モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
 「熱球」(重松清 徳間文庫 2004年12月)を読む。児童虐待の疑いで父親に続いて母親が逮捕されたり、こどもの自殺が「いじめ」が原因かどうか裁判で争われたり、最近こどもを巡る暗い話題にこと欠かない気がする。こういうときは重松清でしょ。重松清には教師経験はないけれど、教師を登場人物とする小説が多い。教師が出てくるということは当然、子どもが出てくる。で、私の読んだ限りという限定付きだが重松の作品の読後感は「爽やか」である。難しい言葉も漢字も出てこない。最近私が読む作家のうちでは「安心して読める作家」ナンバーワンである。「熱球」は東京の出版社に勤めていた主人公ヨージが出版社を辞めて、一人娘の美奈子を連れて故郷の山口県周防市の実家に帰ってくることから物語は始まる。周防市は架空の町だが県都も大内市と架空。山口県の県庁所在地は山口市だから周防市は下関市か周南市のイメージ。ヨージは高校時代、野球部に所属、2年のとき県大会の決勝戦にまで進出するが直前に部員の不祥事から決勝戦を辞退する。それが20年前の話。ヨージの妻は大学でアメリカの移民史を研究、1年の期限付きでアメリカ留学中である。ヨージは失業中でもあり母校の野球部のコーチに就任、併せて美奈子と同学年の小学生、甲太のキャッチボールの相手を買って出る。甲太の母親はヨージの野球部のマネジャーだった恭子である。20年という時間は高校野球のイメージも変えそのギャップにヨージはとまどう。さらにヨージは周防市に落ち着いて父と暮らすのか、東京で先輩の新雑誌を手伝うのか、さらにアメリカから帰った妻は?という具合に周防市の日常の中でヨージはとまどい悩むのである。日常の中のとまどいや悩みを描くのが重松は巧み。やはり「安心して読める作家」ナンバーワンである。

2月某日
中村秀一さんの叙勲祝賀パーティに出席。赤坂見附のホテルニューオータニで19時スタート。社保険ティラーレの吉高さんを訪問の後、社会保険研究所の鈴木俊一社長を訪ねてもまだ17時30分。大谷源一さんも祝賀パーティに行くと言っていたので大谷さんに電話、出世不動という小さな神社(この神社に因んで「出世不動通り」という名前がついた)の向かいにある酒屋は17時を過ぎると「角打ち」(酒屋の店先でお酒を呑ませること。多くは立ち飲み)をやっているので、そこで待ち合わせ。生ビールと日本酒、それと焼酎を一杯いただく。お店の人の話ではこの酒屋は昭和初期からやっているそうだ。
大谷さんが来たので大手町から赤坂見附のホテルニューオータニへ。中村さんときれいな奥さんに挨拶。中村さんの著作を編集した年友企画の酒井さんも来ていて料理やお酒をとってきてくれた。こういうパーティはいろんな人に会えるのがうれしい。国保中央会の原理事長や慶応大学の権丈先生、埼玉医科大学の亀井美登利先生に挨拶。元厚労省の大原純子さんや元社会保険庁の安田秀臣さんも来ていた。久しぶりに会った藤原禎一さんからは厚生労働省の地方厚生局特別プロジェクト推進室統括調整官の名刺をもらった。パーティが終了後、中村夫妻と記念写真を撮っている人がいたので、石川はるえさんとそれに便乗、石川さんのスマホで酒井さんに撮影してもらった。石川さんと元全社協の渋谷さんと四谷の新道通りの「四谷魚一商店」で二次会。今回も石川さんにご馳走になる。

2月某日
神田司町の中華料理店「上海台所」へ行く。HCM社の大橋社長と年友企画の石津さん、酒井さんと会食。「上海台所」は先月、室蘭東高のスキー部同窓会のとき行った店。安くて料理もおいしい。青菜炒めや叉焼、スペアリブなどを頼む。締めは炒飯。ビール、ハイボールが呑み放題。私はビールで乾杯の後ハイボール。二次会は近くの居酒屋。店員は中国の浙江省出身と言っていたが日本語にほとんど違和感を感じなかった。

2月某日
近所の石戸歯科で「歯石除去」。若くて美人(マスクをしているのでよくわからないが多分)の歯科衛生士がやってくれる。治療を終わると石戸先生がやってきて、「これ息子が書きました」とNEWSWEEKの最新号を見せてくれる。石戸先生の息子さんは石戸諭といってフリーのルポライター。1984年生まれ、2006年に立命館大学卒業、毎日新聞社に入社しその後、フリーに。著書に「リスクと生きる、死者と生きる」(亜紀書房)があり、この本も石戸歯科の待合室に置いてある。私はネットでdマガジンを契約しているので早速、NEWSWEEKを閲覧。石戸諭の記事は「SPECIAL REPORT 沖縄ラプソディ」として掲載されていた。「沖縄ラプソディ」というタイトルはクイーンの名曲「ボヘミアンラプソディに由来する。「これは現実か、それともただの幻想か?」という問いかけから始まるこの歌は「今の沖縄にこそ当てはまるように思える」と石戸は書く。石戸は県民投票を2月24日に控える沖縄を訪れ、辺野古移設の賛成と反対に揺れる人々を取材する。私は辺野古移設反対を貫いた翁長前知事やその後継者の玉城現知事を支持するが、石戸は賛成反対の二分法ではなく、その立ち位置からは見えにくくなっている沖縄の現実に対峙しようとしていると私には感じられた。

