モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「検察庁法改正、今国会成立を断念。政府与党、批判受け転換」という記事がWEBに共同通信から配信されていた。当然だろうね。だいたい内閣が「この高検検事は63歳定年」「この高検検事は定年を65歳まで延長して検事総長に」なんてことをやると、検事の政治的中立性が侵されることが眼に見えている。こんなことは検察庁法改正を国会に上程する前に、自民党の内部できちんと議論すべきことだと思う。中央省庁の局長級以上の人事を内閣人事局で一括してやるというのもおかしい。官僚の人事は事務次官が責任を持ってやるのがいい。中央省庁の少なくとも課長になったらきちんと国会議員や大臣に意見を言えるようにならないとね。もっとも私の知っている元官僚(特に名を秘す)は「○○先生(国会議員)は理解できないと思ったから騙したよ」と私に語っていたけれど。

5月某日
NHKのBSプレミアムで映画「飢餓海峡」(1965年 内田吐夢監督)を見る。原作は水上勉。北海道岩内で質屋の主人が惨殺される。犯人は金を奪った後に質屋に放火、これが岩内大火の原因となる。網走帰りの2人の犯人に協力するのが三国連太郎。3人で岩内から函館へ逃げるが、函館は青函連絡船の遭難の真っ最中である。3人は小舟を調達、下北半島を目指す。下北半島に着くことができたのは三国と奪った金だけだった。犯人の2人の遺体は函館の浜に流れ着くが、青函連絡船遭難の犠牲者として処理される。遺体の頭部の傷に疑問を抱いたのが函館署の刑事、伴淳三郎だ。遺体を火葬にせず土葬とすることにより遺体の身元が網走帰りの2人であることが判明する。三国は青森で娼婦の左幸子と一夜を共にし、左に奪った金の一部を渡す。左はその金で娼家の借金を清算、東京に出る。亀有の娼家で左の見た新聞に舞鶴で成功した実業家(三国)が2000万円を寄付したことを知る。舞鶴に三国を訪ねた左に三国は会ったことはないと突き放すが、激情のうちに絞め殺してしまう。一瞬、三国は左のことを認め2人は抱き合うのだが、そのまま三国は左を絞殺してしまう。ここら辺が凄いですね。舞鶴署の刑事が高倉健で署長が藤田進。結局、三国は罪を認め検証のため北海道へ移送される。ラストは三国が青函連絡船から身を投げる。「飢餓海峡」ってよく名づけたと思うね。左が高等小学校卒業後、娼婦として身を売らなければならなかったのも、三国が金を奪ったのも「貧しさ」故だからね。

5月某日
「満洲事変―『侵略』論を超えて世界的視野から考える」(宮田昌明 PHP選書 2019年12月)を読む。本書は従来の我が国の第2次世界大戦に至る近現代史観を「天皇を中心とした抑圧的国家の成立と、それに伴うアジアへの侵略から、ヨーロッパ諸国やアメリカとの帝国主義戦争、そして破滅的敗北と戦後の民主化へ、という歴史観」とし、その中で満洲事変は「武力によって中国の領土を奪取すると共に、国内に軍国主義を確立し、支那事変、大東亜戦争への流れを決定づけた転機として位置づけられてきた」(はじめに)とする。私はまさに著者が否定する歴史観によって教育され、今もその歴史観を基本的に容認しているものである。したがって著者の歴史観とは相容れないのだが、それはそれとして本書からは教えられるところが多かった。本書の帯に「民族自決を否定した中国、少数民族の権利を保護した日本」という刺激的な文字が刷り込まれている。これだけを読むと本書はトンデモ本と見られかねないが、本文を読んでみるとなるほどと思わせる。中国は基本的には漢民族を主体とする王朝が支配してきたが異民族支配の経験もある。最後の王朝となった清は女真族が中国を征服して建国した国名である。清王朝を倒した辛亥革命はブルジョア革命であると同時に女真族という異民族支配から漢民族を解放した民族革命の一面もある。「民族自決を否定した中国」というのは辛亥革命により成立した中華民国は新疆ウイグルやチベットなど辺境の少数民族の独立に反対したことを指している。一方の「少数民族の権利を保護した日本」というのは、おそらく日本陸軍が主導して建国された満洲国が、日本、朝鮮、満洲、蒙古、支那(漢)の五族協和をスローガンとしてきたためだろう。スローガンだけでなく実践的に満州国で五族協和が図られたかどうかは本書を読んでもはっきりしなかった。しかし、時間的には清朝末期から辛亥革命を経て満州国建国まで、空間的には中国大陸はもちろんのこと、日本列島、朝鮮半島、インドシナ半島、インドネシア、インド、イギリス、アメリカ、ヨーロッパ大陸まで叙述は及ぶ。著者の労力、努力は尊敬に値すると思う。

