モリちゃんの酒中日記 8月その4

8月某日
大木毅という人の書いた「独ソ戦-絶滅戦争の惨禍」(岩波新書 2019年7月)を読む。これがなかなか面白かった。独ソ戦とは1941年6月から45年5月まで4年にわたって戦われたドイツとソ連との文字通りの死闘のことである。著者の大木は膨大な資料を読みこなしてその実情に迫る。巻末の「文献解題」に参照、引用した資料が紹介されているが、邦訳されているものだけでなく、英語、ドイツ語、ロシア語の文献にまで及んでいる。独ソ戦は戦いの当初こそドイツ軍がその機動力にものを言わせてソ連軍を圧倒するが、やがてソ連軍の物量と極めて戦略的な作戦そして「大祖国防衛戦争」というイデオロギーによる国民総動員によってドイツ軍を追い詰めていく。そこらへんの描写がたいへん巧みで読者を飽きさせない。
本書によると1937年から38年のスターリンの大粛清によりソ連軍の34301名の将校が逮捕、もしくは追放され、そのうち22705名は銃殺されるか行方不明になっている。このため一時期、ソ連軍は弱体化していたともみられるが、それを補ったひとつがソ連軍の「用兵思想」である。この思想を完成させたのがトゥハチェフスキー元帥で、彼は「現代の戦争は規模と激烈さにおいて第1次世界大戦を上回る消耗戦になると解釈し、それに勝利するためには、無停止の連続攻勢を行い、戦略的な広域レベルで突破が必要不可欠であると考えた」。そのためには空軍、戦車、機械化部隊、空挺部隊といった新しい時代の軍備が必要と説いたという。彼の思想を概念化・言語化したのが1936年の「赤軍野戦教令」で大木によるとまず、戦争目的を定め、国家のリソースを戦略化するのが「戦略」で、作戦術はその目的を達成すべく、戦線各方面に「作戦」を、相互に連関するように配するということになる。
なるほどねー。1939年の満蒙国境のノモンハン事件で日本陸軍がソ連軍にかなわなかったのもうなづけるものがある。
著者の大木毅(たけし)という人は巻末の著者紹介によると1969年生まれ。立教大学大学院後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在著述業となっている。ウィキペディアで大木毅を検索すると赤城毅(つよし)が出てきて「日本の小説家、軍事史研究者、翻訳家、本名は大木毅」とあった。帝都探偵物語、ノルマルク戦史などの小説も書いているそうだ。文章に迫力が感じられるもんなぁ。

8月某日
上野駅の公園口でフリーライターの香川さんと待ち合わせて西洋美術館に「松方コレクション展」を観に行く。もともと西洋美術館の収蔵美術品は松方コレクションがもとになっている。ロダンの「考える人」や「地獄門」が名高い。松方という人は名門の家に生まれ若くして造船会社を興し、第1次世界大戦で巨万の富を得、それを元手にヨーロッパで多数の美術品を購入した。クロード・モネの「睡蓮」はじめ名画をたくさん鑑賞できたが、どうも蒐集にあまり一貫性が感じられず私など素人にはちょいとつらかった。見終わって御徒町まで歩き、「吉池食堂」で食事。

8月某日
「茗荷谷の猫」(木内昇 平凡社 2008年9月)を読む。木内昇は「きうち・のぼり」と読んで女性である。日経新聞に「万波を翔ける」という幕末を舞台にした小説を何年か前に連載していたが、しっかりとした時代考証とストーリーの展開が面白く愛読していた。「茗荷谷の猫」は9編の短編が収められているが、9つの短編が幕末から昭和にかけての江戸・東京を舞台にしていて、各短編が舞台=住居を軸に連関しているという凝った構成になっている。うーん、「凝った構成」という自覚がなく読み始めたものだから最初は「何が面白いのか?」と思ったが、読み進むうちに「これは!」と感動に代わっていく。木内昇は1969年生まれだから今年50歳、これからが楽しみな作家である。