2月某日
「悪だくみ-『加計学園』の悲願を叶えた総理の欺瞞」(森功 講談社 2017年12月)を読む。読んでいて興味をそそられないというか楽しくない本だった。これは著者の森に原因があるというより題材、テーマの問題だと思う。安倍首相の旧友が理事長を務める加計学園が愛媛県の今治市に獣医学部を新設する。その認可の過程で官僚や関係者の忖度があったのではないか、というのがこのルポのテーマだ。内閣人事局が官僚の人事権を握って以来、官僚が首相官邸の意向に左右されるようになったとはよく言われる。真偽のほどは分からないがこの本を読む限りでは官邸の意向や、それをバックにした総理補佐官の発言に官僚が右往左往していることがうかがわれる。公務員は国民全体に奉仕するのが役割であって、一部の奉仕者であってはならないとは確か憲法にも謳われていると思う。安倍首相の本意がどうであれ「李下に冠を正さず」という言葉もある。やはり加計学院に獣医学部の新設は認可されるべきではなかったのではないか。

2月某日
16時30分に鶯谷駅の南口で大谷源一さんと待ち合わせ。階段を降りると呑み屋が密集している。目指す「ささのや」の店先にはもう人だかりがしていた。焼き鳥を焼いている店先で立ち飲みするのはキャッシュ&デリバリー。私たちは店内で座って焼き鳥とビールを頼む。2杯目はサントリーの山崎?の炭酸割をダブルで。3杯目は日本酒をお燗で。「ささのや」はお勧め。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
図書館で借りた「アンボス・ムンドス」(桐野夏生 文藝春秋 2005年10月)を読む。図書館の桐野夏生のコーナーで手に取って「読んでないな」と思って借りたのだが、読みだしたら記憶が蘇ってきた。大まかなストーリーは思い出すが、初回に読んだときには気が付かなかったことや「あーそういうことなんだ」と思うことがあり、同じ本を繰り返して読むのも悪くない。桐野の作品を「平成のプロレタリア文学」と評したのは政治学者の白井聡である(「奴隷小説」(文春文庫)の解説)。白井は「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と提起する。「アンポス・ムンドス」には表題作含めて7つの短編が収められているが、冒頭の「植林」を白井理論によって読み解いてみよう。
宮本真希は医薬品や化粧品の安売り量販店のアルバイトである。時給850円で実働7時間、週に5日出勤しても月収は12万円程度、コンタクトレンズの片一方を無くしても貯金が無いから買うこともできない。「失うべきものがない」真希は平成のプロレタリアートである。真希はその上チビで小太り、「セックスはおろかキスもしたことがない」。異性からも疎外されているし、職場の高校を出たての同僚からも馬鹿にされている。両親と暮らしていた実家には兄夫婦と姪が転がり込んできて真希は居場所さえも脅かされる。ふと見たテレビのワイドショーが真希の記憶を揺り動かす。未解決事件の特集で「1984年グリコ・森永事件」が取り上げられている。当時、真希は小学校3年生で寝屋川市のマンションに住んでいたが父親の転勤で東京へ引っ越すことが決まっていた。
グリコ森永事件では子供の声が身代金の置き場所を指定する。テレビで流されたその音声は真希の小学校3年生のものだった。同じマンションに住む一人暮らしの女の人、鈴木さんの部屋。真希は右手に大きな金の指輪をした男に言われて地図の地名を読み上げた。男はそれをテープにとり鈴木さんはアイスクリームをくれた。近いうちに東京へ引っ越し、もともと東京者だから、あまり大阪訛りがないないこと、それが真希が選ばれた理由だ。日本中が騒いだ事件に自分が加担していたことを知る真希。真希は冴えなかった自分が急に誇らしくなる。それによってアルバイトの同僚との関係も逆転する。これはプロレタリアート真希によるいわば「蜂起」である。決して永続することのない単独の。

2月某日
有楽町の交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」に高橋公(ヒロシと読むが仲間はハムさんと呼ぶ)さんを訪問。田舎暮らしのニーズが高まっているのか、フロアには相談に訪れている思われる中高年が何人も。ハムさんと私は早稲田大学の全共闘仲間。当時の早稲田は革マル派が全学を支配しており、革マルに同調しない学生は学内に入れなかった。50年前の1969年の4月17日、反戦連合など反革マル派の学生がヘルメットとゲバ棒で武装し本部に突入した。「50周年だからあつまろうよ。オレ忙しいから森田君、事務局やってくれ」ということで呼び出されたわけ。こうしたイベントの事務方は私の知る限り大谷源一さんが最適。大谷さんは早稲田ではないが「全共闘崩れ」ということでは一緒。ハムさんが大谷さんに電話して交通会館に来てもらう。打ち合わせ後、神田の焼き鳥屋で大谷さんと呑む。

