モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
「せんせい。」(重松清 新潮文庫 平成23年7月)を読む。巻末の「文庫版のためのあとがき」で重松は「僕の描くお話に登場するおとなの職業は、おそらく九割以上が教師」と書いている。そういえば12月に読んだ「どんまい」にも教師志望の男が出てくるし、朝日新聞連載中の「ひこばえ」では主人公の息子が新米教師だ。重松は同じ「あとがき」で「僕は教師という職業が大好き」と述べる一方で、「僕は同時に、教師とうまくやっていけない生徒のことも大好き」と書いている。考えてみると教師という職業は生徒がいるから成り立つのであって、逆に言うと生徒という存在は、教師がいなければ存在しないともいえる。そうであるが故に教師と生徒の関係を題材にした小説は、両者の関係のバランスの微妙な揺れを描くことが肝となる。「せんせい。」に収められた6編の短編は、とても上手にこの「揺れ」を描いているように感じた。「ドロップスは神様の涙」は優等生だった女の子がクラスの女子から虐めに会い、保健室に逃避しているうちに保健室の先生「ヒデおば」によって自己を再生させていく話。「泣くな赤鬼」は野球の強豪校の「赤鬼」と渾名された監督が、レギュラーを期待されながらも野球部を辞め高校も中退した男と病院の待合室で再会、男は結婚して子供もいるのだが実は末期のがんを病院で告げられる。監督は高校中退とはどういうことか、野球部を辞めるとはどういうことか、考える。人生は考えようによっては挫折の連続である。監督は挫折して野球部を辞めていった多くの生徒のことを考える。末期がんの男の病室を訪ねた監督は「俺の生徒になってくれて、俺と出会ってくれて…ありがとう」と伝える。泣けますね。高校中退のこの男は「教師とうまくやっていけない生徒」の代表である。

1月某日
居候をしているHCM社の大橋社長とデザイナーの土方さん、映像プランナーの横溝君と新橋の「おんじき」へ。「おんじき」は青森料理のお店で青森出身の大橋社長に何度か連れて行ってもらったことがある。土方さんが今月52歳になったと言っていたが、私が70歳、大橋社長が60代、横溝君が恐らく40代、年代も職業も所属する会社も違うが、この4人で呑むと私にとってはなぜか居心地がよい。日本酒のぬる燗をついつい呑み過ぎる。大橋さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
「自白 刑事・土門功太朗」(乃南アサ 文春文庫 2013年2月 単行本は2010年3月)を読む。乃南アサは1960年生まれ。私よりひと廻り(12歳)下である。この小説はシリーズ化されなかったようだし、ネットで読後感を検索しても評判もいまひとつだ。だが私は気に入ってしまった。この小説は4つの短編で構成されている。最初の「アメリカ淵」は入院中の土門が警視庁捜査一課への係長職への辞令を受け取るのが「プロ野球のペナントレースで藤田監督率いる読売ジャイアンツが四年ぶりに優勝した翌日」とされているから、1981(昭和56)年の秋である。第2話の「渋うちわ」は土門が長女の美咲と次女の菜摘に開園したばかりのディズニーランドに連れて行くようにせがまれるシーンが描かれているから1983(昭和58)年の春だ。第3話「また逢う日まで」では三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地で「自らが結成した「盾の会」の会員と共に割腹自殺をする事件が起きた」と書かれているから昭和45(1970)年の晩秋である。最後の「どんぶり捜査」では「今年は正月が明けて間もなく」ホテルニュージャパンが火災に見舞われ「33名が死亡、重軽傷者も149名にも及ぶという大惨事になった」と記されているから1982(昭和57)年である。私が22歳から34歳までの昭和の晩年、私の青春時代と重なるのである。刑事が主人公だから犯罪小説、警察小説のジャンルではあるが、次女の誕生や姉妹の受験のエピソードも盛り込まれて家庭小説、ホームドラマの趣もあるのだ。私の青春時代の昭和の晩年が舞台で、ホームドラマの趣もある警察小説、私が気に入った理由である。

