モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
友人の関友子さんが浅草公会堂で三味線を弾くというので、弁護士の雨宮英明先生、元伊勢丹の岡超一さんと行くことにする。3人とも早稲田の政経学部の出身(関さんは卒業していないかも知れない)。関さんは在学中から私の奥さんと親しかった。岡さんと雨宮先生、私と奥さんは語学が同じクラスだった。関さんはエレクトーン奏者をやった後、新宿や赤坂でクラブを開業、そこのママ稼業を頑張っていたが数年前に引退、いまや悠々自適の身である。雨宮先生は内定していた就職先を辞退、司法試験に挑戦し見事合格、検事に任官の後、弁護士に転身した。岡さんは就職先を百貨店に絞り、念願の伊勢丹に入社、親の介護で60歳で定年退職した。私は過激な学生運動に参加、逮捕起訴されたこともあって彼らとは違った人生を歩むことになるのだが、このところ彼らと呑むことが多い。
西新橋の弁護士ビルの雨宮先生の事務所からタクシーで浅草公会堂へ。タクシー代は雨宮先生持ち。公会堂はすでに和服で着飾ったご婦人や恰幅のいい紳士たちでにぎわっていた。ほどなくして岡さんも到着、1階席はほぼ満席だったので2階席に向かう。第2回浅草会ということで、浅草、向島、八王子の芸者衆の踊りがメインで、関さんの三味線はその伴奏というわけだ。料亭に芸者を呼んで酒を呑んだら一人何万円も請求されるところだろうが、この会のチケットは1枚5000円。これで芸者衆の踊りと浅草の幇間芸を楽しめるのだからまぁリーゾナブルというべきか。終って雷門そばの蕎麦屋「満留賀」で一杯。私と岡さんは銀座線で上野へ。銀座線ではなぜか映画の「ゴジラ」の話になって、岡さんは「ゴジラの第1作は反核の映画だったんだ」といろいろ解説してくれた。

4月某日
「プラスチックの祈り」(白石一文 朝日新聞出版 2019年2月)を図書館で借りて読む。ハードカバー本文643ページの大著。通勤の時間と朝1時間の読書で3日で読了。内容が「謎解き」めいていて面白かったことにもよる。主人公は作家の姫野伸昌、福岡の海洋時代小説家の息子で、早稲田大学卒業後大手の出版社に勤務、その後作家デビュー。こうなると姫野は作者、白石の分身と思わせれる。白石の父は海洋時代小説家で直木賞作家の白石一郎。白石は早稲田大学政経学部卒業後、文藝春秋社に入社している。だからこの小説が私小説かというとそれは全く違う。主人公の作家の肉体の一部がプラスチック化するという破天荒な話からストーリーは始まる。荒唐無稽な話ではあっても読者をひきつけるのは白石の作家としての力量のなせる技だと思う。姫野は愛する妻、小雪を失ってから酒浸りの生活を送っているのだが…。この小説のテーマのひとつは人間の記憶だ。それから人間の存在の危うさ、儚さといったところか。飯田橋の居酒屋「てっちゃん」で知り合った村正は、ぼんちりの串を一本取り上げ「このぼんちりの串が本当にあるかどうかだってわからない。僕や姫野さんがあると思い込んでるだけなのかもしれない。物事なんてのは、結局、全部そうなんだと僕は思うんです。全部思っているだけでね」と語る。「我思う故に我あり」(デカルト)の世界ですね。小説の最後では、東京の街全体がプラスチック化され、「『私』はその荘厳な景色に見とれながら、小さな声で祈りをささげる。物語よ、終われ。そして始まれ」で終わる。物語全体が「死と再生の物語」と読めなくもないのである。

4月某日
明日から10連休。「竹下さんを偲ぶ会」で受付をやってくれた香川さん、司会をやってくれた落合さん、カメラマンをやってくれた浜尾さんと夕食を一緒にすることに。お店はこのところ大谷さんとよく行っている千代田線町屋駅から直通の「ときわ食堂」。17時30分スタートなので5分ほど前に町屋駅に着くと、香川さんがいた。同じ電車だったらしい。生ビールとウーロン茶で乾杯。少し遅れて浜尾さんが到着。香川さんがフリーライター、浜尾さんはフリーの編集者だが、落合さんは高齢者住宅財団の企画部長。財団の仕事の関係で18時過ぎに到着。改めて乾杯。私だけが男子(といってもジジイですが)で、残り3人は女子。女子会にジジイが参加したようなものだが、違和感なし!終わって落合さんは都電で王子経由、香川さんと浜尾さんは千代田線で表参道方面、私は我孫子へとそれぞれの家路へ。

