モリちゃんの酒中日記 10月その4

10月某日
向田邦子の文庫本を図書館で借りた。文庫本の向田邦子のコーナーには10冊ほど並んでいたので一番薄そうな「きんぎょの夢」(文春文庫 1997年)を借りる。扉をめくると「この作品は向田邦子氏の放送台本を中野玲子氏が小説化したものです」とあった。そうだった。向田邦子は放送作家として「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」などの代表作がある。昭和55年に初めての短編小説で直木賞を受賞したが翌年8月、台湾で航空機事故により亡くなったのだ。だから残された作品は小説よりも放送台本のほうが圧倒的に多いに違いない。この文庫本には表題作はじめ3編が収められている。長編では無論ないが短編としては長めである。表題作の「きんぎょの夢」は次のような構成になっている。①主人公の砂子が末の妹の信子と暮らすアパートで父の七回忌の法要が行われ、他家に嫁いだ和子も駆けつける。法要が終わったあと僧は帰り、姉妹で寿司をつまむ②砂子は父が勤めていた新聞社の近くでカウンターだけのおでん屋をやっていて、かつての父の同僚が常連客となっている。常連客のひとりの良介と砂子は恋仲である。新聞社の週刊誌の編集部員である良介におでんを出前して店に帰った砂子を待っていたのは良介の妻みつ子である③砂子が帰宅すると和子が待っている。夫の浮気が発覚し家を出てきたのだ④良介が熱を出し、みつ子の頼みで砂子は四谷の二人の家へおでんを出前する。二人の様子を見て、砂子は二人が一生別れられないであろうと気付く。店に帰った砂子を、カウンターの金魚鉢の金魚にエサをやっている常連客の折口が待っていた。折口は「赤いべべ着た可愛い金魚」と低い声で歌いだし、砂子もごく自然に唱和する。「①から④で1時間のドラマかな」と想像する。放送の台本であるから構成がしっかりしている。基礎がしっかりしているから初めての短編小説でも直木賞を受賞することができたのだろう。

10月某日
アベノミクス批判の急先鋒、エコノミストの浜矩子の「自国第一主義という病-リーダーたちが招く破綻のシナリオ」(毎日新聞出版 2018年7月)を読む。本書の第1章は書下ろし、第2章~第4章は毎日新聞連載の「危機の真相」(2015年11月~2018年3月)を編集したもの。今年2018年は明治元年から150周年の年だが、浜矩子はむしろ第一次世界大戦終結(1918年)から100年に着目する。1年後の1919年にヴェルサイユ条約が締結され、その20年後の1939年に第二次世界大戦がはじまる。この20年間は「戦間期」と呼ばれるが、浜は戦間期と現在の類似性を指摘する。1929年の株価大暴落⇒2008年のリーマン・ショック、1930年代の大不況⇒2009年以降のグローバル・デフレ、英米仏の通貨戦争⇒日米中の通貨戦争、英米独仏の通商戦争⇒米対その他の通商戦争、ファシズムの台頭⇒自国第一主義者たちの出現であり、これらをまとめると狂乱の1920年代⇒金髪の2000年代ということになる。2000年代初頭にgoldilocks economy 金髪経済という言い方がはやったそうである。ゴルディロックスは金髪のお下げが似合う小さな女の子、「ちょうどいい」という感じで「ほどよく低金利で、ほどよく低インフレで、そこそこの成長率が達成されている」状態だ。浜は「戦間期」と「今」の間には驚くべき二重写し関係があるとし、私たちは「このことを脳裏に焼きつけ、胸に刻み込んでおく必要がある」という。浜矩子はたんなるエコノミストではないと思う。経済分析が的確な歴史認識に支えられており、的確な歴史認識は浜の幅広い教養に支えられているのだ。本書でも旧約聖書やアイザック・アシモフのSF、不条理演劇の「ゴドーを待ちながら」などに触れられている。それだけではない。引用は毎日新聞の「仲畑流万能川柳」にまで及ぶのである。

