モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
 「熱球」(重松清 徳間文庫 2004年12月)を読む。児童虐待の疑いで父親に続いて母親が逮捕されたり、こどもの自殺が「いじめ」が原因かどうか裁判で争われたり、最近こどもを巡る暗い話題にこと欠かない気がする。こういうときは重松清でしょ。重松清には教師経験はないけれど、教師を登場人物とする小説が多い。教師が出てくるということは当然、子どもが出てくる。で、私の読んだ限りという限定付きだが重松の作品の読後感は「爽やか」である。難しい言葉も漢字も出てこない。最近私が読む作家のうちでは「安心して読める作家」ナンバーワンである。「熱球」は東京の出版社に勤めていた主人公ヨージが出版社を辞めて、一人娘の美奈子を連れて故郷の山口県周防市の実家に帰ってくることから物語は始まる。周防市は架空の町だが県都も大内市と架空。山口県の県庁所在地は山口市だから周防市は下関市か周南市のイメージ。ヨージは高校時代、野球部に所属、2年のとき県大会の決勝戦にまで進出するが直前に部員の不祥事から決勝戦を辞退する。それが20年前の話。ヨージの妻は大学でアメリカの移民史を研究、1年の期限付きでアメリカ留学中である。ヨージは失業中でもあり母校の野球部のコーチに就任、併せて美奈子と同学年の小学生、甲太のキャッチボールの相手を買って出る。甲太の母親はヨージの野球部のマネジャーだった恭子である。20年という時間は高校野球のイメージも変えそのギャップにヨージはとまどう。さらにヨージは周防市に落ち着いて父と暮らすのか、東京で先輩の新雑誌を手伝うのか、さらにアメリカから帰った妻は?という具合に周防市の日常の中でヨージはとまどい悩むのである。日常の中のとまどいや悩みを描くのが重松は巧み。やはり「安心して読める作家」ナンバーワンである。

2月某日
中村秀一さんの叙勲祝賀パーティに出席。赤坂見附のホテルニューオータニで19時スタート。社保険ティラーレの吉高さんを訪問の後、社会保険研究所の鈴木俊一社長を訪ねてもまだ17時30分。大谷源一さんも祝賀パーティに行くと言っていたので大谷さんに電話、出世不動という小さな神社(この神社に因んで「出世不動通り」という名前がついた)の向かいにある酒屋は17時を過ぎると「角打ち」(酒屋の店先でお酒を呑ませること。多くは立ち飲み)をやっているので、そこで待ち合わせ。生ビールと日本酒、それと焼酎を一杯いただく。お店の人の話ではこの酒屋は昭和初期からやっているそうだ。
大谷さんが来たので大手町から赤坂見附のホテルニューオータニへ。中村さんときれいな奥さんに挨拶。中村さんの著作を編集した年友企画の酒井さんも来ていて料理やお酒をとってきてくれた。こういうパーティはいろんな人に会えるのがうれしい。国保中央会の原理事長や慶応大学の権丈先生、埼玉医科大学の亀井美登利先生に挨拶。元厚労省の大原純子さんや元社会保険庁の安田秀臣さんも来ていた。久しぶりに会った藤原禎一さんからは厚生労働省の地方厚生局特別プロジェクト推進室統括調整官の名刺をもらった。パーティが終了後、中村夫妻と記念写真を撮っている人がいたので、石川はるえさんとそれに便乗、石川さんのスマホで酒井さんに撮影してもらった。石川さんと元全社協の渋谷さんと四谷の新道通りの「四谷魚一商店」で二次会。今回も石川さんにご馳走になる。

2月某日
神田司町の中華料理店「上海台所」へ行く。HCM社の大橋社長と年友企画の石津さん、酒井さんと会食。「上海台所」は先月、室蘭東高のスキー部同窓会のとき行った店。安くて料理もおいしい。青菜炒めや叉焼、スペアリブなどを頼む。締めは炒飯。ビール、ハイボールが呑み放題。私はビールで乾杯の後ハイボール。二次会は近くの居酒屋。店員は中国の浙江省出身と言っていたが日本語にほとんど違和感を感じなかった。

