モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
社保研ティラーレで呑み会。ティラーレの佐藤さんと吉高さん、東村山市会議員の天目石要一郎さん、社会保険研究所の松沢総務部長、それに今回は天目石さんの友人でサンデー毎日の副編集長の隈本浩彦さんが参加。楽しかったけれど調子に乗って呑み過ぎた。

6月某日
図書館で借りた浅田次郎の「姫椿」(文春文庫 2003年9月 単行本は2001年1月)を読む。8編の短編が収められている。浅田の短編は基本的には人情噺。だが様々な味付けが施されており飽きない。「永遠の緑」は定年退官を2年後に控えた国立大学助教授、牧野公徳博士が主人公。妻を11年前に亡くし今は適齢期の娘との2人暮らし。博士が助手、妻が院生のころ2人は恋に落ちて結婚する。求婚したのは中山競馬場、妻の妊娠を知らされたのはレース終了後の東京競馬場場外の掛茶屋。博士は場外馬券は買わない。競馬場で馬を見て買うのである。競馬場でいつも会う青年がいる。筋骨たくましく職業は解体屋という。馬券が一度も当たらず帰りの電車賃を残してすっからかんになった博士が青年にご馳走になる。何軒かはしごして青年は博士を家に送る。実は青年と博士の娘は恋仲だったことがわかる。まぁ絵に描いたようなご都合主義のストーリーである。だが私はそれでいいと思っている。世間は都合よくは回ってくれるわけではない。だからこそ私たちはご都合主義のロマンを求めるのではないだろうか。

6月某日
図書館から借りた「人口減少社会の未来学」(内田樹編 文藝春秋 2018年4月)が面白かった。「人口減少問題」を必ずしも悲観的にとらえるのではなく日本社会の構造改革を進める好機ととらえる論者が多かったためであろうか。編者の内田は「人口減少は自然過程」としたうえで、最後に生き残るシステムは、「それを維持するためにプレイヤーたちが人間的成熟を求められるようなシステム、プレイヤーたちが『いい人』『誠実な人』『言葉をたがえない人』だと周りから思われることが不可欠であるようなシステム」と言い切る。籠池や加計問題のプレイヤー、日大アメフト部問題のプレイヤーを見ても、とても「いい人」「誠実な人」には思えないものなぁ。生物学者の池田清彦はキャリング・キャパシティ(環境収容力)に注目し、AIとロボット、ベーシックインカムによって「グローバル・キャピタリズムは崩壊して、定常経済が当たり前の世界になるだろう。そうなれば、キャリング・キャパシティがほぼ一定で、人口もほぼ一定という、生物種の生存戦略としては最適な社会になる」と予想する。人工知能と経済学の関係を研究するパイオニア、井上智洋はAIの普及によって第4次産業革命が引き起こるが、そのとき日本はヘゲモニー国家として生き残れるだろうかと疑問を呈する。「知力を軽視する国に未来はない」のである。一部の政治家の言動にそれを強く感じるのは私だけではないだろう。藻谷浩介はシンプルな統計数字により「地方にこそある生き残りの可能性」を実証し「有効なのは、子どもを好きなだけ多く持つことのできる、生活費が安く相互扶助の気風が残る地方に、子どもを持ちたいという指向の強い一部の若者を多く戻すことだ」と提案する。「人口減少社会における社会デザインとは、無縁の世界に有縁の場を設営してゆくこといがいにはない」とする平川克美は「いったんは、民営化され破壊された、社会共通資本を再生させてゆくこと。都市部の中に、家族に代わり得る共生の場所を作り出していくこと。そして人類史的な相互扶助のモラルを再構築してゆくこと」と言い切る。「相互扶助」で藻谷とも通底するが、これは地域包括ケアシステムの理念とも合致すると思う。建築家の隈研吾の「武器よさらば」をもじった「武士よさらば―あったかくてぐちゃぐちゃに、街をイジル」、平田オリザの「若い女性に好まれない自治体は滅びる―『文化による社会包摂』のすすめ」も面白かったが、今回注目したのは1974年岩手県生まれで「東北食べる通信」編集長の高橋博之。東日本大震災の被災地では確かに定住人口は減っているが、被災地の「未来を案じ、継続的に関わりを持ち続ける人」はぐんと増えているとして、こうした人々を「関係人口」と定義し、その拡大を訴える。人口減少が100年単位で進む以上、定住人口の拡大は難しい、ならば「関係人口の拡大」という発想が斬新である。