10月某日
「活動寫眞の女」(浅田次郎 双葉文庫 2000年5月 単行本は1997年7月)を読む。舞台は昭和44年の京都、その年、京大文学部に入学した三谷薫が「僕」として物語を進行する。古い映画館で知り合った京大医学部の2回生、清家忠昭と友人になる。2人は清家の知人のつてで太秦の映画製作所に映画エキストラのアルバイトに行くようになる。撮影現場で出会った美人の大部屋女優、伏見夕霞がヒロイン。実は夕霞は山中貞夫監督(人情紙風船の監督で知られる戦前の名監督。中国戦線で戦死)と相思相愛の仲だったが、山中監督の死を知って世をはかなんで自殺している。つまり2人が出会った夕霞は亡霊である。前に読んだ浅田次郎の「沙高楼奇譚」では同じ京都の太秦を舞台に、幕末の勤王の浪士が時空を超えて池田屋事件の撮影現場に登場するという短編があった。ファンタジーは浅田次郎のジャンルの一つであろうが京都の太秦というか、撮影現場に強いこだわりがあるのだろうか。それはともかく、私には舞台となった昭和44年には強いこだわりがある。つまり1969年だ。前年に早稲田の政経学部に入学した私は学生運動にのめり込む。一方で同級生の女子大生と恋に落ちる。つまり恋愛と学生運動に一途だったわけ。ついでに言えば土方仕事のバイトもまじめにやった。学生運動と恋愛、バイトに忙しく勉学にいそしむ暇はなかった。授業に真面目に出たのは1年生の1学期まで。ゴールデンウィークが明けたら教室から足が遠のいた。それでも4年で卒業させてくれた早稲田大学はエライ。

10月某日
愛知県を中心に家具の転倒防止活動に取り組んでいる建築家の児玉道子さんが東京出張の帰りに西新橋のHCMのオフィスに寄ってくれる。東京出張は老年学会に出席のためだとか。児玉さんの活動はもう少し注目されてもよいと思うけれど。お昼に本陣坊のそばを食べる。児玉さんに「森口漬」をお土産にいただく。

10月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」で呑む。社会保険研究所の鈴木俊一社長も参加、遅れて今は京都大学の東京事務所の仕事をしている大谷源一さんも来る。堤さんは厚生省で経済課長をやったことがあるので鈴木さんとの話は「薬価」で盛り上がっていた。私は薬価についてはほぼ門外漢なのだが、医療政策や福祉政策と少し違うのかなと思ったのは、医薬品を巡る政策は産業政策的な側面が強いということだ。厚生行政よりも経済産業政策に近いのではないか? 医療や福祉についても技術の進歩や高齢化によって、日本の経済に占めるウエートは今後も増えていかざるを得ない。産業政策的な配慮もより必要になってくるということだろう。

モリちゃんの酒中日記 10月その3

10月某日
卒業した中学と高校のクラス会があるので3泊4日の日程で北海道へ。初日は格安航空券で成田から新千歳空港、空港からは電車で登別、登別からタクシーで中学のクラス会会場の虎杖浜温泉ホテルほくようへ。中学のクラス会は何年か前、室蘭でやって以来。卓球部だった向井君、野球部だった晴山君や武田君は半世紀ぶりの再会だが、みんな面影はしっかりあった。宴会の後はカラオケルームで2次会。翌日はほとんどの人がバスで札幌方面へ帰るが、私は宮野君の車で東室蘭のホテルまで送ってもらう。室蘭では弟夫妻と夕食を一緒にとることになっているが、時間があるので卒業した蘭東中学まで歩く。同じ場所に中学校はあったが名前は変わっていた。中学校から自宅のあった水元町まで歩く。水元町からバスで東室蘭へ行く。途中、卒業した室蘭東高校前を通ったが、こちらも名前が変わっていた。私らが中高生の頃は室蘭も高度成長経済の波に乗って景気も良く、人口も膨張していたのだが、「鉄冷え」の時代が続き人口は激減、公立の学校も統廃合されたということだろう。夜、弟がホテルへ迎えに来てくれてホテル近くの居酒屋へ。私はもっぱら北海道の地酒を頂く。

10月某日
高速バスで高校のクラス会のある札幌へ。時計台前で下車、創成川沿いを歩いて会場の第一ホテルへ。高校のクラス会は普通科の3クラスが合同なので50人近くが集まる。倫理社会の先生だった富森先生が出席してくれる。中学のクラス会もそうだったが高校も女性の元気さが目立つ。夫に先立たれた女性も結構いた。おじいさんが朝鮮半島出身の女性がいたが、B型肝炎で国から補償金を得たり、今も病院で清掃の仕事を続けているそうだ。子供の頃近所だった山本君と同室。朝食後、数人とおしゃべりして解散。私は札幌駅まで歩き千歳空港まで電車。格安航空券で羽田へ。

