)を従二位大納言、水戸は従三位中納言とされた。ちなみに水戸黄門の黄門とは中納言の中国風の呼称である。加賀藩は従三位参議、彦根藩は正四位掃部頭、薩摩藩と伊達藩は薩摩守と陸奥守で従四位上というのが極官であった。薩摩と伊達、加賀藩や土佐藩などの雄藩は領地と官命の一致が見られるが、大半の大名にとって官名は実際の領地や幕府での役割とは関係がなかった。吉良上野介は上野(群馬県)に領地をもっていたわけではない。さらに大名は江戸城での控室でも細かくランク分けされていた。これらの差異を諸大名が十分に意識していたかどうかは分からない。でも浅野内匠頭が吉良上野介に江戸城内松の廊下で刃傷に及んだのも、この辺が背景にあったのかも知れない。

12月某日
御徒町のスーパー吉池の9階が「吉池食堂」。年友企画の石津さんと酒井さんと会食。食堂と名前はついているが夜は居酒屋状態。寿司、和食、洋食がそろって値段もリーズナブル。女子だけのグループも目に付く。2時間半、呑んで食べてしゃべった。我孫子で「愛花」による。

12月某日
フリーライターの香川喜久江さん、社保険ティラーレの佐藤聖子社長と神奈川県議の京島けいこ先生をインタビュー。地方議員を紹介する単行本の取材だ。神奈川県議会の民進党控室で名刺交換。思ったより小柄でとても気さくな印象。民主党の藤井裕久の選挙運動を手伝ったのが政治にかかわるようになったきっかけ。もともとは山梨県出身。地元の高校を卒業して事務職として病院に就職、20歳で結婚して出産、28歳で離婚。医療事務の経験を生かして損保会社に就職。現在は損保の代理店と訪問介護事業を営む。「私のたどってきた道を本にしてみたいんです」というだけあって波乱万丈の人生だ。女性や高齢者、障がい者、子供たちへの本物のやさしい視点がユニーク。東京へ戻って東京駅のガード下で結核予防会の竹下隆夫専務とフィスメックの小出社長と呑む。2次会は銀座のクラブへ。小出社長にすっかりご馳走になる。

12月某日
西新橋に新しくオープンした「Barrack st.64」というレストランに行く。共同通信の城記者と専門学校の事務長や財団法人の常務理事を歴任した大谷源一さんと一緒。このレストランはオーストラリアから食材を直輸入しワインも当然オーストラリア。私と大谷さんは白ワインをいただく。城さんは妊娠中のためソフトドリンク。雰囲気も味も◎のレストランだ。
食事を終わって私と大谷さんはレストランの目と鼻の先にあるHCM社へ。HCMで納会に参加。今年亡くなったHCMの前会長の平田高康さんの息子さんに挨拶する。「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者の土方さん、映像でフォローしてくれている横溝君も参加。HCMの大橋社長に大谷さん、土方さん、横溝君と私の5人で年友企画の納会へ。

12月某日
16時に年友企画の石津さんと品川駅で待ち合わせ。品川駅周辺は再開発ですっかり面替わりしてしまったが、港南口の一部にはかつての面影が残っている。中華食堂に入って石津さんはビール、私は日本酒。ナス炒めや皮蛋豆腐などを肴に飲む。私の奥さんが東京駅で買ってくれたスイーツを渡す。明日名古屋の友達を訪ねるので「お土産にしようかな」と言っていた。石津さんにご馳走になる。

12月某日
you tubeで美空ひばりのテネシーワルツを聞く。病に倒れる10か月ほど前、長野県佐久市の小さな音楽祭で歌ったものだ。伴奏の日野皓正がまたいい。ミュート(消音器)がわりに紙コップを使っている。テネシーワルツはもともとパティ・ペイジの持ち歌で白人ジャズの系統。日本では江利チエミの歌が有名であった。you tubeでもひばりは「亡き親友の江利ちえみを偲んで歌います」と語っている。でもひばりのテネシーワルツはパティ・ペイジともちえみとも違って、ブルースだ。続いて高倉健の唐獅子牡丹と網走番外地を聞く。

12月某日
唐獅子牡丹の歌詞について久世光彦が書いていることを思い出して、図書館で「歌が街を照らした時代」(久世光彦 玄戯書房 2016年 5月)を借りて読む。「読み人知らず」のタイトルのエッセーに「大きな声で歌えない歌、世を憚る歌というのも〈読み人知らず〉のことが多い」として「監獄ソング」のいくつかが紹介されている。1960年代から70年代にかけて、久世は池袋の人生坐や新宿の昭和館に通って「日本侠客伝」「唐獅子牡丹」などのシリーズを飽かずに見続ける。「三白眼の健さんを、とにかく撮りたかったのである」。翌朝のデモに出かける学生で映画館は一杯だったという記述もあるが、私もそんな学生の一人だった。耐えに耐えてついにドスを抜くという花田秀次郎(唐獅子牡丹の主人公)の心境に自己を投影していたのだろう。久世も健さんもひばりも死んだ。昭和は遠くなったのだ。

