モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
西部邁の「ニヒリズムを超えて」(日本文芸社 1989年7月)を読む。西部が東大教養学部教授を辞めたのが1988年3月だから、東大を辞めてから1年4カ月後の出版ということになる。ただし収められている文章は85~88年11月に雑誌等に発表したものだ(ひとつだけチェスタトンについて論じた「保守の情熱」は書下ろし)。東大を辞める以上、国家公務員としての糧秣を絶たれるわけだから、それなりの覚悟が必要だったように思う。そのためかチェスタトン論はじめ三島由紀夫論の「明晰さの欠如」などは私には難しかった。私が西部の本に親しんだのは、西部の個人的な回想(「60年安保 センチメンタルジャーニー」「友情 ある半チョッパリとの45年」「妻と僕 寓話と化す我らの死」)が最初だったためか、彼の文学や哲学、経済学の本格的な論考は閾値が高いのである。しかし書名「ニヒリズムを超えて」の意味はささやかながら理解できたように思う。「保守の情熱」でチェスタトンを借りて「知識や道徳の絶対基準はない」とする相対主義は「現代人にとっての陥穽」である、と言い切っている。方法論としての相対主義は、意味論としては虚無主義=ニヒリズムに他ならない。ということは西部が言論戦に当たって掲げた保守主義とは、虚無主義、相対主義に抗するものであったと思われる。西部の言う保守主義は私なりの理解では精神の孤高に近しい気がする。それは本書に収録されている3人(田中美知太郎、清水幾太郎、福田恒存)の知識人論からも伺えるのである。

5月某日
西部は60年安保のとき東大教養学部の自治会委員長であり、このときの全学連委員長が唐牛健太郎である。二人の交流は唐牛が1984年享年47歳でがんで死ぬまで続く。私は唐牛健太郎の二番目の奥さん、真喜子さんとは知り合いでその縁だったのかどうか「唐牛伝―敗者の戦後漂流」(佐野眞一 小学館 2016年8月)の出版記念パーティに出席したことがある。西部は2018年1月に多摩川で入水自殺しているが、その前年の17年に真喜子さんは亡くなっている。西部と真喜子さんが仲が良かったことも知っていたから、真喜子さんを元気づけようと電話したら「唐牛は昨年亡くなりました」と聞かされた。出版記念パーティのときはいつもと変わらず元気だったのにと思ったものだった。「唐牛伝」を久しぶりに読み返すことにする。佐野眞一は文献もよく調べ何よりも関係者(このなかには真喜子さんも含まれる)も丹念に取材している。再読しても70年前の安保闘争の指導者として活動し(指導者としての活動期間は3年に満たなかったと思う)、36年前に市井の一私人として死んだ唐牛の評伝として非常に面白かった。おそらく唐牛の評伝としては最初で最後のものとなると思われる。唐牛は1937年北海道函館市に庶子として生を受け、北大に入学。それまでは東大や京大から選出されるのが常だった全学連委員長に就任した。安保闘争の敗北後、「何者でもない死を遂げるまで」高度成長期の日本を駆け抜けた。真貴子さんも「イイオンナ」だったが、唐牛も負けずに「イイオトコ」だったのだろうと思う。

5月某日
NHKテレビのBSプレミアムで映画「ドクトルジバゴ」をやることが新聞のテレビ欄に告知されていた。「ドクトルジバゴ」は高校生のとき、同級生の小川邦夫君と観に行った記憶がある。なんだけれど、今回テレビで観ると高校生の私は筋を全然理解していなかったことが判明した。ジバゴ役を演じたオマー・シャリフだったこととジバゴの奥さん役がジュラディン・チャップリンだったことは覚えているが、それ以外はほとんど忘れているというか、最初から理解していなかったとしか思えない。日本で公開されたのが1966年6月とあるからその頃私は、北海道の田舎の高校3年生、外人の俳優の顔と名前を覚えられなかったとしても無理ないかもしれない。それまでアメリカ映画を中心に外国映画を見たことはあった。しかしその大半が西部劇か戦争映画で、筋も比較的単純でわかりやすかった。
今回、私なりに筋を要約すると次のようになる。幼くして両親を失ったジバゴは資産家の家に引き取られる。ジバゴは優秀な成績で医学校を卒業し医師となり資産家の娘、Tonyaと結婚する。ジバゴは医師としてだけでなく詩人としても注目されるようになる。ときはロシア革命前夜で、労働者の反政府デモやそれを弾圧するロシア騎兵隊の姿も描かれる。デモの中でワルシャワ労働歌やインターナショナルが歌われているが、それは今だからわかることで、田舎の高校生には「外国の歌」という感覚しかなかった。ジバゴも医師として従軍するが、そこでかつて見かけたLaraと再会する(再会にもドラマがあるのだが話が複雑になるので割愛)。Tonyaという愛する妻がありながらLaraとも恋におちてしまうのだ。当時の私はここら辺が全く理解できていなかったようだ。全編に主題曲「Laraのテーマ」が流れるのだが、当時の私は「妻以外の女性と恋愛する」ということが理解できなかったうえにLaraとTonyaをごっちゃにしていたと思う。復員してきたジバゴはTonyaと息子、それにTonyaの父親と再会するが、革命前に住んでいたTonyaの邸宅は革命政府に接収されてしまう。粗筋をゴチャゴチャ述べてもしょうがないのでまとめてしまうと、戦争と革命という激動の時代に翻弄されながら「愛」に生きた一人の知識人を描いた映画というわけですね。