10月某日
札幌行きの飛行機で読了したのが「オウム真理教事件とは何だったのか?-麻原彰晃の正体と封印された闇社会」(一橋文哉 PHP新書 2018年8月)。麻原が教団を設立した前後にブレーンとなった「神爺」「長老」「坊さん」の3人の証言からオウムの深層に迫ろうとしているのだが、この3人の証言の信ぴょう性が検証されていないのが難点。むしろ裁判記録を徹底的に検証して裁判で明らかになったことと、解明されなかったことを示すべきではないかと思う。麻原を「詐欺師」と断定する著者の視点にも疑問が残る。宗教的にも検証されるべきと思うのだが。

10月某日 ‘
飛行機の中で新書を読み終えてしまったので室蘭在住の弟に「薄めの文庫本(小説)を下さい」とメールしたら「指の骨」(高橋弘希 新潮文庫 平成29年8月)を用意してくれた。帯に石原慎太郎が「大岡昇平の名作『野火』『俘虜記』に匹敵する戦争文学だ。」という推薦の言葉が印刷されている。著者の高橋は1979年生まれだから私の子どもと同じ世代、太平洋戦争はもちろんベトナム戦争だって知らないはずだ。そういう人が書く「大岡昇平に匹敵する戦争文学」ってどういうことなのだろう、俄然興味を抱いてしまった。主人公の「私」は「赤道のやや下に浮かぶ、巨大な島。その島から南東に伸びる細長い半島」に米軍基地を占拠する目的で上陸するが、戦闘で負傷し後方の野戦病院へと担送される。「巨大な島」とはおそらくニューギニアのことだ。物語の前半はこの野戦病院での日常が淡々と描かれる。絵の巧い負傷兵や現地の子供たちに紙飛行機を折ってやる病兵、サナトリウに勤務していた軍医。彼らにとっての野戦病院は、まさに日常なのだが、野戦病院である以上、傷やマラリアが悪化して死亡する兵もいる。「指の骨」は死者の指を切り離し、遺品として持ち帰ることからタイトルとされている。戦闘の悪化にともない、野戦病院は撤収し歩ける兵はジャングルを転進する。銃も鉄兜もどこかへ行ってしまい「私」はいつか一人の敗残兵となる。ここら辺の描写が「野火」を連想させるのかもしれないが、私はむしろその乾いた文体からか、初期の大江健三郎の作品「飼育」や「死者の奢り」を思い出した。それにしても高橋弘希は日本の軍隊のことをよく調べ上げたと言わざるを得ません。

10月某日
図書館で借りた「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(吉田裕 中公新書 2017年12月)を読む。たまたまなんだけど「指の骨」で描かれた兵士の太平洋戦争を、資料から明らかにしようとしたユニークで意欲的な新書である。「はじめに」によると、ある時期まで軍事史研究は防衛省防衛研修所などの旧陸海軍幕僚グループによる「専有物」だったという。おそらく開戦に至る経緯とか戦時中の銃後の政変、あるいは敗戦に至る政治過程とか、そういうところに歴史学の学問的関心があり、戦場や兵士の暮らしについてはあまり重視されてこなかっただろうと思う。「あとがき」で著者は、無残な死を遂げた兵士たちの死のありようを残しておきたいと強く思うようになり、1999年に靖国偕行文庫で部隊史や兵士の回想録を閲覧できるようになったのも書き残しておきたいという想いを一層強くしたと述べている。たしかに本書で紹介されている兵士の回想録や部隊史には、あの戦争がいかに無謀な戦争であったかが赤裸々に語られている。ようするに日本の生産力、国力が米英に比較すれば著しく劣っており、短期戦ならばともかく4年にもおよぶ長期戦を戦うべくもなかったのである。昭和天皇はじめ当時の権力者、指導者の責任は非常に重いと言わざるを得ない。本書を読んでもっとも感じるのは「兵隊さんは可哀想だね」ということと戦場となったアジアの人々に「迷惑をかけたんだなぁ」ということである。