1月某日
家の本棚にあった「彰義隊遺聞」(森あゆみ 新潮文庫 平成20年1月)を読む。本を買った記憶があるが中身は全然覚えていない。買っただけで読まない「積ん読」だったのかもしれない。森まゆみは1954年生まれ、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人として知られるが同誌の終刊後もノンフィクション作家、エッセイストとして活躍している。日本人は「判官贔屓」というか歴史の敗者を好む傾向がある。義経、大坂の陣の豊臣方、そして戊辰戦争では賊軍とされた彰義隊や長岡藩、会津藩など。明治以降では西南戦争の西郷隆盛、2.26事件の青年将校か。彰義隊は1968(明治元)年、鳥羽伏見の戦いに敗れ上野の寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の警護を名目に旧幕臣や一橋家の家臣を中心に結成されている。一時は江戸の市中警護を幕府から正式に依頼された。巻末の年表(年月日は旧暦)によると慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いがあり、大阪城に退いた慶喜は6日に側近とともに海路江戸へ逃れる。翌7日には慶喜の追悼例が下り、10日には慶喜以下17人の官位剥奪、領地没収が決められている。ここら辺の手際の良さは王政復古が薩長連合プラス岩倉具視、三条実美ら一部公家のクーデターであったことを疑わせるに十分である。
2月に入って回状が回され、12日に彰義隊の初会合が雑司ヶ谷鬼子母神の門前茶店茗荷屋で開かれる。23日には浅草本願寺に130人が集まり、彰義隊が結成される。26日には幕府から市中取締りを命ぜられているから、ここから彰義隊は公権力の一翼を担ったと言ってよい。しかしこの時点では京都には明治政権が成立し、東征の軍を進めることが決している。
つまり日本全体が二重権力的な状態にあったのだ。3月13日、芝高輪の薩摩屋敷で西郷と勝海舟が会談、江戸城の総攻撃は中止となる。3月中旬に彰義隊はそれまで本営としていた本願寺から上野寛永寺へ移る。4月11日に江戸城は無血開城され、慶喜は謹慎していた寛永寺を出て水戸へ向かう。旧暦のためこの年は4月が2回あり閏4月29日、田安亀之助の徳川家の相続が決まる。5月1日、大村益次郎が江戸に入り、彰義隊の市中取締の役を解くように要請している。慶喜が江戸を去り、徳川家の存続が決まり、その上市中取締の役が解かれるとなると、彰義隊の公権力としての正当性は大きく揺らぐ。彰義隊による官軍への斬殺事件が発生するが、これは公権力の発動とは言えずもはやテロであろう。14日、官軍・大総督府は彰義隊に宣戦布告、15日払暁より戦闘は開始される。彰義隊は善戦するも日没前に大勢は決する。森は一連の彰義隊を巡る動きを地域の古老や当時の文書、明治期以降に明らかにされた関係者の手記などで明らかにしていく。言い伝えや手記などには食い違いもあるが、森はそれをそのまま綴っていく。日本人の持つ彰義隊的なメンタリティ、それを森は見事に表現していると思う。

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
「蕪村-己が身の闇より吼えて」(小嵐九八郎 講談社 2018年9月)を読む。小嵐の小説は方言を饒舌と言えるほどに使うのが一つの特徴と言えるのではないか。今回は俳人にして文人画の大家として後世知られる蕪村が主人公なので京都、江戸、北関東の結城などが小説の舞台となる。よって方言も京都弁、江戸弁に加えて北関東の方言なども駆使されている。私にとって「読みやすい」小説ではなかったが、非常に面白かった。3連休の2日を使って350ページを読み通したが、読み進むにつれて面白さは募った。芭蕉、一茶とならんで蕪村は江戸時代の三大俳人と言われているが芭蕉、一茶ほどには小説等で取り上げられていないと思う。蕪村が俳句に加え書画においても才能を発揮したことに加え、前半生の詳しいことが分かっていないことも理由のひとつか。そこがまた小嵐の作家的な想像力を刺激したのであろう。小説では蕪村は幼い頃父を亡くし、母は小作人の若い男と通じている。蕪村母子を庇護してくれている叔父(父の弟)もいずれ父の後釜に座ろうと思っている。母と小作人の密通を知った叔父は小作人と母を殺し、殺害の現場にいた15歳の蕪村は叔父を殺害する。京に逃れた蕪村は乞食の群れに身を落とし浄土宗の僧侶に拾われ法然の教えを知る。法然の教えは親殺し、僧侶殺しなどの大罪を犯した以外の罪びとは救われるというものだった。親同然だった叔父を殺害した己は救われないのか。蕪村の句の「己が身の闇より吼えて夜半の月」が小説の副題に使われているが、「己が身の闇」がこの小説のテーマである。蕪村は童女の頃知りあい、飯盛り女として春を売っていた女をめとるが、この女を通して親鸞の悪人でも往生できるという教えにたどり着く。小嵐は新左翼の活動家出身で入獄も経験している。1970年代~80年代は恐らく内ゲバの渦中にいたと思われる。「己が身の闇」は小嵐にもあり、濃淡はあれど誰にでもあるのではないか。「親殺し」というギリシャ悲劇以来の普遍的なテーマに親鸞の悪人正機説を組み合わせた壮大な小説として私は読んだのだけれど。

1月某日
元厚労省の堤修三さん、岩野正史さんと鎌倉橋の「跳人」で呑む。社会保険研究所の手塚女史、セルフケア・ネットワークの高本さんも誘ったが、手塚さんはインフルエンザ、高本さんはスケジュールが合わず欠席、男ばかり3人の呑み会となった。堤さんは昨年、酒席で転倒したことがあるそうで酒を控えめにしているとか。それでも3人で呑むのは久しぶりなこともあり楽しかった。

1月某日
2日続いて鎌倉橋の「跳人」へ。高齢者住宅財団の落合さん、フィスメックの小出社長と「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。高齢者住宅財団が神田橋なので、鎌倉橋までは歩いて来れるのだ。大谷源一さんがHCMを訪ねてくれたので誘う。「跳人」の目の前の社保険ティラーレで吉高さんと佐藤社長と打ち合わせ後「跳人」へ。小出社長と大谷さんはすでに来ていた。昨日引き続き私は熱燗。落合さんが来たので4人で乾杯。「玉ねぎの丸上げ」というのを初めて頼んだが美味しかった。私以外の3人は京浜東北線の川口と浦和近辺に住んでいるので沿線の話で盛り上がっていた。小出社長にすっかりご馳走になる。我孫子に帰って「しちりん」に寄る。