8月某日
橋本治の遺作となった「黄金夜界」(中央公論新社 2019年7月)を読む。尾崎紅葉の「金色夜叉」の現代版で主人公名前の間寛一はそのままだが、ヒロインの宮は同音の美弥に改められている。さすがにヒロインが宮では古すぎる。両親が亡くなった寛一は、父親同士が親友だった美弥の家に引き取られる。美弥の父、鴫沢隆三は高輪で老舗のレストランを経営しているがバブルがはじけて以来客足は減ってきている。東大に進学した寛一と美弥は愛し合うようになり、鴫沢はレストランの後継者に寛一を据えようと思う。そこに登場するのがIT経営者の富山で、美弥の美貌に心を奪われた富山は美弥に求婚する。「金色夜叉」での富山の職業は高利貸しだが、現代版ではIT長者なのだ。美弥は富山の求婚に応じるがその時点で、寛一は愛と同時に居場所さえも失う。寛一は川口に本店のある居酒屋チェーン店に就職し、「東大中退」のイケメン店長として居酒屋チェーンの拡大に貢献する。桐野夏生の小説を「現代のプロレタリア文学」と評したのは政治思想家の白井聡だが、私は「黄金夜界」にも現代のプロレタリア文学を感じた。寛一を引き取った鴫沢家は高輪でレストランを経営するプチブルジョアジーである。そこに居場所を失った寛一は「失うべきものを持たない」プロレタリアートに転落する。一方の美弥はIT長者と結婚、新興ブルジョアジーの仲間入りを果たす。現代の富と貧困を描いて橋本の筆は冴えまくる。橋本は確か私と同じ昭和23年生まれ、今年5月に亡くなった文芸評論家の加藤典洋も同年。昨年亡くなった竹下隆夫さんも昭和23年生まれで70歳だった。

8月某日
医療介護福祉政策研究フォーラムの中村秀一理事長と単行本の打ち合わせ。終った後晩ごはんをご馳走してくれるというので、蕎麦を希望。近くの「砂場」に連れて行ってもらう。中村さんは夏休みに奥さんとオーストリアに行ったそうだ。人口は890万人ほどで日本の10分の1以下だが、かつてはヨーロッパの強国でナポレオン失脚後のヨーロッパの新秩序を議題に「ウィーン会議」が開かれたのは首都のウィーン。経済学のハイエク等のウィーン学派、精神分析ではフロイトなどが、音楽ではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン等をウィーン楽派と呼ぶらしい。映画「サウンドオブミュージック」はナチスドイツに併合されたオーストリアからスイス経由でアメリカへ逃れる音楽家一家の話だった(多分?)。

8月某日
(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長に荻窪でご馳走になることに。吉武民樹さんに「石川さんにご馳走になる」と言ったら「俺も行く」と。荻窪駅前の「源氏」というお店で待ち合わせ。カツオのタタキや刺身の盛り合わせを肴に日本酒を頂く。美味しい日本酒を何種類か頼んだのだが銘柄名を忘れてしまった。楽しく呑めればそれでいいのだが、折角だから銘柄名くらいメモしなさいよ。

8月某日
「資本主義と民主主義の終焉-平成の政治と経済を読み解く」(水野和夫・山口二郎 祥伝社 2019年5月)を読む。2人とも現在は法政大学法学部教授で水野は民主党政権下で内閣府の審議官を務めたし、山口は旧民主党のブレーンにして応援団。したがってアベノミクスには極めて批判的。安倍首相がアベノミクスの成果として失業率の低下と有効求人倍率の上昇を挙げるのに対して水野は、「単純計算ですが、各学年で200万人もいる団塊の人たちが引退して、120万人しかいない新卒者が就職するのですから、どう考えたって有効求人倍率は上がっていきます」とバッサリ。消費税についても水野は増税の先送りはナンセンスとしつつも「消費税で財政赤字の全部を埋めるというのは、実に安直」「消費税は若年層にも所得の少ない人にも税率は一律ですから、消費税を上げるなら、高額所得者への累進課税と同時に行わなければ、不公平感は募るでしょう」と言う。山口は平成という時代を総括して「理想が終わった時代」「戦後が終わった時代」「発展が終わった時代」の3つの側面を挙げる。平成のスタートした年はベルリンの壁が崩壊した年で、明るい希望を持たせたのだが、湾岸戦争やユーゴ紛争など地域紛争が続発、国内政治では政治改革や民主党政権が登場したものの結局は元の木阿弥、前よりも悪くなったと見る。「戦後が終わった」では野中広務らの戦争経験者の政界引退により、自民党の歴史修正主義に対する歯止めが利かなくなったとする。「発展が終わった」では経済の衰退に「呼応するかのように、自民党だけでなく、社会全体にみずからを慰めるようなナショナリズムが頭をもたげてきました」と述べる。2人の話はなるほどと思わざるを得ないではないか。

