モリちゃんの酒中日記 11月その3

11月某日
千葉県の「地域型年金委員」というのを日本年金機構から委嘱されている。平成30年度の「年金委員・健康保険委員表彰伝達式」と「年金委員・健康保険委員研修会」が千葉市文化センターであるので出席することにする。会場に行くと8割方の席は埋まっていてしかも若い人が多い。年金委員というのは職域型と地域型の2種類あり、健康保険委員は健康保険協会(かつての政府管掌健康保険)が委嘱するので職域型のみだから、職場の委員さんが参加しているので若い人が多いのだろう。伝達式の後の研修会で千葉年金事務所の鈴木和彦適用調査課長の「年金制度改正等について」の講演を聞いて退席。千葉市文化センターの1階にある千葉市の物産店に立ち寄り「もみ海苔」1袋100円を2袋買う。消費税込みで200円、安い!千葉駅に戻って「築地日本海千葉駅前店」へ。室蘭東高の同級生だった品川英昭君と待ち合わせているのだが、約束の5時より前に入り口で出会う。ビールで乾杯の後、ぬる燗。品川君は北大工学部卒業後、出光に入社。63歳で退職後、今は悠々自適の身。出光時代の話を聞く。現役時代は苫小牧、徳山、姫路、千葉などの製油所勤務が多かったようだ。私は大学卒業後、印刷屋や業界紙を転々としていたので大会社に勤めた経験がなく、大会社しかも石油会社という特殊な経験を聴けて面白かった。昭和42年の室蘭東高卒業生で千葉在住は私と品川君以外にも上野、阿部、坂本、竹本らがいるので今度は船橋当たりで首都圏同窓会千葉支部会をやろうと思う。

11月某日
「ヘルパ!」の取材で(社福)にんじんの会の石川正紀常務理事に会う。介護の業界では老舗の社会福祉法人にどのように現代的な改革を施していくか、悩みつつ実践している姿がうかがえた。午後、社福協の「サービス提供責任者セミナー」の吉澤努さん(よしざわ社労士・社会福祉士事務所代表)の「介護事業者がおさえるべき労務管理のポイント」を聞いてから吉澤さんに取材。「介護職の定着率を高める決め手はない。経営者や管理者には継続的かつ複合的な努力が求められる。ひとことで言えば労働環境をコンプライアンスに則って整えるということだ」と語る。なるほど。

11月某日
フィスメックの小出建社長と竹下家を弔問。奥さんとお嬢さんに挨拶。亡くなってまだひと月。まだまだ悲しみに浸っている様子だった。南古谷から大宮に出て居酒屋へ。ここは奇しくも竹下さんの通夜の帰りに大谷源一さんと落合明美さんと来た店だった。小出社長にすっかりご馳走になる。

11月某日
社福協の高橋さん、岩崎さんと内幸町から本郷三丁目へ。「Join for kaigo」の野沢悠介取締役を取材。介護職の採用、について取材。「誰でもいいから来てください」という採用はダメ、先ずは社内で「どのような人材が必要か」話し合うことが重要とのこと。私などは高度経済成長時代の採用しか知らなかったからこれは新鮮だった。会社の現状を分析したうえで採用計画を進めるべきという考え方だと思うが、ということは採用も経営の重要な一環ということである。今回の取材は実に勉強になる。本郷三丁目から年友企画の迫田さんと丸ノ内線で淡路町へ。社会保険研究所の鈴木社長に挨拶。大谷源一さんから「今、東西線の東陽町」というメールが来たので「大手町で千代田線に乗り換えて北千住で会おう」と返す。私はJRの神田から上野経由で北千住へ。北千住の改札で大谷さんとドッキング。北千住西口の居酒屋へ。

