モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
図書館で借りた「あたしたち、海へ」(井上荒野 新潮社 2019年11月)を読む。井上荒野は新刊が出るとだいたい図書館に予約する。新聞や週刊誌の書評欄でおおまかな内容を把握しているケースもあるが、井上荒野の場合は内容よりも人。今まで読んでつまらなかったことがないからね。井上荒野のお父さんは井上光晴という小説家で私も30代から40代にかけてよく読んだ。作風は全然違うけれど、父は日本共産党を除名された左翼系の「硬派」の作家。対して娘は都会的で恋愛ものを得意とする。本作は女子中学生が主人公なので「珍しく学園ものか」と思いながら読み進むと、学園ものは学園ものなんだが、今回は虐めがテーマ。虐めと言ってしまうとすでに現代的な風俗や風景のなかに溶け込んでしまっていると私などは思ってしまうので、これは現代における「支配と被支配」の関係性を描いたと言ったほうがよい。3人の仲良しの女子中学生がいて、最初そのうちの一人が虐めの対象とされ転校を余儀なくされる。残った二人は転校した友達のところへ自転車で会いに行ったりするのだが、虐めの矛先はさらに残った二人へも向かう。転校した娘の母親は高齢者向けマンションの炊事係に転職するが、そこでも入居者による虐めを目撃する。虐められた上品な老女は姿を消すが、翌日、髪をピンク色にして現れる。「支配と被支配」の関係性を打破すべく「逆襲」が開始されたのである。女子中学生たちももちろん「逆襲」するのだが、それは「連帯」によって支えられる。ラスト、転校した娘を訪ねた二人と母親の四人が庭でバーベキューをするシーンが描かれる。連帯確認のバーベキューパーティである。

1月某日
昨年の暮れに出版された中村秀一さんの「平成の社会保障-ある厚生官僚の証言」(社会保険出版社)の企画を少し手伝った。中村さんが携わった編集者、デザイナー、出版社にお礼がしたいと有名レストランに招かれた。食事は6時から有楽町の「アピシウス」でということなので、私は社会保険出版社に寄って高本哲史社長とタクシーで会場に向かう。会場にはすでに中村さん、フリーの編集者の阿部さん、デザイナーの工藤さんが来ていたので早速、シャンパンで乾杯。「アピシウス」は30年ほど前に年住協の中村一成理事長と小形カメラマンの3人で来たことがある。当時、中村理事長が雑誌「年金と住宅」に「古地図を歩く」というエッセーを連載していた。奉行所跡や吉良上野介の屋敷跡などを訪ね、古地図での記載と現在の佇まいを写真とエッセーで紹介するという企画だった。連載は2年以上続いたと思うが、取材の後の食事が楽しみな連載だった。そんなことを思い出しながら食事とワイン、おしゃべりを楽しむ。「本日のメニュー」を紹介すると、前菜が「雲丹とキャビア カリフラワーのムース コンソメゼリー寄せ」、魚料理が「豊洲市場から届いたお魚料理 シェフのスタイルで」、肉料理が「シストロン産仔羊のロティとクレビネット包み焼」と「シャラン鴨のロティ サルミ風ソース」のチョイス。それに季節のデザートとコーヒーだ。料理やワインを説明するボーイさんが、部屋に掛けられている絵画についても丁寧に話してくれる。「アピシウス」ともなると料理だけでなく、部屋のインテリア、調度品、ボーイさんまで一流ということであろうか。

1月某日
「漂砂のうたう」(木内昇 集英社文庫 2013年11月)を読む。漂砂は「ひょうさ」と読んで海の底などでうごめく砂のことを言うらしい。舞台は明治10年の根津遊郭。幕臣から根津遊郭の客引きとなった定九郎が主人公。人気の花魁、小野菊や廓を守る龍蔵、噺家のポン太が根津遊郭で漂砂のようにうごめいているさまを描く。何とも救いのない小説だが、直木賞受賞作であり、木内昇の作家としての力量を示す作品。私は嫌いではない。ちなみに木内昇は「きうちのぼり」と読む、1967年生まれの女性である。

