モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「検察庁法改正、今国会成立を断念。政府与党、批判受け転換」という記事がWEBに共同通信から配信されていた。当然だろうね。だいたい内閣が「この高検検事は63歳定年」「この高検検事は定年を65歳まで延長して検事総長に」なんてことをやると、検事の政治的中立性が侵されることが眼に見えている。こんなことは検察庁法改正を国会に上程する前に、自民党の内部できちんと議論すべきことだと思う。中央省庁の局長級以上の人事を内閣人事局で一括してやるというのもおかしい。官僚の人事は事務次官が責任を持ってやるのがいい。中央省庁の少なくとも課長になったらきちんと国会議員や大臣に意見を言えるようにならないとね。もっとも私の知っている元官僚(特に名を秘す)は「○○先生(国会議員)は理解できないと思ったから騙したよ」と私に語っていたけれど。

5月某日
NHKのBSプレミアムで映画「飢餓海峡」(1965年 内田吐夢監督)を見る。原作は水上勉。北海道岩内で質屋の主人が惨殺される。犯人は金を奪った後に質屋に放火、これが岩内大火の原因となる。網走帰りの2人の犯人に協力するのが三国連太郎。3人で岩内から函館へ逃げるが、函館は青函連絡船の遭難の真っ最中である。3人は小舟を調達、下北半島を目指す。下北半島に着くことができたのは三国と奪った金だけだった。犯人の2人の遺体は函館の浜に流れ着くが、青函連絡船遭難の犠牲者として処理される。遺体の頭部の傷に疑問を抱いたのが函館署の刑事、伴淳三郎だ。遺体を火葬にせず土葬とすることにより遺体の身元が網走帰りの2人であることが判明する。三国は青森で娼婦の左幸子と一夜を共にし、左に奪った金の一部を渡す。左はその金で娼家の借金を清算、東京に出る。亀有の娼家で左の見た新聞に舞鶴で成功した実業家(三国)が2000万円を寄付したことを知る。舞鶴に三国を訪ねた左に三国は会ったことはないと突き放すが、激情のうちに絞め殺してしまう。一瞬、三国は左のことを認め2人は抱き合うのだが、そのまま三国は左を絞殺してしまう。ここら辺が凄いですね。舞鶴署の刑事が高倉健で署長が藤田進。結局、三国は罪を認め検証のため北海道へ移送される。ラストは三国が青函連絡船から身を投げる。「飢餓海峡」ってよく名づけたと思うね。左が高等小学校卒業後、娼婦として身を売らなければならなかったのも、三国が金を奪ったのも「貧しさ」故だからね。

5月某日
「満洲事変―『侵略』論を超えて世界的視野から考える」(宮田昌明 PHP選書 2019年12月)を読む。本書は従来の我が国の第2次世界大戦に至る近現代史観を「天皇を中心とした抑圧的国家の成立と、それに伴うアジアへの侵略から、ヨーロッパ諸国やアメリカとの帝国主義戦争、そして破滅的敗北と戦後の民主化へ、という歴史観」とし、その中で満洲事変は「武力によって中国の領土を奪取すると共に、国内に軍国主義を確立し、支那事変、大東亜戦争への流れを決定づけた転機として位置づけられてきた」(はじめに)とする。私はまさに著者が否定する歴史観によって教育され、今もその歴史観を基本的に容認しているものである。したがって著者の歴史観とは相容れないのだが、それはそれとして本書からは教えられるところが多かった。本書の帯に「民族自決を否定した中国、少数民族の権利を保護した日本」という刺激的な文字が刷り込まれている。これだけを読むと本書はトンデモ本と見られかねないが、本文を読んでみるとなるほどと思わせる。中国は基本的には漢民族を主体とする王朝が支配してきたが異民族支配の経験もある。最後の王朝となった清は女真族が中国を征服して建国した国名である。清王朝を倒した辛亥革命はブルジョア革命であると同時に女真族という異民族支配から漢民族を解放した民族革命の一面もある。「民族自決を否定した中国」というのは辛亥革命により成立した中華民国は新疆ウイグルやチベットなど辺境の少数民族の独立に反対したことを指している。一方の「少数民族の権利を保護した日本」というのは、おそらく日本陸軍が主導して建国された満洲国が、日本、朝鮮、満洲、蒙古、支那(漢)の五族協和をスローガンとしてきたためだろう。スローガンだけでなく実践的に満州国で五族協和が図られたかどうかは本書を読んでもはっきりしなかった。しかし、時間的には清朝末期から辛亥革命を経て満州国建国まで、空間的には中国大陸はもちろんのこと、日本列島、朝鮮半島、インドシナ半島、インドネシア、インド、イギリス、アメリカ、ヨーロッパ大陸まで叙述は及ぶ。著者の労力、努力は尊敬に値すると思う。

5月某日
岩田昌明の「満洲事変」を読んで戦前の日本がどのように行動してきたか、もっと知りたくなってきた。図書館も休みだし前に読んだ本を再読することにする。最初は「とめられなかった戦争」(加藤陽子 文春文庫 2017年2月)。加藤は1960年生まれ、桜蔭高校から東大文学部、同大大学院国史学専門課程単位取得満期退学、現在は東大大学院人文社会科学研究科教授。ウイキペディアによると在学中は民青だった。さて「とめられなかった戦争」だが、ユニークなのは第1章「敗戦への道」、第2章「日米開戦 決断と記憶」、第3章「日中戦争 長期化の誤算」、第4章「満洲事変 暴走の原点」と歴史を遡る構成になっているところ。こちらの方が歴史の因果関係がよく分かるかもしれない。第2次世界大戦で日本が闘った戦争のことを一般的には太平洋戦争と呼ぶ。岩田は大東亜戦争と呼称する。大東亜戦争とは「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」ということで開戦時の東条内閣が決めた。戦後GHQによって軍国主義と切り離しえない用語として大東亜戦争という名称が禁じられた。アメリカ側の戦争の呼称であった太平洋戦争が使われるようになったという。太平洋戦争では中国大陸や東南アジアでの戦争が忘れられがちになるという難点があるので、最近では「アジア・太平洋戦争」という名称が提唱され始めている。
この戦争の悲惨さと愚かさを加藤は2つの図版で的確に表現している。1つは「岩手県出身兵士の戦死者数の推移」。戦争の始まった1941年12月8日からを含め1942年は1222人だったが、1943年には2582人、1944年には8681人とうなぎ上りに増加している。戦争の終わった1945年は8月15日までで1万3370人が戦死、8月16日以降も4869人が死んでいる。加藤は「日中戦争・太平洋戦争の戦死者310万人の大半は、サイパン以後の1年余りの期間に戦死している」と述べる。指導者が戦争終結をもっと早く決断していれば失われなかった命も多かったのだ。もう1つは「日本とアメリカの国力の差―開戦時(1941年)」である。アメリカは日本に対して、国民総生産で約12倍、すべての重化学工業・軍需産業の基礎となる粗鋼生産も12倍、自動車の保有台数は実に161倍、石油資源にいたっては約777倍である。アメリカに対して総力戦を挑むなど所詮は無謀だったのだ。ここにも、国民を無謀な戦いに追い込んだ指導者の責任を感じてしまう。