モリちゃんの酒中日記 10月その2

10月某日
大谷源一さんと上野の「養老乃瀧」で吞む。焼酎をボトルで頼む。その方が安上がりではある。しかし「養老乃瀧」はボトルキープができない、2人でボトル1本はかなりハードである。2人とも今年70歳だからね。隣のテーブルで吞んでいた中年女性2人組と話す。「清掃の仕事をやっている」という女性は確か72歳と言っていた。「生涯現役」ってわけだ。本当にエライと思う。

10月某日
「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏 講談社文庫 2000年5月)を読む。「新時代からの挑戦状」(厚生労働統計協会)の金子隆一論文を読んでから「歴史人口学」に興味を抱く。で、本書は1983年にPHP研究所から刊行された「日本2000年の人口史」が底本になっているというから、まぁ大筋は35年前の内容なんだけれど私には全然古さを感じなかった。むしろ新鮮でさえあった。「人口の推移を歴史的に読み解く」という「歴史人口学」の存在自体を知らなかったので無理はないけれど。人口は奈良時代以降はある程度、残された文献や江戸時代以降は寺の過去帳や宗門改帖で推し量ることができる。それ以前の縄文、弥生時代は遺跡から推計するしかない。集落の遺跡を調査し、住戸が何戸あり1住居には何人居住したかを推計するのである。その過程で当時の人々が何を食べていたかも分かってしまう。人骨や過去帳を調べることによって過去の寿命がどれくらいだったかもわかる。「人生僅か50年」というけれど出生時平均余命が50歳を超えたのは、第2次世界大戦後の1947年で男50.1歳、女54.0歳だった。男も女も平均余命では還暦を超えることがなかったのだ。
著者は「人口は自然環境の変動によって影響を受けるとともに、文明システムの転換や国際関係の変化とも密接に関連していた」(P253)という。自然環境の変動というのは、たとえば気候の変動によって採取する植物や魚、動物が激減したり、冷夏によってコメの収穫がほとんど期待できなかったりすることである。文明システムの転換とは、日本の場合は採取、漁撈、狩猟から水稲農耕を基盤とする農業生産への転換、さらに産業革命を経て工業化社会に至ったことを示す。国際関係の変化とは江戸時代の鎖国や、明治以降の近隣諸国への進攻、侵略を指す。さて、これからである。現代文明を特徴づけるのは生物的資源から非生物資源への、エネルギー利用の転換だ。農業社会は牛馬や人間自体の労働に依存し、水力、風力などの自然力が補っていたが、工業社会では石炭、石油、天然ガス、ウランなどの非生物エネルギー資源の利用が進んだ。だがこれらの非生物エネルギーはいずれは枯渇する運命にある。著者は「簡素な豊かさ」という表現で、エネルギーと資源を、再生可能な自然力と生物へ転換することを主張する。さらに「必要以上の消費をせずに、効率的な資源利用を実現することによって、環境汚染を防ぐとともに、南北間の資源の公平な分配に寄与しうる」(P273)とする。そして人口減少社会、超高齢化社会に適合したシステム、ライフ・スタイルの確立を訴える。正しいと思います。

10月某日
「思い出トランプ」(向田邦子 新潮文庫 昭和58年5月 単行本は55年12月)を読む。山本夏彦が「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と評したのは有名だが、向田は本作に収められている「花の名前」他2作で昭和55(1980)年の直木賞を受賞、翌年の8月、台湾旅行中に飛行機事故で亡くなる。ということは亡くなってもう40年近く経過していることになる。そんなに時間が経っているなんて信じられないが、当時の直木賞の選考委員で向田を推した山口瞳、水上勉、阿川弘之の3人もすでに故人だから、そういうことなのだろう。直木賞受賞作の「花の名前」は結婚25年の夫婦の話。妻の常子に「ご主人にお世話になっているものですが」と女から電話があり、ホテルのロビーで会うことになる。つわ子と名乗った女は、二流どころのバーのママらしかった。帰宅した夫と妻の会話。「電話があったわよ。あのひと、一体・…」/追い討ちをかけると、夫の足が止まった。/「終わった話だよ」/そのまま入っていった。/またひと廻り、躯が大きく分厚く見えた。その背中は、/「それがどうした」/と言っていた。
結婚する前、夫は花の名前を桜と菊と百合しか知らなかった。夫は子供の頃から勉強一筋、「数学と経済学原論だけが頭にあった。真直ぐ前だけ見て走ってきた」のだ。「花の名前。それがどうした。/女の名前。それがどうした。/夫の背中は、そう言っていた。/女の物差しは25年たっても変わらないが、男の目盛りは大きくなる」。向田は平成の代を見ることなく亡くなったのだが、ここに描かれた夫婦の姿は明らかに昭和のものだ。向田は1929年生まれで私の父母が1923年生まれだからほぼ同世代。「花の名前」の夫婦も同じようなものだろう。戦後生まれは、いや少なくとも私は妻に「それがどうした」とは、口が裂けても言えません。