2月某日
「維新と敗戦-学びなおし近代日本思想史」(先崎彰容 晶文社 2018年8月)を読む。先崎彰容は、白井聡とともに私が最近最も注目する思想家。2人の立場はずいぶんと違う。白井はレーニンの政治思想の研究から出発して(「未完のレーニン」など)、「永続敗戦論」「国体論」などで戦後体制を鋭く評論、昨年は確か「赤旗」で日本共産党への期待を表明していた。一方の先崎は「維新と敗戦」のもとになったのが「産経新聞」の連載や「正論」に掲載された論文ということから、どちらかというと「保守派」と見られがちかもしれない。先崎が1975年生まれ、白井が1977年生まれで私からすればどちらも息子の世代、「がんばれよ」とエールを送りたくなるのである。「維新と敗戦」は福沢諭吉、頭山満、吉本隆明ら23人の思想家を論じた産経新聞連載のエッセーをまとめたⅠと雑誌「正論」などに発表された論文をまとめたⅡによって構成されている。Ⅰでは高山樗牛、葦津珍彦など私が読んだこともない思想家が取り上げられて興味深かったし、Ⅱでは今ではあまり取り上げられることもない橋川文三に触れた論文などに魅かれるものがあった。しかし私が最も感銘を受けたのが「死者を慰霊する季節に-あとがきに代えて」であった。そこで先崎は亡くなった祖母との盆の思い出を綴る。西武多摩湖線の終点駅から近い平屋の都営住宅が祖母の家だった。幼い頃祖母の傍らで茄子の牛を造り、胡瓜に足をつける手伝いをした先崎は、四半世紀以上たった現在、祖母の住んだ都営住宅の跡地を訪れる。「私は人目をはばからず膝をつき、雑草にむかい手を合わせていた。確かに祖母はここにいて私を見ている。真夏の日差しが、私と祖母をつつんでゆく-」。そして先崎は「ここからしか『国家』というものを、日本というものを考えることができない」と述べる。うーん、先崎の日本浪漫派への想いの原点があるような気がする。

2月某日
日韓関係波高しである。慰安婦像問題、元徴用工への賠償問題に加えて韓国国会の議長が「日本の天皇が元徴用工や元慰安婦に謝罪すれば済む問題」と発言したことが日本の世論をいたく刺激した。天皇は憲法上、政治的な発言はできないのだから韓国の国会議長の発言は筋違いではあるのだろう。だが日本の世論や政府与党の反発には私は少なからず違和感を抱いた。日本が日清戦争に勝ってからだと思うが、日本は朝鮮半島や中国大陸の民衆を蔑視し、挙句の果てに朝鮮半島を併合し植民地化し、中国大陸の東北部には傀儡政権の満洲国を建国、国土を蹂躙したのは紛れもない事実。昭和天皇も現在の天皇もこうした歴史的な事実を踏まえて「周辺の国々に迷惑をかけた」と遺憾の意を表明している。喧嘩でも殴ったほうは忘れても殴られたほうは忘れない。外交でも同じことが言えるのじゃないか。
たまたまではあるけれど現代韓国小説を読む。図書館で借りた「ホール」(ピョン・ヘョン 書肆侃侃房 2018年10月)を読む。著者は1972年ソウル生まれ、写真が略歴に添えられていたけれどなかなかの美人。小説はとても現代的で「生きることの不条理や不安」を著者は描きたかったのではと思う。文芸も映画もポップスも韓国勢の勢いは止まらないように思う。もしもですよ、韓国と北朝鮮が統合するようなことになれば単純に統合した以上の効果が表れると思わざるを得ない。軍事的、経済的、文化的に見ても相当な大国が日本の隣国となる。東西ドイツの統合を見れば分かるでしょう。「ホール」の出版社、書肆侃侃房は福岡市に本社があって、「韓国女性文学シリーズ」を出版している。

2月某日
「啓順兇状旅」(佐藤雅美 幻冬舎 2000年10月)を読む。佐藤雅美は昭和16(1941)年生まれだから50代後半の作品、作家として最も脂の乗り切った時期なのだろうか、期待にたがわず面白かった。啓順シリーズは「兇状旅」「地獄旅」「純情旅」の3作品だと思うが、読んでいないのは「純情旅」だけ。ふとしたことから凶状持ちとなった医者の啓順、司法の網と浅草の火消しの親方、聖天松の手先から逃亡の旅を続ける。逃亡先でやむを得ず医術を施し、それがために聖天松の手先に居所が知れてしまう。私がこの小説を面白いと思うのは、佐藤雅美のほかの小説にも言えることなのだが、その時代考証の緻密さにある。啓順シリーズの場合、江戸時代の医療、医学の考証に加えて、逃亡劇なのでその時代の交通手段、交通路の考証がすごい。今回は八王子、甲府、伊豆、大島、石巻などが舞台に設定されている。したがって甲州街道はもちろん、下田や大島の波浮湊を拠点とする当時の海運に対する考証も。海運については波浮湊から石巻までの千石船も紹介され、さらに鬼怒川や江戸川の水運も啓順は利用する。この時代考証は半端ではない。