1月某日
本郷さん、角田さん、水田さんと町屋の「ときわ」で呑む。私も含めた4人の関係とは次のようなものだ。角田さんは群馬県の前橋高校出身。高校で私の早稲田大学政経学部の1年先輩の鈴木基司さんと一緒だった。角田さんは大学卒業後、石油連盟に就職しそこで同僚だったのが本郷さん。本郷さんは後に石油商社に転職した。最近本郷さんと知り合ったのが水田さんだ。水田さんが一番若く60歳代前半、あと3人は70歳代。この4人の共通点は学生運動崩れ。本郷さんは中大、角田さんは都立大、水田さんは北大、私は早稲田でそれぞれ学生運動を経験している。私たちが大学を卒業したころは高度経済成長期だったから、選びさえしなければ極端な話し、就職先には困らなかった。だけど「権力に歯向かった」活動家崩れとしては、一流企業に就職するのは何となくためらわれた。で、私は友人の親戚が経営する小さな印刷会社に写植のオペレータとして入社し、その後、業界紙の記者に転じた。本郷さんや角田さんが入社した石油連盟のような業界団体も業界紙と同様、学生運動経験者の受け皿となっていたのである。水田さんも大卒後、一部上場企業に就職したもののほどなく塾の講師に転職した。まぁいずれにしても半世紀前の話である。

1月某日
佐藤雅美の「縮尻鏡三郎」シリーズの「夢に見た娑婆」(文春文庫 2014年12月)を読む。佐藤雅美の時代小説は綿密な時代考証が特徴だが、今回の舞台は江戸時代の「鳥の業界」。江戸時代は仏教の教えに基づいて牛や豚など獣の肉を食べることは禁じられていたが、例外として鳥の肉は食べることを許されていた。では、その鳥肉の供給はどうなっていたかというと、そこで佐藤雅美の綿密な時代考証の腕が発揮されるわけである。江戸時代は徳川将軍家をはじめ、有力大名の間では鷹狩りが流行っていた。鷹狩りの鷹を養うにはエサが必要で鷹は一日にスズメ10羽、ハト3羽を食した。鷹は2組で100羽だから年にするとスズメ36万5000羽、ハト10万9500羽が必要となる。この捕獲を担当したのが御鷹餌鳥請負人で、彼らは専門の捕獲人「いさし」に鑑札を与え、スズメとハトを捕獲させた。いさしはスズメやハト以外にもウズラ、ホオジロ、メジロ、大きなものではガン、カモ、ツルなども捕獲したが、これらは市場で売却された。「鳥の業界」が形成されたわけである。佐藤雅美の小説にリアリティを与えているのはこのように綿密な時代考証であるのだが、私などは「浮世には何の役にも立たない」江戸時代の「鳥の業界」のことを知るだけで楽しくなってしまうのである。

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
図書館で借りた「相模原事件とヘイトクライム」(保坂展人 岩波ブックレット 2016年11月)を読む。重度の知的障害者19人の命を奪った相模原市の事件が起こったのは2016年の7月だから、このブックレットが書かれたのは事件の直後と言ってもいい。この本を読んで私がここに書き記しておきたいと思ったことは2つある。ひとつはナチスドイツがホロコーストによりユダヤ人を大虐殺する前に20万人以上の障害者をガス室に送っているという事実。もうひとつは事件が起こった2016年は障害者差別解消法が施行された年であるということ。前者は障害者差別と民族差別が通底していることを意味している。そして個別の差別に反対するということは、あらゆる差別に反対することにつながっていかなければならないことを強く感じる。後者については法に依る差別の解消はもちろん必要だが、人々の(私も含めて)意識改革が求められているということだ。そのためには道路や住宅、施設のバリアフリー化にとどまらず「心のバリアフリー化」が必要ということであろう。

