モリちゃんの酒中日記 9月その4

9月某日
図書館で借りた「資本主義と闘った男-宇沢弘文と経済学の世界」(佐々木実 講談社 2019年3月)を読む。四六判で600ページを超える大著だが、宇沢弘文という人物の思想と行動が本人や同僚のインタビューや著作、論文を通じて浮かび上がらせた作品である。本書が成功しているのは著者の佐々木実の宇沢弘文への尊敬の念が、著述の底流に流れているためと思われる。私が宇沢の名前を知ったのは彼の社会的共通資本という考え方に出会ってからである。従って彼が世界的な数理経済学者であったこともノーベル経済学賞の候補であったことも知らないし、晩年、水俣病や成田空港問題に深く関わっていたことも本書を読んで知った。本書の前半は生い立ちから東大の数学科を出て大学院まで進むが、途中でその数学の才能を生かして理論経済学に転身し、アメリカのスタンフォード大学、シカゴ大学で国際的にも認められる数理経済学者に成長、ケネス・アロー、ジョセフ・スティグリッツ、ポール・サミュエルソン、ミルトン・フリードマンら著名な経済学者と交流してゆくまでが描かれる。東大時代にマルクス経済学の勉強会にも顔を出し、日本共産党の不破哲三らとも親交があったことが明かされる。またシカゴ大学ではベトナム反戦運動にも関わっていたことにも触れられている。前半は近代経済学説史外伝の様相を示すと同時に、世の中の矛盾と闘う経済学者としての宇沢の横顔を伝える。
後半は日本に帰国して東大経済学部に席を置き、水俣病や成田空港問題、地球温暖化対策に深く関わる一方、社会的共通資本の理論を深めていく宇沢の姿を描く。宇沢が東大に着任したのは1968年の4月で、前年の67年10月8日には羽田空港周辺で三派全学連がヘルメットとゲバ棒で武装し佐藤訪米阻止闘争を闘い、68年には東大、日大から始まった大学闘争が全国に波及していく。宇沢は学園闘争とは距離を置く一方、環境問題、公害問題に深く関わり始める。水俣の現場に足繁く通いながら東大工学部助手の宇井純、熊本大医学部の原田正純と交流らと交流を深める。宇沢が社会的共通資本について解説している文章を引用しよう。「社会的共通資本は、土地を始めとする、大気、土壌、水、森林、河川、海岸などの自然資本だけでなく、道路、上・下水道、公共的な交通機関、電力、通信施設、司法、教育、医療などの文化的制度、さらに金融・財政制度を含む」。社会資本や社会インフラという言葉よりも広く、概念的には「深い」。私の考えでは人間も含まれる「生きもの」が地球上で「快適に」過ごすための「社会的な」条件とでもいえる。様々な社会的な運動に関わった宇沢だが晩年は孤独だった。後継者を尋ねる著者に「日本にはいないし、海外にもいないんだよ」と語った宇沢の言葉が紹介されている。また浩子夫人は「宇沢は、ひとりぼっちでした」と証言している。「孤独」はしかし、宇沢の到達した地点の「高さ」を表しているようにも思われる。

9月某日
夜半に猛烈な吐き気に襲われ目を覚ます。ウゲーウゲーと胃の内容物をすべて吐き出す。リビングで起きていた奥さんが「大丈夫?救急車呼ぼうか?」と声を掛ける。私は前夜、北千住の居酒屋で食べた刺身に当たったと思い、「吐いてしまえばどうということはない」と答える。だが、吐き気は治まらず胃液のようなものが込み上げてくる。便意にも何度か襲われトイレに行くと水のような便が出る。2階の長男も心配して起きて来て「救急車を呼んだほうがいいよ」と言うが、これにも「病院が開いたら行くから」と断る。夜中の3時頃から2時間ほど七転八倒し、上と下から出すものはすべて出したうえで何とか眠りに着く。10時過ぎに目を覚ます。不快感は残るが吐き気と便意は去る。食欲は全くなし。入浴後、体重を図ると2キロ以上減っていた。青海社の工藤社長から「今日の角田さんの送別ランチ会は12時半から根津の『はん亭』です」というメールが来る。「真直ぐ会場に行きます」とメールを返す。車で駅まで送ってもらい千代田線で我孫子から根津へ。「はん亭」に行くと工藤社長と奥さんがすでに来ていた。「はん亭」は有名な串揚げ屋だが食欲がないので私だけ「お茶漬け」にしてもらう。お茶を飲みながら軽口を叩いていると気分がだんだん戻ってくる。工藤社長から角田さんへ花束とワインが送られ出席者全員で写真を撮って送別会は終了。私は根津から霞が関へ。HCM社に着くと大橋社長が「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれる。16時に三井住友あいおい生命の営業の人がHCM社に来る。生保商品の説明を受けた後、「今日は体調がすぐれませんから」と17時前にHCM社を出て家路に。

