モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
図書館で借りた西部邁の「保守の遺言―JAP.COM衰滅の状況」(平凡新書 2018年2月)を読む。西部は今年1月21日、多摩川に入水、自ら命を絶った。何年か前から西部の著作に強く惹かれるものを感じて何冊も読んだ。彼が自ら言う通り「保守」の立場が鮮明な論理なのだが、一般に言われるところの右派あるいは親米としての保守とは違う。一番わかりやすいのは反米保守であったということ。大東亜戦争に敗北して日本は米国に従属する途を選び、今や日本は米国の準州ではないか、というのが持論であった。そこから憲法改正、日本核武装論へと繋がっていく。私は憲法改正や核武装論には賛成できないのだが、西部の日本の状況に対する悲憤慷慨は理解できるつもりだ。私の考えでは西部は日本の国家としての自立を訴え続けたのだと思う。その上で所得の再分配をきちんと行い、地域や家族を大事にせよと主張した。西部の死への想いはずいぶん以前からあったようだが、4年前に妻を亡くしてからその思いはますます強くなったようだ。
本書の最終章で唐牛真喜子さんの死について触れられている。唐牛さんは60年安保のときの全学連委員長、唐牛健太郎の未亡人で私も10数年前、旧友の倉垣君の紹介で知り合い、その後何回か食事をしている。西部が自殺したことをニュースで知り、唐牛さんが気落ちしているだろうと「アトモス」という彼女の会社に電話したら「唐牛は無くなりました」と告げられたのだ。本書では「ごく最近、僕の旧友の未亡人唐牛真喜子さんが71歳で身罷った。彼女もまた多くの女の常として公の場に顔を出すことが少ないまま、亡夫の思い出を抱懐しつつ、日常の仕事を反復し続けたのであろう」「彼女は3年近く前から癌病に冒され、それにたいして何の治療も加えず誰にも知らせないまま、私が会った2か月近くあとにあっさりと亡くなってしまった」と記されている。この本を図書館に返したらちゃんと書店で買おうと思う。

7月某日
金曜日だけれど呑む相手がいないので大谷さんにメール。HCM社に来てもらう。上野の浅草口方面で呑もうということになり、浅草口を降りてすぐの居酒屋に入る。18時まではハッピーアワーで酒類が割引なのでビールで乾杯の後、私は焼酎のお湯割り、大谷さんはホッピー。今度からこの店で呑むときは最初からホッピーのほうがいい。割り勘で感情を済ませて外に出ると大谷さんが「傘を忘れた」というのでそこで別れる。次の日大谷さんから「朝顔市に行きました」というメールが来ていた。私は我孫子で「愛花」による。

7月某日
丸の内の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」で旧友の倉垣君と元年友企画の浜尾さんと待ち合わせ。倉垣君は先週、恒例になっている唐牛健太郎の墓参りに行ってきたというのでその話を聞く。西部さんの娘さんも来ていたという。浜尾さんはフリーの編集者となって活躍中。彼女は元は倉垣君が創業した会社で倉垣君の秘書をしていた。倉垣君は偏食なので「お昼のお弁当を買うとき苦労しました」と言っていた。

7月某日
桐野夏生の対談集で近代政治思想史専攻の原武史が「天皇制の深層に迫っている」と語っていた「女神記」(桐野夏生 角川書店 2008年)を読む。ヤマトの南方、「海蛇島」の巫女の家系に生まれたナミマは、マヒトと恋に落ちて孕む。2人は小舟で島を逃れ、ナミマは海上で娘を出産する。ナミマはマヒトと娘の3人で幸福感の絶頂にあったが、突然マヒトに殺される。殺されたナミマは地下宮殿の黄泉の国で女神、イザナミに仕える。小説はここからイザナキイザナミの物語へと移っていく。そこに天皇制の根源があるというのが原の考えだと思うが私の理解を超える。むしろ私は先週、処刑された麻原彰晃らのオウム真理教の幹部も黄泉の国に行くのだろうか、と愚にもつかぬことを考えた。