2月某日
昨日、本郷さんから「北大の元叛旗派と吞むので一緒にどう?」という誘いの電話があったので新宿まで出かける。紀伊国屋書店の前で待ち合わせて「三平食堂」へ。ほどなく「水田」と名乗る元叛旗派が来る。北大の理系の学部を卒業した後、一部上場企業に就職したがほどなく退職、ずっと塾の講師を勤めていたそうだ。叛旗派と言っても今の若い人には通じないだろうね。1969年くらいだったと思うがブント(ドイツ語で同盟のこと。私が若かりし頃は共産主義者同盟=社会主義学生同盟のことをブントと呼んでいた)から赤軍派が分裂、次いで情況派と叛旗派が誕生した。情況とか叛旗というのはセクトの機関誌名だったような記憶があるけれど、定かではない。しばらく3人で吞んでいると、もう一人「元叛旗派」が登場。この人は「日本語講師」という肩書の名刺をくれた。聞くと中国で日本語講師をしているという。4人でいろいろ話しているうちに私はすっかり酩酊。我孫子に帰って駅前の「愛花」に寄る。ママが心配して「モリちゃん、タクシーで帰った方がいいよ」と言ってタクシーを呼んでくれる。

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
HCM社の大橋社長とHCM近くの小料理屋「金ふじ」へ。ビールで乾杯の後、カウンターの甕に入っている泡盛を呑む。古酒とのことでアルコール度数は42度。泡盛は一杯づつにして後は日本酒。ナマコとあん肝、刺身の盛り合わせを頼む。盛り合わせには高級魚クエが入っていたし、つまみはどれもおいしかった。呑み屋のレベルは神田より新橋が高い?ということではなくて新橋のほうが幅があるということなんだろうね。地域的にも山手線新橋駅の外側はすぐに銀座、山手線の内側を少し歩くと虎ノ門、溜池、赤坂と奥行きがある。

2月某日
「〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち」(イルメラ・日地谷=キルシュネライト 岩波書店 2018年12月)を読む。我孫子市民図書館のホームページの新刊紹介で目に付いたのでリクエストしたのだが読むと大変に面白かった。掲載されたインタビューは、佐多稲子、円地文子、河野多恵子、石牟礼道子、田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島祐子、金井美恵子、中山千夏、瀬戸内寂聴の12人。瀬戸内以外の11人のインタビュー時期は1982年春。今から30余年も前である。瀬戸内は当時海外旅行中であったためインタビューを受けられず2018年3月に京都の寂庵で行われている。当時は携帯電話もインターネットもなく、日本に短期滞在中だったイルメラは公衆電話から女性作家とのアポイントを取ったことが記されている。インタビューの日から30数年の歳月が経過していることが、この本をより興味深くさせているように思う。私の個人的な嗜好は女性作家の作品に向かうことが少なくない。それも比較的若い作家が好みである。現在ならば川上弘美、井上荒野、小川洋子、江國香織、三浦しをん、そして桐野夏生などである。インタビューされた12人の女性作家の中では田辺聖子はだいぶ読んだ。
私は「〈女流〉放談」を読んでなぜ、私が女性作家に魅かれるのか考えてみた。この対談集で繰り返し発せられる問いは「女流作家と呼ばれることをどう思うか」「女流作家は差別されているか」というものである。答え方はさまざまであるが女性作家の多くが、作家として作品を書き世に問うているに過ぎないと答えている。女性作家の多くは「普遍的な作家」と少なくとも自己規定している。しかし実態はどうなのか? 戦前から終戦を経て女性の地位は憲法上は男女同権となったし、官庁や企業での女性登用も進んでいる。進んではいるが国会議員に占める女性議員の数はまだ少ないし「女性重視」の現安倍内閣で女性閣僚は片山さつき一人に過ぎない。文学の世界で言えば芥川賞直木賞作家はまだまだ男性が多いし、審査員も女性作家が増えたとは言えまだ少数。つまり日本の文学の世界において「普遍」を代表しているのはあくまで男性作家で、女性作家は「異端」の地位にあると言えないだろうか。この傾向は30数年前では、今よりももっと強かったはずである。私もどうも子供のころから「正系」ではなく「異端」を好んでいた。真ん中より端っこが好きなのである。それは今も変わらない。「〈女流〉放談」についてのこうした感想もかなり異端と思うけれど。