9月某日
気分は良好。お昼頃HCM社に出社、某氏から頼まれていた作業を2時間ほど。16時過ぎに社保険ティラーレへ。吉高会長と雑談。吉高さんは「この時間だからお茶よりこっちがいいでしょう」と缶酎ハイを出してくれる。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の例え通り缶酎ハイを2本頂く。社会保険出版社の戸田さんと17時50分に虎ノ門の郵政互助会館で待ち合わせているのでタクシーで郵政互助会館へ。戸田さんと一緒に医療介護福祉政策研究フォーラム理事長の中村秀一さんに面談。終わって戸田さんが「少し呑みましょうか」と言ってくれたので飯野ビル地下の信州のお酒が置いてある店へ。「真澄」を3杯程頂く。まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」である。霞が関から我孫子へ。

9月某日
「獅子吼」(浅田次郎 文春文庫 2018年12月)を読む。浅田次郎は1951(昭和26)年生まれだから私より3歳年少。高卒後、陸上自衛隊に入隊するが「大学受験に失敗して」説と「三島由紀夫事件に刺激されて」説があるようだ。浅田は自衛隊出身であるが反戦平和主義者でもある。「獅子吼」は6編の短編小説が納められていて、表題作の「獅子吼」は優れた反戦小説であると同時に私には近頃稀な動物愛護小説としても読めた。舞台は太平洋戦争末期の東北地方のある県の動物園。「農業と畜産で立っている県」で「沿岸の重工業地帯」は空爆と艦砲射撃によって連日のように叩かれていたというから岩手県であろう。小説中で話されている方言は浅田の「壬生義士伝」の南部藩出身の新選組隊士の話す言葉に似ている。おそらく動物園のある都市は盛岡で沿岸の重工業地帯とは釜石である。前置きが長くなったが一方の主人公は動物園のライオンであり、もう一方の主人公は農学校畜産科出身の騎兵連隊の新兵である。戦争末期に上野動物園の動物たちの悲劇は語り継がれているが、同じような話はどこの動物園でもあったらしい。盛岡の農学校に進学した貧しい学生たちには奨学金が支給された。奨学生には課外労働が義務付けられ畜産科の奨学生は動物園に通わされる。主人公のライオンと新兵は顔なじみであったのだ。空爆が盛岡にも及び動物園が破壊されることを恐れた当局は、ライオンの射殺を新兵に命じる。動物たちに喰わせよと残飯を新兵に与える食事担当の軍曹のセリフが泣かせる。「人間と人間の戦争なら、人間がいくら死んだって文句は言えめえが、なしてけだものが飢えて死なねばならねんだ。まして動物園さなぐなったら、子供らはどこさ遠足行くの」。

9月某日
10月1日から消費税が10%に引き上げられる。少子高齢化が続き労働力人口が減る一方で高齢者の人口は増えていく。引き上げは仕方ないし今後、低所得者対策をしっかりやったうえで15%までの引き上げはもとよりヨーロッパ並みの30%以上への引き上げも仕方がないのかなと思っていた、令和新選組の山本太郎の主張を知るまでは。山本太郎は消費税の廃止を訴える。いきなりの消費税の廃止は無理だとしても「所得の再分配」の観点から日本の税制全般を考え直すことは必要と思う。消費税は大衆課税であり所得の低い層に負担が重くなる「逆進性」も指摘されている。所得の高い層への所得税の強化、法人の内部留保への課税強化、相続税の課税範囲の拡大などがもっと考えられていい。そうすると高額所得者や企業は海外に逃げ出すという声も聞かれるが、そうならないように魅力的な情報・生活インフラ、芸術文化観光インフラを整備していくということではないのだろうか?