11月某日
吉田修一の「国宝」上下(朝日新聞出版 2018年9月)を読む。朝日新聞に2017年1月から2018年5月まで連載されたものに加筆修正したもの。吉田修一の作品は割と読んでいるが、「国宝」については事前に書評も読まず、その意味では先入観なく読み進むことができた。長崎のヤクザの家に生まれた喜久雄が主人公。ヤクザの抗争の末に父を殺された喜久雄は大阪の歌舞伎役者、花井半二郎の家に引き取られる。花井の家には一人息子で喜久雄と同年の俊介がいて、すでに花井半弥の芸名で初舞台を踏んでいた。喜久雄と俊介は直ぐに打ち解けながらも互いに芸道に打ち込む。大方の予想と期待を裏切って半二郎の名跡は喜久雄が継ぎ、俊介は出奔する。俊介は地方の芝居小屋やお座敷で踊りを披露しながらも修業を続ける。二人は再開し、俊介は歌舞伎に復帰し東京に進出する。その間、喜久雄の映画出演や新派への移籍など数々のエピソードがこの小説に盛り込まれている。
地の文が「ですます調」なのが異色。冒頭、喜久雄の生まれた立花組の新年会のシーンでは「黒紋付の正装で次々に降りてくる親分衆を、『ご苦労さまです』と恭しく迎えますと、その声だけでなく、若衆たちの白い息も揃います」という具合である。吉田修一はこの小説を新聞に連載するにあたり、歌舞伎役者に頼んで黒衣を誂え、舞台裏から歌舞伎を相当取材したらしい。その甲斐かどうか舞台裏、役者の控室の描写がリアル、それだけでなく役者の会話や役者の家族の会話が、東京に進出して標準語に替っていく様がリアルに描かれる。吉田修一は1968年、長崎生まれ。私より10歳年少だがすでに現代を代表する作家となったと言ってよい。

モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
天王洲アイルで開かれている半田也寸志写真展を観に行く。フリー編集者の浜尾さんが半田カメラマンのアシスタントをやっている関係で誘われた。フリーライターの香川喜久江さんと天王洲アイル駅南口で13時半に待ち合わせ。10分ほど遅れて南口に着いたが香川さんの姿が見えない。携帯に電話すると香川さんはりんかい線の天王洲アイル駅にいるという。私はモノレール羽田線、お互いに自分に都合のいい天王洲アイル駅で待っていたわけだ。香川さんと合流して会場のamang squareへ。半田さんはもともと広告、ファッション業界をフィールドとしたカメラマンだったが、東日本大震災を契機に関心が地球に向かう。だからだろうか人類史のなかでの野生動物というとらえ方が軸になっている。野生動物の表情が哲学的なのだ。表情だけではない大草原、ジャングル、雪原、天空など大自然の中の野生動物の存在が我々に何か問いかけている写真だ。もっと注目されていい写真家だ。
17時過ぎに東京駅丸の内口、三菱UFJ銀行地下の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」へ。阿曽沼真司さんと「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。この店にはワインに詳しい新潟出身の女性がいたのだが、このところ見かけない。阿曽沼さんにご馳走になる。東京駅のガード下なら17時前からやっているので次回はそこで呑むことに。

11月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビルの「跳人」で呑む。前回「跳人」で呑んだとき堤さんが帽子を忘れたため。堤さんは東大法学部出身で昭和46年の入省。在学中は全共闘に参加、ヘルメットの色は緑色だったという。緑色のヘルメットはセクトで言えばフロント、社会主義学生戦線である。フロントは日本共産党の「構造改革派」の一派で、反日共系の学生運動の一翼を担っていた。堤さんが厚労省を辞めてから、私と亡くなった高原亮治さんの3人でよく呑んだ。高原さんは厚生省の医系技官で岡山大学医学部出身、彼は赤ヘルメットのブント、社学同である。堤さんは今、頼まれて社会福祉法人の理事長をやっている。大きな法人で職員は2000人ほどいるという。そう言えば堤さんの高校の同級生が経済学者の間宮陽介さん。堤さんと間宮さん、それに60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎の未亡人の真喜子さんと4人で呑んだことがある。高原さんも唐牛真喜子さんも亡くなった。寂しい限りである。

