モリちゃんの酒中日記 12月その4

12月某日
日曜日だが「音楽運動療法研究会」があるのでTKPカンファレンスセンター新宿へ。ここは何度か研究会で使用したことがあるのだが迷ってしまった。時間に余裕を持って出かけたのだが、着いたのは開始10分前。事務局長の宇野裕さんと本日の講師がすでに来ていた。
講師の経産省のロボット政策室の宇賀山在課長補佐と名刺交換。そういえば3年ほど前ロボット政策室の美人の課長補佐に取材したことを思い出す。宇賀山さんは「介護分野でのロボット活用の展望」について話してくれた。介護業界に限らず日本は慢性的な人手不足が続いており長期的にも労働力人口の減少は確実、ロボットや外国人労働力の活用は不可避と言われている。宇賀山さんは2020年に介護ロボットの市場規模500億円を目指しているが、現場の抵抗感もあって簡単ではないと語っていた。研究会のメンバーのうち川崎市の特養「かないばら苑」の施設長、依田さんから介護現場での人手不足は深刻で省力化のための投資は積極的に考えたいという発言があった。研究会のメンバーにはロボットに対する抵抗感は無いようだった。宇賀山さんが退席した後、今年「かないばら苑」でやった音楽療法の実証実験について依田さんから、ホームヘルパー協会東京都支部の協力を得て実施したヘルパーへの調査について研究会のメンバーの黒沢さんから報告があった。音楽療法は要介護者だけでなくヘルパーにとっても「スムースに介護ができた」等の効果があるようだ。研究会の後、宇野さんと研究会のメンバーである小金井リハビリテーション病院副院長の川内先生と近くの台湾料理屋へ。

12月某日 
「永続敗戦論-戦後日本の核心」(白井聡 太田出版 2013年3月)を読む。白井は「未完のレーニン」で論壇にデビューしたのだが、「永続敗戦論」以降は戦後論、国体論を論じることによって日本社会のありようを批判的に解明しているように思える。白井の論を私なりにまとめるとすればこうだ。太平洋戦争で日本はアメリカを主とする連合軍に無条件降伏したのにも関わらず、国民ならびに支配者層にはその自覚がない。そして自覚のないままにアメリカに従属している。それが日本人の政治意識をはじめ精神構造にさまざまな歪みを与えているというものだ。例えば、とこれからは私の考えなのだが、普天間基地の移設で紛糾を重ねる沖縄について考えてみる。任期途中で死去した翁長知事の後継知事を選ぶ選挙で、翁長知事が後継者に指名したデニー玉木が当選した。玉木知事は民意が示されたとして安倍首相や菅官房長官に普天間移設の白紙撤回を要求するが、安倍や菅はその要求に一顧だにすることなく工事を再開する。安倍や菅は明らかに沖縄県民の民意よりもアメリカの意向に従っているとしか思えない。永続敗戦の極めて分かりやすい姿である。白井は戦中戦前の指導者の戦争責任も容赦なく追及する。終戦の決断が遅れたために沖縄、広島、長崎はじめ多くの軍人と民間人の命が奪われた。これらに対する昭和天皇を含めた戦争責任の追及は極めて不十分に終わっている。不十分であるが故に敗戦は終わることなく現在までも続いているというのだ。ネットで調べると最近、白井は日本共産党との共闘を模索しているようである。国会あるいは院外の大衆行動において、共産党との共闘に一歩踏み込むのは私も賛成。共産党も私も「大人」になったのである。