モリちゃんの酒中日記 9月その3

9月某日
図書館で借りた「レヴィナス入門」(熊野純彦 ちくま新書 1999年5月)を読む。熊野純彦という人の本を読むのは「資本論の哲学」に続いて2冊目。レヴィナス入門を書いたころは東北大学の助教授だったが、その後東大に移って確か文学部長もやっている筈。本書の「あとがき」で「私はもとよりレヴィナス研究者ではなく、フランス現代哲学研究者ですらない」と書いている。「じゃぁ何が専門なの?」と突っ込みたくなるが、昨年「本居宣長」(作品社)も上梓しており、マルクスからカント、ヘーゲル、本居宣長から和辻哲郎、埴谷雄高までととにかくフィールドの広い学者先生なのだ。本書は「入門」と銘打たれてはいるが、レヴィナスを齧ったこともない私には難解だった。レヴィナスの人物紹介による入門ではなく思想そのものに分け入っていく入門故なのだろう。しかし私はレヴィナスの人物紹介によって熊野純彦の「レヴィナス入門」を読んだ痕跡を残したいと思う。エマニュエル・レヴィナスは1905年にリトアニアのカナウスにユダヤ人の家庭に生まれた。第一次世界大戦によって一家はウクライナのハリコフに逃れる。やがてロシア革命。両親がユダヤ人でありブルジョアであったことから「革命が意味しているものが両親を脅えさせた」という。レヴィナスは1928年、ドイツのフライブルグに遊学、フッサールとハイデガーに学び、とくにハイデガーに強い影響を受けたようである。30年パリに移住し最初の著作を刊行、翌年フランスに帰化、40年ナチスのパリ侵攻のさい捕虜となり45年のパリ解放まで捕虜収容所に捕らわれる。61年国家博士号を取得し、ポワティエ大学助教授になり67年パリ第10大学、73年パリ第4大学の哲学科教授となる。76年退官し1995年に死去。熊野教授はレヴィナスの思想を丁寧に解説してくれるのだが、私には正直歯が立たない。しかし分からないなりにレヴィナスの性愛論や存在論には魅かれるものがあった。レヴィナスには再挑戦したいと思う。

9月某日
「火影に咲く」(木内昇 集英社 2018年6月)を読む。幕末の京都を舞台にした6編の短編が収められている。共通するのは「火影」。「灯火に照らされてできる影」のことだ。冒頭作の「紅蘭」は詩人梁川星厳の妻、紅蘭を主人公とし、「薄ら日」は池田屋事件で新選組の襲撃により重傷を負い、長州屋敷の門前までは逃れるもののそこで果てる吉田稔麿の生き方を綴る。「呑龍」は沖田総司と会津藩士の青年、労咳を病む総司と同病の老婆との交流が描かれる。「春疾風」は祇園の芸子、君尾を巡る長州の高杉晋作、品川弥二郎、井上聞多らの物語、「徒花」は坂本龍馬の身辺警護の任に着いた岡本健三郎と止宿先の美貌の娘の恋物語である。最後の「光華」は薩摩の中村半次郎と煙管店の娘との結ばれぬ恋を描く。京都の人は京ことばを話し、江戸、会津、長州、土佐、薩摩から京に上った侍たちはそれぞれの奥に言葉を話す。それがこの短編集に魅力を添えている。

9月某日
社会保険出版社の高本哲史社長と戸田秀徳さんがHCM社に来社、勉強会の講師選定に協力を依頼される。その後、神田のベルギー料理店「シャン・ドゥ・ソレイユ」でフィスメックの小出建社長とセルフケアネットワークの高本真佐子代表と食事の約束があるというので合流することにする。料理とベルギービールを堪能。小出社長にご馳走になる。

9月某日
社会保険出版社の戸田さんと勉強会の講師の件で厚労省の横幕章人審議官を訪問。日程的にちょっと無理ということだった。折角なので雑談を少々。社会保険出版社に行って高本社長と現代社会保険から出版社に移った佐藤さんを交え相談。連休明けに私が知り合いに当たってみることにする。18時近くなったので高本社長に「飲みに行きましょう」と誘われる。出版社近くのイタリア料理店に行く。地ビールとワインを頂く。経営者もシェフも若い人がやっているらしいがしっかりした料理を出していた。高本社長にご馳走になり佐藤さんには新御茶ノ水駅まで送ってもらった。