4月某日
「世界史の実験」(柄谷行人 岩波新書 2019年2月)を読む。柄谷行人の書物は難解なんだよねぇ。柄谷は東大の学部では経済学を専攻し大学院は英文科に進んだ。夏目漱石論で群像新人文学賞(評論部門)を受賞した後、文芸批評家として世に出た。しかし文学評論では物足りなくなった柄谷は「マルクスその可能性の中心」と「柳田国男論」の雑誌連載をほぼ同時に行う。マルクスの足跡は革命家としてのそれを別にしても、経済学、哲学を幅広く覆っている。柳田国男だって農商務官僚から内閣書記官長という官僚のトップにのぼりつめる一方で、日本の民俗学の草分けともなる。マルクスと柳田を同時にほぼ論及するというのはかなりの力量が無ければできないことだし、知識のストックが無ければできないことだ。柄谷の文章が難解であるのはそうしたことに依るのかもしれない。だけど本書は比較的平易、文体も「ですます調」で読みやすかった。本書は主として柳田国男について書かれているのだが、柳田に付随するかたちで島崎藤村にも触れられている。柳田も島崎も父は平田篤胤の流れを汲む国学者であり神官であった。島崎の父は「夜明け前」の主人公、青山半蔵のモデルであることは知られている。童謡の「椰子の実」の作詞は島崎だが、「名も知らぬ遠き島より流れ来る椰子の実」の着想は柳田である。私は本書の本筋とはやや外れる叙述に心が魅かれた。第一次世界大戦後、二つの社会を変革する実験が行われた。ロシヤ革命と国際連盟の創設で前者はマルクスの、後者はカントの理念に基づいてのものである。マルクスは来るべき革命は一国で開始されるにしても世界革命として波及していくだろうと予想した。それはレーニンらのボルシェビキも同様で、ソ連の正式名称、ソビエト社会主義共和国連邦に「ロシヤ」という地名がないことからも明らかだ。連邦のロシヤ語のサユーズは「同盟」の意味で「ソビエトに基礎を置く社会主義共和国の同盟」ということだ。革命の進展に応じてドイツ、フランス、英国が社会主義共和国の同盟に加盟するというイメージだったのだろう。ドイツ革命が敗北し、さらにレーニン死後、スターリンはソ連一国社会主義の建設に傾斜していくのだが。それはまた別の話であった。

4月某日
「憲法の無意識」(柄谷行人 岩波新書 2016年4月)を読む。非常に面白く読んだのだけれど、内容を要約するのはかなり難しい。私なりに乱暴に要約してしまうと、憲法が戦後守られてきたのは国民が意識的に守ってきたものではなく、「無意識」のレベルで守られてきたということになる。憲法は明らかに占領軍によって起草されたが、その事実は占領軍の民間検閲局(CCD)の「検閲」により隠蔽される(江藤淳)。柄谷は「検閲」をフロイトの理論により掘り下げる。憲法9条には「戦争を忌避する強い倫理的な意志がある」が、しかし9条は日本国民の自発的な意志ではなく占領軍に押しつけられたものだ。柄谷はこれをフロイトを引用しつつ、先ず、外部の力(占領軍)による戦争(攻撃性)の断念があり、それが国民の良心(超自我)を生みだし、さらにそれが戦争の断念をいっそう求めることになったという構図だ。柄谷は「憲法9条は、日本人の集団的自我であり、『文化』です。(中略)それは意識的に伝えることができないとの同様に、意識的に取り除くこともできません」と述べる。つまり「憲法の無意識」である。
今日で「平成」が終わり明日から「令和」がはじまる。テレビは2、3日前から平静を振り返る特番を流している。皇太子時代も含めて天皇と皇后には「お疲れさんでした」とねぎらいたい。