12月某日
元社会保険庁長官の堤修三さんから近著「社会保険の政策原理」(国際商業出版 2018年11月)を贈られる。ハードカバーで450ページを超える大著、今までいろんな媒体に発表した論文や個人通信(柿木庵通信、柿木坂摘録)を収録したもの。堤さんは厚労省の要職を務めながら、現在の政策に遠慮のない批判を加えるものだから現役の官僚諸氏には煙たがられているかもしれない。しかし彼の批判は筋の通ったものと私は思っている。第5章の「Ⅱ 社会福祉事業・社会福祉法人制度の混迷~2016年社会福祉法の改正を考える~」が興味深かったので紹介する。2016年の改正は社会福祉法人(以下、社福と略)の内部留保や一部経営者の私物化への批判を受けて行われた。社福のガバナンスの強化、内部留保を吐き出させるための社会福祉充実計画の仕組みの導入などが骨子。ガバナンスの強化は、評議員選任・解任委員会による評議員の選任・解任、評議員会の必置とその権限の強化(経営基本方針等の決定、理事・監事・会計監査人の選任・解任)、理事・監事・会計監査人の職務の明確化、理事会の職務の明確化(業務執行の決定、理事の職務執行の監督、理事長・業務執行理事の選定・解職)、理事長・業務執行理事の職務の明確化が主な内容である。ここで問題となるのは法律上、制度上は社福のガバナンスの強化がなされたが、実態上はどうなのか。現に社福の評議員や理事がそういう意識を持っているかということである。評議員や理事には「善管注意義務」が課せられている。これを怠ると損害賠償請求を負わされることもある。「理事長のお友達だから」と「軽い気持ち」で引き受けるべきではないのである。

12月某日
国立病院機構の古都賢一副理事長に面談。地下鉄半蔵門線の駒澤大学で下車、15分ほど歩くと東京医療センターと同じ敷地内にある国立病院機構だ。副理事長室でたわいのない話を小一時間。帰りは東急バスで渋谷まで出て渋谷から地下鉄銀座線で虎ノ門へ。HCM社へ戻ると大谷源一さんが待っていた。大谷さんは6時から国会議員のパーティに出席することになっている。その前に「ちょっと行きますか」と新橋烏森口の「焼き鳥センター」へ。1時間ほど呑んで一人1000円ちょっと。大谷さんと別れて我孫子へ。我孫子で久しぶりに愛花に寄る。

12月某日
朝日新聞のベタ記事に、「医師が奈良県知事選に出馬」と「川島実」という医者が現職知事に挑むということが報道されていた。「もしかしたら」とネットで検索すると、プロボクサーの経験もあるドクターということで昨年、「へるぱ!」の取材であった川島医師であった。川島さんは京大医学部在学中にプロボクサーとしてデビュー、戦績は15戦9勝5敗1分け。徳洲会病院などで経験を積んで東日本大震災では気仙沼に派遣される。震災後、院長不在だった本吉病院の院長を引き受けたりする。奈良に戻って東大寺で得度、在家の僧侶でもある。「へるぱ!」のインタビューでPTA会長や自治連合会の会長もやっているとして「自分の住んでいる地域を通じて、コミュニティって何かをいつも考えさせられています」と語っていた。知事選は来年ということだが、健闘を祈るのみ。

モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
「物書同心居眠り紋蔵 密約」(佐藤雅美 講談社文庫 2001年1月)を読む。単行本は1998年3月に出版されている。文庫本は2017年9月に第19刷発行とあるから、佐藤雅美のこのシリーズも根強い人気を持っていることが分かる。佐藤雅美の時代小説は、ストーリー自体はフィクションにしてもそれがしっかりとした史実、時代考証に支えられているのが特徴。とくにこの「物書同心居眠り紋蔵シリーズ」は、時と場所を選ばず居眠りしてしまうという奇癖を持つ同心、紋蔵がその奇癖故にエリートコースたる外回り(今でいう刑事)ではなく、裁判所(町奉行は警察権と裁判権を持っていた)の書記兼資料係たる物書同心という立場での活躍を描く。資料係としての物書同心は例繰(判例)与力の下で、過去の判例や記録を調べるのが仕事である。つまりこのシリーズそのものが膨大かつ細密な史実、時代考証によってできていると言っても過言ではない。
江戸庶民や悪党どもには絶大な権威と権力を持っていた与力や同心だが、幕臣としては将軍に拝謁できないお目見え以下の身分で、武家社会の中では中層ないし下層に位置する。今日のキャリア官僚とノンキャリアの差をつい思い浮かべてしまうが、その意味では本シリーズはサラリーマンものとして読めなくもないのである。上役の無理難題に頭を抱え、小料理屋の美人の女将にほのかな恋心を抱く紋蔵は、髷を結ったサラリーマンである。おそらく日本のサラリーマンの源の一つは明治時代の官員であろう。その官員の源は幕藩体制における幕臣、藩士である。グローバルスタンダードも良いが、日本のサラリーマンの心情を真に理解するには、明治からさらに遡る必要があるということかも知れない。