1月某日
図書館で借りた「瓦礫の死角」(西村賢太 講談社 2019年12月)を読む。西村賢太は4~5年前はよく読んだが最近はとんとご無沙汰。しかし読んでみるとやはり面白い。西村賢太の小説の基本は私小説。と言っても庄野潤三のような上品な家庭を描いた私小説ではない。西村賢太の私小説上の人格である「貫多」の実父は強姦と傷害で懲役8年の実刑を受け刑務所に。「貫多」は高校に進学せずに日払いの肉体労働などで日銭を稼いでいる。表題作は半年ほど勤めていた洋食屋を馘首された「貫多」が母親のアパートに転がり込む話だ。いつまで居続けるのかと露骨に嫌な顔をする母親だが、その母親も刑務所の元夫がいつ出てくるかという恐怖に晒されている。共通の恐怖の故にいっとき「貫多」と母親には共に生きる可能性も見えてくるのだが、「結句は何もしてやれぬ。自分が逃げるだけで精一杯である」となる。表題作と「病院裏に埋める」が「貫多」もの、「四冊目の『根津権現裏』」は西村が「没後の弟子」を自称する藤澤清造の著作「根津権現裏」を巡る貫多と古書店主の物語。最後の「崩折れるにはまだ早い」は凝った構成になっている。作者、西村賢太と思しき「渠」(かれと読む。普通は彼だけど渠を使うのがいかにも西村らしい)はあの『文藝春秋』からも『新潮』からも姑息で下らない〝人間関係″のみの齟齬をでもって締め出しを食らっている。「渠」はこの原稿依頼を次の原稿依頼に繋げようと期限の前日に仕上げる。「崩折れるには…」自体がこの原稿を仕上げるメイキングストーリーになっている。「渠」は原稿を書きながら、別れた女のことや自殺した友人のこと、そして面識はなかったが死んだ同業の人物のことを想う。この同業の人物は「他者に云わせると書くものの傾向に似通った部分もあるそうで、その点で渠としても密かに意識せぬこともなかった人物である」「何かの雑誌か新聞でその坊主頭の、苦行僧の陰影の中に飄逸味の同居する風貌を瞥見した」とあるから、この人物とは先年亡くなった車谷長吉であろう。私は義理の姉(兄の奥さん)が編集者をしていた関係で、車谷長吉さんと奥さんで詩人の高橋順子さん、それに義理の姉の四人で入谷の呑み屋で2~3回ご一緒したことがある。その折、車谷さんに西村賢太をどう思うか聞いたのだが、「しりませんねぇ」という答えだった。「崩折れるには…」では最後に「渠」は藤澤清造に、自殺した友人は芥川龍之介に、死んだ同業の人物は田山花袋に置き換えられる。この一瞬の転換こそが西村賢太の技、芸と言えるだろう。

1月某日
「小さき者の幸せが守られる経済へ」(浜矩子 新日本出版社 2019年8月)を読む。浜は以前からアベノミクスをアホノミクスと呼ぶ安倍政権批判の急先鋒のエコノミスト。本書は「アエラ」と「イミダス」に連載されたコラムをまとめたものだ。経済政策批判と並んで現政権の考え方やさらに広く現代社会の在り方についても批判的に論考しているのが特徴だ。浜は一橋大学で経済を学んだあとに三菱総研に入社、ロンドン駐在を務めるなどしてエコノミストとして頭角をあらわした。エコノミストとしてだけでなく和洋の幅広い教養を備えているのが強み。聖書やシェイクスピア、落語、映画などからの的確な引用が本書に限らず彼女の著作の特徴である。

1月某日
香川喜久恵さんからメール。福田博道さんが亡くなったという。福田さんはフリーライターで私より2~3歳下。去年の8月に自宅が火事になり、焼け跡から遺体が発見されたという。福田さんは早稲田の文学部の確か文芸学科を卒業後、調査会社や家具の業界紙に務めた後フリーライターに転身した。10年ほど前「名犬たちの履歴書」という単行本を出して、四谷の主婦会館で出版記念パーティを開いたことがある。お嬢さんがピアノの名手で一般の短大に進学したが、その後チェコに留学した。男の子は日通に勤めシンガポールへ赴任。海外の子供たちのところへ行って楽しんでいた。福田さんも私も酒好きで何度も一緒に呑んだ。我孫子の我が家にも遊びに来てもらったことがある。親友ではなかったが心の友、心友であった。

