11月某日
元厚労省の末次彬さんと高根和子さんに誘われてゴルフに行く。ゴルフは昨年の3月に静岡の函南カントリーへ行って以来。7時30分に吉武民樹さんが車で迎えに来てくれる。30分ほどで常陽カントリー俱楽部に到着。天気は最高だったし、やる前は少し「億劫感」があったが、やってみると楽しかった。来年は少しやってみようかな。3月の常陽カントリーは私が予約することにする。末次さんから京都の銘菓、高根さんから「珍味」を頂く。
11月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野の公園口で待ち合わせて東京都美術館の「ムンク展」を観に行く。ムンク(1863~1944年)はノルウェーの画家で「叫び」が有名。今回は「叫び」を含む101点の油彩画、リトグラフ、エッチングなどが展示されている。美術には門外漢だが、何しろ「障害者手帳」を交付されているので本人及び介助者は無料になるのが魅力。ムンク展で感じたのはこの作家の繊細な感受性だ。「叫び」もそうだが作家の心象が作品に反映されているのだ。ムンクも神経症で入院歴があるという。自分の耳を切ったというゴッホと同じような精神的な傾向があるのかも知れない。「死せる母とその子」「病める子」など死や病に対する強い関心も興味深い。何度かの恋愛を経験したが生涯独身だった。香川さんから「船橋屋のくず餅」を頂く。帰りは地下鉄千代田線の根津まで歩くことにするが途中で道が分からなくなる。上野高校の校門で香川さんが女子高生に「根津駅まではどう行くのでしょうか」と聞くと、小柄な美少女が「私も根津駅まで行くので一緒に行きましょう」と言ってくれる。10分ほど歩きながら一緒に話す。女子高生と話すのはおそらく50年ぶり。私が「我孫子へ帰るところ」と伝えると少女は「私の好きな作家が住んでいるところ」という。女流でファンタジー作家というから上橋奈津子のことだと思う。彼女は高校3年生、来年は大学受験。合格を祈る。
11月某日
「うらおもて人生録」(色川武大 新潮文庫 1987年11月)を読む。「はじめに」で色川は「この世の原理原則、不確実でないと思える部分については、一生懸命に記さねばならない」と書いている。色川は旧制中学を中退、一時博打(主に麻雀)で生活をしのぐ。のちに小さな出版社を転々とし娯楽小説誌に時代小説を書くようになる。1961年中央公論新人賞を受賞するが、その後純文学の創作から離れて週刊誌に浅田哲也名で「麻雀放浪記」を連載、人気作家となる。1977年「怪しい来客簿」で泉鏡花賞、1978年「離婚」で直木賞を受賞する。きわめて起伏に富んだ人生を送った人なのだが、その人の言う「この世の原理原則」とは何か? この世=人生において大事なことは、相撲で言えば「全勝」を目指すのではなく「9勝6敗」をコンスタントに維持することだという。これは私にとって妙に納得の行く話であった。唐突な話になるが現在の安倍首相、佐藤栄作や吉田茂を抜いて戦後の首相として最長記録になろうとしている安倍首相だが、どうみても運を使い過ぎている。ふがいない野党の責任もあるが13勝2敗か12勝3敗のペースで政権を維持し続けている。来年の統一地方選では連立与党は議席を減らし、参議院選挙では連立与党は限りなく過半数割れに近づくのではないか。つまり、13勝2敗ペースから5勝10敗ペースへ転落しかねないのだ。それはさておき解説は今年1月に自裁した西部邁。これがまたいい。西部も色川にも「自分の傷を晒す」という共通項があるような気がする。そして2人に共通する「無頼」という生き方。無頼は「無法な生き方をする人」という意味もあるが、ここで言う無頼は「頼みにするところがないこと」だ。無頼って自立のことだと思う。
11月某日
図書館で借りた「『医療的ケア』の必要な子どもたち」(内多勝康 ミネルヴァ書房 2018年8月)を読む。「第二の人生を歩む元NHKアナウンサーの奮闘記」という副題のついた本書、私の身近に医療的ケアが必要な人がいるわけでもないし、著者の元NHKアナウンサーが知り合いでもない。その私がなぜ本書を読むようになったか。実は数年前から「胃ろう・吸引シミュレーター」の販売にわずかだが手を貸している。開発にあたってアドバイスを頂いた群馬大学のドクター、吉野先生は確か医学部じゃなくて教育学部の所属だ。おそらく「医療的ケア」の必要な子どもたちへの教育をどうあるべきか研究し実践している。そんなこともあって本書を読むことにした。本書で明らかになったことのいくつかを記しておきたい。一つは小児医療の進歩により、未熟児で生まれた子の生存率が飛躍的に高まったこと。NICU(新生児集中治療室)の普及でそれまでは助からなかったも知れない多くの赤ちゃんの命が救われるようになった。しかしそうであるが故に障害を持って生まれる子も多くなった。その子が病院から在宅に返されるとき、在宅の受け皿が整備されているとは言い難い。女性の社会進出が進み、障害児のお母さんの多くも出産後の仕事復帰を願っている。そんな障害児と家族のために設立されたのが「国立研究開発法人国立医療研究センター」の医療型短期入所施設「もみじの家」。NHKアナウンサーの職を投げ打って「もみじの家」の管理者(ハウスマネジャー)となったのが著者である。障害児の母親の声が紹介されている。彼女は「生まれてきただけ、よかったよ」という言葉に反発する。人間として選択でき、自由であり、社会のなかで生きていく、障害児にもそうしたことが保障されるべきと訴える。「生まれてきただけ」ではだめなのだ。すごく真っ当な考えと思う。