12月某日
新聞に天皇皇后ご夫妻が「Ay曾根崎心中」を新国立劇場で観たという記事が載っていた。何でもプロデュースした阿木燿子と親交があるらしい。先代の昭和天皇は明治憲法のもと即位し、「天皇は神聖にして侵すべからず」という地位にあり、戦後、一転して現行憲法のもと象徴天皇となった。だが昭和天皇は共産主義の脅威に対する感情から、日米安全保障体制や米軍沖縄基地の存在に対して強い賛意を持っていたと言われる(岩波新書の「日米安保体制史」)。これに対し今の天皇は平和憲法のもと即位し一貫して憲法を擁護する姿勢が強いように感じる。思想的には安倍首相とは相容れないのではないか。そう露骨な発言はしないけどね。そういう意味で私は今の天皇夫妻のフアン。日にちは違うけれど同じ劇場で同じ演目を観られたのは光栄です。

12月某日
「不意撃ち」(辻原登 河出書房新社 2018年11月)を読む。辻原登は1945年和歌山県の印南町生まれ。印南町は御坊市や田辺市に隣接する和歌山県南部の町で新宮市にも近い。私が初めて読んだ辻原の作品も大逆事件で刑死した医師の大石をモデルにした「許されざる者」だったと思う。長編、短編、フィクションに歴史もの、そして私小説と作品の幅はかなり広い。私にはどれも面白くたぶん相性がいいのだと思う。本作は5つの短編が収められている。風俗嬢と風俗店の送迎ドライバーの話(渡鹿野)、東北大震災にボランティアに駆けつける神戸のNPOが募った募金の略取を図り事故死する(仮面)、作家の分身と思しき「私」が中学校のときの友人を執拗に殴った教師に会いに行く(いかなる因果にて)、大学附属病院の精神科を受診する女性宇宙飛行士が受診中に大地震に遭遇する(Delusion)、出版社を退職した奥本さんが妻と娘に黙って近所にアパートを借りて失踪し、あっけなく発見される(月も隈なきは)という5作品である。「渡鹿野」はたぶん辻原に何作かある「風俗もの」、「仮面」はフィクション、「いかなる因果にて」は私小説、「Delusion」は近未来小説、「月も隈なきは」はフィクションと勝手に分類するが、どれも面白く読んだ。多彩な才能と言っていいように思う。

