モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
新丸ビルの京大産官学連携本部東京事務所に大谷さんを訪問。大谷さんの現在の勤務時間は16時までなので、16時過ぎに東京事務所を出る。久しぶりに日暮里駅前の「いづみや」に行くことにする。まだ17時前なのに店はほぼ満席。チェロと思しき楽器ケースを傍らに吞んでいるのは場所柄、芸大生だろうか。その隣に座っている老人は手を激しく震わせながら瓶ビールをグラスに注いでいる。持参のピンセットのような箸を使って器用につまみを食べている。テレビで相撲の中継が流されている。隣のホッピーを吞んでいたオジサンが話しかけてくる。日馬富士は引退し白鵬と稀勢の里は休場、「鶴竜は頑張ってるね」と言うと「本当にそうだよ」と相づちを打ってくれた。

3月某日
監事をやっている一般社団法人全国年金住宅融資法人協会の理事会に出席、理事会が東京駅の八重洲口だったので丸の内口にまわって京大産官学連携本部の東京事務所に大谷さんを訪ね、「花見の会」の相談。その後、有楽町の「ふるさと回帰支援センター」によって理事長の高橋ハムさんに「花見の会」の報告。ハムさんとは50年前の1969年4月17日、当時革マルが制圧していた早大本部に一緒に突入した仲。早大全共闘はそれからスタートしたようなものだが、9月5日の全国全共闘の結成大会を前にした9月3日、第2学生会館を拠点にしていた全共闘派、大隈講堂を拠点にしていた革マル派はともに機動隊に排除された。そのとき私と一緒に第2学館で逮捕されたのが、のちに滋賀県の県職労のトップとなる桧山君。ハムさんが桧山君に電話してくれ久しぶりに話すことができた。電話の声は50年前と変わらなかった。ハムさんが声を掛けて来月17日に突入した「同窓会」を開くことになった。政経学部の1年上だった鈴木基司さんや辻さんも来るそうだ。2人とも群馬大学の医学部に進み医者をやっている。我孫子へ帰って駅前の「しちりん」へ。次いで「愛花」に行くと常連の坂田さんが来ていた。しばらくすると看護大学で助教をやっているケイちゃんが来る。

3月某日
日曜日、BSでクリントイーストウッド監督、主演の「グラントリノ」を観る。イーストウッドはデトロイトの引退した自動車工。最愛の妻に死なれ2人の息子とは疎遠になり、老犬と孤独に暮らす。隣家にラオスの少数民族モン族の一族が越して来る。モン族の姉弟と仲良くなるイーストウッド。イーストウッドは弟タオに絡むモン族の不良を撃退するが、報復に姉は強姦されてしまう。イーストウッドは一人で不良のアジトに向かう。イーストウッドが銃を抜く仕草を見せたため、不良たちの銃弾を浴びて死ぬ。自らの命と引き換えに不良たちを監獄へ送り込んだのだ。イーストウッドの愛車がフォードのグラントリノ。遺言でタオに与えられる。モン族はベトナム戦争で米軍に協力したため、故郷にいられなくなりアメリカに移住した。イーストウッドは朝鮮戦争の生き残りでもある。アメリカの戦後のアジア政策が作品に陰影を与えているが、基本はモン族の姉弟とイーストウッドの友情物語である。ラストは泣けますね。

3月某日
家から歩いて5分ほどの「ノースレイクカフェ」。まだ入ったことはないんだけれど古本も置いている。先日、西部邁の単行本が3冊600円で売られていたので買うことにした。その1冊が「大錯覚時代」(新潮社)。発行は1987(昭和62)年10月。今から30年前である。肩書は辞任する前の東大教養学部教授である。30年前だけれど西部の言っていることはほとんど変わっていないし、反進歩主義の伝統主義の保守主義者というも変わらない。西部は1939(昭和14)年生まれだから、この本の執筆当時は40代後半。60年安保のときは東大教養学部の自治会委員長、安保の裁判を抱えながら経済学部を卒業、大学院に進学した。そのころからマルクス経済学に疑問を持つようになり、保守主義者へ思想的な転換を果たした。トクヴィル、チェスタトン、ハイエク、オルテガ、アリストテレス、プラトンなどなど膨大な思想書を読み込んだ上に独自の保守思想を立ち上げた。独自の思想を構築する以外に安保闘争の敗北を総括する途は無かったのであろう。

3月某日
内神田の児谷ビル3階の「社保険ティラーレ」で4月の「地方から考える社会保障」の打ち合わせ。同じ階の「民介協」で扇田専務に挨拶。扇田専務からHCMの大橋社長に会員になるように勧めてくれと言われる。次いで阿佐ヶ谷の星野珈琲店で(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長と「花見」の打ち合わせ。その後、石川さんは六本木へ私は「花見」の後の「呑み会」の会場、霞が関ビルの東海大学校友会館で担当の小林さんと打ち合わせ。阿佐ヶ谷から中央線で四谷へ、四谷から丸ノ内線の国会議事堂前で降りると首相官邸前である。森友学園問題に抗議する人が三々五々集まっている。若い人が少なく私と同年代のジジババが多いようだ。小林さんとの打ち合わせ後、新橋の「亀清」へ。HCMの大橋社長が明治生命時代の後輩と呑んでいるので「よかったらどうぞ」と誘ってくれた。不動産投資法人の執行役員の内田さんがその後輩。二重橋前の明治生命本館の話で盛り上がる。終戦後GHQの本部が置かれたのが同じお堀端の第一生命の本社ビル。GHQ総司令官のマッカーサーの執務室が残されている。内田さんによると明治生命本館には米空軍の司令部が置かれたそうで、歴史的建造物としては明治生命本館のほうが第一生命ビルより価値があるという。