5月某日
岩田昌明の「満洲事変」を読んで戦前の日本がどのように行動してきたか、もっと知りたくなってきた。図書館も休みだし前に読んだ本を再読することにする。最初は「とめられなかった戦争」(加藤陽子 文春文庫 2017年2月)。加藤は1960年生まれ、桜蔭高校から東大文学部、同大大学院国史学専門課程単位取得満期退学、現在は東大大学院人文社会科学研究科教授。ウイキペディアによると在学中は民青だった。さて「とめられなかった戦争」だが、ユニークなのは第1章「敗戦への道」、第2章「日米開戦 決断と記憶」、第3章「日中戦争 長期化の誤算」、第4章「満洲事変 暴走の原点」と歴史を遡る構成になっているところ。こちらの方が歴史の因果関係がよく分かるかもしれない。第2次世界大戦で日本が闘った戦争のことを一般的には太平洋戦争と呼ぶ。岩田は大東亜戦争と呼称する。大東亜戦争とは「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」ということで開戦時の東条内閣が決めた。戦後GHQによって軍国主義と切り離しえない用語として大東亜戦争という名称が禁じられた。アメリカ側の戦争の呼称であった太平洋戦争が使われるようになったという。太平洋戦争では中国大陸や東南アジアでの戦争が忘れられがちになるという難点があるので、最近では「アジア・太平洋戦争」という名称が提唱され始めている。
この戦争の悲惨さと愚かさを加藤は2つの図版で的確に表現している。1つは「岩手県出身兵士の戦死者数の推移」。戦争の始まった1941年12月8日からを含め1942年は1222人だったが、1943年には2582人、1944年には8681人とうなぎ上りに増加している。戦争の終わった1945年は8月15日までで1万3370人が戦死、8月16日以降も4869人が死んでいる。加藤は「日中戦争・太平洋戦争の戦死者310万人の大半は、サイパン以後の1年余りの期間に戦死している」と述べる。指導者が戦争終結をもっと早く決断していれば失われなかった命も多かったのだ。もう1つは「日本とアメリカの国力の差―開戦時(1941年)」である。アメリカは日本に対して、国民総生産で約12倍、すべての重化学工業・軍需産業の基礎となる粗鋼生産も12倍、自動車の保有台数は実に161倍、石油資源にいたっては約777倍である。アメリカに対して総力戦を挑むなど所詮は無謀だったのだ。ここにも、国民を無謀な戦いに追い込んだ指導者の責任を感じてしまう。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
松浦玲の「勝海舟」(筑摩書房)を読了。結局、読み終わるまで1週間ほどかかってしまった。本文のみで700ページを超え、(注)と(参考文献)を加えれば900ページという大著ということもあるが、海舟の日記や書簡を原文のまま引用することが多く、その解読に手間取ったこともある。松浦玲は昭和6年生まれだから古文や漢文は基礎的な教養は小学校、中学校で身につけたうえに、京大は放校処分されたが立命館大学大学院修了後、京都市史料編輯主幹を務めている。幕末や明治時代の文章を原文で読むことなど容易なことだと思われる。私はというと引用された原文の意味もよく分からなかったが、さすがに地の文は理解できた。そのうえで言うと幕末、明治の日本を生きた勝海舟という「傑物」の生涯を残された資料から等身大に描き切ったと言える。本書を読んで私は勝の生涯は5期に分けることができると思った。第1期は誕生(1823年)から剣術修業、蘭学修業を経て幕府に海防に関する建言書を提出、蕃書翻訳勤務を命じられる(1855年)まで。第2期は長崎伝習を命じられてから咸臨丸艦長として太平洋を往復する(1860年)まで、幕府海軍の草創期である。第3期は1867年の大政奉還、王政復古のクーデターまで。幕臣として兵制改革に尽力する一方で第2次長州征伐の後片付けに奔走する。第4期は江戸城明け渡し(1868年)から明治維新政府に協力し参議海軍卿に就任し、辞任する(1874年)まで。第5期は海軍卿を辞任して以降、死ぬまで。元老院議員としての肩書は残るがもっぱら政界、官界の指南役として明治の社会で重きをなす。
私はこの本を読んで初めて知ったが、海舟は経済的に困窮する旧幕臣に対して経済的な援助を行っていた。資金は海舟の懐から出たこともあるし、徳川家から出たこともある。援助は旧幕臣に止まらず、明治維新で没落した士族にも及んでいたらしい。もうひとつは海舟の長男、小鹿はアメリカの海軍兵学校を卒業後、明治海軍の士官となるが健康に優れず40歳で病死する。小鹿の長女と結婚させたのが徳川慶喜の10男、精である。慶喜と海舟はときに対立することもあったが、海舟は終生、徳川家の恩顧を忘れることはなかった。海舟は日清戦争に反対していたことも初めて知った。これは後の幸徳修水や内村鑑三の非戦論や反戦論とは少し違うと思う。海舟は清国はもとより韓国も独立国として見ており、文化的にはむしろ尊敬していたと思われる。日清戦争で得た遼東半島を独仏露の三国干渉によって日本は清に返還するのだが、海舟は返還するのが筋という立場である。明治政府の主流は薩摩、長州を主流とする藩閥政府なのだが、海舟は薩摩贔屓である。西郷隆盛と親しかったことが大きかったと思えるが、長州流の合理主義とは肌が合わなかったのではないか。海舟と言えば福沢諭吉の「瘦我慢の説」を外すことはできない。福沢は「戊辰戦争のとき徳川は徹底的に抗戦し、最後は城を枕に討死すべきだった」と言うのである。海舟は「行蔵は我ニ存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず存候」と突っぱねたという。「私の行動は自らの信念によるもの、けなしたりほめたりは他人の主張、私は知らぬこと」という意味か。これは海舟に軍配が上がったと私は見る。