1月某日
「金融失策 20年の真実」(太田康夫 日本経済出版社 2018年9月)を読む。著者は日本経済新聞の編集委員。1989年東大卒、同年日経新聞に入社、金融部、経済部、スイス支局などを経て現職。この20年間、日本政府が進めてきた「貯蓄から投資へ」という流れが全くというほど進まなかった現実を明らかにしている。金融監督庁は、旧来の銀行融資(間接融資)に頼る金融システムから、株式や社債の発行を通じて資金を調達する(直接融資)市場に頼る金融システムへの移行を目指した。「貯蓄から投資へ」の一連の政策が、日本経済を成長軌道に戻すはずだった。ところが現実はそうではなかった。著者はその原因を金融専門の新聞記者らしく丹念に事実を掘り起こす。著者はもっぱら銀行の経営責任と行政、大蔵省(現財務省)や金融監督庁の責任を追及する。金融専門の記者ならばそれは妥当なところだ。しかし、本当の責任はアベノミクスを進めた安倍首相と黒田日銀総裁にあるように思う。そして一番責任があるのは安倍自民党に政権を委ね続けた私たち国民だ。

1月某日
生来の運動音痴から脱落してしまったけれど、高校時代1シーズンだけスキー部に所属していたことがある。昨年、同じスキー部で札幌のコンピュータソフト会社の社長をしている佐藤正輝が上京したのを機会に開かれた室蘭東高スキー部の首都圏同窓会に誘われた。今年も新年会が神田・司町の「上海台所」であるというので参加する。北海道・千歳市在住の丸田君も上京中で参加、私が知っているのは他に同学年だった阿部君と紅一点の中田(旧姓)志賀子さんくらいだ。隣に座った人と話しているうちに家が近所だった一年下の内藤君だったことが分かる。50年以上前のそれも1シーズンだけの縁だったが、これも青春の1ページということか。

1月某日
「娘と嫁と孫とわたし」(藤堂志津子 集英社文庫 2016年4月)を読む。ウイキペディアによると藤堂志津子は1949年3月、札幌生まれだから私と同学年、同郷である。札幌の藤女子短大を卒業、1988年に直木賞を受賞している。物語は嫁の里子と孫の春子と同居する「わたし」(玉子)の日常が描かれる。息子は35歳で交通事故死したという設定。玉子の夫は息子の交通事故死のショックに耐えがたいという理由で家を出ている。娘の葉絵は離婚後、ドラッグストアチェーン店の御曹司と再婚。葉絵が狂言回し的な役割を負っている。ホームドラマは通常、夫婦と親子が揃っているものだが、この物語は息子の事故死、夫の家出(実は不倫だったことが後に明らかにされる)など家族の欠損がテーマの一つになっている。玉子は午前中、パート勤めしているが、実は生活費は夫から送られてきているし、それとは別に夫の家出の際、夫から3000万円せしめている。つまり生活に不自由はないのであって、そこがこの物語の基礎を支えているのである。

1月某日
50年前の1月18日つまり1969年の1月18日に全学封鎖されていた東大に機動隊が導入された。安田講堂をはじめ工学部列品館などに立て籠っていた学生たちは投石や火炎瓶などで激しく抵抗したが、機動隊によって次々と排除されていった。安田講堂は翌日の午後、屋上に追い詰められた学生たちの逮捕によって機動隊に完全に制圧された。前の年の暮れ、早稲田大学政経学部の一年生で社青同解放派の未熟な活動家だった私は、闘争の合間に政経学部地下の自治会室でくつろいでいた。三里塚の現地闘争への動員も終わり、10.8、11.12の羽田闘争一周年、10.21国際反戦デー、11.22の「東大・日大闘争勝利全国学生決起集会」も終わって、それこそ一息ついて文字通りくつろいでいたと思う。そのとき革マル派の学生が自治会室に乱入、自治会室にいた解放派の指導者を殴り始めた。革マル派の学生に「チンピラは消えろ」と言われた私ともう一人の一年生は理工学部のキャンパスまで走って逃げた。確か理工学部のサークルのひとつが解放派の拠点だったからだろう。我々の話を聞いた理工学部の解放派とタクシーに分乗、ヘルメットを数個赤旗にくるんで東大駒場へ向かう。東大駒場も全学封鎖中で私たちは解放派の拠点だった教育会館へ逃れる。その夜、革マルの拠点だった駒場寮に夜襲を仕掛けるが、あっさりと撃退されてしまった。何日か教育会館に寝泊まりすることになるのだが、内ゲバの緊張感に耐え兼ねた私は、「着替えをとりに行く」という口実でバリケードを離れ、その後教育会館に戻ることはなかった。そうはいっても安田講堂攻防戦は気にかかって政経学部のクラスメートの小林君と本郷あたりをうろついた記憶がある。一浪して早稲田に入った私はすでに20歳になっていたが、小林君は現役でしかも3月生まれだったからまだ18歳のはずである。小林君はその後、ブント戦旗派の活動家になった筈。神奈川の小学校の事務職員をしながら活動をしているという噂をだいぶ前に聞いたことがある。小林君をブントにオルグした理工学部ブントの森君は大阪に帰った。森君と結婚したのが尾崎絹江さん。尾崎さんは私が3年のとき、法学部に入学、ロシア語研究会に入部、麻雀を教えた覚えがある。尾崎さんはその後、ブントから離れフリーライターになる。朝日新聞の「アエラ」にも執筆したことがあるが数年前、乳がんで死んだ。

モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
南阿佐ヶ谷のケアセンターやわらぎに石川はるえ代表訪問。「竹下さんを偲ぶ会」の出欠状況を報告、児童虐待防止の「子はたからプロジェクト」の話を聞く。HCM社に戻って大橋進社長とHCMの卓球プロジェクトの協力者、小田切さんと新年会。小田切さんは弘前実業の出身で大橋社長の一歳下ということだが、髪は黒々として若々しい。小田切さんの話を聞いていると太宰治の「津軽」など弘前周辺の人々を描いた小説の登場人物を思い出す。x

1月某日
「偲ぶ会」の打合せでフィスメックの小出社長を訪問。セルフケアネットワークの高本眞佐子代表も同道。打合せ後、高本代表と神田の「葡萄舎」へ。遅れて小出社長と社会保険出版社の社長で高本代表の夫でもある高本さんが参加。ボトルキープしていた小出社長の焼酎を空け、髙本さん新たにボトルキープした焼酎も空けたのではないだろうか?覚えてないのだけれど、70歳を超えたのだから少しは考えないとね。

1月某日
「コンビニ人間」(村田沙耶香 文春文庫 2018年9月)を読む。村田沙耶香は昨年確か「消滅世界」を読んで以来。彼女は文学仲間から「クレージー沙耶香」と呼ばれているらしいが、それも「なるほどね」と思わせる「コンビニ人間」であった。主人公はコンビニバイト歴18年、独身彼氏なしの36歳、古倉恵子。この作品は芥川賞受賞作だが、村田は当時、コンビニでバイトしていたからコンビニの描写は彼女の体験に基づくものなのだろう。コンビニの同僚だが勤務態度が悪く馘首された男性、白羽と古倉のアパートの一室で同居することになる。コンビニの同僚や古倉の妹は、結婚を前提とした同棲と勘違いして祝福する。誤解を受け入れて古倉はコンビニを寿退社するのだが。コンビニはある意味で現代を象徴するビジネスだと思う。女性の社会進出が進み、男女ともに単身者が増える。イートインが増え食事もコンビニで済ます。コンビニとスマホが現代社会の必須アイテムとなっている。その文学的な反映が「コンビニ人間」なのである。

1月某日
銀座で打ち合わせの後、新橋の「焼き鳥センター」へ。大谷源一さんと待ち合わせである。一般社団法人La Lienの神山弓子代表理事を紹介される。神山さんによると前に一度、大谷さんと3人で呑んだことがあるということだが、記憶にない。しかし話してるうちに神山さんが以前、客室乗務員だったことなどを思い出した。神山さんは宮城県石巻市の出身、大震災の当日は仙台と石巻を結ぶ仙石線に母親と一緒に乗車していたという。家は日和山で無事だったというが、立派に「被災者」である。代表理事をしている社団法人は健康長寿をプロデュースするとともに被災地の復興支援にもあたりたいと言っていた。

1月某日
「天皇制の基層」(吉本隆明 赤坂憲雄 講談社学術文庫 2003年10月)を読む。吉本と赤坂の天皇制を巡る対談集。底本となったのは1990年9月の作品社刊行の「天皇制の基層」である。昭和天皇が亡くなったのが1989年1月、対談は1989年の10月、11月、12月の3回にわたって行われている。つまり昭和天皇の崩御を受けて改めて天皇制を根底から問い直してみるという企画であったのだろう。折しも現在の天皇の譲位が決まり平成という年号も今年4月までらしい。さて30年前の対談だが、1924年生まれの吉本が65歳、1953年生まれの赤坂が36歳のときである。吉本は当時、思想界の巨人として誰もが仰ぎ見るような大家だった。対して赤坂は天皇制へ柳田国男や折口信夫など介してアプローチを試みる新進気鋭の研究者であった。「天皇制の基層」を読んで私がもっとも気になったのは昭和天皇と平成天皇の違いである。昭和天皇は昭和20年の敗戦まで現人神であり、明治憲法では万世一系の天皇が日本を統治すると定められている。敗戦後、人間天皇になったにしろ一般の国民にとっては「畏れ多い」存在だったのではないか。平成天皇は小学生の時に敗戦を経験し、米国人女性の家庭教師の影響もあってか考え方がきわめてリベラルであり、象徴天皇像を国民とともに作り上げてきたと言える。80歳を超えてもなお被災地や太平洋戦争の戦績を訪問する旅を続けている。赤坂は「象徴天皇制というのは、これまでのシステムとしての天皇制を中核に置いた天皇制の歴史が幕を閉じ、形骸化の段階に入って現れた最後のイデオロギー」とする。吉本も「僕は農業社会が少数化していき形骸化していくにつれて、天皇制も形骸化していくだろう」と語っている。これから1000年という長いタームで考えればそれはそうかも知れないと私も思う。国家や国境も消滅するかも知れないという長い射程で考えればである。当分はそうとう長きにわたって天皇制は存続するというのが、私も含めた国民の総意ではなかろうか。