2月某日
野田市の児童虐待事件で父親に次いで母親が逮捕された。被害女児のあどけない写真がテレビ画面にアップされるたびに胸が痛むとともに、その役割を十分に果たさずに結果的に女児を死に至らしめた児童相談所や教育委員会には腹が立つ。とここまで書いて、「待てよ地域社会や広く社会にだって責任はあるのじゃないか? 俺だって社会の一員だよな」と思い至る。父親や母親、児相、教委を責めて済む問題ではないのだ。
ケアセンターやわらぎの石川はるえ代表理事が応援しているのが「いのちさわやかプロジェクト」。児童虐待防止のためのプロジェクトなのだが、もっと広く若いお母さんやお父さんの子育てを応援していこうというプロジェクトだ。南阿佐ヶ谷のケアセンターやわらぎのデイサービスで、「子どもたちを集めて『何かをやる』から来ない?」と石川さんに誘われたので行くことに。もちろん『何か』については石川さんは明示したのだけれど、私は例によって記憶していない。しかし石川さんの誘いに乗ってつまらなかったことは一度もないので参加する。
我孫子から地下鉄千代田線に乗り国会議事堂前で丸ノ内線に乗り換え、南阿佐ヶ谷の駅で降りると元厚労省で川村女子学園大学の吉武民樹さんが歩いている。吉武さんも石川さんに誘われた口なので一緒に行く。会場に着くと就学前の子供たちやお母さんお父さんが一緒になって何かやっている。子供たちをリードしているのは「あそぼ」という絵本の作者の生川さん。写真を撮影しているのは横溝君だ。マスクにお絵描きしているようだ。就学前の子供を間近に見るのはほぼ40年ぶり。掛け値なしで可愛いと思う。お昼になって生川さんと子供たちはサンドイッチをラップでくるんで「パンキャンディー」を作っている。大人はサンドイッチをご馳走になる。取材に来ていた読売新聞の小泉朋子記者を紹介される。生川さんも理事をやっている愛知県のNPO法人ひだまりの丘の堀井カズコ理事長が生川さんが描いた絵葉書を売っていたので数枚買い求める。帰りに南阿佐ヶ谷駅前のうどん屋で私と吉武さんは石川さんにご馳走になる。

2月某日
「啓順地獄旅」(佐藤雅美 講談社 2003年12月)を読む。啓順シリーズは「町医 北村宗哲シリーズ」の前身。医学館で医学を学んだ啓順はふとした行き違いから浅草の火消しの顔役、聖天松に追われることに。このシリーズの面白さは一つは医者が主人公、しかも江戸時代の医療の主流であった漢方を収めた医者が主人公であること。そして医師でありながら「追われる身」となって追ってから逃げ舞わざるを得ない。昔のTVドラマで言えば「逃亡者」、ヴィクトル・ユーゴの名作「レ・ミゼラブル」の主人公ジャンバルジャンの如くである。映画のジャンルで言えば「ロードムービー」である。作家は佐藤雅美であるから時代考証とくに日本の医療、医学の歴史考証は十二分になされている。いつも感心するのはお金、通貨に関する考証もしっかりしていること。さすが「大君の通貨-幕末『円ドル』戦争」(文春文庫)の著者である。

2月某日
「維新再考-『官軍』の虚と『賊軍』の義」(半藤一利、福島民友新聞社編集局他 福島民友新聞社 2018年9月)を読む。歴史は勝者の目から見た歴史になりやすい。特に革命によって社会体制そのものが大きく変更した場合はそうなる。ロシア革命にしろ中国革命にしろ革命に勝利した政権の正統性がことさら述べられる。ロシア革命で言えばボルシェビキ、ロシア共産党の正当性が前面に打ち出され、帝政側はもちろんのことメンシェヴィキやクローンシュタットの反乱、トロッキーなどもちろんは否定的に扱われる。明治維新、戊辰戦争においては官軍側の正当性が明治以降の学校教育で前面に押し出されたのはむしろ当然のことであった。しかしそうは言っても「賊軍」側の子孫にも想いがある。本書は戊辰戦争でも最大の戦いになった会津戦争はじめ二本松城の攻防などを「賊軍」の側から描いたものである。私としては歴史に余り取り上げられたことのない福島県の浜通り、太平洋側の「賊軍」側の戦いが興味深かった。磐城平や相馬藩は当初は奥羽越列藩同盟の一員として果敢に戦うのだが、最新兵器を揃えた官軍に個別に撃破されていく。慶応4年の1月が鳥羽伏見の戦い、5月が彰義隊の上野戦争と長岡藩の北越戦争、6月が磐城平の攻防戦、7月が二本松の戦い、8月に若松城の籠城戦が始まり、9月には会津藩が降伏している。翌年の5月に五稜郭が陥落し戊辰戦争は終わる。敗北がすでに決していても戦わざるを得ないことがあることを戊辰戦争は教えてくれる。それはそれでいいのだが、あくまでも当時の支配者=武士階級の論理ではという前提がある。庶民、百姓にとっては迷惑だったろう。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
「機関車先生」(伊集院静 文春文庫 2008年5月)を読む。この作品は1994年に講談社より刊行され、柴田錬三郎賞も受賞している。伊集院は1950年生まれだから40代前半の作品ということになる。小説の舞台は瀬戸内海の小さな島、葉名島。ある春の朝、島の桟橋についたばかりの連絡船からひとり男が降りてくる。島の小学校に赴任する青年教師、吉岡誠吾である。誠吾は幼児の頃の病気で口が利けない障がい者である。子供たちは口が利けないこととその大柄な体型から、誠吾に親しみを込めて「機関車先生」と綽名をつける。美しい瀬戸内を背景にした教師と子供たちの物語と括ってしまうと「24の瞳」(壷井栄原作、木下恵介監督、高峰秀子主演で松竹が映画化)を思い浮かべるが、私のこの小説への想いは「差別」。障がい者への差別、本土の離島に対する差別、網元の漁民に対する差別である。そして戦前、ドイツ人男性と島の女性の間に生まれた一人の少年ヤコブは島民に差別され続けながらも、米軍機の爆撃から島を守るために死ぬ。伊集院は在日韓国人2世。美男子で腕っぷしも強そうだから表立っての差別は受けなかったと思うが、その分陰湿な差別は受けたのではないか。この小説は少年少女向けに書かれたが、「差別」について考える良いきっかけになると思う。