5月某日
林真理子の「我らがパラダイス」(集英社文庫 2020年3月)を読む。我孫子市民図書館が6月まで休みなので家にあってまだ読んでいない本を読んできたのだが、小説を読みたくなって我孫子駅北口のイトーヨーカドーの3階にある書店に行く。林真理子の文庫本の新刊があったので買ったのだ。私の読んだ林真理子の小説はどれも面白かった。秘かに田辺聖子先生の後継者と私は考えているのですが。まぁたんに私が考えているだけですが。この小説の初出は2016年に毎日新聞に連載され、単行本は2017年3月に毎日新聞社から刊行されている。日本で最高級レベルとされる有料老人ホームを舞台に、受付職員の細川邦子、看護師の田代朝子、食堂のウェイトレスの丹羽さつきの人生が交差する。3人とも高齢の親を抱えどこかの施設へ入居させたいと思っているが、自分の勤めるホームは入居一時金が8600万円と高嶺の花なのだ。文庫本の帯に「国民の大問題、『介護』と『格差』に切り込む長編小説」とあったが、このことである。受付職員と看護師はホームの管理者や職員の眼を欺いて自分の親をこの有料老人ホームに入居させることに成功し、丹羽さつきは入居者のダンディな元編集者と結婚する。管理者は庶民=さつきが有産階級の入居者と結婚することが認められない。結構を認めることはさつきが有産階級となることを認めることだからだ。結局、庶民の3人は「蜂起」し、一部の入居者も同調し上層階に立て籠る。入居者で元学生運動家も登場し、彼の指導でバリケードを構築し火炎瓶も製造、投擲する。解説の上野千鶴子は「入居者の元活動家は自分が差別者の側にいることを自覚しないのだろうか」と疑問を投げかけるのだが。

5月某日
近所の喫茶店「NORTH LAKE」には古本も置いている。高橋和巳の本が3冊あったので買うことにする。3冊で150円!。「堕落」(河出書房新社 1969年2月)から読み始める。孤児院の園長、青木隆造が主人公で、青木は満州国建国の理想に破れた引揚者の設定。青木が新聞社から表彰されるシーンが冒頭である。孤児を救うという理想に燃えている青木は、しかし秘書の水谷を犯し公金を横領する。そして金を奪おうとした青年を持っていた傘で刺す。高橋和巳の小説は「救い」のないのが特徴、初版の出た1969年は私が学生運動で逮捕起訴された年でもある。その頃、私たちに圧倒的に支持されていた小説家が高橋だ。「自己否定」という熱に浮かされていた私の眼に、高橋も同じ熱に浮かされていると映ったのかもしれない。

5月某日
1週間ぶりで電車に乗って東京へ。鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ寄ってランチ。お店の大谷君に聞くと夜も営業を再開したそうだ。「7時ラストオーダー、8時終了ですけどね」。児谷ビル3階の社保研ティラーレで次回の「社会保障フォーラム」の打ち合わせを佐藤社長、吉高会長、社会保険研究所の水野氏らと。帰りに上野駅の本屋「BOOK EXPRESS」で月刊文藝春秋とPHP新書の「満洲事変」を購入する。文藝春秋は新型コロナウイルスの特集を読みたかったためだが、中央省庁の人事の噂を掲載している「霞が関コンフィデンシャル」をのぞくと、鈴木俊彦事務次官(58年)の後任レースは吉田学医政局長(59年)がトップで、次官と同期の樽見英樹新型コロナウイルス感染症対策推進室長も見逃せないとしていた。まぁ人事は所詮「ひとごと」ですから。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
西部邁の「ニヒリズムを超えて」(日本文芸社 1989年7月)を読む。西部が東大教養学部教授を辞めたのが1988年3月だから、東大を辞めてから1年4カ月後の出版ということになる。ただし収められている文章は85~88年11月に雑誌等に発表したものだ(ひとつだけチェスタトンについて論じた「保守の情熱」は書下ろし)。東大を辞める以上、国家公務員としての糧秣を絶たれるわけだから、それなりの覚悟が必要だったように思う。そのためかチェスタトン論はじめ三島由紀夫論の「明晰さの欠如」などは私には難しかった。私が西部の本に親しんだのは、西部の個人的な回想(「60年安保 センチメンタルジャーニー」「友情 ある半チョッパリとの45年」「妻と僕 寓話と化す我らの死」)が最初だったためか、彼の文学や哲学、経済学の本格的な論考は閾値が高いのである。しかし書名「ニヒリズムを超えて」の意味はささやかながら理解できたように思う。「保守の情熱」でチェスタトンを借りて「知識や道徳の絶対基準はない」とする相対主義は「現代人にとっての陥穽」である、と言い切っている。方法論としての相対主義は、意味論としては虚無主義=ニヒリズムに他ならない。ということは西部が言論戦に当たって掲げた保守主義とは、虚無主義、相対主義に抗するものであったと思われる。西部の言う保守主義は私なりの理解では精神の孤高に近しい気がする。それは本書に収録されている3人(田中美知太郎、清水幾太郎、福田恒存)の知識人論からも伺えるのである。