12月某日
幻冬舎の見城徹社長の「読書という荒野」(幻冬舎 2018年6月)を読む。見城は角川書店時代にベストセラーを連発、幻冬舎を創業して以降も石原慎太郎の「弟」、郷ひろみの「ダディ」、渡辺和子の「おかれた場所で咲きなさい」など24年間で23冊のミリオンセラーを送り出した。優秀な編集者でありプランナーであり経営者なのだろう。見城個人について私はほとんど知ることがないので、今回図書館から借りて読むことにした。前半は見城の個人史だがこれはかなり面白かった。見城の母は裕福な医師の娘で旧姓を多紀という。手塚治虫に「陽だまりの樹」という自身の先祖を主人公とした作品があるが、敵役の将軍の御典医で多紀という姓だった。それからすると日本でも指折りの医師の家系ということになる。父親の実家は材木商で父は小糸製作所の静岡工場に勤めるサラリーマン。この父は見城に言わせると「僕がものごころついたころには、酒に溺れ、ほとんどアルコール依存症」のようだったという。見城にとって父親は「血がつながっているというだけで、いないも同然の人だった」としているが、この「父親の不在」が見城の精神の形成に大きな影響を与えたのは間違いないだろう。生まれたのは静岡県清水市で1950年。私より2歳年少である。小学校中学校は「いじめられっ子」。高校は清水南高、進学校の静岡高校、清水東高校より偏差値のランクが低い新設校だった。これが見城に幸いした。自分の偏差値で楽に入れる高校に進学したので成績はトップクラスになり、小中時代の「いじめられっ子」から一転、高校のリーダー的な存在となる。
大学は現役で慶應大学の法学部に進む。私は早稲田に一浪して入ったので私が早稲田の2年のとき彼は慶應に入ったわけだ。その年の1月、東大の安田講堂の攻防戦があり、東大日大を頂点とした全国の学園闘争が最高に盛り上がった1969年である。見城は入学後すぐに授業に出なくなり、高校時代から関わっていた学生運動にのめり込む。そのとき最も影響を受けたのが吉本隆明。「転位のための十篇」や「マチウ書試論」は今も読み返すという。学生運動の渦中に自死した高野悦子の「二十歳の原点」奥浩平の「青春の墓標」も愛読書に上げている。見城に大きな衝撃を与えたのがイスラエルのロッド国際空港で日本赤軍の奥平剛士ら3人が乱射事件を起こした。見城は「彼らの戦いに比べたら、自分の戦いなど些細なものだ。ビジネスでどんなリスクを冒そうと、命をとられることはない」とし、吉本の詩や評論、高野や奥のノートや日記、奥平らの生き方に、仕事への原動力を与えられたという。ここまでは大変共感できた。いや有名出版社の入社試験に落ちて廣済堂出版に入社、角川書店に転職するまでも共感できる。共感できないのは現在である。幻冬舎を立ち上げヒット作を連発し、安倍首相の取り巻きとも言われている。世間的には大成功と言ってよい。しかしこの本の後半はほとんど自画自賛の本ではないか。社長であり絶対権力者の自画自賛本を自社から出版するという神経が分からない。新聞、雑誌、報道を含めて出版というのは公器の筈なのに。

モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
吉田修一の「ウォーターゲーム」(幻冬舎 2018年5月)を読む。通信社を装っているが実は国際的な産業スパイ組織のAN通信、その組織員の鷹野を主人公とするシリーズは「森は知っている」「太陽は動かない」に続いて本作は3作目。AN通信は児童福祉施設に収容されている子供たちの中から、潜在的に産業スパイの能力を持っている子供を選抜、沖縄の南蘭島で高校を終了させた後、AN通信に入社させる。「ウォーターゲーム」という題名通り本作は水の利権を巡る争いが日本、カンボジア、ロンドン、キルギスなど地球を何周も回るほどに展開される。吉田修一は「パーク・ライフ」で芥川賞を受賞しているからスタートは純文学かも知れないが、このシリーズは立派なアクション、サスペンスもの。テンポもよくて私好み。

12月某日
「ウオーターゲーム」は「水の利権を巡る争い」と書いたが、前国会で水道法が改正され、水道の民営化が進められるようになったらしい。小説が現実を追いかけ、次に現実が小説に追随するという、そういう時代になってきたのかもしれない。ふるさと回帰支援センターの高橋公代表を訪問したら前国会では水道法だけでなく漁業法も改正され、ハムさん(高橋さんの愛称)によると、浜の利権に大手資本が介入してくることになるという。安倍政権はかなりとんでもないことをやっているのではなかろうか。ハムさんから「来年4.17の50周年だからみんなで集まってパーティをやろう、ついてはお前が事務方をやれよ」と言われる。
4.17とは1969年4月17日、革マル派によって早稲田から締め出されていた私たち反革マル連合が革マルの戒厳令を突破、全学封鎖への道を開いた日だ。ハムさんから「死んだ奴もいるしそのままドロップアウトした奴もいる。お前も一応社長をやったんだから何とかなったほうだよ」と言われる。おっしゃる通りです。

12月某日
「小暮荘物語」(三浦しをん 祥伝社文庫 平成26年10月)を読む。三浦しをんは新刊が出ると買うというほどではないが、本屋に寄って読んでいない文庫本があったりすると買うことがある。この本がそうで、タイトルの「小暮荘物語」と著者名だけで買うことにした。タイトルからして小暮荘というアパートを舞台にした物語ということは想像がつくが、最初に感想を言っておくと、私としてはかなり楽しく読んだ。三浦しをんはウイキペディアによるとは今年42歳の女性、早大一文の演劇専修出身。2006年に「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞を受賞している。小説は小暮荘の住人および小暮荘に関わる人を主人公にした6つの短編の連作となっている。