11月某日
「ママがやった」(井上荒野 文藝春秋 2016年1月)を読む。表紙に英語で「mama killed him」とある。ママが殺した彼とは夫の拓人である。ママ百々子は79歳、夫は72歳。百々子は27歳の学校教師だったとき不純異性交遊の女子生徒を指導し、女子高生の相手だった年下の拓人と出会う。百々子と拓人は付き合いはじめ百々子の妊娠をきっかけに二人は結婚し、百々子は教師を辞めて居酒屋を始める。8つの短編連作小説が一家の半世紀を綴る。なぜ百々子は拓人を殺したのか、その理由は小説をラストまで読んでも明らかにされない。確かなのか不確かなのか、幸福なのか不幸なのか、平成時代も終わろうとするときの一種の「不条理小説」として読んだ。

11月某日
向田邦子は「思い出トランプ」で直木賞を受賞した1年後に航空機事故で亡くなっているから、小説家として活躍した期間は短い。向田をテレビドラマの脚本家としての面から論じたのが「向田邦子 名作読本」(小林竜雄 中公文庫 2011年2月)である。私も1970年代、だれが脚本を書いたか全く気にも止めず、向田脚本の「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」を毎週、楽しみに観ていた。私も日本もまだ貧しかったのだろう、仕事を終わればまっすぐに家へ帰り、風呂に入って食事をして9時台のテレビドラマや旧作の洋画を楽しんでいたのである。それはさておき本書は「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」以外にも「冬の運動会」「阿修羅のごとく」「家族サーカス」「あ・うん」「隣の女」など向田のドラマについて丁寧に論じている。ドラマに向田の私生活、親との葛藤や恋人の存在が微妙に反映しているという指摘も面白かった。向田の脚本を読んでみたいと思う。

11月某日
HCMサービスの会長だった平田高康さんの一周忌ということで、西新橋の「京の里」に会長の息子さんをお呼びして小宴を開催、私にも声が掛ったので出かける。「京の里」は名前の通り京料理の店で、会長が健在だったころは毎日のように昼と夜に通っていたということだ。料理に腕を振るっていたご主人と客の相手をしていた奥さんも昨年、平田会長と同じころ亡くなったそうだ。平田会長は永大産業出身ということは聞いていたが、息子さんに聞くと永大産業が倒産する10年ほど前に辞めているそうだ。私の知らなかった平田会長の一面を知ることができて楽しかった。

11月某日
企画を手伝っている「地方から考える社会保障フォーラム」を傍聴。厚生労働省からは成松英範家庭福祉課長が「子どもの貧困」、山口正行障害児・発達支援室長が「障害児政策」、伊原和人審議官が「2040年の社会保障」について、白梅大学の山路憲夫先生は「地域包括ケア」、宮本太郎中央大学教授は「地域共生社会」について講演した。伊原審議官は2040年には高齢者人口は現在とそれほど変わらないが、後期高齢者の割合が増え、若年人口が大幅に減ることを示し、健康寿命を延ばし現役で働ける人を増やすことが重要なことと、中央官庁も地方自治体も縦割り行政に横ぐしを刺していくことが重要という話が聞けた。社会保障関連予算の伸びを抑制しつつどのようにメリハリをつけていくかだろう。参加した地方議員は極めて熱心、高度成長期には地方自治体の課題は公営住宅や道路、公園などのインフラの整備だったが現在の課題の中心は完全に福祉、社会保障に移っていると感じた。
フォーラム終了後の夕方、大谷源一さんの携帯に電話すると「今、厚生労働省を出るところ」。というわけで経産省の別館前で待ち合わせる。どこに呑みに行くか迷ったが本日は新橋の「焼き鳥センター」にする。5時過ぎに焼き鳥センターに着く。この店のウエイターは外国人労働者が多かったが今回はアルバイトの高校生。7時ころまで呑んでいたが、出るころにはほぼ満席。安くて味も悪くないので若い人、女性だけのグループも多い。お勘定は2人で約4000円。新橋からは上野-東京ラインで帰る。男性に席を譲られる。