2月某日
フェルメール展を観に行くため15時に上野駅公園口で香川喜久恵さんと待ち合わせ。上野の森美術館の前に行くと長い列が。2月3日までだから無理もない。諦めて「西洋美術館にでも行こうか」「国立博物館で顔真卿展をやっているので、そこ行きましょう」ということで国立博物館へ。顔真卿は「昔の中国の書家」程度の認識しかないけれど。書家だから展示物はほとんどが拓本。金曜日ということもあってかなり混雑していた。中国語らしき異国の言葉が飛び交っていることからすると中国人もかなり多い。台湾台北の故宮博物館、日本の書道博物館からの協力と出品があるから、中国本土からの観光客かもしれない。私は前半だけで疲れてしまい2階のミュージアムショップのソファーで休む。1階のビデオを映写しているところを覘くと、顔真卿の解説ビデオが放映されていた。それによると、顔真卿は唐代の政治家、官僚でもあった。安禄山の反乱(安史の乱)では、皇帝に忠誠を誓って安禄山軍と戦う。一族三十数人が殺されているという。大谷源一さんから「今、上野に向かっています」のメールが来る。京成上野駅で待ち合わせて「番屋余市」へ。私は日本酒のお燗、大谷さんはハイボール、香川さんはウーロン茶で乾杯。私は我孫子で久しぶりに「愛花」に寄る。

2月某日
「町医 北村宗哲」(佐藤雅美 角川文庫 平成20年12月 単行本は2006年8月)を読む。佐藤雅美の時代小説と言えば、町奉行所の内勤の記録係を主人公にした「物書同心居眠り紋蔵」、勘定奉行に所属し江戸市中以外の関東の犯罪を取り締まる「八州廻り桑山十兵衛」、江戸市中の交番であり、留置所であり、簡単な裁判所も兼ねた大番屋の元締を主人公にした「縮尻鏡三郎」などがシリーズとなっている。これらは現代で言う犯罪小説、警察小説と言えるが、「町医 北村宗哲」はタイトルにもあるように医者、北村宗哲が主人公である。主人公の宗哲は医者の子供に生まれたが妾腹だ。宗哲が11歳のとき母が死に宗哲は父の屋敷に引き取られたが何かにつけて差別された。見かねた実父は15歳から医師の養成施設である医学館に通わせる。宗哲は必死に医学を学んだが、実父の死亡によって学資を絶たれ居場所を失う。宗哲はひょんなことから浅草雷門前を本拠とする青龍松こと松五郎の身内になるのだが、青龍松の惣領息子を刺殺したことから長い逃亡の旅に出る。巻末の縄田一男の解説によると、この設定はデヴィット・ジャンセン主演のTVドラマ「逃亡者」に着想を得たということだ。しかしこの辺の話が主題となっているのは「啓順兇状旅」「啓順地獄旅」の「啓順シリーズ」である。啓順が宗哲に名を替え芝神明で内科医を開業してからが「宗哲シリーズ」となる。それぞれが独立してそれぞれが面白いのだけれど、一度「啓順」と「宗哲」を通して読まなければ。

