モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野駅公園口で待ち合わせ、東京都美術館で開催中の「奇想の系譜展」を観に行く。伊藤若冲、曽我蕭白、狩野山雪、長沢芦雪、岩佐又兵衛、鈴木其一、白隠慧鶴、歌川国芳の絵を展示している。パンフレットには「江戸のアバンギャルド一挙集結!」「江戸時代の奇想画家8名の傑作が勢揃い!」とあるように伝統的な日本画の枠を踏み越えた画家たちという括りなのだろう。私が思うに本人が意識的に枠を超えようとしたというよりも美を追求する過程でそうなったということであろう。岩佐又兵衛は戦国武将の荒木村重の子供で、村重が信長に反逆を企てたため一族は滅ぼされた。又兵衛は母方の姓を名乗り京都で日本画の修業をする。「山中常盤物語絵巻」という絵巻では荒くれ武者たちに身分の高いと思われる女性が惨殺される場面が描かれているが、一族が滅ぼされるという又兵衛の出自が影響しているかも知れない。会場で社会保険研究所OBの仙波さんに会う。会場を出て上野駅に付随している「ぶんか堂」で食事。東京文化会館の向かいにあるため「ぶんか堂」か。大谷源一さんを呼び出す。水割りを3杯ほど呑んだ後で解散。私は「音楽運動療法研究会」の「ホームヘルプ部会」があるので池袋へ。
「プレゴバケット」というイタリアンの店が会場。事務局をやっている「ひつじ企画」の宇野裕さんから「場所が分かりづらいから池袋駅で待ち合わせて行こう」という電話があったが、「西口から立教に向かう途中でしょ、分かると思うよ」と自力で行けると伝えたのが間違いのもと。会場は西池袋3丁目なのだが西池袋2丁目からなかなか抜け出すことができず、そのうち携帯の電池も切れて、連絡も取れなくなったし、携帯のマップも使えなくなくなった。なんとか西池袋3丁目にたどり着きしらみつぶしに番地を探し歩いたが、地番のプレートを掲げている建物が少なく気持ちは絶望的に。街角に掲げられている公共の地図があったのでそれを頼りにさ迷い歩く。そしてついに「プレゴバケット」を発見。約束の時間から小1時間経っていた。フーッ。宇野さん、ホームヘルパー協会の黒沢さんとリハビリ病院の副院長の川内先生が「よかったねー」と迎えてくれる。万歩計を見ると13,000歩を超えていた。黒沢さんからスマホを使った要介護高齢者への音楽配信の事例が報告されたが、80代、90代の要介護高齢者が好むのは昔の歌謡曲や童謡と思いきや、最近の歌謡曲やポップス、ジャズだったという。高齢者のイメージを変えて行かなければならないと思う。

3月某日
宇野さんからスマホにダウンロードされた曲名一覧が送られてきた。それによると三波春夫や村田英雄、美空ひばり、島倉千代子の歌う演歌や歌謡曲ももちろんあるのだが、サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」、矢沢永吉の「LAHAINA」、江利チエミ「テネシーワルツ」などがリストアップされている。中には私の知らない曲も少なからずあった。高齢者像を自分たちの持っているイメージで決めつけると「痛い思い」をすることになるのである。

3月某日
大谷源一さんと新橋駅烏森口で待ち合わせ。大谷さんは元日本航空国際線の客室乗務員で現在は高齢者や被災地支援の団体を立ち上げている神山弓子さんを同伴。社会保険研究所の谷野浩太郎編集長に用があったので神田へ。谷野編集長は会議中だったので1分ほど立ち話、神田駅北口の「鳥千」へ。ここは20年ほど前に何回か行ったことがある。もともとは屋号からして焼き鳥屋なのだろうが、お刺身がとても美味しかった。上野で2人と別れ我孫子へ帰る。まだ8時台だったので久しぶりに駅前の「愛花」へ。常連のソノちゃんがいたので一緒に呑む。