11月某日
「火環(ひのわ)-八幡炎炎記完結編」(村田喜代子 平凡社 2018年5月刊)を読む。前編の「八幡炎炎記」では広島市内の紳士服の仕立屋で働く瀬高克美が親方の妻、ミツ江と駆け落ちし、ミツ江の実家のある北九州の八幡に身を寄せる。克美は市内に店を出し、ミツ江の長姉サト夫婦のもとには女の赤ん坊がもらわれてくる。離婚した娘の百合子が生んだヒナ子である。帯に「著者初の本格自伝的小説・完結編」とある。ということはヒナ子は著者の村田がモデルということになる。ウイキペディアで村田喜代子を検索すると「福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)出身、両親の離婚後生まれたため、戸籍上は祖父母が父母となる。市役所のミスで一年早く入学通知が来たため、1951年小学校入学。八幡市立花尾中学校卒業後、鉄工所に就職」とある。ほぼヒナ子と重なる。小説ではヒナ子が観る映画「ゴジラ」「楢山節考」が重要な役割を担う。ゴジラは南太平洋の海底に眠っていた恐竜が水爆実験で目を覚まし日本の首都東京に上陸して荒れ狂うというストーリー。ゴジラもウイキペディアで検索すると「日本の東宝が1954年(昭和24年)に公開した怪獣特撮映画」とあって、私も観た記憶がある。ゴジラは水中酸素破壊剤(オキシジェン・デストロイヤー)なる薬によって溶かされるのだが、小説では「ゴジラの断末魔の長い咆哮に、ヒナ子の胸は破裂しかけた。流す涙でゴジラの姿がぼやけた」と描写される。1954年と言えば原爆投下、敗戦から10年も経っていない。観客にも戦争や原爆の記憶が鮮明に残っていたのである。私も小学生の頃、シリーズの「二等兵物語」を母親に連れられて観に行ったが、映画を見終わったとき母親に「隣のオジサンが泣いていた。きっと戦争に行ったんだわ」と言われたことを覚えている。「二等兵物語」は喜劇役者の伴淳三郎と花菱アチャコが主演する喜劇である。喜劇であるが観客はそこに戦中の自分の姿を見て泣くのである。話がそれたが村田喜代子が中卒とは初めて知った。人間は学歴ではないとしみじみ思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
元厚労省の末次彬さんと高根和子さんに誘われてゴルフに行く。ゴルフは昨年の3月に静岡の函南カントリーへ行って以来。7時30分に吉武民樹さんが車で迎えに来てくれる。30分ほどで常陽カントリー俱楽部に到着。天気は最高だったし、やる前は少し「億劫感」があったが、やってみると楽しかった。来年は少しやってみようかな。3月の常陽カントリーは私が予約することにする。末次さんから京都の銘菓、高根さんから「珍味」を頂く。

11月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野の公園口で待ち合わせて東京都美術館の「ムンク展」を観に行く。ムンク(1863~1944年)はノルウェーの画家で「叫び」が有名。今回は「叫び」を含む101点の油彩画、リトグラフ、エッチングなどが展示されている。美術には門外漢だが、何しろ「障害者手帳」を交付されているので本人及び介助者は無料になるのが魅力。ムンク展で感じたのはこの作家の繊細な感受性だ。「叫び」もそうだが作家の心象が作品に反映されているのだ。ムンクも神経症で入院歴があるという。自分の耳を切ったというゴッホと同じような精神的な傾向があるのかも知れない。「死せる母とその子」「病める子」など死や病に対する強い関心も興味深い。何度かの恋愛を経験したが生涯独身だった。香川さんから「船橋屋のくず餅」を頂く。帰りは地下鉄千代田線の根津まで歩くことにするが途中で道が分からなくなる。上野高校の校門で香川さんが女子高生に「根津駅まではどう行くのでしょうか」と聞くと、小柄な美少女が「私も根津駅まで行くので一緒に行きましょう」と言ってくれる。10分ほど歩きながら一緒に話す。女子高生と話すのはおそらく50年ぶり。私が「我孫子へ帰るところ」と伝えると少女は「私の好きな作家が住んでいるところ」という。女流でファンタジー作家というから上橋奈津子のことだと思う。彼女は高校3年生、来年は大学受験。合格を祈る。