12月某日
笹塚の新国立劇場へ大谷源一さんと「Ay曽根崎心中」を観に行く。(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長からチケットを頂いたからだが、誘った女性にみな断られたけれど、大谷さんには断られなかった。大谷さんにHCMに来てもらい内幸町から都営三田線、神保町で都営新宿線に乗り換えそのまま京王新線の笹塚へ。笹塚の駅から新国立劇場へは地下道が通じている。入口と書くに石川さんがいたので挨拶、席に着くと川村女子学院大学の吉武民樹さんも同僚と来ていた。「Ay曽根崎心中」のAyとはフラメンコの掛け声の「アイ」で、ということはもともと近松門左衛門作の人形浄瑠璃だった(後に歌舞伎にも)曽根崎心中をフラメンコに仕立てたもの。舞台と衣装がなかなか絢爛豪華だったし、音楽もフラメンコを基調としながら三味線や和太鼓も取り入れなかなかの迫力だった。終演後、帰りのエレベーターで大谷さんに「なかなか良かったけど最後の歌謡ショーみたいのはいらないね」と話していたら、エレベーターに同乗していた私たちと同じくらいの年代の女性(ということははっきり言えばばあさん)が「私もそう思います。2人が心中で果てたところで終わるべきでした」と。都営新宿線で岩本町まで行って秋葉原でJRに乗り換え上野へ。上野不忍口で降りて「養老乃瀧」で大谷さんと吞む。

12月某日
午前中、東大の辻哲夫教授を訪ねる。辻さんの研究室は工学部8号館なので地下鉄千代田線の根津駅が近い。11時に研究室に行くと辻さんは校正刷りに目を通している最中だった。辻さんに「何時頃研究室に来ているんですか?」と尋ねると「10時頃来て8時頃帰ります」。
「私は11時過ぎに会社来て4時には帰りますよ」(だいたいそんなに仕事ないし)というと「私は病気なんですよ」と。つまり仕事病ということ。辻さんからこれからは地方が大切、人口が減少するなかでどうやって乗り切っていくか、知恵を絞っていかなければと熱弁を聞かされる。辻さんの熱弁は現役の厚生官僚の頃から「辻説法」として有名だった。しかし辻さんがこの国の将来を真剣に憂えているのは事実。「健康に気を付けて下さいね」と心の中でつぶやいて研究室を去る。午後は社会保険福祉協会の「介護職のためのグリーフケア実践講座」を聞きに行く。講師は高本眞佐子さん。今から3年ほど前、社福協から助成金をもらって「介護職の看取り及びグリーフケアのあり方」という調査研究の成果が実践講座にも生かされていた。高本さんは専門学校や社協などでグリーフケアの講義や講演の依頼が増えているようで、講師ぶりも板についてきた。5時前に研修を中座して新橋烏森口改札へ。新宿の有名なクラブで10年ほど前に閉店した「ジャックの豆の木」の店長、三輪泰彦さんと待ち合わせ。寒いので駅の近くの焼鳥屋へ。店には真鍋という棋士はじめ何人かの棋士も常連だった。昔話で2時間はあっという間に過ぎた。三輪さんは現在、鹿児島在住、お土産に軽羹と桜島のみかんを頂く。

12月某日
成城大学の名誉教授、村本孜先生とHCM近くの「64barrack st.」で会食。先生は住宅金融が専門で30年ほど前、年住協が住宅金融の国際会議を主催したとき知り合ったと思う。竹下隆夫さんとも親しく、1月25日の「偲ぶ会」のお知らせをしたら会議で虎ノ門方面に行くことも多いので「一度食事でもどうですか」ということで、今回の会食となった。先生は成城大学に社会イノベーション学部を立ち上げたときの原動力となったが、「いやーたいへんでした」という。こういう率直なところが先生の魅力だ。食事の後、HCMに寄っていただいて四方山話。大学も研究費が削られる一方ということで「このままでは日本の将来は危うい」ということで一致。