1月某日
年友企画で季刊誌「へるぱ!」の特集の打ち合わせ。編集会議で私の企画が通ったためだ。終って来週の高齢者住宅財団の仕事で行く静岡への出張費を仮払いしてもらう。年明けて2週間だが土日と祝日以外は毎日出勤している。といっても11時過ぎの出社、16時過ぎの退社というペースだが。今年72歳にしては働いているほうではないか。アンペイドワークが多いけれどそれにしても「当てにされている」わけだから「手抜き」はできない。年友企画での打ち合わせの後、神田の「鳥千」によって石津幸恵さんを待つ。太刀魚とカツオの刺身が美味しかった。石津さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
図書館で借りた「家族シネマ」(柳美里 講談社文庫 1999年9月)を読む。「家族シネマ」は芥川賞受賞作で初出は「群像」の1996年12月号である。柳美里は1968年生まれだから、20代後半の作品となる。「家族シネマ」は崩壊した家族が映画出演を機に集まるが、バラバラになった家族の溝は埋まらないというストーリー。私は柳美里の小説は割と好きで何冊か読んでいる。「命」「8月の果て」「JR上野駅公園口」などである。が、「家族シネマ」は私には存外につまらなかった。テレビや新聞で「阪神淡路大震災から25年」という特集を繰り返し行っているが、現実がフィクションを乗り越えているような気がする。もっとも柳美里は原発被害にあった南相馬市に移住、書店を経営して「体を張って」被災地支援を続けている。柳美里自体は尊敬すべき存在である。

モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
図書館で借りた「韓国併合 110年後の真実-条約による併合という欺瞞」(和田春樹 岩波ブックレット 2019年12月)を読む。この本の意図するところは1910年8月に締結された韓国併合条約は、そもそも韓国および韓国民の合意に基づいていないと主張することにある。私の常識からしてもそうなのだが、どうも安倍政権の常識はそうでもないようだ。そもそも歴史的に見て日本は朝鮮半島を経由して、中国大陸発祥の中華文明を摂取してきた。豊臣秀吉による二度の朝鮮侵略の戦があったが、江戸時代を通じてほぼ友好的な関係が維持されてきた。明治維新、西南戦争、日清・日露戦争を経て日本は帝国主義国家としての姿を鮮明にしていく。日清戦争で台湾、日露戦争で樺太南部を領有した日本が、次に着目したのが朝鮮半島であった。しかし当時、朝鮮半島は大韓帝国の統治下にあり、日本政府は寺内正毅を統監として派遣、強引ともいえる手法で韓国併合を強行した。これはやはり帝国主義的な考えと行動だと思う。昨年来、日韓の緊張感は高まっているが、日本にとって必要なのは韓国併合以降の歴史認識だと思う。

1月某日
机を置かせてもらっているHCM社が昨年暮れに西新橋から東上野に移転、最寄りの駅は御徒町だが私は上野から徒歩で10分ほどかけて通勤している。韓国系の焼肉屋や食材店が多く町全体がアジアンテイストにあふれている感じだ。夕方、大谷源一さんがHCM社を訪ねてくれ福井土産のフグのひれを頂く。上野駅入谷口近くの「大衆酒場かぶらや屋」に行く。ここはもつ焼きと静岡おでんが売りの店のようだ。レバ、タン、ハツなどを頼み、最後に牛肉コロッケを頂く。値段もリーズナブル、味も上々。東上野はレベルが高い!