10月某日
桐野夏生の「リアルワールド」(集英社文庫 2006年2月 単行本は2003年3月)を図書館で借りて読む。図書館で借りた本の奥付は(2018年6月第5刷)とある。実は家に帰って本棚を見たら「リアルワールド」の文庫本があった。こちらの奥付は(2006年2月)。文庫本になった直後に買ったらしい。でも読んだこと自体覚えていないし、読み進んでも内容も全く覚えていない。認知機能の衰えか?同じ本を時間をおいて2冊買うというのは以前にもあったことだが。それはともかく「リアルワールド」は同じ高校に通う4人の女子高生と、母親を殺害して逃亡中の少年の物語である。桐野夏生の小説を「プロレタリア文学」と評したのは白井聡である(「奴隷小説」の文春文庫解説)。白井は「桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と主張する。「リアルワールド」も「構造的な支配」に強くこだわった作品と言える。支配される側は4人の女子高生と逃亡中の少年である。支配する側は親、学校、大人を含めて社会である。少年の親殺しも女子高生の1人が逃亡に同行してタクシー運転手を脅し事故死するのも、1人の女子高生の自死も、社会に対する単独の「蜂起」と言えなくもない。単独の「蜂起」は当然、失敗し支配される側には絶望が残る。ただ、最近の桐野の作品には「バラカ」「夜の谷を行く」など結末に「未来」へのほのかな希望を示すものもある。

10月某日
「思い出トランプ」に続いて向田邦子の「男どき女どき」(新潮文庫 昭和60年5月 単行本は昭和57年8月)を読む。向田が台湾を旅行中に航空機事故で亡くなったのが昭和56年の8月だから、単行本は死後の刊行である。遺作となった短編小説が4編、あとは雑誌などに掲載されたエッセーである。短編小説を読んで改めて「うまいなぁー」と思う。「鮒」は中年サラリーマンの塩村が主人公。小料理屋の手伝いをしているツユ子のアパートに週に一度通うような関係になり、ツユ子は鮒を鮒吉と名付けて飼い始める。塩村の出張や病気で寝込んだのをしおに、塩村はアパートから足がごく自然に遠のいて一年がたつ。日曜日、家族4人で笑いあっていると台所で音がする。行くとポリバケツに入れられた鮒がいた。塩村はツユ子とのことが家族に露見しないか気を揉むが、息子の守が鮒を飼いたいと言いはじめ水槽も買ってくる。鮒が来た次の日曜日、塩村は息子を誘ってツユ子のアパートのあったあたりを訪ねる。ツユ子は引っ越したらしい。「塩村はもっと自分をいじめたかった。鮒吉の世話をしてくれている守を連れて、一年前の古戦場を葬って歩きたかった。そうするのが守に対しての仁義だと思った。ツユ子に対する罪ほろぼしというところもあった」。うちへ帰ると鮒吉は浮いていた。終り方がいい。「『ねえ、パパとどこへ行ったの』/守は、もう一度そっと鮒を突いて水の中へ沈めてやると、/「ワン!」/犬の吠えるまねをした」。息子もなんか気が付いているわけね。向田邦子は一度も結婚していないし子供も持たなかったわけだけど「家族」を描くと実にリアリティがある。「鮒」では幸福な家族とその異物としての夫の「浮気」、そして息子の成長といったものが「鮒吉」の一家への闖入と退出を通して語られる。
エッセーでは向田邦子の実像がより迫ってくる。「ゆでたまご」というエッセーでは小学校の足の悪いクラスメイトのことを綴る。足だけでなく片目も不自由だった彼女は家も貧しく性格もひねくれていた。運動会の徒競走で彼女は当然、とびきりのビリ、走るのをやめようとした瞬間、女の先生が一緒に走り出し、彼女を抱え込むようにしてゴールする。この先生はかなりの年配で叱言の多い学校で一番嫌われていた先生だった。向田は「私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です」と書く。エチオピアとカンボジアで出会った少年たち、内戦をどうくぐり抜けたのかと気遣うエッセー(えんぴつ)、伝統的な日本人の価値観について「人さまの前で『みっともない』というのは、たしかに見栄でもあるが含羞でもある。恥じらい、つつしみ、他人への思いやり。いやそれだけではないもっとなにかが、こういう行動のかげにかくれているような気がしてならない」と綴り、「私は日本の女のこういうところが嫌いではない。生きる権利や主張は、こういう上に花が咲くといいなあと、私は考えることがある」(日本の女)と結ぶ。こういうことを嫌味なくあっさりと書ける人はなかなかいません。