9月某日
「孤独な夜のココア」(田辺聖子 新潮文庫 昭和58年10月)を図書館で借りて読む。文庫本の初版は昭和58年だが、一度改版されていて、この本の奥付は平成23年6月43刷となっている。解説は小説家の綿矢りさ。綿矢りさは1984(昭和59)年生まれなので、文庫本の改版時に解説者も変えたのだろう。綿矢は解説で「私は子どものころから田辺作品を読んでいて」と書いているが、田辺聖子は女流作家にも大変人気がある作家だ。フェミニストにも評価は高く、確か全集に上野千鶴子が執筆か対談をしているはず。田辺作品は女性の自立を声高に叫んだりはしないが、女性の登場人物の生き方がそれぞれオノレの足で立っているのである。田辺聖子の短編は随分と読んだ記憶があるのだが本書は未読。12編収められているが、いずれもテーマは恋愛だ。田辺の恋愛小説は必ずしもハッピーエンドでは終わらない。というか恋の成就が必ずしも幸福とは言えないことを示唆する作品もある。「愛の罐詰」という作品は、高校の図書館司書をしている遠田が国語教師のジャガイモこと越後先生に片思いする話である。遠田は学校事務の富永ミキに思いを告白するが、いつの間にかミキは越後先生に接近、二人は結婚する。何年か後、遠田は映画館で二人に再開する。先生は私に話しかけたそうであったがミキに前の席に「引き立てられていった」。遠田は「それをみるとどうも、あんまり幸福ではない、先生の結婚生活」を思ってしまう。「あの恋は、私の心の中では、愛の罐詰にされていた」のだ。
「ひなげしの家」は、「わたし」と叔母さん、叔母さんの連れ合いの叔父さんの物語である。二人は結婚していない。けれども深く愛し合っていることは「わたし」にもわかる。叔父さんは妻と子のいる家を出て叔母さんと暮らしているのである。「わたし」はしかし二人を見ていると「いい年をしていやらしいな」とも感じるのである。叔父さんにガンが発見され70日の入院で死ぬ。病室で叔母さんは「叔父さんにとりすがり、その頬をやさしく撫でて泣いていた」。叔父さんの妻と子供たちがかけつけたとき、叔母さんは「あの、あたしちょっと家へ帰ってきます。持ってくるものもありますし‥‥」と病室を出て行った。「いつまでたっても、叔母さんは帰らなかった。叔母さんはひなげしの家で、首を吊って死んでいた」。ラストがかっこいい。「遺書もなかった。叔母さんは、いさぎよかった。/ひなげしの家は、いまは人手に渡った」。叔父さんは売れない絵描きで叔母さんは小さなバーを経営していた。叔父さんの一族からすれば家族を放り出して水商売の人と一緒になってヒモ同然の暮らしを送っていた叔父さんは人生の落後者でしかない。しかし二人深く愛し合っていた。人生を測る尺度とは何かを、考えさせられる作品である。

モリちゃんの酒中日記 9月その2

9月某日
図書館で借りた「いやな感じ」(高見順 共和国 2019年6月)を読む。高見順は1907年生まれ1965年に58歳で没している。「いやな感じ」は雑誌「文学界」の1960年1月号から63年5月号まで連載された。今からおよそ60年前の作品ということになるが、全く古さを感じさせない。舞台は関東大震災後の東京、主人公はアナキストの青年、加柴四郎。四郎の様々な階層の人々との交流を通して軍国主義に傾斜していく戦前の日本の社会を描く、と通り一遍な紹介では、この魅力的な小説は語れない。様々な階層とはアナキスト仲間もいれば、仲間と通った淫売窟の女たち、下層社会にうごめくアウトローもいる。その人物造形がいずれも個性的なのだ。アナキズムとテロリズム、ニヒリズム、デカダン。さらに国家主義や大陸侵略、2.26事件までが小説の舞台となる。今年読んだ小説の中でも面白さでは抜群であった。