6月某日
図書館で借りた「どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。幕末・戦後・現在」(加藤典洋 岩波ブックレット 2018年5月)を読む。加藤は1948年山形生まれで私と同年なのだが、「66年に大学に入学し2年留年して72年に卒業」というから、48年の早生まれで現役で東大に進学、68~69年の東大闘争に参加したことになる。私のことを言うなら48年の遅生まれ、1年浪人して早大に入学、72年に卒業である。それはともかく講演をもとにした本書は、長年、私が抱いていた疑問に答えてくれた気がする。連合赤軍事件に対する考え方がその1つ。連合赤軍事件は銃砲店を襲って猟銃を手に入れた彼らが、山岳ベースにこもって軍事訓練を行い、仲間を集団的なリンチで殺害し、保養所の管理人の妻を人質にとって機動隊と銃撃戦を展開し逮捕されるという一連の事件である。銃撃戦は72年の2月であった。私も山岳ベースに参加していたかもしれないという思いは50年近く経過した今も自分の脳裏から去らない。殺害された早大生の山崎某は面識はなかったとは言え、早稲田の同じ学部の1年下だし、同じく殺害された横浜国大生の大槻節子は、69年の9月、私が留置されていた大森警察署の女子房に留置されていた。大学で留置所で私たちは同じ空気を吸っていた。
連合赤軍は加藤にもいうように「神奈川の労働者層に拠点を持つ毛沢東派の京浜安保共闘とどちらかといえば都会的で国際的志向もつ赤軍派」との連合体である。加藤は「前者の『正義感』が後者の『いい加減な気分』を駆逐、粛清するというかたちで起こって」いるとし、自己否定的な気分による「正義感」と都市文化的な自由な気分が合流していた、そしてこの「正義感」と「いい加減な気分」は「当時、1人1人、同時代の誰のなかにもあった」と振り返る。私もまさにそのような1人であったと思う。加藤の論は幕末の尊王攘夷過激派に移る。薩摩藩、長州藩、水戸藩で主として尊王攘夷派は形成されたが、薩摩と長州は薩英戦争、下関戦争で欧米列強に敗北し、尊王開国に転じる。水戸藩は朱子学のイデオロギーのもと、水戸学を展開するが、薩摩も長州も尊王攘夷は倒幕のためのイデオロギーに過ぎなかった側面がある。薩長ともに対外戦争により「外に開かれた」のである。転じて昭和前期の皇国思想はどうか。加藤は「幕末の尊王攘夷思想が革命思想であるとすれば(中略)昭和前期の日本社会を席巻した皇国思想は、疑似革命思想にほかならない」とする。連合赤軍にも皇国思想にも幕末の尊王攘夷思想が備えていた、開かれた「関係」の意識性、「変態力」を欠いていたのである。
吉本隆明は終戦時19歳で天皇制ファシズムの熱烈な支持者であった。しかし吉本は現実に見たアメリカ兵のフランクな態度にショックを受け、東京裁判で明らかにされる日本軍のアジアでの「乱殺と麻薬攻勢」に衝撃を受け、「思想には1階部分がなければならないこと」を学ぶ。「大衆の現像に立脚して思想を構築する」という、吉本のその後の「思想の構え」の原点である。加藤はさらに論を日本国憲法に進め「護憲論は、日本の戦争体験にねざす平和主義を1階部分とし、憲法9条の条文を2階部分として存在」してきたと規定し、「1階部分を生かすために、2階建て構造の総体を変えること」を提言する。この国を戦争をしない国にする、そのためには日米安保条約を解消する、そのために「憲法を変えることが1つの活路になるなら、それを躊躇すべき理由はない」と主張する。一般的な護憲論に対して私が抱いていたモヤモヤとした疑問が解消されたような気がするのである。