モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
図書館で借りた「夏物語」(川上未映子 文藝春秋 2019年7月)を読む。人気のある小説らしく裏表紙に「この本は、次の人が予約してまっています」という「おねがい」の紙が貼られていた。で、なるべく早く読もうと努力したのだが四六判で540ページを超える分量があり、読み終えるまで土日を挟んで4日かかってしまった。とても面白い小説だった。登場人物からすると川上の芥川賞受賞作「乳と卵」の続編らしいが、私は未読。読んでみたいと思う。小説は「第1部 2008年夏」と「第2部 2016年夏~2019年夏」に大きく分かれる。第1部では主人公の夏目夏子は30歳、大阪出身で東京の三ノ輪に住む作家志望の女子である。第2部はほぼその10年後、夏子は作家デビューを果たすがなかなか第2作を完成させられない。この小説の特徴の一つは主要な登場人物がほぼ女性。夏子の姉、その一人娘、夏子の担当編集者、夏子の友人の女性作家、以前バイト先の同僚だった女性。この小説のテーマが女性性としての妊娠、出産なので当たり前なのだけれど。テーマを際立たされるために作家が選んだのが非配偶者間人工授精(AID)だ。夏子はAIDで生まれた青年医師の逢沢との子をAIDにより妊娠、出産する。ラストは出産シーン。「元気な女の子ですよと声がした。わたしの両目からは涙が流れつづけていたけれど、それが何の涙なのかわからなかった。わたしが知っている感情のすべてを足してもまだ足りない、名づけることのできないものが胸の底からこみあげて、それがまた涙を流させた」「どこにいたの、ここにきたのと声にならない声で呼びかけながら、わたしはわたしの胸のうえで泣きつづけている赤ん坊をみつめていた」。感動的であるが子どもを産んだことがない私には今一つ実感がともなわないのであった。

12月某日
セルフケア・ネットワークの高本真佐子代表に借りた「うしろめたさの人類学」(松村圭一郎 ミシマ社 2017年10月)を読む。著者の松村圭一郎という人の本を読むのも初めてならミシマ社という出版社の本を読むのも初めてだ。しかし一読して著者の知性と鋭い感性に驚いた。で改めて奥付を見ると初版第一刷が2017年10月で2019年4月に初版第九刷が発行されている。売れているのである。著者の松村圭一郎は1975年生まれ、京都大学の総合人間科学部卒業後、同大学大学院博士課程修了、現在は岡山大学の准教授である。著者の専攻する文化人類学には全く疎いのだが恐らく「人間とは何か探求する学問」と言ってもそう外れていないのではないか。で文化人類学者は先進国からすれば未開とされる地域に滞在してフィールドワークを通じて「人間とは何か」を考察することになる。著者がこだわったものの一つが交換と贈与だ。人類は貨幣が発明される以前はモノとモノの交換、つまり物々交換によって必要なものを手に入れていた。貨幣の登場によって貨幣を媒介させることによって必要なものを手に入れるようになった。ところが人類は交換とは別に贈与という慣習を持っていた。産業化、資本主義化が進展することによって贈与の慣習はすたれていくが発展途上国にはその習慣は色濃く残っている。著者はエチオピアの庶民との交流を通してそのことを確認していく。と同時にバレンタインデーや冠婚葬祭を通して先進国、日本にも贈与の習慣が立派に残っているという。バレンタインデーのチョコの値札が付いていないのも結婚式の祝儀もむき出しの万札でないのもそれが贈与であるからなのだ。著者が最初にエチオピアを訪れたのはまだ20代の頃だが、その体験も本書で一部明らかにされている。これがまたいいんだよなぁ。

12月某日
虎ノ門で足利聖治さんとの打ち合わせが終わり19時。ちょいと行こうかということで飯野ビル地下1階の飲食店街へ。「信州酒房 蓼科庵」に入る。長野の日本酒がたくさん置いてあるので私は「真澄」を頂く。足利さんは三種類の地酒がセットになっているのを頼んでいた。日本人はやはり日本酒ということです。足利さんは九州の大分は杵築市の出身。実家は禅宗のお寺で僧侶の資格も持っていると以前に聞いたことがある。私の母方の祖父が大分出身ということもあって大分の話を楽しく聞かせてもらった。

12月某日
図書館で借りた「ファースト クラッシュ」(山田詠美 文藝春秋 2019年10月)を読む。ファースト クラッシュとは初恋の意味。裕福で恵まれた三人姉妹のもとへある日三人姉妹の父に連れられて少年がやってくる。少年は父の愛人の子供で愛人が亡くなって天涯孤独となった少年を父が引き取ったのだ。父と母と三人の娘、しかも裕福。父は女性にもてて愛人の一人や二人がいたとしてもそれは男の甲斐性というシチュエーションのもとに小説は進行する。父は仕事と情事に忙しく家庭ではあまり存在感がない。母親とお手伝いの女性、それに三姉妹という「女性だけの空間」に異物としての少年が突如、闖入者として現れる。三人姉妹それぞれ、及び母親とお手伝いが異物にどのように反応していくか、が小説のテーマである。それはあたかもビーカーの中での化学反応の実験を見るようでもある。そういう感じ方をしたのは私だけかもしれないが、山田詠美ってうまいなぁ。

12月某日
図書館で借りた「旧友再会」(重松清 講談社 2019年6月)を読む。重松清は人気のある作家でこの本も図書館で7人がウエイティングしている。土日で読んで日曜日には返却しようと思う。本書には3編の長めの短編、1編の中編と短めの短編が収録されている。共通するのは少子高齢化、衰退する町かな。それぞれが味わい深いのだが、ここでは唯一の中編「どしゃぶり」を取り上げる。中国地方の中都市で家具屋を営む伊藤ことヒメは中学時代に野球部でバッテリーを組んだ松井の訪問を受ける。松井は進学校に進み、東京の有名私大に進学、東京に本社のある商社に就職した。松井が帰郷したのは故郷で一人暮らしする母親を引き取り、併せて誰も住む人が居なくなる実家を処分するためだ。野球部のキャプテンだった小林は地元に残り、今は3人の母校、城東中学の教頭を務めている。野球部の顧問の先生が交通事故に遭い、松井は母校の野球部の臨時コーチを引き受けることになる。3人が野球部の現役だったころ、上下関係は厳しく今ではパワハラと受け止められかねない状況もあった。ヒメの長男も野球部だが上級生をクン付けで呼び、技量が劣るヒメの長男も代走や代打で出番を与えられる。松井はこのような「ぬるい」野球部に喝を入れるべく指導にまい進するのだが。「ぬるい」雰囲気は部員だけでなく父兄会にも広がり、松井への不満は高まる。高校で甲子園を目指すわけではないのだから「楽しくやろう」というのが部員や父兄会の考え。臨時コーチの松井が采配を振るった試合で城東中は逆転で惨敗する。試合後、円陣を組んだ部員たちに松井は「ちゃんと悔しがることができないと、いつかおとなになってから後悔するぞ、だから負けたときぐらい、しっかり悔しがれ」という。しかしもちろん部員たちには理解されない。重松清は松井の考え方に共感を示しながらもどちらに軍配を上げようとはしない。そこが私の重松の作風が好きな理由かもしれない。