5月某日
西部は60年安保のとき東大教養学部の自治会委員長であり、このときの全学連委員長が唐牛健太郎である。二人の交流は唐牛が1984年享年47歳でがんで死ぬまで続く。私は唐牛健太郎の二番目の奥さん、真喜子さんとは知り合いでその縁だったのかどうか「唐牛伝―敗者の戦後漂流」(佐野眞一 小学館 2016年8月)の出版記念パーティに出席したことがある。西部は2018年1月に多摩川で入水自殺しているが、その前年の17年に真喜子さんは亡くなっている。西部と真喜子さんが仲が良かったことも知っていたから、真喜子さんを元気づけようと電話したら「唐牛は昨年亡くなりました」と聞かされた。出版記念パーティのときはいつもと変わらず元気だったのにと思ったものだった。「唐牛伝」を久しぶりに読み返すことにする。佐野眞一は文献もよく調べ何よりも関係者(このなかには真喜子さんも含まれる)も丹念に取材している。再読しても70年前の安保闘争の指導者として活動し(指導者としての活動期間は3年に満たなかったと思う)、36年前に市井の一私人として死んだ唐牛の評伝として非常に面白かった。おそらく唐牛の評伝としては最初で最後のものとなると思われる。唐牛は1937年北海道函館市に庶子として生を受け、北大に入学。それまでは東大や京大から選出されるのが常だった全学連委員長に就任した。安保闘争の敗北後、「何者でもない死を遂げるまで」高度成長期の日本を駆け抜けた。真貴子さんも「イイオンナ」だったが、唐牛も負けずに「イイオトコ」だったのだろうと思う。

5月某日
NHKテレビのBSプレミアムで映画「ドクトルジバゴ」をやることが新聞のテレビ欄に告知されていた。「ドクトルジバゴ」は高校生のとき、同級生の小川邦夫君と観に行った記憶がある。なんだけれど、今回テレビで観ると高校生の私は筋を全然理解していなかったことが判明した。ジバゴ役を演じたオマー・シャリフだったこととジバゴの奥さん役がジュラディン・チャップリンだったことは覚えているが、それ以外はほとんど忘れているというか、最初から理解していなかったとしか思えない。日本で公開されたのが1966年6月とあるからその頃私は、北海道の田舎の高校3年生、外人の俳優の顔と名前を覚えられなかったとしても無理ないかもしれない。それまでアメリカ映画を中心に外国映画を見たことはあった。しかしその大半が西部劇か戦争映画で、筋も比較的単純でわかりやすかった。
今回、私なりに筋を要約すると次のようになる。幼くして両親を失ったジバゴは資産家の家に引き取られる。ジバゴは優秀な成績で医学校を卒業し医師となり資産家の娘、Tonyaと結婚する。ジバゴは医師としてだけでなく詩人としても注目されるようになる。ときはロシア革命前夜で、労働者の反政府デモやそれを弾圧するロシア騎兵隊の姿も描かれる。デモの中でワルシャワ労働歌やインターナショナルが歌われているが、それは今だからわかることで、田舎の高校生には「外国の歌」という感覚しかなかった。ジバゴも医師として従軍するが、そこでかつて見かけたLaraと再会する(再会にもドラマがあるのだが話が複雑になるので割愛)。Tonyaという愛する妻がありながらLaraとも恋におちてしまうのだ。当時の私はここら辺が全く理解できていなかったようだ。全編に主題曲「Laraのテーマ」が流れるのだが、当時の私は「妻以外の女性と恋愛する」ということが理解できなかったうえにLaraとTonyaをごっちゃにしていたと思う。復員してきたジバゴはTonyaと息子、それにTonyaの父親と再会するが、革命前に住んでいたTonyaの邸宅は革命政府に接収されてしまう。粗筋をゴチャゴチャ述べてもしょうがないのでまとめてしまうと、戦争と革命という激動の時代に翻弄されながら「愛」に生きた一人の知識人を描いた映画というわけですね。