2月某日
「くちぶえ番長」(重松清 新潮文庫 平成19年7月)を読む。宮沢賢治の「風の又三郎」以来、児童文学の世界では「転校生もの」というジャンルが確立したかどうかは知らないけれど、本作もまぎれもなく「転校生もの」。小学校4年生に進級したツヨシのクラスにマコトという名前の女の子が転校してくる。女の子だけれど一輪車を乗りこなし木登りも得意、6年生のいじめっ子グループ「ガムガム団」もマコトの前では形無しだ。ツヨシ「はオトナになったら、マコトとケッコンしてあげてもいいかな」とふと思う。でも次の年の3月、マコトはまた転校してツヨシの前からいなくなる。転校生がまた転校していくというのも「転校生もの」の定番。定番だけれど泣けてしまう。年をとって涙腺がゆるくなったのか? いや、作家の力量というものでしょう。巻末に「この作品は、2005年4月から2006年3月にわたって雑誌『小学4年生』に連載されたものに、書き下ろしを加えた、文庫オリジナル作品」とあった。4年生対象の作品に泣いてしまったわけだ。幼稚なのか? ここは感性が小学生並みにみずみずしいとしておこう。

2月某日
上野駅の不忍口で根津のスナック「ふらここ」のママ、半谷陽子さんと待ち合わせ。晩御飯を一緒に食べる約束。アメ横へ出て小料理屋に入る。「さんとも」という店で古くからある店のようだ。70代後半か80代と思われる女将さんが店を仕切っている。ふぐの刺身、白子を久しぶりに食べる。何年か前、出張で下関に行って食べて以来か。ぬる燗で日本酒を3、4本(ただし2合徳利)。最近はもっぱら「千ベロ」(千円でベロベロ)を目指しているが、たまには小料理屋でふぐも悪くない。

モリちゃんの酒中日記 1月その5

1月某日
「あれは誰を呼ぶ声」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2018年10月)を読む。去年読んだ小嵐の「彼方への忘れ物」(アーツアンドクラフツ)の続編というか姉妹編。「彼方への忘れ物」は1960年代後半の早稲田大学の学生運動と恋に揺れる大瀬良騏一が主人公だが、「あれは誰を呼ぶ声」では大瀬良の早稲田の学友、帯田仁が主人公。帯田の母の弟と結婚したのがもう一人の主人公、帯田奈美の母親。帯田奈美の一家は北海道の日高地方に暮らしている。父親はホテルマンの傍ら兼業農家も営む。仁が早稲田の1年生のとき日高の奈美の家へ遊びに来て、そのときから奈美は仁に密かな恋心を抱く。奈美は一浪の後、東京目白の保育専門学校に入学する。仁は1969年1月の東大の安田講堂攻防戦で逮捕起訴され、拘置所代わりの中野刑務所に収監されているため、奈美は東京の予備校へは川崎の仁の家から通い、仁の部屋へ寝泊まりさせてもらう。中野刑務所で仁の隣の独房にいたのが共産同赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練で逮捕起訴された平与武彦。与武彦の父はキリスト教の牧師だから「ヨブ記」から与武彦と名付けられた。70年代の学生運動、新左翼の運動は連合赤軍事件や連続企業爆破事件、それに中核派と革マル派、社青同解放派と革マル派との内ゲバの激化によって大衆の支持をどんどん失っていく。時代は高度経済成長期で日本は空前の繁栄を続ける。仁や与武彦は日本の労働者それも臨時工や下請けを排除した本工主体の労働運動に疑問を抱く。とこうまとめるとえらく真面目なストーリーと感じられるが、学生運動や学生運動家のドジな側面も強調して描かれ、小説全体の雰囲気としては明るい。私の70年代以降の人生をつい振り返ってしまった。ラストで仁と奈美の結婚が暗示されているが、小嵐の実際の奥さんも保母さんの筈で、全面的ではないにせよ仁の一部のモデルは作家本人であろう。

1月某日
「竹下さんを偲ぶ会」を霞が関ビルの東海大学校友会館で開く。50人以上が集まってくれて盛会だった。インフルエンザが猛威を奮っていて発起人の阿曽沼さんはじめ何人かがドタキャンとなった。献杯の音頭をとってくれた江利川毅さんはじめカメラマンを引き受けてくれた浜尾あやさん、遺影廻りの設えやメッセージカードを用意してくれた高本真佐子さん、受付を引き受けてくれた香川喜久恵さん、佐藤聖子さんに感謝。それと裏方のいろいろをお願いした大谷源一さんもね。結核予防会で竹下さんの部下だった羽生部長、年住協で部下だった倉沢、阿部両君は涙ながらに竹下さんへの想いを語ってくれた。私も通夜当日、私が遅刻して読むことができなかった「弔辞」を竹下さんの遺影を前に読むことができて大満足。読み終わった後で厚労省OBの末次彬が「弔辞に拍手はないだろうけれど、つい拍手をしてしまったよ」と言ってくれた。竹下さんのお気に入りだった新宿のクラブ「宴」のママ、渡辺真知子さんにもスピーチをお願いしたが堂々たるものだった。