11月某日
「うらおもて人生録」(色川武大 新潮文庫 1987年11月)を読む。「はじめに」で色川は「この世の原理原則、不確実でないと思える部分については、一生懸命に記さねばならない」と書いている。色川は旧制中学を中退、一時博打(主に麻雀)で生活をしのぐ。のちに小さな出版社を転々とし娯楽小説誌に時代小説を書くようになる。1961年中央公論新人賞を受賞するが、その後純文学の創作から離れて週刊誌に浅田哲也名で「麻雀放浪記」を連載、人気作家となる。1977年「怪しい来客簿」で泉鏡花賞、1978年「離婚」で直木賞を受賞する。きわめて起伏に富んだ人生を送った人なのだが、その人の言う「この世の原理原則」とは何か? この世=人生において大事なことは、相撲で言えば「全勝」を目指すのではなく「9勝6敗」をコンスタントに維持することだという。これは私にとって妙に納得の行く話であった。唐突な話になるが現在の安倍首相、佐藤栄作や吉田茂を抜いて戦後の首相として最長記録になろうとしている安倍首相だが、どうみても運を使い過ぎている。ふがいない野党の責任もあるが13勝2敗か12勝3敗のペースで政権を維持し続けている。来年の統一地方選では連立与党は議席を減らし、参議院選挙では連立与党は限りなく過半数割れに近づくのではないか。つまり、13勝2敗ペースから5勝10敗ペースへ転落しかねないのだ。それはさておき解説は今年1月に自裁した西部邁。これがまたいい。西部も色川にも「自分の傷を晒す」という共通項があるような気がする。そして2人に共通する「無頼」という生き方。無頼は「無法な生き方をする人」という意味もあるが、ここで言う無頼は「頼みにするところがないこと」だ。無頼って自立のことだと思う。

11月某日
図書館で借りた「『医療的ケア』の必要な子どもたち」(内多勝康 ミネルヴァ書房 2018年8月)を読む。「第二の人生を歩む元NHKアナウンサーの奮闘記」という副題のついた本書、私の身近に医療的ケアが必要な人がいるわけでもないし、著者の元NHKアナウンサーが知り合いでもない。その私がなぜ本書を読むようになったか。実は数年前から「胃ろう・吸引シミュレーター」の販売にわずかだが手を貸している。開発にあたってアドバイスを頂いた群馬大学のドクター、吉野先生は確か医学部じゃなくて教育学部の所属だ。おそらく「医療的ケア」の必要な子どもたちへの教育をどうあるべきか研究し実践している。そんなこともあって本書を読むことにした。本書で明らかになったことのいくつかを記しておきたい。一つは小児医療の進歩により、未熟児で生まれた子の生存率が飛躍的に高まったこと。NICU(新生児集中治療室)の普及でそれまでは助からなかったも知れない多くの赤ちゃんの命が救われるようになった。しかしそうであるが故に障害を持って生まれる子も多くなった。その子が病院から在宅に返されるとき、在宅の受け皿が整備されているとは言い難い。女性の社会進出が進み、障害児のお母さんの多くも出産後の仕事復帰を願っている。そんな障害児と家族のために設立されたのが「国立研究開発法人国立医療研究センター」の医療型短期入所施設「もみじの家」。NHKアナウンサーの職を投げ打って「もみじの家」の管理者(ハウスマネジャー)となったのが著者である。障害児の母親の声が紹介されている。彼女は「生まれてきただけ、よかったよ」という言葉に反発する。人間として選択でき、自由であり、社会のなかで生きていく、障害児にもそうしたことが保障されるべきと訴える。「生まれてきただけ」ではだめなのだ。すごく真っ当な考えと思う。

11月某日
HCMの大橋進社長に誘われて富国生命の経済講演会に行く。毎年、帝国ホテルで開催されるこの講演会は講師の選定がいつもユニーク。今回は「編集工学」の松岡正剛。要するに経営も生活も人生すべてに編集的なセンスが必要ということなのだろうと思う。今日の話で印象に残ったのが「見えるオプションで勝負しないほうがいい。大切なのはプラス1のオプション」。私になりに解釈すると「見えるオプション」とは社会的な地位とか学歴、家柄であり、「プラス1のオプション」とはその人の個性だと思う。講演後のパーティで白ワインを呑みながら大橋社長にとってもらったローストビーフなどを頂く。さすが帝国ホテル、ワインも料理も一流である。帝国ホテルを出て有楽町のガード下で大橋社長にご馳走になる。この店は大橋社長が明治生命時代から通っていたということだ。店主が「家賃が高くて」とぼやいていた。