モリちゃんの酒中日記 8月その3

8月某日
図書館で借りた絲山秋子の「絲的ココロエ―『気の持ちよう』では治せない」(日本評論社 2019年3月)を読む。知らなかったけれど、絲山秋子って双極性障害(躁うつ病のことを最近はこう呼ぶらしい)だったんだ。自殺未遂の経験も5カ月間の入院生活を送ったことも初めて知った。30代前半にはじめの発病をしたというから双極性障害は20年に及ぶわけだ。私も30代後半から50代前半にかけて何度かうつ病に苦しめられた。「苦しめられた」と書くと一方的に被害者のようだが、この本を読んで「あぁ、家族や同僚、友人に迷惑をかけていたんだ」と思った。文中にリーマスや炭酸リチウムといった薬の名前が出てくるが、私も同じような名前のくすりを服薬した記憶がある。私が最後に発病したのが40代半ばだと思うが、確か湯島の心療内科の女医さんに診てもらった。処方された薬も全く効かず、私の奥さんがネットで赤坂クリニックを見つけ、そこを受診することにした。そこで処方された薬を2~3週間飲んだら「霧が晴れるように」気分が良くなったことを記憶している。それでも5年くらい赤坂クリニックに通ったのかもしれない。佐々木先生という東大の精神科の医者が主治医だったが、毎回、「お酒の飲み過ぎはダメですよ」と注意されたことを思い出す。後半は仕事の息抜きに受診していたかも。赤坂クリニックには自然と足が遠のいてしまったが、その後全く「うつ」の症状は現れない。ということを懐かしく思い出させてくれた「絲的ココロエ」であった。

8月某日
我孫子市民図書館にはお世話になりっ放し。何しろわが家から徒歩5分という立地条件!さらに冷暖房完備!涼みに図書館を利用するという手もありなのだ。さらに「リサイクル本」といって図書館は「不要」と判断した本は図書館の入り口付近の棚に置かれ、必要な人が持って行っていいことになっているのだ。先日、涼みがてら市民図書館に行ったら井上荒野の「切羽へ」(新潮社 2008年5月)がリサイクル本になっていたのでありがたく頂戴することに。帯に「直木賞受賞」と大きな活字で印刷され、さらに「「切羽」とはそれ以上先へは進めない場所。宿命の出会いに揺れる女と男を、緻密な筆に描ききった哀感あふれる恋愛小説」というコピーが。「切羽」は「きりは」と読むがネットで調べると「坑道の先端」の意味という。井上荒野の父親は小説家の井上光晴で彼は確か炭鉱夫の経験があるから、こんなところに父親の影響が出ているのかもしれない。「切羽」また「せっぱ」という読み方もできる。こちらもネットで調べると「日本刀の鍔(つば)の両面に添える薄い楕円形の金物のことで、これが詰まると刀が抜けなくなる」と解説、さらに「これが詰まると刀が抜けなくなる。窮地に追い詰められた時に切羽が詰まると、逃げることも刀を抜くことも出来なる」として「切羽詰まる」の意味を「為す術が無くなる意味となった」と説明している。ところで小説の「切羽」は南の離島の児童数9人の小学校の養護教員の「私」が主人公。長崎弁に似た方言を使っているので五島列島当たりが舞台か。画家の夫、小学校の同僚の「月江」、「月江」の不倫相手の「本土さん」(本土に住んでいるから島の人から本土さんと呼ばれている)、さらに新任の音楽教師などが織りなす濃厚で、それでいてどこか牧歌的(南方的?)な人間関係が読みどころである。