モリちゃんの酒中日記 12月その1

12月某日
浅野史郎さんの出版記念パーティ。神保町の学士会館で17時30分から開始。会場に行くと福井Cネットの松永さんがいたので挨拶。浅野さんは先日の秋の叙勲で勲章を授与されたのでそのお祝いも兼ねている。パーティの前にミニシンポジウムがあった。前のほうの席に元厚労省で前参議院議員の阿部正俊先生と同じく元厚労省で今は社会福祉法人の理事長をしている河幹夫さんがいたので、彼らの後ろに座る。シンポジウムの出席者は小山内美智子さん、田島良昭さんら古くからの浅野さんの友人と厚生労働次官を務めた村木厚子さん。田島さんは浅野さんが教わったことが2つあるとして、人権の尊重と「どんなにつらくとも自分の想いを貫くこと」をあげていた。村木さんは冤罪での拘置所で犯罪者と呼ばれる人たちに「生きずらい人」が多いとして、彼らの学歴で一番多いのが中卒、次いで高校中退そして三番目に高卒が来ると言っていたのが印象的。役所にいたのでは実感としてわからないだろうな。パーティで「森田さん」と声を掛けられる。厚生省入省ながら法制局が長く、今は京大法学部で「立法過程?」を教えている茅野千江子さんだった。

12月某日
「日米安保体制史」(吉次公介 岩波新書 2018年10月)を読む。日米安保を通してみる戦後史、新書ながら労作、読み応えがあった。吉次は安保体制下の日米関係について、「非対称性」「不平等性」「不透明性」「危険性」に焦点を当てその歴史をたどっている。安保の「非対称性」というのは、米国は日本の防衛義務を負うが米国の領土が攻撃されても自衛隊は来援する義務はないということ。「不平等性」は刑事裁判権はじめ米軍に様々な権利を認めているということ。「不透明性」というのは、いわゆる「核持込み」などの「密約」である。「危険性」は在日米軍による事故や犯罪である。日本本土の米軍基地は縮小されつつあるが、問題は沖縄である。沖縄の米軍基地は高度化しつつ存続している。本土においても戦後、米軍がらみの事故、事件が頻発したが米軍基地の縮小にともない自己、事件も少なくなったが沖縄ではいまだに頻発していると言っていい。本書を読んで改めて日米安保の不平等性と危険性、さらには沖縄の犠牲の上の本土の安全があることを強く感じた。もう一つ上げるとすれば安全保障に関する昭和天皇の強い関心だ。「天皇は、安保条約と沖縄の米軍基地で日本を共産主義の脅威から守ろうと考えており、講和後も、日米協力や在日米軍を重視する旨を日米政府高官に伝え続けた」(P12)のだ。

12月某日
18時30分から虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせ。でも17時以降は仕事をしたくない。それで居候をしているHCMの大橋社長に「6時半まで時間あるんだけれど」というと「それまで事務所にいていいですよ」という。「そうじゃなくて、それまで呑みに行こうよ」と連れ立って虎ノ門へ。日土地ビルの向かいにある新虎ノ門実業会館の地下2階の居酒屋へ入る。ビールで乾杯した後、ハイボールをジョッキで呑む。2杯目を途中まで呑んだところで6時15分。ハイボールを少し大橋社長に手伝ってもらって飲み干す。6時25分に店を出て日土地ビルへ。何喰わぬ顔で打ち合わせへ。この場合、「何呑まぬ顔」が正しい。

12月某日
学士会館のレストラン「ラタン」で建築家の児玉道子さん、年友企画の編集者、迫田さんとランチ。ここは味よし雰囲気よしで値段もリーズナブル。児玉さんは知多半島の常滑市で空き家を活用したホテルを活用する構想を話してくれた。迫田さんと別れてプレハブ建築協会の合田純一専務を訪問。児玉さんから岐阜県伊賀市の「伊賀越漬」を頂く。ウリの種を抜いた跡にいろいろな野菜を詰めた漬物で、「伊賀越え」に備えて忍者も食べたという優れモノだ。西新橋のHCMで大谷源一さんと待ち合わせて鶯谷の「やきとり ささのや」へ。ここは以前から大谷さんから聞いていた店で「安くて旨い」と評判の店だ。17時前だったがほぼ満員。店の手前は「キャッシュ&デリバリー」で常連さん向けの立ち飲み、店の奥は椅子席である。運良く椅子席が空いていたのでそこに座る。漬物と生ビールで乾杯。ハツ、ナンコツ、レバー、ニンニクなど焼き鳥を食べる。焼き鳥もおいしかったが、大谷さんお勧めの「煮込み」は絶品。