9月某日
図書館で借りた「まなざしの地獄-尽きなく生きることの社会学」(見田宗介 河出書房新社 2008年11月)を読む。図書館で永山則夫を検索したら、彼の著作以外にも彼を題材にした評論がいくつかヒットした。そのうちの一つである。2008年というと今から11年前の刊行だが初出はもっと前で雑誌「展望」の1973年5月号である。永山則夫と言っても今の人は知ることもないだろうが、今からほぼ50年前の1968年から翌年にかけて米軍宿舎から盗んだ拳銃でタクシー運転手など4人を殺害、1969年4月に逮捕された。私は同年9月に早大第2学生会館屋上で現住建造物放火、公務執行妨害、凶器準備集合、傷害その他の容疑で現行犯逮捕、10月には起訴のうえ池袋の東京拘置所に移送された。東京拘置所は現在、足立区の小菅に移され池袋の跡地には高層ビルのサンシャインシティが建っている。私は何か月か東京拘置所で永山と一緒だったことになる。と言っても池袋の東京拘置所でも確か1舎から5舎まで3階建ての建物が5つほどあり、永山則夫とは顔を合わせたことはない。拘置所は裁判が確定するまでの未決囚を収容する施設で、原則として未決囚同士の会話は禁じられていた。永山などの殺人犯やわれわれ学生は独居房に入れられ、私の隣の房には安田講堂で逮捕された学生がいて壁越しに話した記憶がある。
永山は1949年6月、北海道網走で生まれ、私は前年に同じ北海道の苫小牧に生を受けた。永山は小学生の時に青森市に転居、中学校卒業と同時に渋谷の西村フルーツパーラーに就職している。1965年である。私は64年4月に北海道室蘭市の高校に入学、67年3月に卒業、1年間の浪人を経て68年4月に早大に入学した。高校の同級生だった川崎君は現役で明治に入っていて京王線の明大前に下宿していた。川崎君と川崎君の友人と新宿で終電過ぎまで吞んで、タクシーを捕まえたら運転手から「タクシー運転手の強盗殺人事件が続いているので、若い人一人だったら絶対に乗せないね」と言われたことを記憶している。おそらく68年の暮れのことだろうと思う。私と永山の生は東京拘置所で、あるいは新宿で、もしかたしたら北海道で交錯しているのだ。
「まなざしの地獄」において永山則夫はN・Nと記述される。記号化することによって永山則夫の抱えた問題、永山が起こした事件、永山の環境、風景総体が永山個人に還元されてしまうことを避けたためと私は理解する。「〈上京〉はN・Nにとって、その存在を賭けた解放の投企であった」。何からの「解放」か? 見田によるとそれは「家郷」ということになる。しかもその家郷とは「共同体としての家郷の原像ではなく」「近代資本制の原理によって風化され解体させられた家郷」なのだ。家郷からの解放はまた家郷の「斥力」とも表現される。斥力とは私にとって初めてお目にかかる言葉だが、引力に対して「互いに遠ざけようとする力」のことらしい。なるほどN・Nと家郷の関係をあらわすのにふさわしい言葉ではある。N・Nら「家郷を後にする青少年」に対して旺盛な「引力」を働かせるのは都市、具体的には東京である。しかも都市の事業主が要求するのは抽象的な「青少年」ではなく具体的な「新鮮な労働力」である。「家郷からの解放」を望むN・Nら青少年と「新鮮な労働力」を期待する都市の事業主の間には明らかな落差が存在する。私はここで唐突にNHKの朝の連続ドラマを連想する。たとえば有村架純が主演した「ひよっこ」は茨城県の農村で生まれ育ったヒロイン、谷田部みね子が東京に出稼ぎに出ていた父の失踪をきっかけに集団就職で上京、仲間や雇い主に恵まれて東京にしっかりと根を下ろしていく話だ。みね子は茨城県の自作農の娘で、父が失踪してもなんとかやってこれた。しかしこれが貧農の娘だったらどうか?実家は借金を重ね、挙句の果てに娘は借金のかたにソープランドに売られたかもしれないのだ。まぁNHKだからそうなるわけはないのだが。東京にしっかりと根を下ろした無数のみね子の背後にはN・Nがいたことを忘れてはならない。
N・Nが罪を犯した50年前と現在はどう変わり、どう変わっていないのか?農村の解体は進み平均的な所得は上昇した。高校への進学率はほぼ100%となり、大学、専門学校への進学率も向上した。N・Nのように中卒で集団就職などということもなくなった。だが貧困層は確実に存在するし、経済的な格差は拡大しているという指摘もある。本書のいう「履歴書のいる職業」と「履歴書のいらない職業」の差別も存在する。「履歴書のいる職業」とは普通の仕事で「履歴書のいらない職業」とは売春、ヤクザなどの闇のお仕事である。何より京都アニメーションの事件や川崎市登戸駅での無差別殺人事件は記憶に新しい。そして児童虐待事件は確実に増加している。50年前より確実に状況は悪化していると言えるのではないか? 「家郷からの解放」は半面で「家郷の喪失」も意味している。ここで「新しい家郷の創造」を言うことは易しいのだが、それを可能にする条件とは何なんだろう。

