モリちゃんの酒中日記 9月その3

9月某日
図書館で借りた「レヴィナス入門」(熊野純彦 ちくま新書 1999年5月)を読む。熊野純彦という人の本を読むのは「資本論の哲学」に続いて2冊目。レヴィナス入門を書いたころは東北大学の助教授だったが、その後東大に移って確か文学部長もやっている筈。本書の「あとがき」で「私はもとよりレヴィナス研究者ではなく、フランス現代哲学研究者ですらない」と書いている。「じゃぁ何が専門なの?」と突っ込みたくなるが、昨年「本居宣長」(作品社)も上梓しており、マルクスからカント、ヘーゲル、本居宣長から和辻哲郎、埴谷雄高までととにかくフィールドの広い学者先生なのだ。本書は「入門」と銘打たれてはいるが、レヴィナスを齧ったこともない私には難解だった。レヴィナスの人物紹介による入門ではなく思想そのものに分け入っていく入門故なのだろう。しかし私はレヴィナスの人物紹介によって熊野純彦の「レヴィナス入門」を読んだ痕跡を残したいと思う。エマニュエル・レヴィナスは1905年にリトアニアのカナウスにユダヤ人の家庭に生まれた。第一次世界大戦によって一家はウクライナのハリコフに逃れる。やがてロシア革命。両親がユダヤ人でありブルジョアであったことから「革命が意味しているものが両親を脅えさせた」という。レヴィナスは1928年、ドイツのフライブルグに遊学、フッサールとハイデガーに学び、とくにハイデガーに強い影響を受けたようである。30年パリに移住し最初の著作を刊行、翌年フランスに帰化、40年ナチスのパリ侵攻のさい捕虜となり45年のパリ解放まで捕虜収容所に捕らわれる。61年国家博士号を取得し、ポワティエ大学助教授になり67年パリ第10大学、73年パリ第4大学の哲学科教授となる。76年退官し1995年に死去。熊野教授はレヴィナスの思想を丁寧に解説してくれるのだが、私には正直歯が立たない。しかし分からないなりにレヴィナスの性愛論や存在論には魅かれるものがあった。レヴィナスには再挑戦したいと思う。

9月某日
「火影に咲く」(木内昇 集英社 2018年6月)を読む。幕末の京都を舞台にした6編の短編が収められている。共通するのは「火影」。「灯火に照らされてできる影」のことだ。冒頭作の「紅蘭」は詩人梁川星厳の妻、紅蘭を主人公とし、「薄ら日」は池田屋事件で新選組の襲撃により重傷を負い、長州屋敷の門前までは逃れるもののそこで果てる吉田稔麿の生き方を綴る。「呑龍」は沖田総司と会津藩士の青年、労咳を病む総司と同病の老婆との交流が描かれる。「春疾風」は祇園の芸子、君尾を巡る長州の高杉晋作、品川弥二郎、井上聞多らの物語、「徒花」は坂本龍馬の身辺警護の任に着いた岡本健三郎と止宿先の美貌の娘の恋物語である。最後の「光華」は薩摩の中村半次郎と煙管店の娘との結ばれぬ恋を描く。京都の人は京ことばを話し、江戸、会津、長州、土佐、薩摩から京に上った侍たちはそれぞれの奥に言葉を話す。それがこの短編集に魅力を添えている。

9月某日
社会保険出版社の高本哲史社長と戸田秀徳さんがHCM社に来社、勉強会の講師選定に協力を依頼される。その後、神田のベルギー料理店「シャン・ドゥ・ソレイユ」でフィスメックの小出建社長とセルフケアネットワークの高本真佐子代表と食事の約束があるというので合流することにする。料理とベルギービールを堪能。小出社長にご馳走になる。

9月某日
社会保険出版社の戸田さんと勉強会の講師の件で厚労省の横幕章人審議官を訪問。日程的にちょっと無理ということだった。折角なので雑談を少々。社会保険出版社に行って高本社長と現代社会保険から出版社に移った佐藤さんを交え相談。連休明けに私が知り合いに当たってみることにする。18時近くなったので高本社長に「飲みに行きましょう」と誘われる。出版社近くのイタリア料理店に行く。地ビールとワインを頂く。経営者もシェフも若い人がやっているらしいがしっかりした料理を出していた。高本社長にご馳走になり佐藤さんには新御茶ノ水駅まで送ってもらった。

9月某日
「孤独な夜のココア」(田辺聖子 新潮文庫 昭和58年10月)を図書館で借りて読む。文庫本の初版は昭和58年だが、一度改版されていて、この本の奥付は平成23年6月43刷となっている。解説は小説家の綿矢りさ。綿矢りさは1984(昭和59)年生まれなので、文庫本の改版時に解説者も変えたのだろう。綿矢は解説で「私は子どものころから田辺作品を読んでいて」と書いているが、田辺聖子は女流作家にも大変人気がある作家だ。フェミニストにも評価は高く、確か全集に上野千鶴子が執筆か対談をしているはず。田辺作品は女性の自立を声高に叫んだりはしないが、女性の登場人物の生き方がそれぞれオノレの足で立っているのである。田辺聖子の短編は随分と読んだ記憶があるのだが本書は未読。12編収められているが、いずれもテーマは恋愛だ。田辺の恋愛小説は必ずしもハッピーエンドでは終わらない。というか恋の成就が必ずしも幸福とは言えないことを示唆する作品もある。「愛の罐詰」という作品は、高校の図書館司書をしている遠田が国語教師のジャガイモこと越後先生に片思いする話である。遠田は学校事務の富永ミキに思いを告白するが、いつの間にかミキは越後先生に接近、二人は結婚する。何年か後、遠田は映画館で二人に再開する。先生は私に話しかけたそうであったがミキに前の席に「引き立てられていった」。遠田は「それをみるとどうも、あんまり幸福ではない、先生の結婚生活」を思ってしまう。「あの恋は、私の心の中では、愛の罐詰にされていた」のだ。
「ひなげしの家」は、「わたし」と叔母さん、叔母さんの連れ合いの叔父さんの物語である。二人は結婚していない。けれども深く愛し合っていることは「わたし」にもわかる。叔父さんは妻と子のいる家を出て叔母さんと暮らしているのである。「わたし」はしかし二人を見ていると「いい年をしていやらしいな」とも感じるのである。叔父さんにガンが発見され70日の入院で死ぬ。病室で叔母さんは「叔父さんにとりすがり、その頬をやさしく撫でて泣いていた」。叔父さんの妻と子供たちがかけつけたとき、叔母さんは「あの、あたしちょっと家へ帰ってきます。持ってくるものもありますし‥‥」と病室を出て行った。「いつまでたっても、叔母さんは帰らなかった。叔母さんはひなげしの家で、首を吊って死んでいた」。ラストがかっこいい。「遺書もなかった。叔母さんは、いさぎよかった。/ひなげしの家は、いまは人手に渡った」。叔父さんは売れない絵描きで叔母さんは小さなバーを経営していた。叔父さんの一族からすれば家族を放り出して水商売の人と一緒になってヒモ同然の暮らしを送っていた叔父さんは人生の落後者でしかない。しかし二人深く愛し合っていた。人生を測る尺度とは何かを、考えさせられる作品である。