1月某日
大学時代の同級生、内海純君が長期滞在しているイタリアから帰ってきているというので弁護士の雨宮英明先生、伊勢丹OBの岡超一君と集まることにする。クラスは違うが同じ政経学部の数少ない女子学生で、のちに新宿や赤坂でクラブのママをやる関さんも参加。場所は前に高橋ハムさんにご馳走になった有楽町の高知物産館の2階にある「おかず」。17時少し過ぎに店に行くと「17時30分の開店ですのでそれまで下の物産店を覗いていてください」と言われる。下の物産店の前にいると岡君が現れる。岡君は物産店で買い物。ついで関さんが来て「私も時間があったから物産店で買い物してたのよ」と言う。内海君も来たので4人で「おかず」へ。カツオのたたきや刺身の盛り合わせを頼む。内海君は日本に5月までいるというのでそれまでにもう一度呑み会を企画しようと思う。**

モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
正月3が日というか年末から「家呑み」を続ける。奥さんが買っておいてくれたビール、日本酒、焼酎を順番に呑む。といっても夕食のとき限定だけど。我が家で食事どきに酒を呑む習慣を有するのは私だけ。家族は10分か15分かで食事を終えるのだが、私だけぐだぐだと小一時間食事をとりながら酒を呑む。私の考えでは酒を呑めるというのは肉体的にも精神的にも健康な証拠。私が30代~40代でうつ病になったときは少しも酒を呑みたいと思わなかったし、呑んでも楽しくなかった。胃潰瘍と脳出血で入院したときも、もちろん院内飲酒は禁止だったし、このときも呑みたいと思わなかった。ただ退院してしばらくして飲んだ酒はうまかった。そういえば学生時代、留置所と拘置所で3か月ほど禁酒を余儀なくされたがこのときも全く禁断症状は出なかった。ミシェル・フーコーが病院と監獄の類似性について触れていると思うが、病院は個室と言えども病院の完全な管理下にあり、酒はご法度。その点ではいかに快適とは言え、病室と監獄は本質的に変わりはないのだ。

