7月某日
「湿原(上)」(加賀乙彦 岩波現代文庫 2010年6月)を読む。本書は朝日新聞社より1985年に刊行され、新潮文庫として1988年に刊行されたと巻末に記されている。上巻での小説の舞台は1968年から1969年にかけての東京と北海道根室の原野だ。根室から釧路にかけての根釧原野は開拓の斧も立ち入ることが許されなかった一大湿原である。小説のタイトルもここから考えられたものだろう。上巻だけで630ページだが一気に読んでしまった。1968~69年は学生反乱が日本だけでなく全世界的に燃え盛った時代だ。この小説でも学生のからんだとされる公安事件が、重要な背景をなしている。主人公の神保町の小さな自動車整備工場の工場長、雪森厚夫は複雑な過去を持つ50代。中国戦線の従軍経験があり、戦後も窃盗や詐欺により刑務所暮らしが長かった。だが刑務所で習得した自動車整備技術を活かして自動車整備工場では工場長として尊敬されている。ヒロインとして描かれるのが美貌の女子大生、池端和香子24歳、四谷のR大学の理工学部の学生、父は紛争が激化しているT大の刑法学の教授である。親子ほど年の違う雪森と和香子は恋に落ちて、雪森の故郷の湿原を旅する。が帰京した次の朝、雪森は新幹線爆破事件の容疑者として逮捕される。上巻は雪森の死刑、和香子に無期の1審判決が下されたところで終わる。
68年から69年は私が早大に入学して学生運動に加わり、69年9月には早大第2学館で逮捕起訴され、留置されていた大森警察署から池袋にあった東京拘置所に移送された。小説では68年の10.21に雪森と和香子が新宿でデモと遭遇し、和香子の行きつけのゴールデン街のバーに避難する情景が描かれている。私はこの頃はまだ反帝学評(社青同解放派)の青ヘルメットを被っていた。午後3時頃、早大の本部前に集結し、全体のデモ指揮は当時3年生のKさんが執り、国会議事堂への突入を図るが敢え無く機動隊に蹴散らされてしまった。あの時は、反帝学評は国会、社学同は防衛庁、中核派は新宿と各派ごとに行動地域が分かれていた。私は機動隊に蹴散らされた後、新宿が面白そうと思って新宿駅に向かった。多分、電車で向かったと思うが直後に電車は動かなくなった。あの頃、学生のヘルメット部隊とは別に群衆が戦闘的で、私も新宿駅構内では群衆の一人として機動隊に投石した。ひと暴れしてそろそろやばくなってきたので、高田馬場方面へ帰ろうとしたが、日付の変わる頃には新宿の街角は機動隊にほぼ制圧されていた。「どうしようか」と思っていたとき、早稲田の解放派の文学部の女子大生と出会い、恋人同士を装って新宿から新大久保、高田馬場、早稲田まで腕を組んで歩いて帰った。新大久保のラブホテル街を通ったときは「入ろう!」と言われたらどうしようかとドキドキしたが、そのようなことは微塵も起きなかった。早稲田に着いたらその女子大生は仲間を見つけたようで「じゃあね」とあっさりと行ってしまった。「湿原」とは関係ありませんが私の「青春」の一コマである。
7月某日
引き続き「湿原(下)」を読み進む。下巻では第2審から厚夫の弁護士に選任された阿久津弁護士が、厚夫の新幹線爆破当日のアリバイを証明して行くところから始まる。解説でロシア文学者の亀井郁夫が加賀乙彦をドストエフスキーと比較して論じている。ドエストエフスキーの「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」などは優れた思想小説と言えるが、これらの作品群は同時に優れた犯罪小説としても読める。「湿原」にも同様のことが言えると思う。阿久津弁護士の活躍によって厚夫と和香子の犯行当日のアリバイは証明され、厚夫と和香子、厚夫の甥の陣内勇吉、共謀共同正犯とされた革命党派R派の3人は2審では無罪となる。検察側は最高裁への上告を断念し、厚夫たちの無罪は確定する。獄中で厚夫は自身の少年期から盗みを常習としてきたこと、重機関銃隊として中国戦線に従軍、戦争とは言え多数の中国兵を殺戮したこと、また、戦後も掏摸、横領、強盗などを繰り返し、人生の大半を軍隊と刑務所で過ごしてきたことを手記にまとめる。和香子に真実の自分を知ってもらいたいためだ。この手記が「湿原」に厚みをもたらしているが、同時に作品に劇場的な効果も与えている。獄中で拘禁ノイローゼを発症した陣内勇吉は精神病院で首吊り自殺し、R派の3人も対立するK派に殺害される。ここら辺はドストエフスキーの「悪霊」的悲劇だ。