8月某日 
毎年、終戦記念日前後には70数年前の太平洋戦争を巡るドキュメントがテレビで放映される。今年はインパール作戦を描いたNHKBSテレビのドキュメントが良かった。90歳を超える当時の兵隊さんが口ごもりながら戦争の悲惨さを訴えていたのが印象的であった。現場で指揮した第31師団長の佐藤幸徳中将は、現状を正確に認識して、「作戦継続は困難」と判断してたびたび進言するが、第15軍の牟田口廉也中将に拒絶される。佐藤中将は日記に大本営、参謀本部、南方方面軍、第15軍を一括して「馬鹿の四乗」と記している。私はここに戦場のなかにあっても冷静さを失わない佐藤中将のユーモアを感じるのだけれど。それとBS日本テレビでは「ラストエンペラー」を放映していた。1987年公開だから今から30年以上前である。どうりで満映理事長の甘粕を演じた坂本龍一の若いこと。この映画は清朝最後の皇帝にして満州国の最初で最後の皇帝となった愛新覚羅溥儀の誕生から文化大革命さなかの死までが描かれる。溥儀は日本の敗戦とともに中国共産党軍に身柄を拘束され思想改造を命じられる。溥儀と刑務所長の友情も後半の主要なテーマになっていて、文革のデモの渦中に糾弾される刑務所長に駆け寄り「この人はいい人なんです!」と叫ぶ溥儀が描かれる。「お前は誰だ!」とデモ隊のリーダーに問われ、「ガードナー(庭師)」と答える溥儀がいい。

8月某日
半藤一利の「『昭和天皇実録』にみる開戦と終戦」(岩波ブックレット 2015年8月)を読む。半藤は文藝春秋や週刊文春の編集長を務め、文芸春秋社の専務で退社、「歴史探偵」を名乗り日本の近現代史に関する著作が多い。歴史的事実に立脚しつつ文献のみでは分からない登場人物の心理を読み取るのが巧みである、と私は思っている。純粋な歴史学とは距離をおきつつ歴史ドキュメントを志向していると言ってよいのではないか。ただ東大の加藤陽子との共著もあり、半藤の学識や直感には加藤教授も一目置いているのである。本書は「昭和天皇実録」から開戦時と終戦時の昭和天皇とその周辺の言動を明らかにしつつ、開戦と終戦はどのような過程を経て決断されたかをたどったものである。戦前の天皇は絶対的な権力を握っていたように思われるが実態は違っていた。昭和天皇は戦後になって「国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを掣肘することは許されない」と語っている。だから御前会議においても天皇は原則として発言しない。ポツダム宣言の受諾を決めた御前会議は例外であった。「実録」では天皇は「防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる。ついで、股肱の軍人から武器を取り上げ、臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる」と記されている。天皇以外の御前会議のメンバーには終戦の決断は出来なかったのである。

8月某日
夏休みを1週間取ったので久しぶりに西新橋のHCM社に出社。午後、大谷源一さんが来社。今日10時に全国社会福祉協議会の古都賢一副会長を一緒に訪問することになっていたのをすっかり忘れていました。「月見の会」の案内を全然、出していないので近所を一緒に回ることにする。先ずHCM社から徒歩数分の長寿社会開発センターへ。理事長の高井康行さんが打合せ中だったので大谷さんと旧知の薬師寺部長に案内の紙を渡す。次いで御成門のシルバーサービス振興会に久留善武さん、住宅保証機構に小川冨由さんを訪ねるが、いずれも外出中。芝公園の基金連合会の足利聖治さんにメールすると「どうぞお出で下さい」と返信があったので大谷さんと伺う。30分ほど話しをしていたら5時近くなったので帰ることにする。浜松町からJRで神田へ。「鳥千」に寄る。

モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
厚労省社会援護局の伊藤彰浩課長補佐が亡くなった。伊藤さんが阿曽沼真司次官の書記をやっている時からの付き合い。いつもニコニコとして人間的な温かさを感じさせる人だった。がんを患って入退院を繰り返していたようだ。大谷源一さんから連絡があり、蓮根の葬祭場で行われた通夜に出席する。自分より年齢の若い人の死は辛い。蓮根からバスで赤羽へ。赤羽で大谷さんと呑む。携帯で久しぶりに阿曽沼さんと話す。我孫子へ帰って「愛花」に寄ると常連さんが何人かいた。