10月某日 
「山本周五郎名品館Ⅳ 将監さまの細道」(沢木耕太郎編 文春文庫 2018年7月)を読む。山本周五郎の長編は結構読んできた。「樅ノ木は残った」「さぶ」「虚空遍歴」「青べか物語」など。短編はあまり読んだことがなかったし、沢木耕太郎編というのが気になって読むことにする。9編の短編が収められておりそれぞれが面白かったが、私が勝手に分類すると居酒屋と娼家を舞台にしたのが2編ずつ、市井ものが3編、武家ものが2編。沢木耕太郎の「悲と哀のあいだ」と題された「解説エッセイ」で、山本周五郎と山手樹一郎を対比している。このエッセーで初めて知ったのだが、山手樹一郎は作家になる前は編集者で、売れない前の周五郎は金銭的にも編集者時代の樹一郎に世話になったらしい。戦後、樹一郎が時代小説作家としてデビューし流行作家になる。樹一郎の小説は戦後の大衆に支持されたのだが、彼自身は「大衆作家」としての自分に不満だったらしい。周五郎は今の路線でいいのではないかと樹一郎に言うのだが、沢木はそこに周五郎の「勝者」としての「傲り」のようなものが滲んでいないかと書く。このエッセーは周五郎の短編みたいな味がある。

10月某日
「のろのろ歩け」(中島京子 文春文庫 2015年3月 単行本は2012年1月)を読む。映画で言うと海外ロケ物の中編小説が3編。舞台は台湾、北京、上海。「天燈幸福」は生前、母から台湾旅行を誘われていた美雨が一人で台湾を訪ね、母の知人に会う話。旅の途中で知り合った台湾人青年の「トニー」がエスコートしてくれる。台湾は1985年日清戦争の結果、日本に割譲され1945年の日本の敗戦まで日本の統治下にあった。朝鮮半島では日本の植民地支配に対して、例えば従軍慰安婦問題のように鋭い告発が今でもされるのだが、同じ旧植民地でも台湾とは温度差があるように思う。台湾は日本の植民地支配が終わった後、蒋介石の国民党が軍隊と共に台湾に逃れ、これがかなりの圧政、暴政を敷いたらしい。私の想像だが、これが日本の植民地支配の印象を薄めているのではないか。「北京の春の白い服」は、中国の女性向けファッション誌の創刊に日本人スタッフとして招かれた夏美が雑誌の中国人スタッフやビジネスセンターの常盤貴子似のスタッフとの交流、日本人留学生のコージとの出会いを通して、彼女の中国への想いが変化していく様子が描かれる。夏美のアメリカ人のボーイフレンドは天安門事件のときに中国に滞在し、中国政府の民衆弾圧を目撃している。彼と夏美の意識のズレも読みどころの一つ。「時間の向こうの一週間」は夫が赴任する北京で二人で住むためのアパートを探しに来た亜矢子は、夫が仕事の都合で北京を離れざるを得ず、中国人ガイドのイーミンと二人で物件をまわらざるを得なくなる。亜矢子とイーミンの束の間の交情。海外を舞台にした小説って「束の間の交情」がいいんだよね。

