モリちゃんの酒中日記 10月その4

10月某日
吉田修一と並んで最近よく読むのが白石一文。吉田修一が1968年長崎生まれ、白石一文が1958年福岡生まれ、私が1948年北海道生まれとちょうど10年刻み。まぁどうでもいいけどね。で今回読んだのが白石の「快挙」(新潮社 2013年4月)だ。カメラマン志望の主人公「私」が「みすみ」と出会って結婚したのが1992年、私が25歳、みすみが27歳のとき。みすみは月島で一人で居酒屋をやっていた。居酒屋の2階に転がり込んだ私はアルバイトとカメラマン修業に明け暮れていた。カメラマンから作家志望に切り替えた私をみすみは変わらず支援してくれた。これで立派に作家となりましたならば、実人生ならばメデタシメデタシなのだがそこは小説、私が結核になったり、みすみが他の男性に心を寄せたりといくつもの起伏が用意されている。「みすみに男がいるようなんです」。私は義理の父(つまりみすみの父)に打ち明ける。義理の父の答え。「きみも、物書きの端くれならよう知ってるはずや。人間の心の中には魔物が棲んどる。いまのみすみもそうなんやろ。きみの心にかて魔物はおるんや。わしにはきみたち夫婦のことはちっとも分からへん。分からへんが、要はその魔物に負けんようにしてほしい。わしに言えるんは、たった一つ、それきりや」。うーん、小説とは言えなかなかいいセリフだ。

10月某日
18時に川崎で小規模多機能施設をやっている柴田範子先生を訪問。1時間ほど話した後、「この後、何にもないのでしょ。晩御飯食べていきましょう」と誘われる。柴田先生行きつけの蕎麦屋さんに行ったら満員だったので、川崎駅構内の「食べ物屋さん」がたくさん入っているゾーンでうどんをご馳走になる。私はウイスキーのソーダ割を2杯頂く。川崎から先生は南武線で私は東海道線で帰る。私は品川駅で常磐線の上野東京ラインに乗り換え、グリーン車を奮発する。

10月某日
5時過ぎに我孫子に着いたので駅前の七輪に寄る。七輪を出てバス乗り場に行こうとすると「モリちゃん」と声を掛けられる。「愛花」の常連で目白大学看護学科の助教をやっている佳代ちゃんだった。じゃと「愛花」に向かうが休みだったので焼き鳥屋の「仲間」へ。佳代ちゃんとは去年、やはり常連のソノちゃんと3人で新潟に一泊旅行をした。今年は北茨城行きを去年の3人組に加えて今年は車を出してくれる人を加えて4人で計画しているという。「仲間」を出て佳代ちゃんと別れ奥さんに電話して車で迎えに来てもらう。

10月某日
図書館で借りた「日本のマクロ経済政策-未熟な民主政治の帰結」(熊倉正修 岩波新書 2019年6月)を読む。まだ販売されてから半年も経っていない新書だが、新聞の書評欄で取り上げられた記憶もないし、図書館でもそれほど読まれた形跡もない。アベノミクス批判の書なのだが、かなり徹底した批判であるとともに副題に「未熟な民主政治の帰結」とあるように現代日本の政治批判の書でもある。著者は第2次安倍政権発足以来のマクロ経済政策(アベノミクス)について、その通貨政策、金融政策、財政政策を批判するのだが、私にとってはややハードル高し。「ふーん、そうなんだ」という程度の浅い理解しかできなかった。しかし最終章「マクロ経済政策と民主主義-日本が生まれ変わることは可能か」は理解できたし著者の熊倉の見識には感心させられた。異次元金融政策によって実質金利はゼロまいしマイナスとなっているが、これは著者によると「実質的な利益を全く生まない企業でも資金を借り入れて操業を続けられることを意味」し、こうした状態が続くと「非効率な企業が市場から淘汰されなくなり、資源配分の効率性が損なわれる」とする。また「極端な低金利によって企業の設備投資を煽ることを続けていると、せっかく生みだした付加価値の中で設備の建設や更新に回る分が増加し、私たちの暮らしは一向に楽にならないということになりかねない」とも言っている。
私が最も感心したのは最終章の4「日本は変わることができるか」である。著者が求める社会とは、個人の自律を基礎とし、各人が自らの力で自分の人生を切り開いてゆく覚悟と、広い社会に積極的に関与してゆく姿勢が求められる社会である。今の日本はそうなっていないし、自民党政治は全体合理的な政策より近視眼的で現状維持志向の強い政策が選択されやすい社会を生んでいるという。著者の思想には社会的共通資本を重視する宇沢弘文に近いものを感じる。著者は1967年生まれ、東大文学部卒業後、ケンブリッジ大学政治経済学部博士課程を修了している。この本の前半の鋭い経済分析と最終章の政治哲学的な社会分析は政治経済学部博士課程修了という経歴も一部影響しているのかも知れない。大学で学ぶ経済学には2系統あって、アメリカ(ドイツもそうだったかもしれない)の経済学部、イギリスの政治経済学部というのを聞いたことがある。日本の大学の多くは経済学部だが、一部の私学、早稲田や明治は政治経済学部である。私がこの本の最終章に「政治哲学的な社会分析」を感じたのは政治経済学部的な政治と経済を見据えた複眼的な思考を感じたのかもしれない。もう少し調べてみると経済学はもともとはポリティカル・エコノミーと呼ばれていたらしい。それをマーシャル(マーシャルの曲線のマーシャルか?)が経済学として独立させたんだってさ。