8月某日
「新版 障害者の経済学」(中島隆信 東洋経済新報社 2018年4月)を読む。前に旧版の「障害者の経済学」を読んで、私の障害者に対する考え方を修正させられた思いがあるので「社保研ティラーレ」の佐藤社長にお願いして買ってもらった。なんで佐藤社長かというと、社保研ティラーレの主催する地方議員向けの「地方から考える社会保障フォーラム」の次回の講師に中島さんを予定しているからだ。旧版は2006年の出版だから10年以上も前である。中島さんは「はしがき」で「『障害者総合支援法』や『障害者差別解消法』など法整備が進み」「10年間の新たな変化を踏まえ、今回の『新版 障害者の経済学』が誕生した」としている。今回もたいへん多くのことに「なるほど」と思ったわけだが、その一つが「医学モデル」「社会モデル」の考え方。日本は視力、聴力、知力、運動能力などが一定の基準を満たさなければ障害者として認定される。その判断をするのは医師であることから、こうした障害の定義づけを「医学モデル」という。一方、車椅子利用者にとって日本の社会は不自由極まりないが、今後、社会全体のバリアフリー化が徹底されれば、障害者でなくなる日が来るかもしれない。こうした障害の原因が機能不全ではなく、社会にあるという考え方を傷害の「社会モデル」という。「社会モデル」の考え方に立脚すれば、障害者を固定的に捉えるのではなく、障害者にとっても健常者にとっても暮らしやすい社会づくりを目指すことになると思う。

8月某日
図書館で借りた「江藤淳は甦る」(平山周吉 新潮社 2019年4月)を読む。四六判で本文が760ページを超える大部な本だが江藤淳という複雑な個性を証言と資料によって炙り出したもので、夏休みの4日を掛けて読み通した。それほど面白かったということである。内容を要約するのは私の手に余る。そこで本書を江藤の住まいという観点から見てみる。江藤の自筆年表によると昭和8(1933)年12月25日、東京都豊多摩郡大久保町字百人町309番地に生る。江頭隆の長男、淳夫と命名さる。父は海軍中将江頭安太郎の長男、三井銀行本店営業部勤務。母廣子は海軍少将宮路民三郎の次女となっている。この自筆年表の生年は事実と異なり江藤は昭和7年生まれである。結核により高校を休学し学年が遅れたことを隠したかったようだ。それはさておき大久保の百人町は戦前の屋敷町であった。海軍中将の祖父が入手したものである。祖父は大正2年に49歳で亡くなっている。佐賀中学、海軍兵学校、海軍大学校と首席を続けた秀才だった。祖父の死亡記事に「記録破りの昇級」とあるように49歳で中将というのは異例だったのだろう。戦前は役人は厚遇され民間に年金制度が導入される以前から退職者には恩給が支給されていた。なかでも軍人は軍人恩給によって遺族の生活が保障されていた。江藤の祖父は中将まで昇進しているから軍人恩給もそれなりに支給されていたと思われ、三井銀行勤務の父の給与と合わせれば十分に百人町の屋敷は維持できたと思われる。
 百人町の屋敷で最愛の母を27歳で亡くしている。父は後添いを貰うのだが、江藤は義母千江子の提唱で昭和16年9月、義祖父の鎌倉の隠居所に転地させられる。昭和19年に父は鎌倉極楽寺に別宅を構え、百人町の屋敷はそのままに一家は鎌倉に転居する。百人町の家は昭和20年5月25日の山ノ手大空襲で焼失する。昭和23年春、江藤は北区十条の三井銀行の社宅に転居、学校も湘南中学から都立一中(日比谷高校)に転校する。祖母も亡くなり軍人恩給も停止され、社宅に住まわざるを得なかったのであろう。十条には昭和30年に父親が練馬区関町に新居を建築するまで住んでいたから、日比谷高校、慶應大学も十条から通ったことになる。江藤は十条の7年間を「穢土」と感じたとエッセーに記しているようだが、百人町の屋敷町や鎌倉で育った江藤はそう感じたかもしれない。私からすれば東京の下町なのだが。江藤は昭和32年に大学1年生のときの同級生、慶子夫人と結婚し吉祥寺駅南口の鉄筋アパートで新婚生活を送る。その後下目黒や麻布笄町(今の西麻布)の邸宅へ転居するが、屋敷の主が外国にいるので「留守番」役だった。昭和39年、市ヶ谷の分譲マンションを購入しここには1982年に鎌倉西御門に新居を建てるまで住むことになる。新宿に「ジャックと豆の木」というクラブがあったが、ここのマスターの三輪さんが慶應文学部出身で「江藤先生の市ヶ谷の家に行ったことがある」と話していたっけ。
「江藤淳は甦る」は全体で45章で構成されているがこのうち2章は吉本隆明に費やされている。第23章60年安保の「市民」江藤淳と「大衆」吉本隆明と第38章「儒教的老荘」吉本隆明vs.「老荘的儒教」江藤淳である。江藤は体制派、保守派のイメージが強いし事実、佐藤首相や福田首相に信頼されていたらしいが、吉本とは互いに認め合う関係だった。吉本は江藤への追悼文で江藤が雑談のなかで「僕が死んだら線香の一本も上げてください」と語ったエピソードをあげ「この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたらこれ幸いに過ぎることはない」と結んでいる。飾らない吉本らしいいい文章である。住居で言えば、十条以外は鎌倉、市ヶ谷、吉祥寺と山ノ手派だった江藤に対して吉本は佃に生まれ御徒町や駒込と終生下町派であった。この対比も面白い。