モリちゃんの酒中日記 10月その1

10月某日
「死と生」(佐伯啓思 新潮新書 2018年7月)を読む。著者の佐伯は東大の大学院で西部邁の下にいたことがあったんじゃなかったかなぁ。今は京大名誉教授で京大こころの未来研究センター特任教授。保守派知識人と呼ばれることが多いが、私は西部や佐伯を「日本会議」を根城にする所謂「保守派知識人」と一緒にするのには大いに抵抗がある。それはさておき本書は日本人の死生観について佐伯の年来の考えを表出したもの。佐伯はもともとは経済学の出身なのだが近年は社会思想家として「西田幾多郎」の著書もある。東大の経済学部、大学院で佐伯とほぼ一緒だったと思われる間宮陽介も、京大経済学部長も務めた「経済学者」なのだが、「丸山眞男を読む」を著したり「経済学」におさまらないフィールドで活動している。また話が横道にそれた。佐伯の考える日本人の死生観は、「仏教的なるもの」に多くの基礎を置いている。これはまぁ当たり前なのだが、佐伯の「仏教的なるもの」は古くはゴータマ・ブッダの原始仏教に始まり、平安時代の源信の浄土思想、さらに法然、親鸞、道元、鴨長明、現代の松原泰道に及ぶ。
佐伯は1949年生まれだから私より1歳下である。年齢的なこともあって「死」について思索するようになったのであろうか。また経済学的な思考をはじめ近代合理主義に包括される社会科学全般に限界を感じて「仏教的なるもの」に惹かれて行ったのか、そこは分からない。しかしキリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教と比べると仏教は異質である。ゴータマ・ブッダは仏教の開祖であるが、唯一神ではない。大日如来は密教では教主、主尊とされるが、浄土宗、浄土真宗では阿弥陀仏が本尊である。キリスト教、イスラム教にも宗派、分派があるが、仏教ほど多くはないのではないか。仏教はおおむね分派や他宗派に寛容だが、キリスト教は宗教戦争を戦ったし、イスラム教は現在でもISその他の勢力が聖戦を戦っている。佐伯は仏教の多くの宗派、分派を超えて「仏教的なるもの」に着目する。それは日本人の自然観―農耕社会的な生成の観念、つまり次々と命を生み出し、やがて朽ちてゆくという一種の植物的な生命観―に通じる、という(第7章「あの世」を信じるということ)。ふーん、何となくうなづけるものがある。

10月某日
浅田次郎の「沙高楼奇譚」(文春文庫 2011年11月)を読む。浅田次郎は最近好きな作家で、随分と読んだような気がするのだが、何しろ量産型の作家なのでとても追いつけない。浅田は多作という意味では量産なのだが、私が読んだものは私にとってはどれも面白かった。その点「外れ」のない作家で、私のようにさしたる目的もなく「ただ本を読むのが好き」なものにとってはありがたい。私は原則として一度読み始めた本は、つまらなくとも読み通すので、「外れがない」のは時間を有効に遣っているように思えるのだ。本書の狂言回しを務めるのは浅田とおぼしき、元刀剣売買の世界にいた作家である。ある日上野の国立博物館に刀剣を観に行きそこで旧知の鑑定家に会い、その日開かれるという会に誘われる。連れていかれたのが青山墓地ほとりの高級マンションの最上階で、玄関のホールには「沙高楼」と書かれた扁額が掛けられていた。その沙高楼の広いラウンジで出席者が自分の体験を語るというのが物語の骨格。1人目は作家を誘った鑑定家で、贋作に奇妙な情熱と技巧を凝らすある刀剣作家の話、2人目は名門私立の小学校を転校していった美少女と自分との30年に及ぶ奇妙な出会いを語る精神科医、3人目は戦後すぐの京都太秦の撮影所で、池田谷事件を題材にした時代劇を撮影中のキャメラマンの時空を超えた体験、4人目は本家の指令で自分の親分を殺害せざるを得なくなるヤクザの話である。2話目はたぶん親の破産で学校を転校せざるを得なかった浅田の体験が元になっていると思うが、他の3作は純粋な創作だろう。純粋な創作故に、1作目は日本刀、3作目は映画製作、4作目はヤクザについての実情、実態が綿密な資料調べの下に行われている。それがややもすれば荒唐無稽に取られかねないストーリーにリアリティを与えていると思われる。