2月某日
近所の石戸歯科で「歯石除去」。若くて美人(マスクをしているのでよくわからないが多分)の歯科衛生士がやってくれる。治療を終わると石戸先生がやってきて、「これ息子が書きました」とNEWSWEEKの最新号を見せてくれる。石戸先生の息子さんは石戸諭といってフリーのルポライター。1984年生まれ、2006年に立命館大学卒業、毎日新聞社に入社しその後、フリーに。著書に「リスクと生きる、死者と生きる」(亜紀書房)があり、この本も石戸歯科の待合室に置いてある。私はネットでdマガジンを契約しているので早速、NEWSWEEKを閲覧。石戸諭の記事は「SPECIAL REPORT 沖縄ラプソディ」として掲載されていた。「沖縄ラプソディ」というタイトルはクイーンの名曲「ボヘミアンラプソディに由来する。「これは現実か、それともただの幻想か?」という問いかけから始まるこの歌は「今の沖縄にこそ当てはまるように思える」と石戸は書く。石戸は県民投票を2月24日に控える沖縄を訪れ、辺野古移設の賛成と反対に揺れる人々を取材する。私は辺野古移設反対を貫いた翁長前知事やその後継者の玉城現知事を支持するが、石戸は賛成反対の二分法ではなく、その立ち位置からは見えにくくなっている沖縄の現実に対峙しようとしていると私には感じられた。

2月某日
「悪だくみ-『加計学園』の悲願を叶えた総理の欺瞞」(森功 講談社 2017年12月)を読む。読んでいて興味をそそられないというか楽しくない本だった。これは著者の森に原因があるというより題材、テーマの問題だと思う。安倍首相の旧友が理事長を務める加計学園が愛媛県の今治市に獣医学部を新設する。その認可の過程で官僚や関係者の忖度があったのではないか、というのがこのルポのテーマだ。内閣人事局が官僚の人事権を握って以来、官僚が首相官邸の意向に左右されるようになったとはよく言われる。真偽のほどは分からないがこの本を読む限りでは官邸の意向や、それをバックにした総理補佐官の発言に官僚が右往左往していることがうかがわれる。公務員は国民全体に奉仕するのが役割であって、一部の奉仕者であってはならないとは確か憲法にも謳われていると思う。安倍首相の本意がどうであれ「李下に冠を正さず」という言葉もある。やはり加計学院に獣医学部の新設は認可されるべきではなかったのではないか。

2月某日
16時30分に鶯谷駅の南口で大谷源一さんと待ち合わせ。階段を降りると呑み屋が密集している。目指す「ささのや」の店先にはもう人だかりがしていた。焼き鳥を焼いている店先で立ち飲みするのはキャッシュ&デリバリー。私たちは店内で座って焼き鳥とビールを頼む。2杯目はサントリーの山崎?の炭酸割をダブルで。3杯目は日本酒をお燗で。「ささのや」はお勧め。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
図書館で借りた「アンボス・ムンドス」(桐野夏生 文藝春秋 2005年10月)を読む。図書館の桐野夏生のコーナーで手に取って「読んでないな」と思って借りたのだが、読みだしたら記憶が蘇ってきた。大まかなストーリーは思い出すが、初回に読んだときには気が付かなかったことや「あーそういうことなんだ」と思うことがあり、同じ本を繰り返して読むのも悪くない。桐野の作品を「平成のプロレタリア文学」と評したのは政治学者の白井聡である(「奴隷小説」(文春文庫)の解説)。白井は「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と提起する。「アンポス・ムンドス」には表題作含めて7つの短編が収められているが、冒頭の「植林」を白井理論によって読み解いてみよう。
宮本真希は医薬品や化粧品の安売り量販店のアルバイトである。時給850円で実働7時間、週に5日出勤しても月収は12万円程度、コンタクトレンズの片一方を無くしても貯金が無いから買うこともできない。「失うべきものがない」真希は平成のプロレタリアートである。真希はその上チビで小太り、「セックスはおろかキスもしたことがない」。異性からも疎外されているし、職場の高校を出たての同僚からも馬鹿にされている。両親と暮らしていた実家には兄夫婦と姪が転がり込んできて真希は居場所さえも脅かされる。ふと見たテレビのワイドショーが真希の記憶を揺り動かす。未解決事件の特集で「1984年グリコ・森永事件」が取り上げられている。当時、真希は小学校3年生で寝屋川市のマンションに住んでいたが父親の転勤で東京へ引っ越すことが決まっていた。
グリコ森永事件では子供の声が身代金の置き場所を指定する。テレビで流されたその音声は真希の小学校3年生のものだった。同じマンションに住む一人暮らしの女の人、鈴木さんの部屋。真希は右手に大きな金の指輪をした男に言われて地図の地名を読み上げた。男はそれをテープにとり鈴木さんはアイスクリームをくれた。近いうちに東京へ引っ越し、もともと東京者だから、あまり大阪訛りがないないこと、それが真希が選ばれた理由だ。日本中が騒いだ事件に自分が加担していたことを知る真希。真希は冴えなかった自分が急に誇らしくなる。それによってアルバイトの同僚との関係も逆転する。これはプロレタリアート真希によるいわば「蜂起」である。決して永続することのない単独の。