8月某日
青海社の工藤社長と大阪日帰り出張。松戸リハビリテーション病院に入院している工藤さんとは、私が我孫子から上野東京ラインのグリーン車に乗車、同じ車両に松戸駅で工藤さんが乗車することでドッキング。病院の医師もOT、PTも大阪行きに反対だったと工藤さん。当たり前である。大阪出張は厚労省委託の「がん総合相談に関わる者に対する研修事業」の「手引き」作成の会議に参加するため。新大阪駅には工藤さんの息子さんで理学療法士の啓太君が迎えに来てくれていた。啓太君は普段は熱海で活動しているが今日はお父さんの付き添いということだ。予定の3時間で会議を終え、新大阪の駅構内の居酒屋で3人で軽く一杯。熱海へ帰る啓太君と別れて我々は「のぞみ」で東京へ。品川駅で降りて行きと同じように上野東京ラインのグリーン車に乗車、ワンカップ大関を呑む。松戸駅で工藤社長は下車、私は我孫子へ。「愛花」へも寄らずタクシーで自宅へ。ウイスキーを呑んで爆睡。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
神田の「鳥千」で大谷源一さんと神山弓子さんと呑む。金曜日なのでほぼ満席。神山さんから神山さんの故郷、石巻の銘酒「勝山」を頂く。

8月某日
「執念深い貧乏性」(栗原康 文藝春秋 2019年4月)を読む。栗原の本を読むのは「村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝」「死してなお踊れ-一遍上人伝」「アナキズム-一丸となってバラバラに生きろ」に続いて4冊目。今まで読んだ3冊はいずれも書下ろしだが今回のは「文學界」(2017年5月号~2018年4月号)に連載されたものをまとめたもの。栗原はアナーキストを自ら認めていることもあって書いていることは、世間一般の常識からするとかなり過激。だけどそこがいいと言う読者(私もその一人)もかなりいるのでは。今回の参院選で令和新選組が2議席獲得したこととも似通っているように感じる。栗原は高校生の頃、大杉栄の著作を読みアナキズムに魅かれる。早稲田の政経学部から大学院の博士課程に進み、まじめな研究者になろうと思ったが、研究室の権威的な体質に馴染めず現在の肩書は山形県にある東北芸術工科大学の非常勤講師。非常勤講師というのはかなり悲惨な待遇で、常勤講師になると年収800万円くらいになるらしいのだが非常勤講師だと年収300万円がいいところらしい。で大学院では栗原も日本学生支援機構から奨学金を受けるのだが、それが635万円。月5000円の返済で105年かかるという。このように連載のテーマは多岐にわたるのだが、栗原の読書量は半端ではない。平岡正明の著作を全部読もうと思っているそうだが、平岡正明は50年前、私が大学生だったころ一部の若い人たちに熱狂的に支持された思想家というか活動家だった。もう死んだと思うけれど、一時は竹中労、太田竜と3人で「ゲバリスト」「世界革命浪人」を自称していた。栗原は1979年生まれ。私の息子たちと同じ世代だが、何か惹かれるものがある。