1月某日
「抱擁 この世でいちばん冴えたやりかた」(辻原登 小学館文庫 2018年8月)を読む。惹句に「現代最高の物語作家の傑作2冊を合本にして初文庫化!」とあるように「抱擁」は2009年に、「この世でいちばん冴えたやりかた」は2002年に「約束よ」というタイトルで、同じく新潮社で単行本として出版されている。「抱擁」は単行本化されたときに図書館で借りてすでに読んでいるが、例によって内容をほとんど覚えていないので再読する。舞台は東京駒場の前田侯爵邸、2.26事件の翌年だから1937年か。「わたし」は前田侯爵邸の小間使として侯爵の末娘、5歳の緑子に仕えることになる。「わたし」の前任者は「ゆきの」といったが、新婚の夫が青年将校として2.26事件に参加、夫の刑死の報を聞いて京王帝都電鉄の電車に飛び込み自殺する。緑子の周囲で不思議なことが起きる。緑子の英語の家庭教師、バーネット夫人は「キツネ憑き」を疑う。「わたし」はキツネ憑きを払うために緑子に刃を向け渋谷署に連行される。「わたし」の検事への供述として物語は始まるのだが、検事は「わたし」が緑子に危害を加える気持ちが無かったことを認め「起訴はしないから、今後、子供に会わないほうがいい」と「わたし」を諭す。釈放され実家に戻った「わたし」はおいとまの挨拶に屋敷へ出掛け、緑子に再会する。緑子は「わたし」の首を強く抱きしめ「さよなら、ゆきの」とささやく。解説の冒頭で宮下奈都という小説家が「辻原登さんの小説を読んで、すべてが腑に落ちたということは一度もない」と書いているが、「抱擁」もその通りの作品である。だが私にはとても魅力的だ。
「この世でいちばん冴えたやりかた」には7編の短編が収められており、三つが中国、四つが日本を舞台にしている。中国もののうち、「青黄(チンホアン)の飛翔」は浮浪児出身の中国青年が旅客機の車輪にぶら下がって米国行きを目指し、結果的に日本の入管に保護、拘留される話。「河間女」は北宋の首都東京(トウケイ)第八代皇帝徽宗治下、公開処刑された私が、その後2度転生し現在は日本の東京・高輪の魚籃坂で写真館を営んでいる。写真館の主が公開処刑されるに至った顛末を語る。中国ものの最後が表題にもなった「この世でいちばん冴えたやりかた」。第2次天安門事件に参加した後、北京、上海、香港、ニューヨーク、東京などでコンピュータ関連やファイナンスのエキスパートとして成功している青年たちが「黄河水源調査行」を実現させる。調査行の過程で私たちは村人が穴居している洞窟の村にたどり着く。村の祭礼へ出席した私は生贄として供物ともども断崖から突き落とされるが、断崖の途中で同じような洞窟の村に助けられる。驚いたことにここの村人は天安門事件のリーダーたちで、一人の女性は天安門事件で生き別れとなったかつての恋人だった。中国ものの特徴は「時空を超えるファンタジー」だ。
日本を舞台にした4作のうち「約束よ」は妻(まさる)と夫(雅美)という似た名前を持つ夫婦とまさるのセラピストを巡る物語。「かみにさわった男」は女子美出のソ子(正式には麤子、当用漢字にも人名漢字にもあるとは思えない!)はある日、見知らぬ男から自宅近くの船堀駅に誘い出され、船堀から都営地下鉄線に乗り小川町でおりて歩いて湯島のラブ・ホテルへ。トミーと名乗るその男は「おれたち、明日、結婚するんだから」とソ子を連れまわす。象潟のホテルでトミーは逮捕され、ソ子は警察の「いったいこの男はだれなんですか?」という問いに「私の夫です」と答える。「いまのところ彼女には、これ以上、最良の答えはみつからなかった。」というのが結びである。「かみにさわったおとこ」にも盲目の噺家の遊動亭円木が狂言回し役で軽く登場するが「窓ガラスの文字」「かな女への牡丹」では円木は準主役級の扱い。両作とも主人公は白河出身のかな。かなは九九も満足にできず漢字もろくに書けないが、物覚えは悪くないし着物を着せれば「映える子」と、かなが勤める塩原の旅館の女将は思う。かなは旅館の板前の修二と婚約する。修二は流れの氷屋佐伯に博打で300万円の借金を負う。佐伯は白河でかなと援助交際をしていたという噂を振りまく。佐伯はかつて殺人を犯していて警官に逮捕される。連行される佐伯を見かけたかなに佐伯は土下座して謝ると、かなはひざまずいて佐伯の両手をつかみ泣きながら「いいんです、いいんです」と佐伯への愛を語る。逆上した修二はかなを刺し、修二は逮捕されてかなは入院するが修二のことも佐伯のこともほとんど記憶にない。「かな女への牡丹」は傷が癒えたかなは深川は牡丹2丁目の料亭にいる。料亭の客の一人が刺青師の彫朝。彫朝はかなの肌を一目見て刺青を彫りたいと強く思い、かなに睡眠薬を飲ませ願いを成就する。かなは死のうと思うが大工の一八と祝言をあげることになる。披露宴に招かれた遊動亭円木が酔って自宅に帰る。「そのとき、かなの声がした。『円木さん、見て』 ふり向くと、かなの背一面に大輪の牡丹の花が咲いている。風に吹かれていた。円木も揺れた」。これがエンド。
辻原登は現代日本の作家で最も物語性の高い一人だと思う。かつての谷崎潤一郎かと思ったがむしろ石川淳か。石川淳は私の学生時代、文学青年の間では結構人気があった。1899年生まれだからその頃70歳になったばかり。日本文学の主流だった自然主義や私小説の伝統と対立するロマネスクの作家だと思う。の苫小牧市で古書店を営んでいた私の徳蔵叔父さんも、実は石川淳のファンで何冊か初版本を持っていた。「紫苑物語」だったか初版を一冊もらった覚えがある。私が辻原を最初に読んだのは大逆事件に題材をとった「許されざる者」(2010年)だから割と最近。読んでいない著作も多いので楽しみである。

1月某日
本棚にあった「失恋」(鷺沢萠 新潮文庫 平成16年)が目に付いた。例によって読んだ記憶はあるが、内容は覚えていない。鷺沢萠は1968年生まれで1987年「川べりの道」で文学界新人賞を受賞、女子大生作家としてデビュー(Wikipedia)。2004年4月自殺。都会的で繊細な作風が好きで彼女の小説は何冊も読んだ。自殺したから言うのかもしれないが彼女の作品にはある「切実さ」が込められていたように思う。待てよ2004年に自殺したということは、この文庫本が出版された年ではないか。解説を作家の小池真理子が書いているが、その日付は平成16(2004)年1月である。もっとも単行本が出版されたのは平成12年9月、当然だが作者の自殺を予感させるものは何もない。学生の頃から仲は良かったが恋人ではなかった男女二人。女は学生時代の仲間の一人と結婚するが夫は借金を重ね、覚せい剤にも手を出し離婚を余儀なくされる。男は映画評論家となり映画祭の取材帰りに女の赴任先のベルリンへ。女の部屋で二人は結ばれる。女の帰国後、元夫の自殺による通夜にかつての仲間が集まり、男と女は再会する。自然な形でふたりはセックスするが男は女がベルリンでの一夜を全く覚えていないことに驚愕する-短編集冒頭の「欲望」の粗筋である。男、悠介の想いは「人間は無力だ。思ってもみなかったほど、無力だ。それを悠介は、今日はじめて痛いほど思い知らされた」と表現されるが、「けれど、そんな無力なものにもできることは必ず、ある……」と続く。「絶望、そしてそれからの回復」が本作のテーマではないだろうか。そして現実の鷺沢は絶望からついに回復することがなかった。作家的な力量からすれば鷺沢は辻原登の足元にも及ばないかもしれない。しかし作品の「切実さ」において鷺沢は記憶されることになると思う。