11月某日
「彼方への忘れ物」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2016年5月)を読む。2年前に上梓されたものだが、書評に取り上げられることもあまりなかったのだろう、私はひと月ほど前の新聞広告で知った。小嵐九八郎は早稲田大学で社青同解放派の活動家だった。私が1969年の9月、第二学生会館に立て籠ったとき「全共闘運動は反帝学評(解放派の学生組織)に包摂されるんだよ」と青ヘルメット(当時、セクトごとに被るヘルメットが色分けされていた。ちなみに中核は白、社学同は赤)を被ることを勧められたことを覚えている。もちろん断ったけれど小嵐(本名は工藤さん、当時彼は5年生だったので2年生の私からすれば大先輩)は覚えていないだろうなぁ。小説のストーリーは新潟県村上市の大瀬良騏一が高校に入学し、バーのママと初体験を済まし一浪の後、早大政経学部に入学、学生運動に巻き込まれる。その間、初恋の人を一途に思い続けるがその人は自殺してしまう。私と工藤さんは学年で3年違うのだが、観た映画が「唐獅子牡丹 昭和残侠伝」だったり、政経学部の教授や授業のレベルを低いと感じたりするのは同じ。騏一が唯一「面白い」と思った授業が人類学の井伊玄之介教授。これは社会学の井伊玄太郎先生のことだろう。授業を選択した全員に、講義に出る出ないに関わらず「優」をくれるので人気の先生だった。もちろん私も選択した。当時の早稲田の政経は、学生自ら「学生一流、建物2流、先生3流」と言っていた。「純血主義」なのか早稲田出身の教授がほとんどだったからね。社青同解放派の活動家、小清水は第一次早大闘争の全共闘議長だった大口昭彦を連想させるし、行動隊長で中核派の中星はテレビキャスターもやった彦吉さんだ。騏一は留年後、縁あって新潟の地方紙に就職するのだが、実際の工藤さんは、確か川崎市役所に就職したのじゃないかなぁ。社青同解放派の活動を続け、解放派の分派のより過激な狭間派に所属、入獄体験もある。20年ほど前だろうか早大全共闘出身者が赤坂プリンスホテルでパーティをやったことがあるが、そのときは新進の小説家として参加していたっけ。「彼方への忘れ物」は60年代末の物語だが、小嵐は70年代を描いた「あれは誰を呼ぶ声」を先月、出版している。これも読まねばと思う。

11月某日
弁護士の雨宮英明先生から「関さんと新橋で食事しよう」という連絡があったので新橋の「ビストロ・エドギン」へ行く。雨宮先生は早稲田大学の同級生。私たちのクラスは民青が強く、私がクラス委員選挙に出てもいつも民青の清真人君に負けていた。雨宮先生はノンポリながら私たちのグループだった。ちなみに後に清君は私たちのグループだった近藤百合子さんと結婚する。清君は政経学部を卒業後、文学部の大学院を経て近畿大学の教授になった。関さんは政経学部に少なかった女子大生の一人で、中退後エレクトーン奏者をやった後、新宿と赤坂でクラブを開店した。赤坂のクラブ「邑」へは私もよく行った。クラブは閉店し関さんは悠々自適の身。三味線や小唄の勉強を続け、今月、西荻窪で発表会をするそうでビラをもらった。食事会には関さんの元カレと「邑」のチーママ?だったチエちゃんも参加、料理もワインもおいしかった。