5月某日
「瘡瘢旅行」(西村賢太 講談社 2009年8月)を読む。瘡瘢は「そうはん」と読む。意味は分からないのですが。この本も以前に買って一度読んだ本なのだが、何しろ図書館も休み、不用不急の外出は自粛ということなので、再読することにする。発行日からして10年ほど前に買った本で、内容は例によってほとんど覚えていない。表題作を含む3作が納められている。著者の分身たる貫太と秋恵の同棲ものである。女性にほとんど持てたことのない貫太は漸くにして秋恵という娘と所帯を持つに至る。定職もなく戦前の作家、藤澤清造の古書の収集に異常な情熱を持つ貫太、そんな貫太をレジのバイトで支える秋恵。何か気に喰わないことがあると殴る蹴るの暴力を働く貫太。立派なドメスティックバイオレンスである。本の帯に「こういう風にしか生きていけない」というコピーが印刷されているが、まさにその通りである。私はしかし西村賢太の小説には魅かれるものがある。けっこうユーモラスな描き方もしているのだが、その根底には哀しさがあると思う。「こういう風にしか生きていけない」という哀しさが。

5月某日
監事をしている一般社団法人の監事監査があるのでほぼ1か月ぶりで東京は虎ノ門へ。会計のことはもとより詳しくないので、もう一人の監事さんのやることに従う。監査報告書に署名捺印して終了。神田の社保研ティラーレに向かう。佐藤社長、吉高会長に社会保険研究所の2人を加えて地方議員向けの「地方から考える社会保障フォーラム」をどうするか協議。当初は5月開催を予定していたのだが新型コロナウイルスによって延期を余儀なくされたのだ。とりあえず開催を8月まで延期することにして、来週また会議をすることに。

5月某日
大谷源一さんにもらった「勝海舟」(松浦玲 筑摩書房 2010年)を読み始める。上製本で900ページを超える大著なので1章の「剣から蘭学へ」から8章の「大政奉還から彰義隊戦争まで」を読み終えたところでの感想を記す。海舟は1823(文政6)年、勝小吉の長男として生まれる。父親の勝小吉という人は面白い人で幕臣ながら生涯無役、剣の腕に優れ道場破りをして回り、不良旗本として恐れられたという(ウイキペディア参照)。勝海舟は剣でも頭角を現すが、世間で知られるようになったのは蘭学である。幕末、ペリー来航以前からアメリカだけでなくロシア、イギリス、フランスが日本への接近を図る。当時、日本と西欧世界の唯一の窓口であったオランダの学問、蘭学とオランダ語の需要が高まったのである。海舟は長崎海軍伝習所でオランダの海軍士官から航海術や数学や物理を学び、幕府の遣米使節に咸臨丸で随行する。帰朝後、幕府海軍の本格的な創設に着手する。この辺が海舟の前半生のハイライトの一つだろう。前半生のもう一つのハイライトは大政奉還から王政復古の大号令、江戸城無血開城を経て江戸幕府の実質的な幕引きを図ったことだろう。海舟は徳川慶喜が主導した大政奉還は公だが薩長が主導した王政復古は私である、と主張している。確かに王政復古は薩長と岩倉具視らの一部公家のたくらんだクーデターとも言えるのである。著者の松浦玲という人は京都大学を学生運動で放学処分され立命館大学大学院を修了している。昭和6(1931)年生まれだから今年89歳か、他の著作も読んでみたい。