モリちゃんの酒中日記 9月その4

9月某日
図書館で借りた「資本主義と闘った男-宇沢弘文と経済学の世界」(佐々木実 講談社 2019年3月)を読む。四六判で600ページを超える大著だが、宇沢弘文という人物の思想と行動が本人や同僚のインタビューや著作、論文を通じて浮かび上がらせた作品である。本書が成功しているのは著者の佐々木実の宇沢弘文への尊敬の念が、著述の底流に流れているためと思われる。私が宇沢の名前を知ったのは彼の社会的共通資本という考え方に出会ってからである。従って彼が世界的な数理経済学者であったこともノーベル経済学賞の候補であったことも知らないし、晩年、水俣病や成田空港問題に深く関わっていたことも本書を読んで知った。本書の前半は生い立ちから東大の数学科を出て大学院まで進むが、途中でその数学の才能を生かして理論経済学に転身し、アメリカのスタンフォード大学、シカゴ大学で国際的にも認められる数理経済学者に成長、ケネス・アロー、ジョセフ・スティグリッツ、ポール・サミュエルソン、ミルトン・フリードマンら著名な経済学者と交流してゆくまでが描かれる。東大時代にマルクス経済学の勉強会にも顔を出し、日本共産党の不破哲三らとも親交があったことが明かされる。またシカゴ大学ではベトナム反戦運動にも関わっていたことにも触れられている。前半は近代経済学説史外伝の様相を示すと同時に、世の中の矛盾と闘う経済学者としての宇沢の横顔を伝える。
後半は日本に帰国して東大経済学部に席を置き、水俣病や成田空港問題、地球温暖化対策に深く関わる一方、社会的共通資本の理論を深めていく宇沢の姿を描く。宇沢が東大に着任したのは1968年の4月で、前年の67年10月8日には羽田空港周辺で三派全学連がヘルメットとゲバ棒で武装し佐藤訪米阻止闘争を闘い、68年には東大、日大から始まった大学闘争が全国に波及していく。宇沢は学園闘争とは距離を置く一方、環境問題、公害問題に深く関わり始める。水俣の現場に足繁く通いながら東大工学部助手の宇井純、熊本大医学部の原田正純と交流らと交流を深める。宇沢が社会的共通資本について解説している文章を引用しよう。「社会的共通資本は、土地を始めとする、大気、土壌、水、森林、河川、海岸などの自然資本だけでなく、道路、上・下水道、公共的な交通機関、電力、通信施設、司法、教育、医療などの文化的制度、さらに金融・財政制度を含む」。社会資本や社会インフラという言葉よりも広く、概念的には「深い」。私の考えでは人間も含まれる「生きもの」が地球上で「快適に」過ごすための「社会的な」条件とでもいえる。様々な社会的な運動に関わった宇沢だが晩年は孤独だった。後継者を尋ねる著者に「日本にはいないし、海外にもいないんだよ」と語った宇沢の言葉が紹介されている。また浩子夫人は「宇沢は、ひとりぼっちでした」と証言している。「孤独」はしかし、宇沢の到達した地点の「高さ」を表しているようにも思われる。

9月某日
夜半に猛烈な吐き気に襲われ目を覚ます。ウゲーウゲーと胃の内容物をすべて吐き出す。リビングで起きていた奥さんが「大丈夫?救急車呼ぼうか?」と声を掛ける。私は前夜、北千住の居酒屋で食べた刺身に当たったと思い、「吐いてしまえばどうということはない」と答える。だが、吐き気は治まらず胃液のようなものが込み上げてくる。便意にも何度か襲われトイレに行くと水のような便が出る。2階の長男も心配して起きて来て「救急車を呼んだほうがいいよ」と言うが、これにも「病院が開いたら行くから」と断る。夜中の3時頃から2時間ほど七転八倒し、上と下から出すものはすべて出したうえで何とか眠りに着く。10時過ぎに目を覚ます。不快感は残るが吐き気と便意は去る。食欲は全くなし。入浴後、体重を図ると2キロ以上減っていた。青海社の工藤社長から「今日の角田さんの送別ランチ会は12時半から根津の『はん亭』です」というメールが来る。「真直ぐ会場に行きます」とメールを返す。車で駅まで送ってもらい千代田線で我孫子から根津へ。「はん亭」に行くと工藤社長と奥さんがすでに来ていた。「はん亭」は有名な串揚げ屋だが食欲がないので私だけ「お茶漬け」にしてもらう。お茶を飲みながら軽口を叩いていると気分がだんだん戻ってくる。工藤社長から角田さんへ花束とワインが送られ出席者全員で写真を撮って送別会は終了。私は根津から霞が関へ。HCM社に着くと大橋社長が「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれる。16時に三井住友あいおい生命の営業の人がHCM社に来る。生保商品の説明を受けた後、「今日は体調がすぐれませんから」と17時前にHCM社を出て家路に。