モリちゃんの酒中日記 10月その5

10月某日
「へるぱ!」の特集「私が介護職を辞めた理由(わけ)」(仮題)の事前取材で年友企画の迫田さんと千駄木の駅で待ち合わせ。千駄木からタクシーで駒込病院へ向かう。「介護ユーアイ」の馬木功社長が入院しているためだが、「肺炎だけど、私は全然構わないよ」ということなので病棟のラウンジで取材させてもらう。いろいろと面白い話が聞けたが、「職員のキャリアアップのための社内外の研修に力を入れている」という話は大切なことだと思った。それと転職を繰り返す人は、普通の仕事では敬遠されがちだが、介護事業ではちょっと違うようだ。圧倒的な人手不足が背景にあると同時に、転職でキャリアアップを図っているという側面もあるようなのだ。板前さんとか美容師さんと同じ感じだ。勤め人というより「職人」感覚なのかもしれない。駒込病院からタクシーで地下鉄南北線の本駒込駅へ。四谷で丸の内線に乗り換え南阿佐ヶ谷へ。ケアセンターやわらぎのデイサービスへ向かう。理事長の石川はるえさんに取材。石川さんは30年来の古い友人だが、早くからISOに取組み、介護事業に標準化、合理化といった近代的な経営を推進してきた人だ。もっとも私は、いつも石川さんにご馳走になる人なのだが。石川さんは「介護保険は第2ステージに入った」として大胆な政策転換が必要なことを示唆した。取材を終わって荻窪の角打ち(酒屋の立ち飲み)「酒ノみつや」に行って青森の地酒「安藤水軍」を2杯いただき、寿司屋「日本海」で握り寿司をご馳走になる。

10月某日
社福協の「保健福祉活動支援事業」運営委員会に出席。社福協が開催するセミナーや調査研究事業等について報告を受けるのだが、その後の意見交換が私にはとてもためになる。介護事業の経営コンサルをやっている堀口直孝先生とホームヘルパー出身で自身もNPO法人楽の理事長を務め、川崎で小規模多機能事業所を経営している柴田範子先生が委員なので、お二人の味わい深い話が聞ける。外国人労働者についても日本人が使う日本語の微妙な言い回しを理解させるのは至難の業という話になった。本当はケアをやってほしい利用者が「いやぁいいですよ」というと外国人は額面通りに受け取ってケアをしない。また逆にやさしさからケアをし過ぎてしまう外国人労働者もいたそうだ。自立支援の観点から「違うのよ」と言っても「どうして」と理解されない。ちなみにこの労働者はフィリピン人で、確かにフィリピンの女性は働き者で男性にとっては大変優しい。こんな話はよそではなかなか聞けない。
「胃ろう・吸引」のシミュレータを開発したデザイナーの土方さんとHCM社の大橋社長と新橋の「焼き鳥センター」で待ち合わせ。ここのウエイトレスも外国人が多い。この前来たときは男性の確かネパール人だったが、今回は東南アジア系の美人ウエイトレスだった。大橋社長が「どこから来たの?」と聞くと愛想よく「タイです」と答えていた。2次会は近くのスナック「八田」。ママは岩手県の滝沢村(現在は滝沢市)出身で、旧丸ビルの小岩井農場に勤めていたとのこと。大橋社長とは卓球つながりだそうだ。昭和の香りのたっぷりあるスナックだった。我孫子へ帰って「愛花」による。

10月某日
「ヴィルヘルム2世-ドイツ帝国と命運を共にした『国民皇帝』」(竹中亨 中公新書 2018年5月)を読む。ヴィルヘルム2世のことは第一次世界大戦で敗北し、玉座から追われた皇帝くらいの認識しかなかったし、ドイツ帝国の成立についても高校の世界史の教科書程度の知識しかなかったので、私にはとても面白かった。ドイツ帝国はプロイセンが中心になって小国部分立にあえいでいたドイツを統一し1871年に生まれた。薩長が中心になって幕府を倒し明治政府を樹立したようなものである。違うのは幕藩体制における諸藩は版籍奉還や廃藩置県により明治新政権に統合されていくが、ドイツ帝国を構成するプロイセンをはじめとする各国(邦と呼ばれる)は存続し、独自の憲法、君主、政府、軍隊を保有した。世界大戦で連合国側と戦ったドイツ軍とは、法的にはプロイセンやバイエルンなどの邦の軍隊であった。ただしヴィルヘルム2世が創設したに等しいドイツ海軍は帝国直轄の軍であった。著者の竹中は「ドイツ帝国は、国家連合と統一国民国家という相反する二つの原理を連邦国家という形で糊塗したものといえる」とし、次第に「時代の要請に合致しない国家連合の要素が後退し、代わって統一国民国家の要素が強まっていく」と述べている。ドイツ帝国は明治国家のモデルと考えられていたし、明治憲法や陸軍さらに医学をはじめとした諸科学においてドイツは先達であった。だが中央集権国家としては、明治政府のほうがドイツ帝国よりも進んでいた面がある。