2月某日
有楽町の交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」に高橋公(ヒロシと読むが仲間はハムさんと呼ぶ)さんを訪問。田舎暮らしのニーズが高まっているのか、フロアには相談に訪れている思われる中高年が何人も。ハムさんと私は早稲田大学の全共闘仲間。当時の早稲田は革マル派が全学を支配しており、革マルに同調しない学生は学内に入れなかった。50年前の1969年の4月17日、反戦連合など反革マル派の学生がヘルメットとゲバ棒で武装し本部に突入した。「50周年だからあつまろうよ。オレ忙しいから森田君、事務局やってくれ」ということで呼び出されたわけ。こうしたイベントの事務方は私の知る限り大谷源一さんが最適。大谷さんは早稲田ではないが「全共闘崩れ」ということでは一緒。ハムさんが大谷さんに電話して交通会館に来てもらう。打ち合わせ後、神田の焼き鳥屋で大谷さんと呑む。

2月某日
「維新と敗戦-学びなおし近代日本思想史」(先崎彰容 晶文社 2018年8月)を読む。先崎彰容は、白井聡とともに私が最近最も注目する思想家。2人の立場はずいぶんと違う。白井はレーニンの政治思想の研究から出発して(「未完のレーニン」など)、「永続敗戦論」「国体論」などで戦後体制を鋭く評論、昨年は確か「赤旗」で日本共産党への期待を表明していた。一方の先崎は「維新と敗戦」のもとになったのが「産経新聞」の連載や「正論」に掲載された論文ということから、どちらかというと「保守派」と見られがちかもしれない。先崎が1975年生まれ、白井が1977年生まれで私からすればどちらも息子の世代、「がんばれよ」とエールを送りたくなるのである。「維新と敗戦」は福沢諭吉、頭山満、吉本隆明ら23人の思想家を論じた産経新聞連載のエッセーをまとめたⅠと雑誌「正論」などに発表された論文をまとめたⅡによって構成されている。Ⅰでは高山樗牛、葦津珍彦など私が読んだこともない思想家が取り上げられて興味深かったし、Ⅱでは今ではあまり取り上げられることもない橋川文三に触れた論文などに魅かれるものがあった。しかし私が最も感銘を受けたのが「死者を慰霊する季節に-あとがきに代えて」であった。そこで先崎は亡くなった祖母との盆の思い出を綴る。西武多摩湖線の終点駅から近い平屋の都営住宅が祖母の家だった。幼い頃祖母の傍らで茄子の牛を造り、胡瓜に足をつける手伝いをした先崎は、四半世紀以上たった現在、祖母の住んだ都営住宅の跡地を訪れる。「私は人目をはばからず膝をつき、雑草にむかい手を合わせていた。確かに祖母はここにいて私を見ている。真夏の日差しが、私と祖母をつつんでゆく-」。そして先崎は「ここからしか『国家』というものを、日本というものを考えることができない」と述べる。うーん、先崎の日本浪漫派への想いの原点があるような気がする。