9月某日
霞が関ビル35階の東海大学校友会館で「月見の会」。前日、安倍内閣の改造があり厚生労働大臣が交代したため、厚労省からの出席予定者が何人か来られなくなったが、それでも鳥居陽一さんが参加してくれた。今回から会費を1000円上げて9000円としたので何とか赤字は免れることができた。グッドバンカーの筑紫みずえ社長の紹介でSBI証券の加藤由紀子部長とキャピタル アセットマネジメントのフランクリン・クスマン部長が新しく参加、クスマンさんはジャカルタの高校を卒業後、1年間東京外大で日本語を学び、その後筑波大学で金融工学その他を学んだという。平成と同時に来日したというから滞日歴30年、ほぼ完璧な日本語を話し、メールでもやり取りしたが、文章もしっかりしていた。20時30分に会は予定通り終了、吉武民樹上智大学客員教授が「オレ何にも食べてない!」というので虎ノ門の「ハングリータイガー」へ。途中、ビルの谷間に満月を観ることができた。

モリちゃんの酒中日記 9月その1

9月某日
「日米地位協定―在日米軍と『同盟』の70年」(山本章子 中公新書 2019年5月)を読む。首都圏の我孫子という田舎に住み都心の千代田区、港区あたりをフラフラしているわが身にとっては日米安保条約などすでに遠い存在とはなっているし、ましてや日米地位協定となると、「そんな協定あったけ?」ということなのだが、本書が朝日新聞の書評で好意的に取り上げられているのを目にして我孫子市民図書館にリクエストした。本書を読んで一番感じたのは構成の巧みさ。副題に「在日米軍と『同盟』の70年」となっているように、終戦から戦後史をたどりながら安保条約と日米地位協定の在り様と問題点を提示している。
日本共産党が占領当初、占領軍を解放軍と規定したが、日本国民の多くは不安を抱きながらも米軍=占領軍に対して徐々に好意的な感情を抱くようになる。アメリカの物量に圧倒されて「ギブミーチョコレート」的な対米感情が支配的になってきたのではないか。日本国民の多くが日常的に米軍と顔を突き合わせていたわけではないしね。しかし本書によるとマッカーサーが上陸したその日に横須賀に上陸した米海兵隊員2人による36歳の母親と17歳の娘に対する強姦事件が起きている。占領軍による報道規制もあって占領下においてはこのような米兵の犯罪は隠蔽されたようだが、独立後は日本のマスコミも米軍による事件や事故を堂々と報道するようになる。
本書の「はじめに」では2004年の、訓練中の米軍ヘリが米海兵隊普天間基地に着陸しようとして隣接する沖縄国際大学に墜落した事故が紹介されている。米軍は直ちに道路も含めた事故現場一帯を封鎖、大学の教職員、事故を把握すべき自治体の責任者、現場検証や事故処理を担当する沖縄県警、外務省の担当者の誰もが1週間もの間、現場への立ち入りを禁止された。例外は米兵から注文を受けたピザ屋の配達員だけだった。訓練から事故対応までの米軍の行動はすべて日米地位協定にもとづいている。協定は、米軍が日本に駐留できるように①基地の使用②米軍の演習や行動範囲③経費負担④米軍関係者の身体の保護⑤税制・通関上の優遇措置⑥生活などの諸権利を保障するものとなっている。
本書は内容的にも面白く、新書としても水準を大きく超えたものになっていると思う。著者の山本章子は1979年、北海道生まれ。一橋大学に進学するが親の理解を得られず、学部から博士課程まで働きながら学生生活を送る。編集者として働いていたとき沖縄県公文書館に米政府資料が集積されていることを知り、そこに通い始める。年に2回は公文書館に通い続けたころ夫(野添文彬沖縄国際大学准教授)の沖縄赴任にともなって住まいも沖縄に移した。ふーん人間としても面白そうである。

9月某日
久しぶりに大谷源一さんと高齢者住宅財団の落合明美さんと食事することに。神田司町の上海台所をネットで予約する。ここは「2時間呑み放題食べ放題」コースのコストパフォーマンスが高いのが特徴。つい食べ過ぎ呑み過ぎになってしまうのが難点。それと大谷さんは香辛料アレルギーなので食べられないメニューが何点かあった。それでも割り勘!2時間を少しオーバーしたが満足のうちに終了。神田駅から帰る落合さん、大谷さんと別れ、私は千代田線の新御茶ノ水から我孫子へ帰る。