7月某日
図書館で借りた「漱石の印税帖-娘婿がみた素顔の文豪」(松岡譲 文春文庫 2017年2月)を読む。著者の松岡譲は芥川龍之介、久米正雄、成瀬正一らと東大時代に同人誌第4次「新思潮」を出し、その縁で漱石最後の門下生となった。漱石の没後、漱石の娘の筆子と結婚することになる。その間に生まれたのが巻末の「父に代わっての娘よりのあとがき」を書いた半藤末利子で、私の記憶に間違いがなければ作家の半藤一利の奥さんである。松岡は非常に寡作だったが、それでも暮らしていけたのは夏目家の財産管理もやっていたのではないかというのは私の想像である。想像ではあるが漱石の印税収入についてこと細かに記した「漱石の印税帖」や漱石の遺品に触れた「漱石の万年筆」などを読むとあながち私の想像も外れてないのかもしれない。私が面白く読んだのが「回想の久米・菊池」で菊池とは作家で文藝春秋の創業者でもある菊池寛のことである。久米はもともと惚れやすいタイプで漱石の娘、筆子にも一方的に惚れて母の鏡子に結婚を申し込んでいた。しかし筆子の心は松岡にあり、久米は失恋を余儀なくされる。松岡と筆子の結婚後、久米は2人を「悪者に仕立て一連の甘美な失恋小説を続けざまに書いた」(父に代わって娘よりのあとがき)そうだ。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
「桐野夏生 対論集 発火点」(文藝春秋 2009年9月)を読む。小説では読み取ることのできない作家の「想い」が伝わりなかなか面白かった。読もうかなと思ったのは「松本清張の遺言」を書いた原武史との対談が収録されていたため。原は今までの天皇論が「お堀の外側」の天皇しか見ていないのではとしたうえで、「お堀の内側」、具体的には宮中祭祀に焦点を当てないと、戦前と戦後を一貫する天皇像をとらえ損なうとする。そして桐野の「女神記」(角川書店)を「天皇制の深層に迫っているのではないか」と強い感銘を受けたと語る。「憲法や政治史からいったん離れて、神話を通して天皇制に迫っていく」と評価するのだ。これに対して桐野は「古事記」「日本書紀」のイザナミとイザナギの物語の持つ「女性にとってのむごさ」に触発されて「女神記」を書いたと語り、「原さんがおっしゃった天皇制の根源に突き当たるとは全く思わずに書いたのです」と答える。作者の想いと学者の想いが交差する面白さがある。他にも松浦理英子、皆川博子、林真理子、小池真理子、柳美里、坂東眞砂子という女流作家との対談も面白かった。

7月某日
図書館で借りた社会学者の橋爪大三郎と経済学者の小林慶一郎の対談集「ジャパン・クライシス―ハイパーインフレがこの国を亡ぼす」(筑摩書房 2014年10月)を読む。遅々として財政再建が進まず赤字国債の発行額が一向に減らない日本財政に危機感を抱く橋爪が小林に財政危機の原因とその処方箋を聞くという体裁。本来は赤字国債の発行は禁じられている。それにも関わらず特例法によって発行が認められそれが何年も続いている。麻薬で当面の痛みを回避しているようなものである。このままいけば誰も国債を買わなくなり、金利は高騰し、大不況に突入。そうならないように日銀が国債を買い支えればハイパーインフレが待っている。そうならないためには消費税を35%に上げるしかないと小林はいう。きわめてまともだと私は思う。この本が発行された2014年に国債等の国の借金は1000兆円を超えたが、2015年度末では1091兆円。これは日本のGDPのほぼ2倍である。にもかかわらず消費税は8%。10年後、20年後には危機が顕在化する可能性が強い。与野党それにこのような財政政策を許した国民の責任は重い。将来世代に申し開きができない。

7月某日
「私は河原乞食・考」(小沢昭一 岩波現代文庫 2003年9月)をたまたま図書館で見かけ読むことにする。巻末に「本書は1969年9月三一書房より単行本として、1976年9月文藝春秋より文春文庫として、それぞれ刊行された」とある。小沢昭一は1924年生まれ(没年は2012年)だから著者が40代の作品である。文庫本で400ページ余り、なかなか読みでがあり面白く、かつまた私もヒマであるので2日で読了した。著者の目線の低さと志の高さに魅了されたというか。目線の低さということでは本書にはストリッパーや香具師、ゲイバーのママ、ホモセクシュアルの“権威”等が登場するのだが、著者の彼ら(彼女ら)に対する目線が常に対等ということである。むしろ世間で蔑みられがちな彼ら(彼女ら)にこそ真実がある、と著者は考えているのである。偉ぶらず、肩肘張らず、それでいて本音を語らせる。目線の低さはまた志の高さにも表れていると思う。日本の芸能の原点を探りたいという志の高さである。その志は中世期の「賤民」が我が国の芸能に果たした功績を忘れまいとする著者の姿勢にも表れている。なんて小難しい理屈を並べてしまったけれど、リクツ抜きに面白かったというのが本音である。
「私は河原乞食・考」の巻末に「付録 落語と私」が収録されている。麻布中学から海軍兵学校を経て早稲田大学に進学、そこでの折々の落語、落語家との付き合いが綴られている。それに触発されて、図書館の「古典芸能」のコーナーに行くと落語の本がたくさんあった。そのなかで「この世は落語」(中野翠 筑摩書房 2013年3月)を借りることにした。「明烏」「崇徳院」「湯屋番」「柳田格之進」「中村仲蔵」「居残り佐平治」「粗忽長屋」「芝浜」「酢豆腐」といった落語の概略を紹介しつつ落語の魅力を語る。魅力を語るついでに中野の辛口の現代批評が顔を出す。「三方一両損」では「とにかく! カネ、カネ、カネの世の中。ポイントカードだの割引サービスだの小銭に目の色変える平成のオリコウ者たち。落語の世界にだけでも、その逆を行ってイイ気になっている馬鹿野郎がいてくれるのは、ありがたいことじゃないですか?」とバッサリ。