2月某日
日韓関係波高しである。慰安婦像問題、元徴用工への賠償問題に加えて韓国国会の議長が「日本の天皇が元徴用工や元慰安婦に謝罪すれば済む問題」と発言したことが日本の世論をいたく刺激した。天皇は憲法上、政治的な発言はできないのだから韓国の国会議長の発言は筋違いではあるのだろう。だが日本の世論や政府与党の反発には私は少なからず違和感を抱いた。日本が日清戦争に勝ってからだと思うが、日本は朝鮮半島や中国大陸の民衆を蔑視し、挙句の果てに朝鮮半島を併合し植民地化し、中国大陸の東北部には傀儡政権の満洲国を建国、国土を蹂躙したのは紛れもない事実。昭和天皇も現在の天皇もこうした歴史的な事実を踏まえて「周辺の国々に迷惑をかけた」と遺憾の意を表明している。喧嘩でも殴ったほうは忘れても殴られたほうは忘れない。外交でも同じことが言えるのじゃないか。
たまたまではあるけれど現代韓国小説を読む。図書館で借りた「ホール」(ピョン・ヘョン 書肆侃侃房 2018年10月)を読む。著者は1972年ソウル生まれ、写真が略歴に添えられていたけれどなかなかの美人。小説はとても現代的で「生きることの不条理や不安」を著者は描きたかったのではと思う。文芸も映画もポップスも韓国勢の勢いは止まらないように思う。もしもですよ、韓国と北朝鮮が統合するようなことになれば単純に統合した以上の効果が表れると思わざるを得ない。軍事的、経済的、文化的に見ても相当な大国が日本の隣国となる。東西ドイツの統合を見れば分かるでしょう。「ホール」の出版社、書肆侃侃房は福岡市に本社があって、「韓国女性文学シリーズ」を出版している。

2月某日
「啓順兇状旅」(佐藤雅美 幻冬舎 2000年10月)を読む。佐藤雅美は昭和16(1941)年生まれだから50代後半の作品、作家として最も脂の乗り切った時期なのだろうか、期待にたがわず面白かった。啓順シリーズは「兇状旅」「地獄旅」「純情旅」の3作品だと思うが、読んでいないのは「純情旅」だけ。ふとしたことから凶状持ちとなった医者の啓順、司法の網と浅草の火消しの親方、聖天松の手先から逃亡の旅を続ける。逃亡先でやむを得ず医術を施し、それがために聖天松の手先に居所が知れてしまう。私がこの小説を面白いと思うのは、佐藤雅美のほかの小説にも言えることなのだが、その時代考証の緻密さにある。啓順シリーズの場合、江戸時代の医療、医学の考証に加えて、逃亡劇なのでその時代の交通手段、交通路の考証がすごい。今回は八王子、甲府、伊豆、大島、石巻などが舞台に設定されている。したがって甲州街道はもちろん、下田や大島の波浮湊を拠点とする当時の海運に対する考証も。海運については波浮湊から石巻までの千石船も紹介され、さらに鬼怒川や江戸川の水運も啓順は利用する。この時代考証は半端ではない。

2月某日
昨日、本郷さんから「北大の元叛旗派と吞むので一緒にどう?」という誘いの電話があったので新宿まで出かける。紀伊国屋書店の前で待ち合わせて「三平食堂」へ。ほどなく「水田」と名乗る元叛旗派が来る。北大の理系の学部を卒業した後、一部上場企業に就職したがほどなく退職、ずっと塾の講師を勤めていたそうだ。叛旗派と言っても今の若い人には通じないだろうね。1969年くらいだったと思うがブント(ドイツ語で同盟のこと。私が若かりし頃は共産主義者同盟=社会主義学生同盟のことをブントと呼んでいた)から赤軍派が分裂、次いで情況派と叛旗派が誕生した。情況とか叛旗というのはセクトの機関誌名だったような記憶があるけれど、定かではない。しばらく3人で吞んでいると、もう一人「元叛旗派」が登場。この人は「日本語講師」という肩書の名刺をくれた。聞くと中国で日本語講師をしているという。4人でいろいろ話しているうちに私はすっかり酩酊。我孫子に帰って駅前の「愛花」に寄る。ママが心配して「モリちゃん、タクシーで帰った方がいいよ」と言ってタクシーを呼んでくれる。