モリちゃんの酒中日記 12月その4

12月某日
後楽園ホールにボクシングを観戦しに行く。年友企画の迫田さんが大山社長からチケットを譲られ、それが私にも回ってきたというわけ。大山社長は印刷会社のキタジマの社長から招待されたということだ。5時半に水道橋駅で待ち合わせて会場に入る。6時から試合開始。第1試合はどちらもデビュー戦で初々しい。ちなみに席はリングサイドのS指定席でチケットを見るとなんと1万円だ。「右だ、右!」「腹狙え!」「足使え、足!」といった、声援なのか、コーチなのかよくわからない声が観客席からかかる。これは生の醍醐味ですね。セミファイナルを見終えたところで8時半から虎ノ門で打ち合わせがあるので残念ながら中座した。当日のメインイベントはWBOアジアパシフィックSライト級王座決定戦だったが、翌日の日経新聞のスポーツ欄にはべた記事扱いで数行報じられていた。会場の熱気との落差がまたいい。

12月某日
大学の同級生で弁護士をやっている雨宮君の呼びかけで同級生が集まった。いすゞ自動車の関連会社の会長をやった後、今イタリアで自動車関連の仕事をしている内海君、伊勢丹を定年まで務め今は悠々自適の岡君、それにクラスは違うが、女性の関さん。西新橋の弁護士ビルにある雨宮君の事務所に行くとすでに内海君が来ていた。弁護士ビルは私が今お世話になっているHCMから歩いて5分だ。岡君も顔を出して4人で会場に向かう。会場は弁護士ビル1階の「しゃぶしゃぶ芋つる」。富山料理の店である。お店には関さんがすでに来ていた。もしかしたら4人が顔を揃えるのはほぼ半世紀ぶりかもしれない。でも同級生ってのは面白いもので、話を始めるといつも会っているように話が弾む。おいしい料理と酒を楽しんであっという間の3時間だった。私以外は虎ノ門から私は新橋から上野-東京ラインで帰る。新橋から成田行きに座ることができた。我孫子で「愛花」に寄る。

12月某日
名月庵ぎんざ田中屋総本店で社福協の本田常務、内田さん、高橋さん、岩崎君、年友企画の大山社長、迫田さん、酒井さんと私のご苦労さん会を兼ねた忘年会。女性に人気のありそうな和食とそばの店。ビールで乾杯の後、福井の黒龍酒造の「九頭竜」をいただく。次に宮城の「蒲霞」。私の場合ですが日本酒は値段の高いものからいただくことにしている。酔ってだんだん味が分からなくなるからね。最後はぬる燗で締める。こう書くと日本酒にうるさい人のようだがそんなことはありません。ただ日本酒の「ジワーッ」とした酔い方が好きなだけ。本田常務から「皇室カレンダー」をお土産にいただく。

12月某日
図書館で借りた「無知の涙 増補新版」(永山則夫 河出文庫 1990年初版)を読む。1971年に合同出版から刊行されたものを河出書房新社が増補して文庫化した。永山は1949年、北海道の網走に生まれる。青森の中学を卒業後、上京。渋谷の高級果物店(多分、西村フルーツパーラー)の店員となる。その後、職を転々としてその間、横須賀の米軍基地から拳銃を盗み出し、その拳銃によって4人の連続射殺事件を1968年に起こす。1969年に逮捕され、1990年死刑確定。1997年に執行される。文庫本でも500ページ以上あり、文章も決して読みやすいとは言えず、読み終えるのに1週間以上かかってしまった。時間はかかったが私は永山という人に強く惹かれるものを感じた。1歳違いで同じ北海道出身ということもあるかもしれない。それ以上に共通点は、私は1969年の秋口、永山と同じ東京拘置所に拘置されていたということだ。本書によると永山は東京拘置所の4舎1階に拘置されていたとあるが、私は確か東京拘置所の4舎3階だったのではないかなぁ。永山と私の人生が東京拘置所で一瞬交差するのだ。当時の東京拘置所は東池袋にあり、その跡地にはサンシャインシティビルが建っている。1959年の9月、私は10数人の学生と一緒に早大の第2学生会館に立て籠り、機動隊の攻撃に火炎瓶や投石で抵抗したため逮捕起訴された。罪名は現住建造物放火、傷害、暴行、公務執行妨害、不退去だったと思う。もう半世紀も前のことだが、永山は刑死し私は何とか生きている。この差って何なんだろう。

12月某日
神保町にデザイン事務所を構えている三浦哲人さんと現在、その事務所に机を置いているフリー編集者の保科朋子さんが激励会を開いてくれるというので、神保町の「スタジオ・パトリ」を訪問。近くのこじゃれた料理屋さんに案内される。三浦さんと知り合ったきっかけは「海苔食品新聞社」の争議の支援がきっかけ。40年近く前の話である。当時、私は日本プレハブ新聞社という業界紙に勤め、三浦さんは確か檸檬社というエロ出版社の編集者だった。その後、三浦さんはデザイナーとして独立し、表参道の骨董通りに事務所を開き、私は年友企画に転職した。争議の支援共闘会議の同志という関係から編集者とデザイナーという関係に変わったわけだ。グリーピア津南のパンフレットや、年住協のリーフレットやってもらった記憶がある。