11月某日
HCMの大橋進社長に誘われて富国生命の経済講演会に行く。毎年、帝国ホテルで開催されるこの講演会は講師の選定がいつもユニーク。今回は「編集工学」の松岡正剛。要するに経営も生活も人生すべてに編集的なセンスが必要ということなのだろうと思う。今日の話で印象に残ったのが「見えるオプションで勝負しないほうがいい。大切なのはプラス1のオプション」。私になりに解釈すると「見えるオプション」とは社会的な地位とか学歴、家柄であり、「プラス1のオプション」とはその人の個性だと思う。講演後のパーティで白ワインを呑みながら大橋社長にとってもらったローストビーフなどを頂く。さすが帝国ホテル、ワインも料理も一流である。帝国ホテルを出て有楽町のガード下で大橋社長にご馳走になる。この店は大橋社長が明治生命時代から通っていたということだ。店主が「家賃が高くて」とぼやいていた。
11月某日
「彼方への忘れ物」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2016年5月)を読む。2年前に上梓されたものだが、書評に取り上げられることもあまりなかったのだろう、私はひと月ほど前の新聞広告で知った。小嵐九八郎は早稲田大学で社青同解放派の活動家だった。私が1969年の9月、第二学生会館に立て籠ったとき「全共闘運動は反帝学評(解放派の学生組織)に包摂されるんだよ」と青ヘルメット(当時、セクトごとに被るヘルメットが色分けされていた。ちなみに中核は白、社学同は赤)を被ることを勧められたことを覚えている。もちろん断ったけれど小嵐(本名は工藤さん、当時彼は5年生だったので2年生の私からすれば大先輩)は覚えていないだろうなぁ。小説のストーリーは新潟県村上市の大瀬良騏一が高校に入学し、バーのママと初体験を済まし一浪の後、早大政経学部に入学、学生運動に巻き込まれる。その間、初恋の人を一途に思い続けるがその人は自殺してしまう。私と工藤さんは学年で3年違うのだが、観た映画が「唐獅子牡丹 昭和残侠伝」だったり、政経学部の教授や授業のレベルを低いと感じたりするのは同じ。騏一が唯一「面白い」と思った授業が人類学の井伊玄之介教授。これは社会学の井伊玄太郎先生のことだろう。授業を選択した全員に、講義に出る出ないに関わらず「優」をくれるので人気の先生だった。もちろん私も選択した。当時の早稲田の政経は、学生自ら「学生一流、建物2流、先生3流」と言っていた。「純血主義」なのか早稲田出身の教授がほとんどだったからね。社青同解放派の活動家、小清水は第一次早大闘争の全共闘議長だった大口昭彦を連想させるし、行動隊長で中核派の中星はテレビキャスターもやった彦吉さんだ。騏一は留年後、縁あって新潟の地方紙に就職するのだが、実際の工藤さんは、確か川崎市役所に就職したのじゃないかなぁ。社青同解放派の活動を続け、解放派の分派のより過激な狭間派に所属、入獄体験もある。20年ほど前だろうか早大全共闘出身者が赤坂プリンスホテルでパーティをやったことがあるが、そのときは新進の小説家として参加していたっけ。「彼方への忘れ物」は60年代末の物語だが、小嵐は70年代を描いた「あれは誰を呼ぶ声」を先月、出版している。これも読まねばと思う。
11月某日
弁護士の雨宮英明先生から「関さんと新橋で食事しよう」という連絡があったので新橋の「ビストロ・エドギン」へ行く。雨宮先生は早稲田大学の同級生。私たちのクラスは民青が強く、私がクラス委員選挙に出てもいつも民青の清真人君に負けていた。雨宮先生はノンポリながら私たちのグループだった。ちなみに後に清君は私たちのグループだった近藤百合子さんと結婚する。清君は政経学部を卒業後、文学部の大学院を経て近畿大学の教授になった。関さんは政経学部に少なかった女子大生の一人で、中退後エレクトーン奏者をやった後、新宿と赤坂でクラブを開店した。赤坂のクラブ「邑」へは私もよく行った。クラブは閉店し関さんは悠々自適の身。三味線や小唄の勉強を続け、今月、西荻窪で発表会をするそうでビラをもらった。食事会には関さんの元カレと「邑」のチーママ?だったチエちゃんも参加、料理もワインもおいしかった。