5月某日
「瘡瘢旅行」(西村賢太 講談社 2009年8月)を読む。瘡瘢は「そうはん」と読む。意味は分からないのですが。この本も以前に買って一度読んだ本なのだが、何しろ図書館も休み、不用不急の外出は自粛ということなので、再読することにする。発行日からして10年ほど前に買った本で、内容は例によってほとんど覚えていない。表題作を含む3作が納められている。著者の分身たる貫太と秋恵の同棲ものである。女性にほとんど持てたことのない貫太は漸くにして秋恵という娘と所帯を持つに至る。定職もなく戦前の作家、藤澤清造の古書の収集に異常な情熱を持つ貫太、そんな貫太をレジのバイトで支える秋恵。何か気に喰わないことがあると殴る蹴るの暴力を働く貫太。立派なドメスティックバイオレンスである。本の帯に「こういう風にしか生きていけない」というコピーが印刷されているが、まさにその通りである。私はしかし西村賢太の小説には魅かれるものがある。けっこうユーモラスな描き方もしているのだが、その根底には哀しさがあると思う。「こういう風にしか生きていけない」という哀しさが。

5月某日
監事をしている一般社団法人の監事監査があるのでほぼ1か月ぶりで東京は虎ノ門へ。会計のことはもとより詳しくないので、もう一人の監事さんのやることに従う。監査報告書に署名捺印して終了。神田の社保研ティラーレに向かう。佐藤社長、吉高会長に社会保険研究所の2人を加えて地方議員向けの「地方から考える社会保障フォーラム」をどうするか協議。当初は5月開催を予定していたのだが新型コロナウイルスによって延期を余儀なくされたのだ。とりあえず開催を8月まで延期することにして、来週また会議をすることに。

5月某日
大谷源一さんにもらった「勝海舟」(松浦玲 筑摩書房 2010年)を読み始める。上製本で900ページを超える大著なので1章の「剣から蘭学へ」から8章の「大政奉還から彰義隊戦争まで」を読み終えたところでの感想を記す。海舟は1823(文政6)年、勝小吉の長男として生まれる。父親の勝小吉という人は面白い人で幕臣ながら生涯無役、剣の腕に優れ道場破りをして回り、不良旗本として恐れられたという(ウイキペディア参照)。勝海舟は剣でも頭角を現すが、世間で知られるようになったのは蘭学である。幕末、ペリー来航以前からアメリカだけでなくロシア、イギリス、フランスが日本への接近を図る。当時、日本と西欧世界の唯一の窓口であったオランダの学問、蘭学とオランダ語の需要が高まったのである。海舟は長崎海軍伝習所でオランダの海軍士官から航海術や数学や物理を学び、幕府の遣米使節に咸臨丸で随行する。帰朝後、幕府海軍の本格的な創設に着手する。この辺が海舟の前半生のハイライトの一つだろう。前半生のもう一つのハイライトは大政奉還から王政復古の大号令、江戸城無血開城を経て江戸幕府の実質的な幕引きを図ったことだろう。海舟は徳川慶喜が主導した大政奉還は公だが薩長が主導した王政復古は私である、と主張している。確かに王政復古は薩長と岩倉具視らの一部公家のたくらんだクーデターとも言えるのである。著者の松浦玲という人は京都大学を学生運動で放学処分され立命館大学大学院を修了している。昭和6(1931)年生まれだから今年89歳か、他の著作も読んでみたい。

モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
家にあった「昭和維新試論」(橋川文三 朝日新聞社 1984年4月)を読む。今から36年前に出版された本である。この本は数年前、我孫子市民図書館のロビーに「リサイクル本」として出されていたものを家に持ち帰ったものである。何日か前に読んだ中公新書の「5.15事件」が面白かったので、事件の首謀者たちに共通するスローガンだった昭和維新に興味を持ったためだ。しかし本書は昭和維新そのものを論じたものではなく、昭和維新に関連する人物や出来事を叙述することによって、第一次世界大戦後の日本を覆ったある種の閉塞感を分析する。本書は「渥美勝のこと」と題する章から始まる。渥美勝は明治10(1877)年、滋賀県彦根に生まれ一高から京大に進学するも中退、明治44(1911)年に上京する。著者によるとこの頃すでに「神政維新」という独特の理念を抱いていた。大正2(1913)年に神田須田町の広瀬中佐の銅像前に立って毎日のように「桃太郎」と大書した旗のもと「真の維新を断行して、高天原を地上に建設せよ」と演説していた。著者は神政維新に昭和維新の原型を見るのだ。しかし上京してからの渥美は正業に就くことはなく、生活は後援会からの資金援助などによって賄われていた。渥美は昭和3(1928)年、遊説先で51歳で死ぬが葬儀は日本青年館で頭山満を葬儀委員長に営まれ参会者200名と盛会であった。今日ではほとんど顧みられることのない渥美だが、当時の渥美を知る人たちにとっては「昭和維新の願望をもっともナイーブに、鮮烈に印象づけた人物が渥美であった」のである。この本は私にとって決して読みやすい本ではなかった。しかし著者の橋川文三と同じく気になる存在である。