3月某日
「早大闘争を振り返る会」の打ち合わせで大谷源一さんと早稲田のリーガロイヤル東京へ。地下鉄東西線の早稲田駅で地下鉄を下車、地図を片手にリーガロイヤルへ。馬場下から本部へ行く途中に学生時代に通ったラーメン屋「メルシー」があった。リーガロイヤルでは稲門会担当の青木さんが対応してくれた。50年前の1969年4月17日、僕たちは革マル派が戒厳令を敷く早大本部に突入。本部封鎖に成功する。僕たちというのはノンセクトラジカルの「反戦連合」と反帝学評など一部党派の反革マルの連合部隊で、これが早大全共闘の母体になった。しかし僕の記憶では早大全共闘には書記局もなかったし、機関紙もなかった。当時、東大全共闘は大学院生の全闘連が指導権を握り「進撃」という活版印刷の機関紙も発行していた。まぁ早大全共闘は東大や日大に比べるとかなり脆い組織であったことは事実。リーガロイヤルで「稲門会」担当の青木さんという女性が丁寧に応対してくれた。青木さんによると、メルシーのラーメンは現在400円、週末にはOBと思しき老人たちがラーメンを食べに来るそうだ。ちなみに50年前は一杯、50円だったと思う。
リーガロイヤルを出て池袋に行くという大谷さんと別れ西早稲田へ。西早稲田から副都心線で新宿3丁目、都営新宿線に乗り換えて岩本町へ。岩本町3丁目の中華料理屋「胡椒饅頭PAOPAO」で石津幸恵さんと元国民年金協会の町田さんと食事。石津さんに「モリちゃん、ブログに書いちゃだめだよ」と言われたが書いてしまいました。「胡椒饅頭」はなかなか美味しかった。石津さんにすっかりご馳走になり歩いて神田駅へ。

3月某日
「早大闘争を振り返る会」の名簿の整理を大谷源一さんにお願いする。HCMに来てもらって私のパソコンで作業してもらう。終って有楽町の「ふるさと回帰支援センター」の高橋公理事長に面談。今のところ呼び掛ける対象は70人ほど。ハムさんは「おい、こんなものかよ、もっといるだろう」というけれど、「ハムさん、大学本部に突入したときだって40人くらいだよ。一般学生の支持はあったにせよコアな活動家はそんなにいなかったんだよ」というと「それもそうだな」とハムさん。ハムさんと別れて大谷さんと有楽町へ。明日も大谷さんと呑む予定があるので今日はまっすぐ帰ろうかと思ったが、上野の焼き鳥屋「大統領」へ向かう。「大統領」は焼き鳥屋の老舗で、16時過ぎだというのに本店はすでにいっぱい、近くの支店へ行くと15分ほど待たせれて座ることができた。お客は驚くほど女性が多い。焼き鳥屋というとオジサンのイメージだけれど「時代は変わった」のだ。焼き鳥と煮込みを頼んでホッピーで乾杯。18時前に終了。

3月某日
「作家との遭遇-全作家論」(沢木耕太郎 新潮社 2018年11月)を読む。沢木耕太郎は1947年生まれ。私より一歳上だが現役で横浜国立大学経済学部を卒業しているから社会に出たのは私より2年早いはずだから1970年。確か一部上場企業に内定したが1日だけ出社してルポライターの道を選んだ。ルポライターの沢木が現実の作家と遭遇するのは酒場。そしてもう一つが文庫本の解説を出版社から頼まれたときだ。解説を頼まれると沢木はその作家の作品をできるだけ読んで解説を書く。以前読んだときと違う印象を感じることが書かれていてそれはそれで面白いのだが、非常に丁寧な作家論が展開されている。日本人作家では井上ひさし、山本周五郎、田辺聖子ら19人の作家論が展開されているが、私が驚愕したのは巻末に収録されている「アルベール・カミュの世界」だ。実はこれは沢木の大学の卒論である。沢木は「資本論」「日本経済分析」「社会主義と超国家主義」などテーマにした卒論を書こうとするが「こんなものが、21歳の自分にとって6カ月も7カ月もかけて取り組むべきテーマなのだろうか」と思い、「当時、唯一、胸の奥に届いていたのがカミュの著作、とりわけ初期のエッセイ群だった」ことからカミュを卒論のテーマとする。これがまぁ21歳の経済学部の学生が書いたとは思われない立派な作家論なのだ。沢木はルポライターとして出発するが、それから50年を経過して今や小説も手掛ける大作家と言ってよい。その「芽」が卒論にあったとは!