10月某日
「未完のレーニン-〈力〉の思想を読む」(白井聡 講談社選書メチエ 2007年5月)を読む。本書はおそらく白井聡の初めての単行本である。「あとがき」にあるように本書は白井の修士論文がもとになっている。とは言え出版当初はそれなりに話題になったし、その後の白井の論壇での活躍は言うまでもないだろう。本書の書かれた意図はソ連邦をはじめ、いくつかの例外を除いて社会主義諸国が消滅した今日、レーニンが考えたこと、目指したことは何かを明らかにしていくことにある。そのため白井はレーニンの「何をなすべきか」と「国家と革命」を取り上げる。個人的なことを述べると私がレーニンの著作を初めて読んだのが「国家と革命」で大学に入学した直後、「ロシヤ語研究会」(露語研)というサークルの読書会で読みあわせた。もちろん露語研とは言え読んだのは日本語。国家とは階級対立の非和解的な産物であり、警察、軍隊は国家の暴力的な機構に過ぎないというレーニンの論に若い私は「その通り!」と思ったものである。「何をなすべきか」を読んだのは、私が過激な学生運動から召喚して、大学ももう卒業していたかも知れない。しかし自分の敗北経験からしても、労働者の自然発生的な意識からは革命的な意識は生まれないし、確固とした前衛党、すなわち労働者からの外部から意識を注入しなければ労働者は革命化しないという論にも「まぁそうだよな」と思ったものである。「国家と革命」の読後感が「その通り!」に対して「何をなすべきか」のそれが「まぁそうだよな」というのは、学生運動からの転向前と転向後の私の「意識」の違いをあらわしていて面白い。
今、「未完のレーニン」を読み終わって私は何を思うか。第一次世界大戦の前に、帝国主義諸国の領土争奪戦はほぼ終わっていた、そうであるが故に「遅れてきた」帝国主義国家であるドイツ英仏露に対して宣戦布告し、社会主義の国際組織だった第2インターナショナルは雪崩を打って「祖国防衛戦争」を支持した。ロシア社会民主党・ボルシェビキのなかでも「祖国敗北主義」を唱えるレーニンは少数派であったが、亡命地スイスで2月革命の報を聞いたレーニンは封印列車でロシアに帰り、武装蜂起を主張しその準備を進める。そのとき書かれたのが「国家と革命」である。革命によって国家権力を奪取した労働者階級とその前衛党は当面、プロレタリア独裁によってブルジョア階級を抑圧する。やがて抑圧すべきブルジョア階級は消滅し、階級抑圧の機関としての国家は必要なくなる。レーニンは一国で社会主義が成立するとは考えていなかったから、国家の消滅とともに国境も消滅する。少なくともロシア革命時、「国家と革命」を執筆していた当時、レーニンはそう考えていたに違いない。レーニンは革命後、数年にして死亡する。レーニン死後、スターリンが権力を掌握し一国社会主義を唱え、トロツキーはじめ、多くの反対派が粛清される。ソ連が実現した「社会主義」を見たらレーニンはどう思っただろうか?歴史に「if」はないけれど。

10月某日
長年の友人だった竹下隆夫さんが亡くなった。10月5日に未明に亡くなりその日、フィスメックの小出社長から訃報を聞いた。通夜は7日、告別式は8日だった。通夜の前日、奥さんの敦子さんから弔辞をお願いしたいという連絡があり、我ながら「心に沁みる」弔辞を書いた。ところがである、通夜の当日、武蔵野線の北朝霞を乗り過ごし斎場に到着したのは通夜開始のギリギリであった。「時すでに遅し」。結核予防会理事長の弔事に続いて友人代表として弔辞を述べたのは社会保険研究所の川上会長であった。献花のときに奥さんと娘さんに「申し訳ありませんでした」と謝り「竹下さんもモリちゃん、しょうがないなぁ、と許してくれると思いますが」と付け加えました。お清めの席で元厚労省の末次さん、高根さん、江利川さん、宮島さん、唐沢さん、ふるさと回帰支援センターの高橋理事長、高齢者住宅財団の落合さん等と話す。帰りは大宮まで出て落合さん、大谷さんと吞む。大宮から東武野田線で柏まで出て我孫子に帰る。我孫子駅前の愛花による。