モリちゃんの酒中日記 1月その5

1月某日
「あれは誰を呼ぶ声」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2018年10月)を読む。去年読んだ小嵐の「彼方への忘れ物」(アーツアンドクラフツ)の続編というか姉妹編。「彼方への忘れ物」は1960年代後半の早稲田大学の学生運動と恋に揺れる大瀬良騏一が主人公だが、「あれは誰を呼ぶ声」では大瀬良の早稲田の学友、帯田仁が主人公。帯田の母の弟と結婚したのがもう一人の主人公、帯田奈美の母親。帯田奈美の一家は北海道の日高地方に暮らしている。父親はホテルマンの傍ら兼業農家も営む。仁が早稲田の1年生のとき日高の奈美の家へ遊びに来て、そのときから奈美は仁に密かな恋心を抱く。奈美は一浪の後、東京目白の保育専門学校に入学する。仁は1969年1月の東大の安田講堂攻防戦で逮捕起訴され、拘置所代わりの中野刑務所に収監されているため、奈美は東京の予備校へは川崎の仁の家から通い、仁の部屋へ寝泊まりさせてもらう。中野刑務所で仁の隣の独房にいたのが共産同赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練で逮捕起訴された平与武彦。与武彦の父はキリスト教の牧師だから「ヨブ記」から与武彦と名付けられた。70年代の学生運動、新左翼の運動は連合赤軍事件や連続企業爆破事件、それに中核派と革マル派、社青同解放派と革マル派との内ゲバの激化によって大衆の支持をどんどん失っていく。時代は高度経済成長期で日本は空前の繁栄を続ける。仁や与武彦は日本の労働者それも臨時工や下請けを排除した本工主体の労働運動に疑問を抱く。とこうまとめるとえらく真面目なストーリーと感じられるが、学生運動や学生運動家のドジな側面も強調して描かれ、小説全体の雰囲気としては明るい。私の70年代以降の人生をつい振り返ってしまった。ラストで仁と奈美の結婚が暗示されているが、小嵐の実際の奥さんも保母さんの筈で、全面的ではないにせよ仁の一部のモデルは作家本人であろう。

1月某日
「竹下さんを偲ぶ会」を霞が関ビルの東海大学校友会館で開く。50人以上が集まってくれて盛会だった。インフルエンザが猛威を奮っていて発起人の阿曽沼さんはじめ何人かがドタキャンとなった。献杯の音頭をとってくれた江利川毅さんはじめカメラマンを引き受けてくれた浜尾あやさん、遺影廻りの設えやメッセージカードを用意してくれた高本真佐子さん、受付を引き受けてくれた香川喜久恵さん、佐藤聖子さんに感謝。それと裏方のいろいろをお願いした大谷源一さんもね。結核予防会で竹下さんの部下だった羽生部長、年住協で部下だった倉沢、阿部両君は涙ながらに竹下さんへの想いを語ってくれた。私も通夜当日、私が遅刻して読むことができなかった「弔辞」を竹下さんの遺影を前に読むことができて大満足。読み終わった後で厚労省OBの末次彬が「弔辞に拍手はないだろうけれど、つい拍手をしてしまったよ」と言ってくれた。竹下さんのお気に入りだった新宿のクラブ「宴」のママ、渡辺真知子さんにもスピーチをお願いしたが堂々たるものだった。

1月某日
「貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記」(柳美里 双葉社 2015年4月)を読む。柳美里は副題にもあるように芥川賞作家でもあり、ベストセラー作家とは言えないかもしれないが、単行本もそこそこ出している。「とても貧乏とは思えないが」と読み始めると……。実際、柳美里は貧乏であった。水道や電気などの公共料金が払えなくなったこともあるし、食費をひねり出すためにイヤリング、ネックレスなどを売り払ったことも。柳美里のような作家にとって書下ろしはつらいということも初めて知った。雑誌の連載をまとめて単行本にする場合は連載中に原稿料が入るが、書下ろしの場合は取材しストーリーを考えて執筆し、本が印刷・製本されて出版されるまでお金(印税)は入らないのである。柳美里は金がかかるのである。愛犬家、愛猫家であり、犬猫だって病気になるしペットには保険がきかない。同居人と息子と山や温泉に行って自然と触れ合うのが好きなのだ。その上、原発事故に見舞われた福島県の南相馬への被災地支援を続けている。「故あっての」貧乏なのだ。だからなのだろうか貧乏を綴る柳美里の筆はちっとも湿っぽくない。この本は図書館で借りたのだが、柳美里の本は書店で購入するようにしたいと思う。