モリちゃんの酒中日記 2月その5

2月某日
「啓順純情旅」(佐藤雅美 講談社 2004年9月)を読む。幕末、医師養成機関の医学館で学ぶ啓順は、浅草の火消しの親方で破落戸(ごろつき)の親分でもある聖天松の息子殺しの疑いで、司直と聖天松の手下の双方から追われることとなる。江戸から甲府、伊豆から大島、大島から海路、石巻へ。陸路あり、海運、水運ありの逃亡劇で、逃亡の合間に患者を診察するというストーリー。「啓順純情旅」は「兇状旅」「地獄旅」に続く3作目にして最終作である。聖天松の追手のひとり勘助と手を組んだ啓順は、最終作では聖天松を逆に引退に追い込む。浅草を中心とする聖天松の縄張りは勘助に引き継がれ、啓順は勘助の縄張りから遠く離れた芝神明前で開業し、やがて「神明前のお助け医者」と呼ばれるようになる。最終作は「御一新を迎えたのはその後間もなくだが、江戸はたいしたどさくさで、御一新後、啓順の一家がどうなったのかを知る者はいない。」と終わる。私は「啓順シリーズ」は同じ芝神明前で開業する「町医北村宗哲シリーズ」に引き継がれ、宗哲は啓順の後身と思っているのだが。

2月某日
虎ノ門の弁護士事務所で打ち合わせの後、新橋烏森口近くの「おんじき」へ。HCM社の大橋社長とネオユニットの土方さんがすでに呑んでいた。「おんじき」は青森料理のお店、大橋社長が贔屓にしている。土方さんはデザイナーだけれど、ビジネス感覚にも鋭いものがあり今回もデザインとは離れた新しいビジネスについて熱く語っていた。そのほか沖縄の県民投票や統計偽装問題、北朝鮮問題など3人の話題はあっちこちへ飛ぶ。もちろん3人の考え方は違うのだが、たぶん基本的な価値観は違わないはず。そこが面白いし付き合いが長く続く理由と思う。