8月某日
愛知県内で開催されている「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止された。「表現の不自由展」には慰安婦を表現した少女像などが展示され、それに対する抗議電話が殺到したためと言われる。朝日新聞によると、企画展の会場には少女像や憲法9条をテーマにした俳句、天皇に関する作品など、各地の美術館から撤去されるなどした20数点を展示していた。まさに「表現の不自由」がこの日本で大手を振っていることを象徴している事件と思う。美術館から撤去されるという作品はどのような作品なのか、撤去という美術館の判断は正しかったのか、市民が企画展を観ることによって判断すればいいだけの話ではないか。企画展を中止した実行委員会の判断は苦渋の選択だと思うが、それにしてもこの国の「言論・表現の自由」は危機に瀕している。

8月某日
「柄谷行人 中上健次全対話」(講談社文芸文庫 2011年4月)を読む。中上健次は私が30代から40代によく読んだ作家だ。「19歳の地図」とか「枯木灘」「蛇淫」などだ。都会の根なし草的な雰囲気と和歌山新宮の路地の土着的な雰囲気を併せ持つ魅力的な作家だった。冬樹社の編集長だった竹下隆夫さんと知り合って、竹下さんが中上健次と親しかったことを聞いたころはあまり中上の小説を読まなくなっていたかも知れない。中上は1946年、和歌山県生まれ。新宮高校卒業後、大学に行かずフーテン生活を送りながら小説修業をする。「路地の消滅と滅亡」という最後の対談では中上がと柄谷がこの頃を振り返っている。「柄谷 早稲田の学生運動に、偽学生みたいに紛れ込んだ時期があるでしょう。中上 それは10.8の羽田に僕が行く前か、羽田闘争のときは何年だっけ?」という会話が交わされ、当時、中上が早稲田の法学部の地下に会った社学同の拠点に出入りし、のちに共産同戦旗派の指導者になった荒袋介とも交流が会ったことが明らかにされている。柄谷は1941年、兵庫県生まれ。60年安保のときは東大で安保闘争を経験、経済学部を卒業後、東大大学院英文学修士課程修了。2人の出会いは1968年、遠藤周作が編集長をつとめる「三田文学」編集室、それ以来、2人の付き合いは1992年の中上の死去まで続く。この対談集を読んでいまさらのように驚くのは中上の読書量。それも小説だけではなくデリダなどの現代思想にまで及んでいる。こういう小説家は今はいない。柄谷は今年78歳、評論活動は健在で私も今年、柳田国男論や憲法論を新書で読んだ記憶がある。

モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
伊藤允博さんと神田の「跳人」で17時30分に待ち合わせ。伊藤さんとの出会いは私が「日本プレハブ新聞」という住宅業界の業界紙の記者をしていた頃だから、35年以上前になる。伊藤さんは住宅展示場を運営していた「ナショナル開発」という会社にいて、プレハブ新聞に広告を出してくれていた。伊藤さんと久しぶりに「呑もう」となったのは私が「バブル経済事件の深層」(岩波新書)を読んで、そこに高橋治則のことが書かれていたからだ。高橋治則と言っても現在は知る人も少ないだろうが、高橋はバブル期に日本長期信用銀行から金を引き出しオーストラリアや南太平洋の開発に乗り出した。結局、長銀から見放されて高橋は破綻するのだが、伊藤さんはナショナル開発の後、高橋の事業を手伝っていたことがある。確かオーストラリアにあるボンド大学の日本の事務局長とか、インドネシア旅行社という会社にも関係していたと思う。こう書くと伊藤さんはバブル紳士のいかがわしい人物と思われがちかもしれないが、私の知る伊藤さんは物腰の柔らかいジェントルマンである。伊藤さんによると、学生時代に日本航空でアルバイトしたときに日本航空の社員だった高橋と知り合ったらしい。