モリちゃんの酒中日記 12月その5

12月某日
図書館で借りた「わたしの家族の明治日本」(ジョアンナ・シェルトン 文藝春秋 2018年10月)を読む。原題はA Christian in the Land of the God-journey of faith in japanである。
「神の国のクリスチャン-日本での信仰の旅」だろうか。西南戦争が終わって数か月後の日本に赴任した宣教師、トーマス・アレクサンダーとその家族の物語である。1878年に来日したトーマスは1902年に病を得てアメリカに帰るまで24年間、日本で暮らした。もちろん何度かの里帰りはあったが。殖産興業、富国強兵というスローガン通り、日本と日本国民が「坂の上の雲」を見つめながら近代化にまい進した時期である。トーマスがアメリカに帰る前、1894年に日本は中国相手の戦争(日清戦争)に勝利、アメリカに帰った後、1904年にロシア相手の戦争(日露戦争)に辛勝する。今から思えば日本が精神的に健康だった時代と言ってもいいかもしれない。日清日露の戦役に勝ってから日本は中国をはじめとするアジア諸国を蔑視するようになり、軍事大国化の道をひた走ったように思う。それはともかくトーマスは敬虔で真面目、日本語も堪能な良き宣教師だったようだ。日本で居住した家屋の写真も掲載されているが、なかなか立派。日本における明治以降のキリスト教の受容が、主として中流階級以上もしくは知識階級が主だったことも何となくうなづける。

12月某日
天皇誕生日。天皇がステートメントを読み上げている映像が何度もテレビで流れる。天皇はときどき感極まってだろうか、涙声になる。天皇は小学生の時に終戦を迎え、米国人女性の家庭教師から英語と欧米文化、民主主義を学んだ。おそらく皇太子時代から平和憲法のもとでの天皇の役割とは何かを考え続けて来たと思われる。天皇の思想と行動で特徴的なのは「祈りと旅」だ。災害の被災地と太平洋戦争の戦跡をたどる「祈りと旅」である。自らの思索と行動で象徴天皇像を作り上げてきたと言ってもいいのではないか。天皇誕生日の一般参賀に平成になってから最高の8万人余が訪れたという。天皇の想いが国民に通じたのだろう。現存している日本人のなかでは、現天皇は最も尊敬すべき人の一人である。

12月某日
「どんまい」(重松清 講談社 2018年10月)を読む。重松清の小説はあまり読んだことはないけれど、朝日新聞朝刊の連載小説「ひこばえ」は途中からだが読んでいる。なんてことはないストーリーなのだけれど、心がじんわりと温まってくるような話なんだ。「どんまい」もそんなストーリー。夫に若い女出来て離婚することにした洋子は中学生の娘、香織とともに人生を再スタートさせる。そんなときに出会ったのが団地の野球チーム「ちぐさ台カープ」の選手募集のポスター。洋子は小学生のとき野球チームに所属、投打に活躍したことを思い出す。「カープ」が付いているのは監督が広島出身だから。ポスターに見入っているのには先客がいた。地元の高校で甲子園球児、ポジションは捕手だった将大、大学で野球部に所属するもついにレギュラーにはなれなかった。高校の教員試験に落ちて浪人中だ。高校時代にバッテリーを組んだのが現在プロ野球で活躍する吉岡亮介。洋子と香織、将大はちぐさ台カープに入団、元ヤンキーや妻子を札幌に置いて単身赴任中の男、中学受験の子どもを持つ中年サラリーマン、洋子の前夫、将大の野球部の監督などが織りなす群像劇が描かれる。
要するに庶民の日常って奴。でも庶民の日常、それも平和な日常こそが大切なんだよね。

12月某日
デザイナーで「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者の土方さんがHCM社の大橋社長、ITエンジニアの三浦さんと卓球用品の通販サイトの打ち合わせのため来社。打ち合わせが終わったので烏森口の焼き鳥屋「まこちゃん」へ。「まこちゃん」のあと烏森口の大橋社長の行きつけのスナック「陽」へ。ここのママは明治生命の元外務員。大橋社長も明治生命だったからその縁。年末だけど客は私たちだけだったのですっかりくつろいでしまった。家に帰ったら久しぶりに12時を過ぎていた。

12月某日
仕事納め。午前中に川崎市のNPO法人楽が経営する小規模多機能「ひつじ雲」を訪問、理事長の柴田範子先生を訪問して年末の挨拶。HCM社の仕事納めは16時からなので、それまで本を読んだり手紙を書いたりする。HCM社の大橋社長が15時過ぎに帰社、社会保険研究所の松澤総務部長が年末の挨拶に見える。ビデオ映像のクリエイター横溝君、土方さんも仕事納めに参加、女子社員3人と嘱託の向坂さんも交えて総勢9名の仕事納めとなったが、横溝君は仕事が残っていると早めに帰る。ビールを少々と日本酒をかなりいただく。土方さんが買ってきたつまみが美味しかった。霞が関から千代田線で根津へ。「ふらここ」へ寄ってママにコーヒーを渡す。