2月某日
「アナキズム-一丸となってバラバラに生きろ」(栗原康 岩波新書 2018年11月)を読む。栗原康は前に「村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝」「死してなお踊れ-一遍上人伝」を読んで面白かった記憶がある。栗原は早稲田大学の政治経済学部で確か白井聡と同じゼミ。栗原の独特の文体がまず魅力だ。例えば第2章ファック・ザ・ワールドの冒頭は「オス、オース、オースッ、オース! ファック・ザ・ポリス! ファック・ザ・ソサイエティ!ファック・ザ・ワールド! みんな警察がきらい、社会はクソだ、こんな世界はいらねえんだよ。イヨーシッ、気合がはいったぜ。そんじゃ、はじめよう。」と始まる。本書はアナキズムの概説書ではなく私たちに人間としての生き方を問うていると思った。サブタイトルの「一丸となってバラバラに生きろ」を考えてみよう。「一丸となって」というのは左翼の使う「団結」の大切さを語っているように見える。だが、左翼の団結は突き詰めていくとレーニン主義的な前衛党に行き着く。栗原の「一丸となって」はもっとソフトとであり、自由だ。レーニン主義的な組織論とは対極にあると行ってよい。
私はこの本を読んで1960年代後半から1970年代前半に全国の大学を巻き込んだ全共闘運動のことを思い浮かべた。多くの大学には学生自治会があり、学生の要望を汲んで大学当局と交渉を行い、ときには日米安保などそのときどきの政治課題に応じて、学生を動員して街頭デモを行った。しかし60年代の後半の一時期、学生自治会が学生のニーズに対してうまく機能しなくなる。私の在籍した早大の場合、私が入学した1968年には文学部を中心とした革マル派、法学部の日本共産党(民青)、政経学部の社青同解放派の三派が勢力を均衡させていた。私の感覚では民青は学生の日常的な要求には応えるものの政治課題については日本共産党の政策そのものであり、革マルは「壮大な理論体系」を感じさせるもののやっていることは他党派解体路線であった。その革マル路線によって解放派は大衆的な動員力を失わせていった。そこに登場したのが全共闘である。その組織原理というかイメージがまさに栗原のいう「一丸となってバラバラに生きろ」なのだ。東大闘争で安田講堂に残された落書きに「連帯を求めて孤立を恐れず」というのがあったが「一丸となってバラバラに生きよ」と同じことを言っているように私には思える。
栗原の本は私にいろいろなことを考えさせた。人間は本来、自由な存在なのではないか、何ものにも束縛されることなく自由に生きること。そう言えば栗原の伊藤野枝の生涯を描いた「村に火をつけ、白痴になれ」も伊藤の生涯を描くことによって、自由に生きることの大切さを訴えていたのではなかったか。栗原の考え方は夢物語だろうか。私はそうは思わない。日本も世界も大きな壁に突き当たっているように思う。日本で言えば少子化、労働力の減少が経済の先行きに暗い影を投げかけ、社会的には児童虐待やいじめによる自殺が後を絶たない。どうも社会が劣化しているように思えてならない。政治的には安倍一強政治のもと、国会議員や厚生労働省の不祥事が相次ぐ。そういうとき栗原の考え方は一つの処方箋とは言えないだろうか。

2月某日
基金連合会に足利聖治さんを訪問、17時に終了。浜松町駅から山手線で田端へ。大谷源一さんへあらかじめ「17時に終わるので17時半頃に西日暮里でどうですか?」とメールを送ると「田端の初恋屋に行かないか」と返ってきたので「了解です」と返す。初恋屋は大谷さんが「刺身がうまい」と絶賛する店。予約がなければ入れないとのことなので大谷さんが予約しておいてくれた。次の予約が入っているため19時までとのこと。刺身は盥に盛り付けて出される。盛り付けも美しいし味も絶品。値段もとてもリーズナブル。

2月某日
原稿料が入ったのでセルフケアネットワーク代表の高本眞佐子さんにランチをご馳走すると連絡。HCM社近くの初めて行く「喰吞をかし」へ。「新虎通り」に面した洒落た外観が前から気になっていた。内装も若い女性に好まれそうな洒落た空間で、お客も若い女性が多くおまけにカウンターの内側も若い女性が2人。ランチはそこそこ美味しかったがオジサンにはいささか敷居が高い。17時に虎ノ門で打合せ終了。18時から室蘭東高スキー部の懇親会があるのでどうしようかと思っていると阿曽沼慎司さんから電話。そういえばこの日、東京に来るというメールがあったっけ。新橋駅の銀座口で待ち合わせ。外は強い雨が降っていた。懇親会は銀座8丁目なのでそのあたりの居酒屋を物色、雨が強いこともあって近くの「お多幸」にする。毎月勤労統計の不正問題などが話題に。役所のガバナンスについてなかなか良いことを話し合った記憶があるが中身は忘れる。このブログのことも話題になって、「俺の個人情報を勝手に漏らすんじゃねーよ」と言われるが、これも忘れたことにしよう。30分ほど遅れてスキー部の懇親会場、「江南春」へ。スキー部の創始者の一人で今は札幌でコンピュータのソフト会社の社長をやっている佐藤正輝が元NECの大郷をともなって上京するというので今回の会合となったようだ。私は生来の運動音痴に加え、スキー部は合宿などでいろいろとカネがかかることもあって1年で脱落した。懇親会に参加したメンバーでは同学年の佐藤と大郷、それと女性で1人だけ参加した中田志賀子さん以外はあまり知らない顔だ。それでも温かく迎えてくれるので感謝。