1月某日
御徒町の「吉池食堂」で高本真佐子さん、堤修三さん、岩野正史さんと会食。高本さんが進めている「アドバンスケアプランニング(ACP)と重度重複障害者の調査研究」について2人から貴重なアドバイスを頂く。お店の人の配慮で窓際の席に座ることができた。お勘定を頼むととレシートに合計金額と1人当たりの金額が記載されて出てくる。「吉池食堂」は会社帰りの男女やOB会などの年配の客が多い。割勘が多いということなのだろうが、レジの機能アップに感心。帰りは高本さんは仲御徒町から日比谷線で、堤さんと岩野さんは山手線で品川方面、私は山手線で上野へ。

1月某日
上智大学人間関係学部の特任教授をやっている吉武民樹さんに誘われて、滋賀県の信楽の知的障害者の暮らしを描いた記録映画「しがらきから吹いてくる風」を観に行く。13時に上智大学の吉武さんの研究室を訪問すると少し遅れて大谷源一さんが来る。映画をプロデュースした山上徹二郎さんを紹介される。吉武さんの授業で映画を上映、山上さんが学生たちに話をするという趣向のようだ。教室に移動して私と大谷さんは一番後ろに座らせてもらう。映画は1990年の制作だから30年前の作品だが、当時の信楽で今で言う「地域共生」が実践されていたことに驚く。映画は信楽青年寮で暮らす知的障害者たちが地域社会に受け入れられながら作陶の現場で働く姿を描く。映画を見終わった後、学生たちに感想文を書かせる。山上さんが何人かの学生に質問する。教育実習で特別支援学級に行った経験を話す学生など総じて真面目な反応だった。山上さんに「一番後ろの年配の方は」と指名されたので「私も軽い身体障害があるが、身体障害に比べると知的障害者を町中で見かけることは少ない。30年前の信楽で地域共生が行われていることに驚いた」というようなことをしどろもどろしゃべる。終って赤坂見附に移動して「赤坂有薫」で山上さん、吉武さん、大谷さんと食事。吉武さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
図書館で借りた「六つの星星-川上未映子対話集」(文藝春秋 2010年3月)を読む。対談というと林真理子や阿川佐和子が週刊誌でやっている芸能人やスポーツ選手などとの軽い対談を私は思い浮かべる。私はこうした軽い対談も嫌いではないのだが、川上未映子の「対話集」は精神分析、生物学、文学、哲学の専門家と川上未映子との真剣勝負の対談が掲載されている。川上未映子は作家であり大学の通信教育で哲学を学んだというから文学者、哲学者の対談ならまだ分かるが、精神分析、生物学でも専門家と堂々の対談を行っている。川上未映子の読書量と理解力は半端ではない。私は一番最後に掲載されている哲学者の永井均との「哲学対話Ⅱ『ヘヴン』をめぐってから読み始めた。もちろん年末に読んだ「ヘヴン」に衝撃を受けたからである。「ヘヴン」の登場人物の「僕」、「コジマ」、「百瀬」それぞれの存在や関係性に哲学的、思想的な考察が加えられている。「あーなるほど、そういう読み方もあるのか」と思って、部分的に「ヘヴン」を読み返したりしたのだが、どうも読んだときのつらい記憶が蘇ってきてしまった。私は生物学者の福岡伸一との「生物と文学のあいだ」が面白かった。生物の起源とか細胞とかについてほとんど考えたことがなかったので。

1月某日
図書館で借りた「北海タイムス物語」(増田俊也 新潮文庫 令和元年11月)を読む。増田のノンフィクション「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」が面白かったので図書館にリクエストしていた。横須賀に住む早大生だった主人公の野々村巡洋はマスコミ志望、10数社受けたがすべて落ち、唯一拾ってくれたのが北海道札幌市に本社のある「北海タイムス」。北海タイムスは実在の新聞社で北海道新聞と並ぶ地方紙だったが、北海道に進出した全国紙とそれを迎え撃つ北海道新聞に挟撃され倒産した。この物語はタイムスが倒産する数年前、1990年春に野々村が来札、北海タイムスへタクシーで向かう場面から始まる。最初は青年の単なる成長物語のように読めて正直あまり面白いとも思わなかった。しかし野々村が希望の社会部ではなく整理部に配属されたころから、私にはがぜん面白くなってくる。私は学校を卒業後、印刷会社で2年ほど写植のオペレーターをし、その後、住宅関連の業界新聞社2社に10年ほど勤めた経験がある。1972年から1984年ころまでである。印刷会社は主に労働組合の機関紙や業界新聞を印刷していた。業界紙は自前の印刷工場を持っているわけではなく、主に新聞専門の印刷工場で印刷していた。野々村は整理部で権藤という優秀な整理マンに鍛えられるのだが、最初に勤めた業界紙には同じような雰囲気の人がいた。その人は権藤よりも優しかったけれど。その業界紙には詩人で後に早稲田の文学部の教授になる吉田文憲さんもいた。小説で描かれた地方紙の雰囲気はどこか業界紙を髣髴させるものがあった。北海タイムスの印刷は1990年当時、鉛の活字を使うホットタイプから電算写植のオフセット輪転(コールドタイプ)に転換していたが、私は最後の活字世代である。作者は北大中退後、北海タイムスの記者になっているから主人公の野々村は作者の分身ではなく、北大中退で柔道部出身の松田が分身ということなのだろう。

モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
川上未映子の「夏物語」が面白かったので、その原形というか「夏物語」の前編とも言える「乳と卵」(川上未映子 文藝春秋 2008年2月)を図書館で借りて読む。「夏物語」は第1部(2008年夏)と第2部(2016年夏~2019年夏)に分かれているのだが「乳と卵」は時期的には第1部とほぼ重なる。「乳と卵」はずっと「にゅうとらん」と読んでいたのだが本のカバーのタイトルには「ちち」「らん」とルビが振ってあった。大阪で姉の巻子と姉の娘の緑子暮らしていた「わたし」は、作家志望の夢を実現されるべく上京、「上野から乗り換えて2駅」の下町で一人暮らしを送っている。常磐線で上野から2駅の三河島界隈が想定される。下町と一口に言っても神田、上野、浅草、日本橋と小説の舞台となった三河島や千住、町屋などは趣を異にする。私の眼には前者は洗練された下町に、後者はディープな下町に映る。小説にはそこらへんはほとんど反映されていないが、「わたし」のアパートの描写や銭湯での入浴場面にそれらしさがうかがわれる。タイトルの乳は巻子が豊胸手術を希望していること、卵は緑子の初潮や「わたし」の生理のことを表している。「夏物語」と「乳と卵」まで10年以上が経過しているが、作家の文体もそれなりに変化しているように感じる。「乳と卵」は饒舌な大阪弁の語り口で、野坂昭如または町田康の文体を思わせるところがある。私は川上未映子という作家がデビュー作以来(私は未読ですが)、人間の性と関係性について真剣に取り組んでいるように感じられるのだ。
正月休みですることもないので、読書のついでにテレビ、そのついでに酒と食事という暮らしを送っている。昨日の大晦日は松重豊の「孤独のグルメ」を楽しんだ。読書は図書館で借りた「日本銀行『失敗の本質』」(原真人 小学館新書 2019年4月)を読む。書名は日本軍を組織論から分析した「失敗の本質」に依っている。私は元からアベノミクスには疑問的だったので本書の論旨には全面的に賛成である。2年で2%という物価目標は達成されないままに時間が過ぎ、実質賃金は良くて横ばい、庶民の実感としては低下している。だが安倍政権の支持率は昨年末でも45%で不支持37%を大きく上回っている。円安が続き株価が経済の実態以上に好調なのも政権の後押しをしているのだろう(この数字は確かNHKの調査だが、朝日新聞の昨年末の調査では、安倍内閣の支持率は38%、不支持率は42%で、1年ぶりで不支持が支持を上回っている)。共産党を含め立憲民主党、国民民主党、社民党の奮起に期待したいところではある。しかし私が本書を読んで最も感じたのは、日本銀行が大量の国債を事実上引き受けているという現状に対する危機感である。今の国債市場は異常と言っていいのではないか?もし日本国債への信頼が揺らぎ国債価格が暴落(金利は高騰)したら日本の財政は破綻する。現在の日本で財政破綻の影響が最も大きい分野は社会保障と公教育、それに国防であろう。介護保険財政が危機に陥りヘルパーさんに給料が払えなくなり、教員や自衛隊員への給料が遅配したらと思うだけでもぞっとするではないか。