12月某日
「日本型組織の病を考える」(村木厚子 角川新書 2018年8月)を読む。村木厚子さんは厚労省の社会援護局長に在任中、郵便不正事件で大阪地検に逮捕起訴されるが無罪が確定し復職、のちに厚生労働事務次官になる。村木さんは高知大という地方大学出身で公務員上級職に合格、旧労働省に入省した。私は個人的な接触は無かったのだが、この本は大変面白く読んだ。逮捕起訴される前の村木さんは同期入省の夫と、二人の娘に恵まれた、丁寧に人の話を聞き仕事を進める「できる官僚」の一人だった。起訴されたからは「やっていないことはやっていない」と頑として否認を貫く。今までの自分の仕事に対するプライド、そして家族に対する愛があったから貫けたのだと思う。村木さんは拘置所で見かけた、あどけなさが抜けない少女たちのことが気にかかる。どんな罪を犯したのか検事に尋ねると「売春や薬物が多い」という答え。こうした少女と支援がうまくつながっていないと考えた村木さんは事務次官を退職後、一般社団法人を設立。「若草プロジェクト」と名付けた活動を始めた。活動の柱は「つなぐ」「ひろめる」「まなぶ」。「つなぐ」は少女たちと支援者、支援者同士をつなぐ、「ひろめる」は、少女たちの実情を社会に広める、「まなぶ」は彼女たちの実態を学び、信頼される大人になるための活動という。村木さんの逮捕起訴がなければ、こうした活動は生まれなかったと思う。検察による間違った逮捕起訴はあってはならないことだが、村木さんはこの経験を見事に生かしているようだ。

12月某日
図書館で「曾根崎心中」を検索したら「純愛心中-『情死はなぜ人を魅了するのか』」(堀江珠喜 講談社現代新書 2006年1月)がヒットしたので借りることにする。著者の堀江珠喜は1954年兵庫県生まれ、神戸女学院大学を経て神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了、学術博士で大阪府立大学教授だ。「団鬼六論」(平凡社新書)、「『人妻』の研究」(ちくま新書)も書いていることから「なかなか面白そう」ではある。「第1章 現代の近松」で曽根崎心中は同じ近松の「天の網島」などと一緒に論じられている。堀江は1978年に初演された宇崎竜童と人形遣いの桐竹紋寿、吉田文吾とが組んだ現代風文楽の「曾根崎心中」、さらに2001年の宇崎によるフラメンコ曽根崎心中についても論じている。もしかしたら新国立劇場の「Ay曾根崎心中」にも来ていたかもしれない。堀江はこの章で日本を舞台にした米国の小説「サヨナラ」に論を進める。米軍占領下の日本を舞台にしたこの小説では、米兵のジョーと彼と交際していた日本女性カツミとが心中する。ジョーに帰国命令が出され2人の前途を悲観したためであった。この小説は映画化されカツミを演じたナンシー・梅木はアカデミー賞の助演女優賞を受賞している。堀江はさらに三島由紀夫の情死小説「憂国」に筆を進める。新婚ゆえに2.26事件の参加を慮られた陸軍将校の武山は反乱軍の討伐を命じられ死を決意する。新婚の妻も共に死ぬ。これも義理と人情の板挟みと言えなくもない。軍の命令(義理)からすれば反乱軍を討伐しなければならない。だが同志を討伐することは人情としてできない。ならば死ぬしかないと武山は思い、妻は従う。実際の心中の例や文学作品、たとえば「ロミオとジュリエット」や渡辺純一の「失楽園」などで描かれた心中事件を通して堀江は論を深め広げてゆく。堀江はなかなかの才女ではなかろうか。

12月某日
図書館でたまたま手にした三浦しをんの文庫本「天国旅行」(新潮文庫 平成25年1月 単行本は2010年3月)を借りることにする。作者自身が巻末に「本書は、『心中』を共通のテーマにした短編集である」と記されているが、「純愛心中」に取り上げられている「曽根崎心中」や「失楽園」のように成功した(つまり2人とも死んでしまう)心中を取り上げているわけではない。冒頭の「森の奥」。富士山の樹海で首吊り自殺を試みた明男は、若い男に助けられる。青木と名乗る若い男は元自衛官。自衛官のときに「ちょっと面倒な筋と知りあいになって」「除隊してからもそいつらと仕事してたんだけど」「ちょうど母親も死んだし、もういいかなあと」思って死にに来たことが明かされる。明男は青木と樹海をさまよい歩くうちに死ぬのが馬鹿らしくなる。明男は助けられるが青木はいない。青木はテントの存在を示すようにロープを二本の木の間にピンと張っていたのだ。青木はどうなったか、明らかにはされてはいないが、私は明男と青木の未来に「希望」がわずかに見えるような気がする。2作目の「遺言」は駆落ち同様に結ばれた老夫婦の物語。ラストの「きみと出会い、きみと生きたからこそ、私はこの世に生を受ける意味と感情のすべてを味わい、知ることができたのだ」「私のすべてはきみのものだ。君と過ごした長い年月も、私の生も死も、すべて」という文章は、恥ずかしながらも美しい。