4月某日 
我孫子市民図書館は休館日をさらに延長、5月中は休館となったらしい。我孫子駅の反対側のイトーヨーカドーには書店が入っていたことを思い出す。書店で文庫本を2冊購入して早速、読むことにする。1冊目は田辺聖子先生の「夜の一ぱい」(浦西和彦選 中公文庫 2014年1月)である。田辺先生の酒を巡るエッセイを集めた文庫オリジナルという。選者の浦西和彦は元関西大学教授で関西大学の図書館長を務めていたとき、田辺先生が図書館に川柳関係の資料の閲覧に見えたのが付き合いの始まりと「解説」にある。収録されているエッセイはどれも面白かったが、私には「若山牧水は、いい酒の歌を残している」で始まる「ぬすみ酒」が面白かった。牧水と言えば「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」が有名だが、体を壊して医者に酒を禁じられた。そのときの歌が「酒やめむそれはともあれながき日のゆふぐれごとにならば何とせむ」である。禁じられればなおのこと想いが募るのが人情、牧水は「足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の瓶は立ちて待ちおる」「妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲み噎せ鼻ゆこぼしつ」という歌を残している。田辺先生は「私は、ぬすみ酒などしない。すぐ顔が赤くなるほうだから、たちまちわかってしまう」と書く。しかし亭主(田辺先生の夫、開業医のカモカのおっちゃん)が体調を崩してあまり飲めぬとき「亭主が飲まんのに、女房のくせに飲んでる奴があるか」となじられる。それで亭主がテレビに気を取られているすきなどに「いそいで飲む」、「これもいわばぬすみ酒であろう」と田辺先生は綴るのである。
 この際だからもう少し先生のエッセイを紹介しよう。「きさらぎ酒場」は1984年2月9日号に掲載されているが、「民衆の酒焼酎は 安くて早く酔える ウイスキーは 高すぎる ビールなら 早くさめる」と赤提灯で若者が歌っている様が紹介されている。これは「民衆の旗 赤旗は」の替え歌であるのだが、1960年代末から1970年代初頭の私の学生時代もかすかにうたった記憶がある。ただ歌詞が微妙に違っていて私どもは「民衆の酒焼酎は 安くて辛くて旨い 高くつく一級酒 その陰に搾取あり」と歌っていたような気がする。先生は「感傷旅行(センチメンタルジャーニー)」で芥川賞を受賞し文壇にデビューする。内容は覚えていないが党員(この場合の党員は共産党員。これが自民党員や公明党員では様にならない)と若い女性の恋愛をテーマにしていたように思う。それはさておきエッセイで先生は「終戦後の共産党はピンクの夢色に光りかがやいていた」と書く。おっちゃん(カモカのおっちゃんである)は「共産党と恋愛中の女は、しつこいことで似てる」さらに「感じとして、ですよ、共産党に何か、かかわりもつと、アトアトまでゴチャゴチャと『いうてこられ』そうな気がする」と反論する。庶民の反共感情をうまく表現していると思う。カモカのおっちゃんはドクターであるからしてインテリの部類に入るのだが思考も嗜好も庶民である。そして先生の左翼贔屓というか、変革を志す若者への同情心、それは「夕ごはん、たべた?」という小説にも表れているが、も変わらないなぁと思ってしまう。

4月某日
書店で買った文庫本のもう1冊「彼女に関する十二章」(中島京子 中公文庫 2019年3月)を読む。単行本は2016年の4月、初出は「婦人公論」2014年7月7日号~2015年7月14日号である。中島京子は割と好きな作家で「小さなおうち」「妻が椎茸だったころ」「長いお別れ」を読んだ記憶がある。本書も書店で表紙とタイトルだけを見て買ったので「彼女に関する十二章」というタイトルが伊藤整の「女性に関する十二章」に因んでいることも小説を読んで初めて知った。伊藤の「十二章」は1954年のベストセラーで、中島の「十二章」と同じ婦人公論に連載された。中島の「十二章」の主人公は50歳の主婦の聖子、夫の保は編集プロダクションを経営し、聖子は週に3日税理士事務所を手伝っている。一人息子の勉は大学卒業後、地方の大学院に進学している。小学生の聖子の初恋の人である久世佑太が死亡し、遺品を整理していたら佑太と聖子の写真が出て来たので、迷惑でなかったら郵送したいという手紙が佑太の息子の穣から届く。聖子は税理士事務所の所長から頼まれNPO法人の経理も見ることになる。このNPO法人に出入りするのが元ホームレスの片瀬氏。帰省した息子の勉は同棲中のトヨトミチカコを連れてくる。まぁ主な登場人物はこの程度なんですが、これらの人々の日常を聖子の目線で描いていくわけです。「小さなおうち」もそうだったが、中島は庶民の何でもない日常に潜むドラマを描かせたら本当に上手だと思うね。