1月某日
年末、上野駅構内にある本屋をブラつくと「リベラル・デモクラシーの現在―「ネオリベラル」と「イレベラル」のはざまで」(樋口陽一 岩波新書 2019年12月9が目に付いたので買うことにする。普段は専ら我孫子市民図書館を利用しているが、たまに本屋をのぞくのも悪くない。著者の樋口陽一という人は全く知らない。でウィキペディアで調べると仙台一高から東北大学の法学部に進学、同大学法学部教授を経て東大法学部教授を歴任。上智大学法学部教授や早稲田大学法学部特任教授も務めた。井上ひさしは仙台一高の同級で菅原文太は一年先輩とあった。専門は憲法学、比較憲法学とあった。この本で言う「デモクラシー」とは、一つの公共社会の構成原理であり、「リベラル」は「基本権」で、具体的には思想の自由、表現の自由である(はじめに)。リベラルとデモクラシー以外でも本書を構成する重要な用語として立憲主義がある。「憲法」の本質的役割を権力への制限とする考えを前提にするなら「リベラル・デモクラシー」は「立憲デモクラシー」と重なる、と著者は言う。この本で初めて分かったことがいくつかあるのだが、最初の驚きは明治憲法についてである。伊藤博文は「憲法ヲ創設スルノ精神ハ第一君権ヲ制限シ第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」と言っているという。著者は「今でも大学の教養課程の憲法科目の試験の模範答案に」なると評価している。さらに驚くべきは伊藤のこの発言に対して、森有礼文相が反発して臣民の権利を条文に書いてはいけないと言う。森は「臣民ノ財産及言論ノ自由等ハ人民ノ天然所持スル所ノモノ」であって、法によって与えられるものではないと発言している。これは考えようによっては伊藤博文や森有礼のほうが現代日本の安倍政権を支持する人たちよりよほどリベラルである。こういう本に出合えるからたまに本屋をのぞくのも悪くないのである。

1月某日
図書館で借りた「短編集 ダブル SIDE A」(パク・ミンギュ 筑摩書房 2019年11月)を読む。パク・ミンギュは以前「ピンポン」を面白く読んだ記憶がある。内容はまったく忘れたけれど。「ダブル」は「サイドA」と「サイドB」が同時に刊行され、私はどっちも図書館にリクエストした。「サイドA」は前半の3作がリアリズム、後半の6作がSF・ファンタジーだ。リアリズムの3作は結構、面白かったのだがSF・ファンタジーはちょっと私にはハードルが高かった。日本で言えば安倍公房ぽいのかなぁ。「サイドB」は読まずに図書館に返そうと思ったが、訳者解説に「二冊セットで初めて成立する本なので、ぜひ二冊併せて読んでいただきたいと思う」とあったのでとりあえず、リクエストもないようなので「サイドB」は貸し出し期限まで借りておこう。

1月某日
図書館で借りた「リボンの男」(山崎ナヲコーラ 河出書房新社 2019年12月)を読む。書店の店長を務めながら書評を書くなどして年収650万円を稼ぐ「みどり」は、結婚相談所を通して新古書店のアルバイトで生活する小野と結婚する。小野は小野妹子にちなんでみどりから「妹子」と呼ばれる。みどりの妊娠出産を機に妹子は勤めを辞めて専業主夫となる。前半は結婚まで後半はみどりと妹子、息子の「タロウ」の生活が描かれる。この描かれ方がいいんだよね。みどりが出勤した後、妹子とタロウは川沿いの道を幼稚園に通う。川沿いの自然、野草や虫、山から出てきたタヌキ、こうした都市郊外の自然との交流が新鮮だ。妹子は世間から見ると「ヒモ」かも知れないが、みどりからするとタイトルの「『リボン』の男」だ。作者はきっと手塚治虫の漫画「リボンの騎士」を思い浮かべたに違いない。