R派の指導者だった殺害された守屋牧彦は和香子に、自分が書いた「国家と自由」という論文を残す。和香子は厚夫にこの論文の「開発不能の湿原と石油の出ない砂漠をまず、国家の領土から切りはなして、地球連邦の共有地にせよという意見が、とくに面白かった」と語る。私はそこに無政府主義的ユートピア思想を感じてしまった。ところで厚夫は大正8年生まれ、和香子は昭和20年生まれに設定されているから、年齢差はおよそ27歳。生まれ育った環境もまったく違う。しかし二人は深く愛し合っている。湿原を観ながら厚夫が和香子を力一杯に抱きしめ「ねえ、この土地で二人で生きよう。もろともに、風蓮仙人となって暮らそう」と語るところで小説は終わる。風蓮仙人とは湿原に暮らす不思議な老人のことだ。
7月某日
林弘幸さんと我孫子駅前の「七輪」で16時に待ち合わせ。5分ほど前に店に行きカウンターで呑み始めたが、林さんはなかなか来ない。「おかしいな」と思っていると林さんが置くから「こっちにいるよ!」と声を掛ける。10分前から来てるんだって。2時間ほど呑みかつ食べる。林さんとは30年来の付き合いだがなぜか気が合う。林さんは永大産業出身で永大でも年住協でも「営業一筋」というか、営業という仕事に誇りを持っている。私は編集制作出身だが、サラリーマン生活の後半は営業が面白くなった。そんなところが気が合うのかも知れない。
7月某日
雨で外出するのが億劫なので家にある本を読むことにする。目に付いた藤沢周平の「静かな木」(新潮文庫 平成12年9月)を読む。藤沢周平はデビュー当時は作風が暗かった印象があるけれど、売れ出すにつれて「ユーモア時代小説」と言ってもいいような作品も書くようになった。私はどっちも好きですけどね。藤沢は山形の師範学校を出て県内で小学校の教師をしていたが結核を発病、上京して5年間の闘病生活を送る。教師への復帰はかなわず食品関係の業界紙に就職、編集長と作家を兼ねていたときに直木賞を受賞、作家に専念する。業界紙の記者って公務員や一流企業からこぼれた人の受け皿でもあったわけね。私も学生運動経験者で前科持ち、出版社への就職はできず住宅建材関係の業界紙に就職したからね。そんなわけで藤沢周平はよく読んだ。「静かな木」は表題作含めて3作の短編が収録されている。2作はユーモアが勝ち、表題作は不正を働いて出世したもと上司との対決を描いた情念もの。藤沢は1927年に生まれて1997年に死んでいる。享年70歳。今の私より年下だよ!
7月某日
図書館で借りた「あなた上下」(乃南アサ 新潮文庫 平成19年2月)を読む。乃南アサは結構好きで何冊も読んでいるのだけれど、この本は上巻を少し読んで「外れかな?」と思ってしまった。主人公がどうもいけ好かない。作品中では「ちゃらんぽらんで、何ごとに関しても真剣味がなくて、軽薄。単純。意外に小心、しかも計算高い。女好き。助平。浮気者。格好だけ」と表現されていて、この文章はそのまま解説(重里徹也毎日新聞編集委員)で引用されている。解説によると、この小説は2002年の1月から12月まで、新潮ケータイ文庫に連載されたという。小説の発表携帯としてとても今日的、想定される読者としても20代が中心だったのではなかろうか。だとすれば造形された主人公は、ほぼ読者と等身大かそうでなくとも多くの読者は「いるいる、こういう奴」と思ったはず。つまり乃南アサはそれらを織り込んだうえで主人公を造形したのだ。小説の前半は主人公の恋愛模様が描かれ、後半はその過程で主人公とその恋人、友人がホラー現象に巻き込まれていく様を描く。ホラー現象自体、現代科学では照明できていないと思うのだが、それをリアルに描くのがまさに乃南アサの筆力だと感じ入った。