4月某日
家にある西部邁の本でまだ読んでいない本を読んでしまおう、ということで最初は「大衆への反逆」(1983年7月 文藝春秋)を読む。今から37年前に出版された本だが、内容はまったく古びているとは思えなかった。この本の出版当時は、西部は東大教養学部の助教授だが、86年に教授に就任している。だが88年には自身が推薦した中沢新一の助教授就任が教授会で否決されると、これに抗議して教授を辞任している。この本を読んで改めて東大教授など辞めてよかったと思う半面、教授として残っていれば稀代の人文学者となったかもしれないという思いも残る。西部は60年安保の全学連と共産主義者同盟の指導者の一人であるが、関係したいくつかの裁判が終わると左翼から完全に離れた。本書には雑誌その他に発表された文明論や状況論、人物論などが掲載されている。西部が最も影響を受けた知識人の一人と言えばスペインの哲学者、ホセ・オルテガ・イ・ガッセトだが、そのオルテガについては次のように述べている。「オルテガがいわんとするのは、孤独もしくは絶望という生の根本形式から出発しない限り、自我の純正な基盤はえられないし、それがえられなければ真正な文化もつくられないのだ、ということである」。この短文のなかにさえ「孤独、絶望、自我の純正な基盤、真正な文化」といった西部の好みそうな単語があふれている。
オルテガに対してマルクスは「私がマルクスの著作とふれあったのはごく短い期間」であり、マルクスの世界変革は、疎外から解放そして物象化の克服らしいとして、「このおそろしく真面目な提案が私をほとんど窒息させる。疎外や物象化から自由になった自分を想像することなぞ、私にはできない」とそっけない。ヴェブレンという経済学者のことを私は知らない。しかし、この「赤貧と労苦と病弱と孤独のほとんど感動的といっていいような」人生を送った経済学者に対して西部は「いくらとぼけてみてもやはり陰にこもってしまうといった調子のかれの皮肉は、罪人でありながら自分の罪状をちっとも自覚せぬ似非知識人にたいして向けられたものである」と評する。西部はヴェブレンのなかにほとんど自分自身を見ているとしか思えない。在日朝鮮人であり後にヤクザとなる札幌南高校の親友について書いた「不良少年U君」、特攻帰りで右手首を失っていた高校の日本史の教師のことを綴った「或る教師」などを読むと、西部の「熱き友情」とそれと裏腹な「交流不全感」に想いを致すことになる。

モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
家に閉じこもってばかりは体に毒、といっても近所を散策するのもいささか飽き気味。ということで午後、電車に乗る。我孫子駅から快速電車の上野行に乗車、座席に一人おきに乗客が座っている。松戸で特別快速の品川行に乗り換え。いつもは特別快速で座れたことはないのだが、今日はらくらく座れた。上野駅で下車、上野駅構内の書店「BOOK EXPRESS」に寄って、文庫本と新書を購入して我孫子へ帰る。我孫子で駅前の居酒屋「七輪」の顔を出すと、こちらもカウンターに一人おきで客が座っている。隣を見ると「愛花」の常連の荒岡さんがいたのでおしゃべり。このところ家で奥さんとしか会話しないので新鮮だった。

4月某日
上野駅構内の書店で買った「路(ルウ)」(吉田修一 文春文庫 2015年5月 単行本は2012年11月)を読む。帯に「ドラマ化決定!NHK総合2020年5月放送予定」とあったが、新型コロナでどうなることやら。総合商社、大井物産に勤める入社4年目の多田春香が主人公。青山通りに面する本社ビルの20階にある「台湾新幹線事業部」で春香は、新幹線受注の可否の電話を待っている。春香は東京生まれの神戸育ち、関西の私立大学を卒業後に商社に入社した。在学中に旅行で訪れた台湾で一人の青年と出会う。再会を約束し青年からは住所を記したメモを貰うのだが春香の不注意から失くしてしまう。劉人豪(通称エリック)という名の青年は当時、台湾の大学の建築科に通う大学生。阪神大震災の報に接して春香の身を案じて神戸に駆け付けるが春香に出会うことはなかった。エリックは卒業後、日本の大学院で学び九段下の設計事務所で働く。新幹線は大井物産が受注し春香は台北支社へ異動する。春香はエリックのことは忘れられないが、現在はホテルマンの繁之と恋愛中である。新幹線の受注から建設、試運転、開業までを物語の縦糸とするなら春香とエリックの別離と再会、春香と繁之の恋愛と別離、さらに幾つかの恋愛と友情が物語の横糸を構成する。吉田修一の小説はいつも楽しまさせてもらうのだが、今回はストーリーに加えて台湾の自然や風物、食べ物の巧みな描写に感心させられた。台湾には奥さんと一度訪ねたことがあるが、また行きたくなってしまった。