10月某日
「彼女は頭が悪いから」(姫野カオルコ 文藝春秋 2018年7月)を読む。姫野は何年か前「昭和の犬」で直木賞を受賞した人だが私は初めて読む作家。帯に「非さわやか100%青春小説」とある。この小説を読み終わった後に再びこのコピーを目にし「巧い!」と思った。横浜郊外の青葉区に住む神立美咲はもともと地元の農家の家系で、父方も母方も法事や正月に集まると「うちはもともと百姓だったから」とおおらかに語る。父は学校の給食センターに職を得、母は実家のクリーニング店を手伝う。通う大学は第3志望の、河合塾の女子大生偏差値ランキングでは48枠に位置されている水谷女子大学総合生活学科である。東京大学理科Ⅰ類から本郷の工学部へ進学した竹内つばさは、渋谷区広尾の申し分のない環境で育ち、兄は東大法学部から法科大学院に進み、つばさも大学院を目指している。美咲とつばさは出会い恋に落ちたはずだったが…。美咲はつばさへの恋心を募らせるがつばさの心は離れていく。つばさに池袋の呑み会に誘われた美咲は、巣鴨のつばさの友人のマンションに連れ込まれ友人たちに服を脱がされる。何とか逃げ出した美咲は公衆電話から110番する。東大生たちは強制わいせつで逮捕、起訴される。しかしネット上で非難されたのは美咲のほうであった。【のこのこついてったんだから、合意だろ】【これ、女の陰謀じゃねーの? 怖いねー】などなど。加害者対被害者の関係は容易に東大生対3流女子大生の関係に置き換わり、世論は東大生におもねる。「非さわやか100%」である。救いは美咲の大学の教授が自分が学生の頃、男子学生に乱暴されそうになった経験を話し「神立さんがどれだけいやな気持ちだったか、私は完全にはわかりません。ただ察することしかできません。でも、どうか元気を出して」と語りかけるシーンである。人間の本当の強さ弱さ、賢さ愚かさを考えさせられる小説である。

10月某日
年友企画の総務・経理を担当している石津さんと御徒町のスーパー吉池の9階にある「吉池食堂」で待ち合わせ。スーパー吉池は食品スーパーの老舗、吉池食堂は食材が良くて値段もリーズナブルなことから人気の店で、忘年会シーズンなど予約でいっぱいのときもある。本日は予約なしで6時前に入ると余裕で席に着けた。私のような年寄りのグループも多いが若いOLのグループもいる。生ビールを呑んでいると石津さん来る。石津さんと世間話。話題はどうしても最近亡くなった竹下さんのこと、そして竹下さんと同じくすい臓がんで亡くなった石津さんの上司だった大前さんのこと。石津さんに「森田さん死なないでよ!」「まぁ死にそうにもないか」と言われる。石津さんにすっかりご馳走になる。

10月某日
常連だったスナック「ふらここ」のママ、半谷さんと西新橋の「花半」へ。「花半」は純子さんというママが取り仕切っている店だが、お店に行くと違う女性が「姉は骨折で入院して今週、退院です」という。「予約の電話に出てたじゃない」と言うと「あれは私です」。姉妹、兄弟は声も似るものだ。ビールの後、私は富山の地ウイスキーを呑むが、これがスモーキーで私の好みに合った。ママは日本酒を頼んでいた。我孫子へ帰って駅前の「愛花」による。

10月某日
石川はるえに「ちょいと相談が」とメールすると「今日なら18時30分ころ東京駅周辺で」返事が来る。京都大学東京事務所の大谷源一さんに電話して、東京駅丸の内北口の居酒屋で時間をつぶす。18時30分に新丸ビルの1階ロビーで石川さんと会う。別の居酒屋で3人で食事。石川さんにすっかりご馳走になる。