1月某日
「貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記」(柳美里 双葉社 2015年4月)を読む。柳美里は副題にもあるように芥川賞作家でもあり、ベストセラー作家とは言えないかもしれないが、単行本もそこそこ出している。「とても貧乏とは思えないが」と読み始めると……。実際、柳美里は貧乏であった。水道や電気などの公共料金が払えなくなったこともあるし、食費をひねり出すためにイヤリング、ネックレスなどを売り払ったことも。柳美里のような作家にとって書下ろしはつらいということも初めて知った。雑誌の連載をまとめて単行本にする場合は連載中に原稿料が入るが、書下ろしの場合は取材しストーリーを考えて執筆し、本が印刷・製本されて出版されるまでお金(印税)は入らないのである。柳美里は金がかかるのである。愛犬家、愛猫家であり、犬猫だって病気になるしペットには保険がきかない。同居人と息子と山や温泉に行って自然と触れ合うのが好きなのだ。その上、原発事故に見舞われた福島県の南相馬への被災地支援を続けている。「故あっての」貧乏なのだ。だからなのだろうか貧乏を綴る柳美里の筆はちっとも湿っぽくない。この本は図書館で借りたのだが、柳美里の本は書店で購入するようにしたいと思う。

1月某日
「竹下さんを偲ぶ会」で写真撮影をしてくれた浜尾さんから写真のデータが送られてきた。参加者に送ろうと思うが送り方が分からない。大谷源一さんにHCMに来てもらってメールアドレスの分かっている人には何とか転送する。16時にケアセンターやわらぎの石川はるえ代表と荻窪駅で待ち合わせ。当初は南阿佐ヶ谷にある「やわらぎ」のデイサービスで会うつもりだったが、風が冷たいので荻窪駅での待ち合わせとなった。南口へ出て呑み屋を探すが16時過ぎとなるとさすがに空いている店は少ない。青梅街道から横道へ入った「焼き鳥屋」へ入る。私は日本酒をお燗で、石川さんは芋焼酎のお湯割り。焼き鳥の盛り合わせ、小芋の煮っころがしなどを頼む。刺身の盛り合わせは「ほっけ」「八角」「北海ダコ」の3点、いずれも北海道産。とくに「八角」はこちらではなかなかお目にかかれない。刺身の盛り合わせが来たところで石川さんが日本酒に替える。「やっぱり刺身は日本酒でなければね」。石川さんは私より一歳うえだから今年72歳だが、とてもそうは見えない。外見も考え方も若々しい。見習わなければね。いつもながら石川さんにご馳走になる。

1月某日
図書館で借りた「怒りていう、逃亡には非ずー日本赤軍コマンド泉水博の流転」(松下竜一 河出書房新社 1993年12月)を読む。この本を読むまで泉水博の私の記憶は、日本赤軍の起こした日航機ハイジャック事件で人質と交換に超法規的措置で釈放されて日本赤軍に合流した刑事犯というものでしかなかった。この本を読んで泉水の過酷な前半生を知った。泉水は1937年生まれ、泉水が5歳のときに両親は別居、泉水は千葉県の木更津で母の手一つで育てられる。貧しかったので泉水は小学生のときから母と海岸で貝を拾い、小学校高学年になると納豆売りや新聞配達で家計を助け、6年生になってからは八百屋で働き、リヤカーを引いて住宅街を売り歩いた。中卒後いくつかの職業を転々としたが、上野のキャバレー「市松」のボーイ長として落ち着く。この時期に知り合った男との出会いが泉水の人生を暗転させる。この男の誘いで泉水は強盗殺人事件に手を貸すことになり、無期懲役の判決を受け、千葉刑務所に服役する。泉水を事件に引き込んだ主犯格の男が公判中に自殺したため、殺人には手を貸していないという泉水の主張は顧みられなかったのである。
千葉刑務所で模範囚として仮釈放を目前にしていた泉水の運命が暗転する。泉水は病気を患っていた同囚が十分な医療を受けていないことから、刑務所内の医療の改善を求めて千葉刑務所の管理部長を人質にとり、要求を通そうとした。泉水は取り押さえられ、懲役2年6カ月の判決を受ける。無期懲役に加算され北海道の旭川刑務所に移された。1977年9月、日本赤軍のハイジャックで泉水の釈放要求が出されたのは旭川刑務所在監中である。釈放要求に泉水は戸惑う。「赤軍」の名前程度は知っていても、その主張するところ全く知らないのである。結局泉水は乗客の生命と引き換えに釈放要求に従いダッカ行きを了承する。ここで「怒りていう、逃亡には非ず」というタイトルの意味が分かることになる。「逃亡する」という気持ちは全くないのである。泉水にしてみれば日本政府の要請によって、人質と引き換えにダッカに行っただけである。ダッカに渡った泉水は日本赤軍とともにパレスチナゲリラとして戦う。日本赤軍の指令に従ってフィリピンに行った泉水はその地で1988年6月に逮捕され、日本に移送される。泉水が超法規的措置で釈放されてから40年、再逮捕されてから30年の歳月が経っている。