4月某日
朝日新聞朝刊1面に「米原油初のマイナス価格」「世界の景気悪化深刻」の見出しが。記事は「米国で原油先物価格が暴落し、史上初めて「マイナス価格」に落ち込んだ。新型コロナウイルスを封じ込める措置によりエネルギー需要が低迷し、貯蔵する場所がないほど原油が余っているためだ。マイナス価格自体は一時的なものとみられるが、原油市場の動揺は、世界的な景気悪化の深刻さを伝える」と続く。記事によるとマイナス価格というのは、原油を売る側が手数料を払って買い手に引き取ってもらうということだ。日本でもガソリンの値段が13週連続して下がっているとTVニュースで報じられていた。消費者の「ガソリンが安くなるのは嬉しいが、どこにも行けないし」という声も紹介されていたが、事態はもっと深刻なのではないか。同日の朝日新聞夕刊では「原油先物6月もの、一時6ドル台」として、21日の米ニューヨーク商業取引所で米国産WTI原油の先物価格は前日のマイナス価格からは持ち直したが、取引の中心となった6月物は一時、前日の3分の1の1バレル=6ドル台まで暴落し、これを受けて米株式相場も急落している、と報じている。原油、株式相場の下落が続けば、他の商品相場も下げざるを得ない。おそらくすでに下がっているに違いない。日本を含む世界資本主義は第2次世界大戦後、不況は何度も経験しているが、1929年のニューヨーク株式市場の暴落に端を発した世界大恐慌のような恐慌は体験していない。不況になると公共事業の増大などによって景気の下支えを図ってきたためだ。しかし新型コロナ不況に対してはどうか。赤字国債を増発して新型コロナ対策の費用を捻出しているのが現状だ。さらに不況対策で赤字国債に頼るとすれば、国債価格の暴落を招きかねない。国債価格の暴落=金利の上昇である。日本の財政破綻が現実となりかねないのだ。

4月某日
「五・一五事件-海軍青年将校たちの「昭和維新」」(小山俊樹 中公新書 2020年4月)を読む。1932(昭和7)年5月に起きた5.15事件は4年後に起きた2.26事件に比べると注目度が低い気がする。2.26は小説や映画の素材に何度か取り上げられているが5.15はそうでもない。というようなこともあって上野駅構内の書店で購入することにした。2.26と5.15は何しろ規模感が違う。5.15の直接的な被害者は犬養毅首相と護衛の巡査だけだが、2.26では陸軍の歩兵第1連隊などから将校、下士官、兵1500人余りが参加、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺され、警察官5名が殉職している。2.26は本格的なクーデター未遂事件だが5.15はテロの域を出ない。2.26の首謀者は民間人の北一輝を含め、将校らは銃殺されたが、5.15は事件から6年後に三上卓らの首謀者も釈放されている。釈放後、三上は近衛文麿に面会したり、東条英機の暗殺計画に一枚かんだりしている。戦後の三上の人生が興味深い。右翼団体の全国的な糾合を試みたり、台湾からペニシリンなどの密輸を図ったり(逮捕され入獄している)、参議院選挙に全国区から出馬したり(落選)している。何か「永遠の国士」という気がするね。

4月某日
朝日新聞の朝刊1面準トップ「フランス介護崩壊 死者4割が集中」という見出しが白抜きで踊る。本文は「新型コロナウイルスの感染が拡大している欧州で、高齢者向けなどの介護施設が危機的状況に陥っている。フランスでは全体の死者数の約4割が施設の入所者らに集中している」と報じている。2面では「日本も募る懸念」として、日本でも介護施設やデイサービスでの集団感染が各地で発生、緊急事態宣言で休業や事業を縮小する事業者が増え、経営不安が広がると報じている。介護事業者の知り合いが多いので心配だがどうすることもできない。同紙のオピニオン欄では「新型コロナ まさかのマスク2枚」というタイトルで3人の識者が意見を述べている。小川仁志山口大教授(哲学)は「すべてが場当たり的で、妥協の産物です。いまの政治は世の中の感覚、民意とずれてしまっているように感じます」、テレビでよく見かける山口真由信州大学特任准教授は、モリカケ問題や桜を見る会などのスキャンダルでもそれほど支持率が下がらなかった安倍政権も、コロナ危機は私たちの生活に多大な影響を及ぼし、国民の不満が噴き出ていると分析している。ユニークだったのは、お笑いコンビ髭男爵の山田ルイ53世の「安倍晋三首相の周りにはツッコミの人材がいないのではと心配です」という意見。本当にそうだと思う。長期政権が続くと首相に意見を言う人が遠ざけられ、周りをイエスマンで囲みがちになる。「マスク2枚」は安倍政権のつまづきの石となるかも知れないよ。