モリちゃんの酒中日記 10月その2

10月某日
図書館で借りた「買春する帝国-日本軍『慰安婦』問題の基底」(吉見義明 岩波書店 2019年6月)を読む。「プロローグ」で吉見は「江戸時代以前から続く日本の性買売(売買春)は長い歴史を持っている。当時の社会では性買売はとくに不道徳ではなく、あたりまえのこととして受け入れられていた」と記す。私が最近読んだ高見順の「いやな感じ」でも、主人公のアナーキストの青年は私娼窟の若い売春婦に恋心を抱いたりする。確かドストエフスキーの「罪と罰」でも主人公のラスコーリニコフが売春婦のソーニャに罪を告白する。しかし日本でも売春防止法が施行される以前は売春が女性の人権を著しく踏みにじるものであったのは間違いない。兵士が性病に罹患するのを防ぎ併せて戦場での強姦を防止する目的から日本陸海軍主導で「慰安所」が各地に設けられた。朝鮮半島や中国大陸、台湾、日本軍が進出したアジア太平洋地域の多くの女性が慰安婦として兵、将校に供出された。売春防止法成立以前の日本について言えば、公娼や私娼の存在の背景には間違いなく貧困があった。疲弊した農村から都市の貧民街から若い女性たちが借金のかたに集められた。女性たちを集めてくるのを仕事としていたのが女衒である。小説家の宮尾登美子は高知で女衒を営む男と愛人の間で生まれているが、このことは宮尾の小説「櫂」に描かれている。宮尾は女衒をもちろん肯定的に描いてはいない。そういう家に生まれてしまった哀しみと苦しみも小説の主題の一つだったと思う。「買春する帝国」では売春防止法成立以降についてはほとんど触れられていない。現在でもソープランド(トルコ風呂)で売春が行われているのは公然たる事実だが、そこが売春防止法で摘発されたということも聞かない。豊かな社会の隠花としてソープは咲き続けるのだろうか。

10月某日
「犯罪小説集」(吉田修一 角川文庫 平成30年11月)を読む。2016年に単行本化されたものが文庫に収められた。「楽園」というタイトルで映画化されこの10月にも公開される。5編の短編が収められているが「あっこれはあの事件を参考にしたな」と思われるのがあった。もちろん作者は作家の想像力で「事件」を「文学」の高見まで昇華させているのだが。この5編に共通しているものがあるとすれば、「現代社会における孤立、孤独」ではないだろうか。舞台は田園地帯(青田Y字路、万屋善次郎)であったり地方都市(曼珠姫午睡)であったり、首都圏(白球白蛇伝)であったりワールドワイド(百家楽餓鬼)であったりするし主人公の職業も、青年実業家や養蜂家、プロ野球選手と様々なのだが、いずれも現代社会のなかで孤立を強いられる、あるいは自ら孤立に向かっていく姿が描かれる。吉田修一は小説に事件や犯罪を描くことが多いように思う。私の月並みな感想を述べれば事件や犯罪にこそ現代が色濃く表現されているからであろう。

10月某日
帰郷(浅田次郎 集英社文庫 2019年6月)を読む。本書は単行本が刊行された2016年に大佛次郎賞を受賞している。文庫本の帯に「戦争に運命を引き裂かれた名もなき人々。いまこそよんでほしい反戦小説集」と印刷されている。浅田は高卒後、自衛隊に入隊し除隊後様々な職に就きながら小説家志望をあきらめなかった人である。自衛隊出身者が反戦の志を高く持っていたとしても何の不思議もないが、とにかく浅田は強い反戦の意志を持ち、それを表現した作品も幾つか残している。先月読んだ「獅子吼」は戦争末期の動物園のライオンを射殺せざるを得なくなる農林学校畜産科出身の古兵と新兵の話だった。で今月読んだ「買春する帝国」に話は戻るのだが戦争と売春はつきものと言ってもよい。この短編集でも冒頭作の「帰郷」は復員兵と娼婦の話だし、「無言歌」は特殊潜航艇の学徒出陣の将校と娼婦の交情が描かれる。私は作家にとって「娼婦」とはと考える。一つ考えられるのは物語を「浄化」するための登場人物として造形される場合が多いのではないかということ。「人生劇場」といっても高倉健主演の映画のほうだが、健さん演じる宮川と藤純子演じる娼婦(確かオトヨと言ったのではなかったか)の濡れ場が重要なシーンを構成していた。穢れた存在としての娼婦こそが純潔=天使のような存在に置き換わるのだ。

10月某日
「社会保障再考-〈地域〉で支える」(菊池馨実 岩波新書 2019年9月)を読む。書名に再考とあるが、読了してなるほどと思った。格別に新しい説が展開されているわけではないが、少子化が進み財政的にも厳しくなる一方の日本社会にとって必要とされている「社会保障」とは何かを「再考」した本なのだ。「はじめに」では「この本は、持続可能性という概念をひとつの切り口として、日本の社会保障制度のあり方を、さまざまな角度から再考することを目的として」いると述べられている。さらに制度の中で等閑視されていた「相談支援」を正面から論ずる新たな局面にもあることが明らかにされている。サブタイトルの「〈地域〉で支える」にも著者の想いが込められていると言ってよいだろう。社会保障政策を立案するのは厚労省で最終的に決めるのは国会であっても、実践するのは地方自治体であり地域である。著者は第6章の「地域再構築」で「もっと年金委員や年金事務所の役割に注目してもよいのではないか」と書いている。実は私も千葉県の地域型年金委員ではあるのだが、ほとんど何もしていない。地域の再構築という視点で年金委員を考えて来なかったためでもある。ちょいと恥ずかしいね。

10月某日
「アンジュと頭獅王」(吉田修一 小学館 2019年10月)を読む。現代日本の小説家のなかで私が最も注目している作家の一人が吉田修一である。ウイキペディアで検索すると「安寿と厨子王丸」が出てきて「中世に成立した説教節『さんせい太夫』を原作として浄瑠璃などの演目で演じられたきたものを子供向けに改編したもの」とある。私たちが知っているのは森鴎外の「山椒大夫」だが、吉田修一の「アンジュと頭獅王」は「説教集」(新潮社)と「説話節 山椒大夫・小栗判官他」(東洋文庫)を底本としたとあるから、むしろ説教節の原型に近い。しかしそこは吉田修一、なかなか洒落た改変を施している。山椒大夫から逃れた頭獅王は聖に助けられるが、時空を超えて現代の新宿に登場する。阿闍梨サーカスの団長に救われた頭獅王はサーカスの大獅子の飼育係となり、さらに大富豪、六条院の養子となる。さらにアンジュや母親とも再会し、「上古も今も末代も」「富貴の家と栄えたとあり」とメデタシメデタシで終わる。町田康が「義経記」を翻案した「ギケイキ」を書いているが、「アンジュと頭獅王」もそれに勝るとも劣らない傑作である。吉田修一の作風の深さと広さに脱帽である。