1月某日
「竹下さんを偲ぶ会」で写真撮影をしてくれた浜尾さんから写真のデータが送られてきた。参加者に送ろうと思うが送り方が分からない。大谷源一さんにHCMに来てもらってメールアドレスの分かっている人には何とか転送する。16時にケアセンターやわらぎの石川はるえ代表と荻窪駅で待ち合わせ。当初は南阿佐ヶ谷にある「やわらぎ」のデイサービスで会うつもりだったが、風が冷たいので荻窪駅での待ち合わせとなった。南口へ出て呑み屋を探すが16時過ぎとなるとさすがに空いている店は少ない。青梅街道から横道へ入った「焼き鳥屋」へ入る。私は日本酒をお燗で、石川さんは芋焼酎のお湯割り。焼き鳥の盛り合わせ、小芋の煮っころがしなどを頼む。刺身の盛り合わせは「ほっけ」「八角」「北海ダコ」の3点、いずれも北海道産。とくに「八角」はこちらではなかなかお目にかかれない。刺身の盛り合わせが来たところで石川さんが日本酒に替える。「やっぱり刺身は日本酒でなければね」。石川さんは私より一歳うえだから今年72歳だが、とてもそうは見えない。外見も考え方も若々しい。見習わなければね。いつもながら石川さんにご馳走になる。

1月某日
図書館で借りた「怒りていう、逃亡には非ずー日本赤軍コマンド泉水博の流転」(松下竜一 河出書房新社 1993年12月)を読む。この本を読むまで泉水博の私の記憶は、日本赤軍の起こした日航機ハイジャック事件で人質と交換に超法規的措置で釈放されて日本赤軍に合流した刑事犯というものでしかなかった。この本を読んで泉水の過酷な前半生を知った。泉水は1937年生まれ、泉水が5歳のときに両親は別居、泉水は千葉県の木更津で母の手一つで育てられる。貧しかったので泉水は小学生のときから母と海岸で貝を拾い、小学校高学年になると納豆売りや新聞配達で家計を助け、6年生になってからは八百屋で働き、リヤカーを引いて住宅街を売り歩いた。中卒後いくつかの職業を転々としたが、上野のキャバレー「市松」のボーイ長として落ち着く。この時期に知り合った男との出会いが泉水の人生を暗転させる。この男の誘いで泉水は強盗殺人事件に手を貸すことになり、無期懲役の判決を受け、千葉刑務所に服役する。泉水を事件に引き込んだ主犯格の男が公判中に自殺したため、殺人には手を貸していないという泉水の主張は顧みられなかったのである。
千葉刑務所で模範囚として仮釈放を目前にしていた泉水の運命が暗転する。泉水は病気を患っていた同囚が十分な医療を受けていないことから、刑務所内の医療の改善を求めて千葉刑務所の管理部長を人質にとり、要求を通そうとした。泉水は取り押さえられ、懲役2年6カ月の判決を受ける。無期懲役に加算され北海道の旭川刑務所に移された。1977年9月、日本赤軍のハイジャックで泉水の釈放要求が出されたのは旭川刑務所在監中である。釈放要求に泉水は戸惑う。「赤軍」の名前程度は知っていても、その主張するところ全く知らないのである。結局泉水は乗客の生命と引き換えに釈放要求に従いダッカ行きを了承する。ここで「怒りていう、逃亡には非ず」というタイトルの意味が分かることになる。「逃亡する」という気持ちは全くないのである。泉水にしてみれば日本政府の要請によって、人質と引き換えにダッカに行っただけである。ダッカに渡った泉水は日本赤軍とともにパレスチナゲリラとして戦う。日本赤軍の指令に従ってフィリピンに行った泉水はその地で1988年6月に逮捕され、日本に移送される。泉水が超法規的措置で釈放されてから40年、再逮捕されてから30年の歳月が経っている。