7月某日
乃南アサの「女刑事 音道貴子」シリーズにはまっている。最初に読んだのが「花散る頃の殺人」(新潮文庫 平成21年2月)、次いで「風の墓碑銘(上下)」(同 平成21年1月、2月)。この3冊は我孫子市民図書館で借りたが、「嗤う闇」(同 平成18年11月)は図書館に行く暇がなかったので上野駅構内にある書店で購入した。乃南アサは何冊か読んで面白かったのだが、続けて読むことはなかった。女刑事の音道貴子を主人公にしたこのシリーズは男社会の警察で至極真面目に事件に取り組む主人公の姿勢に好感が持てるし、背が高くオートバイを乗り回す活動的な一面とバツイチ、短い結婚生活を経験しているという設定も小説に陰影を与えていると思う。音道刑事の脇を固める警察官もなかなかに多士済々。停年も近いと思われる老刑事、滝沢や沖縄出身で京大農学部出身のノンキャリア、玉城警部補の性格設定も興味深い。音道と付き合っている椅子職人の昂一との将来はどうなるか?要するに登場人物が魅了的なんだろうな。女刑事シリーズの第一作目で直木賞受賞作ともなった「凍える牙」を早く読まねば。

7月某日
「ニワトリは一度だけ飛べる」(重松清 朝日文庫 2019年3月)を読む。文庫本の扉裏に「本書は「週刊朝日」2002年9月13日号から2003年3月7日号に連載された「ニワトリは一度だけ飛べる」を加筆修正したものです」と断り書きが記されている。重松清の小説ってたとえて言うとNHKのテレビドラマの原作が似合う。残虐シーンや愛欲シーンもないし、まぁホームドラマが基本だしね。主人公の酒井裕介は冷凍食品会社のサラリーマン。家族は妻と息子2人。妻の実家の母が倒れたのを期に実家を2世帯住宅に建て替えて同居することを迫られている。会社では営業2課から「イノベーション室」(通称イノ部屋)への異動を命じられる。「イノ部屋」はリストラ要員が集められる部署で裕介の同期で出世頭の羽村もなぜか異動されてくる。イノ部屋の室長、江崎は冴えない五十男で会社改革に乗り込んできた鎌田に頭が上がらない。実はこの江崎、かつては学生運動のリーダーで会社でも労働組合活動に積極的に取り組んできたのだが、長男が腎臓病を患ったことから一切の運動から身を引く。関西からイノ部屋に送り込まれた中川の内部告発を契機に、江崎はチェ・ゲバラの語録を暗唱するような闘士に変身、裕介や羽村、中川と協力して鎌田一派の追い落としに成功する。うーん、重松のこの小説は現代のお伽噺だね。でも世間はクソ暑く参議院選挙でも安倍自民党が勝利するとき、現代のお伽噺も悪くない。山本太郎の令和新選組のようなものである。

7月某日
フィスメックの小出社長から電話があり、山梨県の大月に住んでいるフリーの編集者、阿部孝嗣さんが出てくるので一緒に呑みましょうと言う。その前に虎ノ門フォーラムの中村秀一理事長から「ちょっと事務所に寄ってくれますか?」という電話。中村さんの厚生労働省時代を振り返ったオーラルヒストリーを単行本にしたいという。中村さんの本は以前に2冊ほど手掛けたことがあるのでもちろん快諾。編集を阿部孝嗣さんにお願いすることにする。17時にフィスメックで阿部さんと会うことにしたので、そこに印刷会社の金子さんも呼んで見積りも依頼する。小出さん、阿部さん、私の3人でフィスメックを出て、神田駅北口近くの「ふくの鳥」へ向かう。ここは私には初めての店だが美味しい日本酒を揃えている店だそうだ。しばらくして社会保険出版社の高本社長も合流。この店の基本は「焼き鳥屋」だが刺身も美味しかった。小出社長にすっかりご馳走になる。