9月某日
佐藤雅美の「美女2万両強奪のからくり 縮尻鏡三郎」(文春文庫 2019年9月)の広告が新聞に出ていたので内幸町のプレスセンター1階にあるジュンク堂書店で早速購入する。読み始めた次の日の朝刊に佐藤雅美の訃報が掲載されていた。でも一段のベタ記事扱い。ファンの私としては少々不満である。それでウイキペディアを参考にしながら佐藤雅美の経歴をたどりたい。佐藤は1941(昭和16)年1月兵庫県生まれだから78歳で死んだことになる。早稲田大学法学部出身で企業に就職するも新人研修が馬鹿馬鹿しく3日で退職、1968(昭和43)年に「ヤングレディ」にフリーライターとして採用されるが、3カ月で退社。「週刊ポスト」「週刊サンケイ」の記者を経て小説家となる。処女作の「大君の通貨」は幕末の通貨戦争を描いた傑作。長い間鎖国を続けていた日本と欧米では金貨と銀貨の交換比率が異なっていた。日本は欧米よりも銀の価値が高かったことに着目した欧米の貿易商は、当時流通していたメキシコ銀貨で日本の小判を買い漁った。相当量の小判が国外に流出した筈である。歴史を丁寧に掘り返すという作法は、処女作以降の佐藤の作品にも受け継がれる。私は未読だが1984(昭和59)年に「恵比寿屋喜兵衛手控え」で直木賞を受賞している。シリーズものが得意で、物書同心居眠り紋蔵シリーズ、八州廻り桑山十兵衛シリーズ、医者崩れの啓順シリーズ、その続編ともいうべき町医北村宗哲シリーズ、半次捕り物控えシリーズそれに今読んでいる縮尻鏡三郎シリーズである。佐藤は静岡県伊東市に住んでいたとウイキペディアに載っていたが、私の想像では作家同士の付き合いも少なかったのではと思う。これだけ歴史考証がしっかりしたものを書くには資料調べに相当時間を掛けたはずだ。酒を呑む時間も惜しかったのでは。佐藤雅美先生の冥福を祈ります。

9月某日
「美女2万両強奪のからくり」は縮尻鏡三郎シリーズでシリーズ5作目。舞台は天保4年の江戸。この年は飢饉のため百文で1升1合買えた米が5、6合しか買えなくなった。こういうときに備えて幕府は寛政4年向柳原に町会所という民営の救恤機関を設けさせた。天保4年の米の価格や当時の救恤機関について調べ上げたうえで、佐藤は小説を執筆している。こういう時代小説作家を私は知らない。鏡三郎は捕縛したものを取り調べる仮牢兼調所「大番屋」の元締めを勤めている。ただ今回は鏡三郎の出番はそれほど多くはない。もっぱら足と頭を使って捜査と推理に活躍するのが江戸北町奉行所の同心、梶川三郎兵衛である。町会所には米だけでなく金も備蓄されている。町会所から2万両という大金が強奪されたのが事件の発端。今回も楽しませてもらいました。

9月某日
「ラーメンと愛国」(速水健朗 講談社現代新書 2011年11月)を読む。我孫子市民図書館の「衣食住」のコーナーにひっそりと埋もれていた。手にとってパラパラと内容を辿るとどうも歴史的に社会学的にラーメンを論じているらしい。早速借りて家に帰って読むとこれが実に面白い。まず「まえがき」から本書が書かれた目的を紹介しよう。著者の速水は「戦後の日本の社会の変化を捉えるに、ラーメンほどふさわしい材料はない」とし、さらに著者のラーメンへの興味はグローバリゼーションとナショナリズムの2つに集約されると述べる。たかがラーメンにグローバリゼーションとナショナリズムを持ってくる一種の強引さに魅かれるが、これは著者によると次のようなことである。幕末の開国後の日本に、つまりグローバリゼーションのとば口にあった明治時代に中国から伝わったラーメンは日本で独自の進化を遂げ国民食と呼ばれるようになった。これを著者は「かつての稲作技術、火縄銃、近代化以降は自動車や半導体、文化産業ではアニメやゲーム、和製ヒップホップやジャパレゲなんかもそうだ」とし「こうしたケースの中に、ラーメンも加えることができる」という。つまり外来の技術や文化を巧みに日本化してきた、この国の歴史の中にラーメンを位置づけているのである。速水健朗という著者の本を読むのは初めてだが、なかなかの力量である。