10月某日
図書館で借りた「つみびと」(山田詠美 中央公論新社 2019年5月)を読む。家庭崩壊、それも三代にわたる家庭崩壊の物語である。父の母に対する常軌を逸した暴力に小学生の琴音はただ耐えることしかできなかった。ある日、父が仕事から帰ってくると胸を押さえて苦しみだす。琴音は敢えて救急車を呼ばない。父の死が確認されてから救急車を呼ぶ。間接的な「父殺し」である。何年か経って母は材木商の伸夫を家に入れる。正式な結婚をしなかったのは伸夫の妻が離婚に承知しなかったためである。琴音は信夫になつき、信夫も琴音に個室やベッドを与えて関心を買う。個室やベッドは信夫の琴音に対する性的虐待の舞台となる。もうこれだけで読むのが嫌になってくる。嫌になってくるのだが読むのを止められない。山田詠美の筆力によるものだろうと思う。琴音は成人して地域の少年野球の指導者として人望の厚い笹谷隆史と結婚、三児を設ける。長女の蓮音は高校生時代から性的にも乱れた生活を送るがアルバイト先のファミレスで知り合った地域の素封家の息子、音吉と出会って恋に落ち結婚する。音吉の間に生まれたのが年子の桃太と萌音(もね)である。だが二人の結婚生活は長続きしなかった。蓮音は育児疲れから逃れる意味もあってかつての仲間たちと夜遊びを再開する。
離婚した蓮音は二人の子供連れて上京、自身のブログには「銀座の高級クラブのホステスにスカウトされる」と綴るが、手に職も学歴もないしかも子連れの若い女が働ける場所は風俗店しかなかった。蓮音はしかし精いっぱい桃太と萌音を愛し育てようとする。だが蓮音は風俗店の同僚に誘われてホストクラブに通いだす。行く着くところは育児放棄である。〈小さき者たち〉として桃太の視点から語られる一節が「痛い」。子供は母親を慕い、その帰りをひたすら待つのみである。真夏にアパートの一室に放棄された二人の幼児は飢えて死ぬ。蓮音は逮捕され懲役30年が確定し栃木の女子刑務所に収監される。蓮音の母の琴音は性的虐待を受けた影響か精神が不安定で精神病院への入退院を繰り返し夫とは離婚する。離婚後の琴音の人生にこの物語の「救い」があり、すべて「再生」の物語として読める。琴音は精神病院から兄の勝から「もう飽きたろ、琴音。ここ出よう」と連れ出される。琴音は子供のころから慕っていた信次郎と再会、共に暮らすようになり心の平安が訪れる。「エピローグ」は刑務所に面会に訪れた琴音と蓮音の会話で終わる。面会時間が終わって立ち去る蓮根に「叫ぶようにして娘の名を呼ぶ」琴音。蓮音は笑って母に言う。何と言ったかはここに書かないほうがいいだろう。この4行に「再生」が凝縮されている。

10月某日
私は読みかけた本を途中で止めることはほとんどないのだけれど、今回「あとは切手を、一枚貼るだけ」(小川洋子・堀江敏幸 中央公論新社 2019年6月)は半分も読まないうちに止めることにした。「つみびと」を読んだ後ではあまりに牧歌的な感じがしたし、図書館でリクエストしている人が10数人いるので早めに返すことにした。ちょうど図書館でリクエストしていた「女たちのテロル」(ブレイディみかこ 岩波書店 2019年5月)の準備ができたということなのでちょうどいい。図書館で本を返し「女たちのテロル」を読み始めるとこれがめっぽう面白い。結果的に「あとは切手を、一枚貼るだけ」を早く返して良かった。

10月某日
図書館で借りた「女たちのテロル」(ブレイディみかこ 岩波書店 2019年5月)を読む。日本とイギリス、アイルランドの3人の女性についてのエッセーである。この3人がそれぞれに大変個性的なのだが、書名の如く「テロリスト」であることが共通している。日本は内縁の夫、朴烈とともに摂政の宮(昭和天皇のこと)暗殺を企てたことで1923年に逮捕され、死刑判決を受け無期懲役に減刑されるも刑務所内で縊死した金子文子である。イギリスは戦闘的な女性参政権運動家で1913年、エプソン競馬場のダービーで国王の馬の前に飛び出して命を落としたエミリー・デイヴィソン、アイルランドは1916年のイースター蜂起で女スナイパーとして活躍した数学教師のマーガレット・スキニダーである。著者のプレイディみかこについては何も知らないが1965年生まれで福岡修猷館高校卒業である。私は私の母校、室蘭東高校を除くともっとも知り合いの多いのが修猷館高校である。吉武民樹先生と修猷館で吉武先生と同期だった弁護士の羽根田先生、そして東急住生活研究所の所長をやった望月久美子さんである。皆さん頭もいいが性格もいい、何よりもインデペンデントなのが共通している。プレイディみかこもそんな感じだね。文体がポップでアナキズム研究家の栗原康を彷彿とさせると思ったら「参考文献」に栗原編の「狂い咲け、フリーダム-アナキズム・アンソロジー」があったからあるいは知り合いかも知れない。昨年来、栗原の著作を読んだり、今年になってからも昭和初期のアナキストを主人公とした高見順の「嫌な感じ」を読んだりしてアナキズムにハマっている私である。共産主義はどうしてもレーニン主義に行っちゃうんだよね。そこから党の無謬性とか中央集権制はすごく近いと思う。1960年代末から70年代の全共闘運動は今にして思うとアナキズムだね。