12月某日   
「戦争の論理―日露戦争から太平洋戦争まで」(加藤陽子 勁草書房 2005年6月)を読む。加藤陽子は1960年生まれ。現在、東大大学院の人文社会系研究科の教授である。日本の近代史が専門だが、史料を駆使した平易な文章で歴史を解明する姿勢には以前から私は好感を持っている。マルクス主義的な歴史理解ではなくそれでいてリベラル。「はじめに」で加藤はコリンウッドという人の言葉を引いて歴史家の仕事を「歴史の闇に埋没した作者の問いを発掘することである」としている。ここでいう「作者」とは政治家や軍人、経済人といったリーダーだけでなく実際に戦争を戦った兵隊やそれを支えた銃後の庶民も含まれると思う。近代の戦争がそれ以前の戦争と様相を異にするのは、それが総力戦として戦われたことであり、最終的に戦局を左右したのは国力、生産力だからである。
個人的には第六章の「統帥権再考―司馬遼太郎の一文に寄せて」に最も興味が惹かれた。司馬の論旨は「統帥権の独立によって、その番人たる参謀本部=統帥機関が暴走し『明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺された』」というものだ。加藤は「それは小説家による単純化でことはもう少し複雑ではないか(もちろん、こう書いているわけではない)」と参謀本部が陸軍省から独立した1878(明治11)年から解き明かす。参謀本部の独立により、軍政は陸軍省、軍令は参謀本部という「軍政二元主義」が確立するが、軍部が政治的に台頭したのはむしろ軍部大臣現役武官制であったというのが加藤の理解である。軍部大臣現役武官制はシビリアンコントロールの対極に位置する。そして陸海軍大臣を現役としたことで、内閣あるいは総理大臣に対する拒否権を軍部に握られたことを意味する。大本営(戦時における統帥機関の最高の形態であった)の設置を巡っても統帥機関の参謀本部・軍令部(海軍の参謀本部に相当する)と陸軍省・海軍省で応酬があった。結局、加藤は戦時のリーダーが「戦争指導を直接的に行なう統帥機関になりがち」なことは一面の真理としつつ「20世紀の戦争は、作戦の集積にとどまるものでなくなった」ために、権力の統合強化が図られていったとしている。加藤の見方は総力戦の時代にあっては「統帥権の独立」はひとつの幻影に過ぎなかったということだろうか。

12月某日
年友企画の忘年会に誘われる。手ぶらで行くのも何なので、神田の食料品のディスカウントショップ河内屋でアイリッシュウイスキーの「ジェムソン」1本とバーボン1本を買って持って行く。会場は高級中華料理店の「桃園」年友企画の社員の皆さんと社会保険研究所の鈴木社長、谷野常務、フィスメックの小出社長も参加、全体で15、6人の参加であった。普段は少人数での呑み会が多いのだが、たまには大勢で吞むのも楽しい。

モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
我孫子駅に着くとまだ18時前。駅前の「しちりん」で少し呑んでから帰ることにする。社会保険研究所の手塚愛子さんにもらった「哲学すること-松永澄夫への異議と答弁」(中央公論新社 2017年11月)を拾い読みする。手塚さんは東大の哲学修士課程だったか博士課程を修了した才媛で、彼女も彼女の連れ合いも松永澄夫に師事したということだ。700ページの大著で「本体5800円+税」という自費であれば絶対に買わない本。巻末の松永自作の「松永澄夫略年譜」をパラパラと読む。松永は1947年12月生まれ、私の1歳年長。熊本に生まれ県立熊本高校卒業後、ストレートで東大理科Ⅰ類から1968年に理学部生物化学科に進学。激化していた東大闘争の影響で実験室が閉鎖されたこともあって、文学部哲学科への転部を考えるようになり、1970年に転部、特例で1年で卒業して修士課程博士課程に進む。私は北海道室蘭市の高校を卒業した後、一浪後、1968年に早稲田大学政経学部に進学したのだが、授業がつまらないこともあって積極的に学生運動に参加した。政経学部の学生自治会は社青同解放派だったが、1968年の12月に革マル派から早稲田を追い出され東大駒場に逃れた。確か駒場の教育会館に立て籠った記憶があるけれど、真面目な東大生には迷惑な話だったかもしれない。「しちりん」の後、「愛花」に寄る。看護師養成大学の助教のケイちゃん、エロ小説作家のお姉ちゃん、その他常連が来ていた。