9月某日
気分は良好。お昼頃HCM社に出社、某氏から頼まれていた作業を2時間ほど。16時過ぎに社保険ティラーレへ。吉高会長と雑談。吉高さんは「この時間だからお茶よりこっちがいいでしょう」と缶酎ハイを出してくれる。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の例え通り缶酎ハイを2本頂く。社会保険出版社の戸田さんと17時50分に虎ノ門の郵政互助会館で待ち合わせているのでタクシーで郵政互助会館へ。戸田さんと一緒に医療介護福祉政策研究フォーラム理事長の中村秀一さんに面談。終わって戸田さんが「少し呑みましょうか」と言ってくれたので飯野ビル地下の信州のお酒が置いてある店へ。「真澄」を3杯程頂く。まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」である。霞が関から我孫子へ。

9月某日
「獅子吼」(浅田次郎 文春文庫 2018年12月)を読む。浅田次郎は1951(昭和26)年生まれだから私より3歳年少。高卒後、陸上自衛隊に入隊するが「大学受験に失敗して」説と「三島由紀夫事件に刺激されて」説があるようだ。浅田は自衛隊出身であるが反戦平和主義者でもある。「獅子吼」は6編の短編小説が納められていて、表題作の「獅子吼」は優れた反戦小説であると同時に私には近頃稀な動物愛護小説としても読めた。舞台は太平洋戦争末期の東北地方のある県の動物園。「農業と畜産で立っている県」で「沿岸の重工業地帯」は空爆と艦砲射撃によって連日のように叩かれていたというから岩手県であろう。小説中で話されている方言は浅田の「壬生義士伝」の南部藩出身の新選組隊士の話す言葉に似ている。おそらく動物園のある都市は盛岡で沿岸の重工業地帯とは釜石である。前置きが長くなったが一方の主人公は動物園のライオンであり、もう一方の主人公は農学校畜産科出身の騎兵連隊の新兵である。戦争末期に上野動物園の動物たちの悲劇は語り継がれているが、同じような話はどこの動物園でもあったらしい。盛岡の農学校に進学した貧しい学生たちには奨学金が支給された。奨学生には課外労働が義務付けられ畜産科の奨学生は動物園に通わされる。主人公のライオンと新兵は顔なじみであったのだ。空爆が盛岡にも及び動物園が破壊されることを恐れた当局は、ライオンの射殺を新兵に命じる。動物たちに喰わせよと残飯を新兵に与える食事担当の軍曹のセリフが泣かせる。「人間と人間の戦争なら、人間がいくら死んだって文句は言えめえが、なしてけだものが飢えて死なねばならねんだ。まして動物園さなぐなったら、子供らはどこさ遠足行くの」。

9月某日
10月1日から消費税が10%に引き上げられる。少子高齢化が続き労働力人口が減る一方で高齢者の人口は増えていく。引き上げは仕方ないし今後、低所得者対策をしっかりやったうえで15%までの引き上げはもとよりヨーロッパ並みの30%以上への引き上げも仕方がないのかなと思っていた、令和新選組の山本太郎の主張を知るまでは。山本太郎は消費税の廃止を訴える。いきなりの消費税の廃止は無理だとしても「所得の再分配」の観点から日本の税制全般を考え直すことは必要と思う。消費税は大衆課税であり所得の低い層に負担が重くなる「逆進性」も指摘されている。所得の高い層への所得税の強化、法人の内部留保への課税強化、相続税の課税範囲の拡大などがもっと考えられていい。そうすると高額所得者や企業は海外に逃げ出すという声も聞かれるが、そうならないように魅力的な情報・生活インフラ、芸術文化観光インフラを整備していくということではないのだろうか?