11月某日
古巣の神田の年友企画に行って迫田さん、酒井さんと「へるぱ!」の打ち合わせ。大山均社長と少し話す。年友企画の総務担当の石津さんと浜松町の「秋田屋」に呑みに行く約束だったが、神田に変更。南口駅前の居酒屋へ。石津さんが酒井さんを呼んで三人で呑む。

11月某日
フィスメックの会長を退任した田中茂雄さんと奥さんのマキコさんと食事。2人は国分寺に在住だったから西国分寺の「オステリア西国分寺」をネットで調べて17時30分から3人で予約する。オステリアというのはイタリア語で居酒屋という意味らしい。フランス語のオーベルジュか。西国分寺駅でキョロキョロしていると「森田さん!」と声を掛けられる。見ると白梅大学の山路憲夫先生だ。山路先生は毎日新聞の論説委員を辞めた後、白梅大学で教授に就任、定年で教授は辞めたが「小平学」の研究所を設立した。障がい者福祉の社会福祉法人の理事長もやっている立派な人だ。「こんなところで何やっているの」「いやちょっと食事会があって」という会話を交わして、私は西国分寺の北口飲み屋街へ。2~3分歩くと「オステリア西国分寺」があった。お店に入ると何か一度来たことがあるような記憶が…。そういえば(社福)にんじんの会の打ち合わせの前か後に、フリーの編集者の浜尾さんと食事に来た店であった。お店の人に「5時半から予約している森田です」と伝えると「お連れ様が見えています」。奥のテーブルに田中さんが座っている。2人でビールを呑み始めたところで、奥さんが登場。いろいろ昔の話ができて楽しかった。ここのお勘定は私が持つつもりだったが、奥さんに払われてしまう。奥さんから「これ奥さんに」とお土産までいただく。西国分寺から武蔵野線で新松戸へ。新松戸から我孫子へ。

11月某日
浅田次郎の「ブラック オア ホワイト」(新潮文庫 平成29年11月)を読む。浅田次郎は現代小説でデビューした人だけど「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞をとり、任侠モノや時代小説、大陸モノ(中国を舞台にしたもの)など幅広い分野で活躍している。「怪異モノ」もその一つでこの小説はそれに入る。それにしても浅田次郎は今や文豪だね。「何を読んでもそれなりに面白い」などというと作家に対して失礼かもしれないが、ある一定の水準を上回る作品を次々と上梓できるというのはたいした才能だと思う。解説によると本作は週刊新潮2013年10月3日号~2014年7月24日号に連載され、単行本は2015年2月に刊行されたとある。友人の通夜の帰り「私」は都築のマンションに誘われる。都築は満鉄の理事から商社の役員を務めた祖父、その入り婿となった父と三代にわたる資産家の家に生まれ、現在の住まいはその邸宅の跡地に建てられたものだ。資産家とか満鉄の元理事という設定からして怪しい。都築は父と祖父の勤めた商社に入社し、スイスに出張する。「そのホテルは、いわゆるベル・エポックの典型だった」で始まる物語では、ホテルのバトラーが就寝時、「ブラック オア ホワイト」と言って二つの枕を持ってくる。白い枕で都築が見た夢が物語の骨子である。夢だから話の中身に荒唐無稽なところも無論ある。それが物語に対する興味を削ぐかというとそれが逆。浅田のストーリーテラーとしての巧みさに脱帽するばかりである。