モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
図書館で借りた「ドキュメント強権の経済政策―官僚たちのアベノミクス2」(軽部謙介 岩波新書 2020年6月)を読む。著者の軽部謙介は1955年生まれ、早大卒後、時事通信社入社、ワシントン支局長、解説委員長などを経て、現在はフリーのジャーナリストで帝京大学経済学部教授だ。延べ150人を超える関係者へのインタビュー、公文書、議事録、メモなどをソースにしたドキュメントは十分、読み応えのあるものだった。安倍一強が進む中で官邸の機能、権限が強化され、相対的に政権の中で財務省のウエイトが低下し経済産業省の影響力が大きくなっていく過程がよく理解できた。黒田日銀や内閣人事局の実像についても突っ込んだ取材がされている。私としても安倍政権の功罪を考えるいい機会となった。もちろん私の考えでは功の部分はほとんどなく、罪ばかりが目立つのだが。

8月某日
図書館で借りた「ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国」(田中克彦 岩波新書 2009年6月)を読む。1939(昭和14)年の5月11日から9月15日まで満洲国とモンゴル人民共和国の国境地帯で日本・満洲国軍とソ連・モンゴル人民共和国軍との間で闘われた戦闘を、日本では「ノモンハン事件」と呼び、ソ連(ロシア)では「ハルハ河の勝利」あるいは「ハルハ河の会戦」と呼んでいるが、モンゴル人は「ハルハ河の戦争」と呼んでいる。「大量の戦車と航空機を出動させ、双方の正規軍にそれぞれ2万人前後の死傷者、行方不明者を出したこの軍事衝突は単なる事件を越えた、明らかに戦争であるのにそう呼ばないのは」、この戦争が宣戦布告なしに戦われた非公式の戦争であるからである。戦争を仕掛けた当事者、つまり関東軍と日本政府は、あくまでも「事件」という、内輪の話にとどめておきたかったと田中は、第1章で述べている。ところで著者の田中は歴史の専門家ではなく、言語学やモンゴル学を専攻している。モンゴル民族の側からこの戦争を観ているところに本書の最大の特徴があると思う。
モンゴル人と一口に言っても、ノモンハン当時はモンゴル人民共和国の外モンゴル、満洲国に包摂された内モンゴル、人民共和国にも満洲国にも属さないが、両国やソ連、中国の影響下にあったブリヤードやバルガなどのモンゴル人がいたのである。モンゴル人はもともと遊牧民であり版図や領土という概念に馴染まない。が、私の高校世界史のレベルというと、明に代わって中国大陸を支配した女真族は清を建国し、モンゴル人も漢人もおそらくチベットもその支配を受け入れてきた。しかし19世紀にロシアが南下政策によって中国に進出、ロシア革命によって共産政権となっても外モンゴルに進出し、傀儡政権としてのモンゴル人民共和国を成立させた。一方、遅れた帝国主義国としての日本も日清・日露戦争、第一次世界大戦を経て中国大陸進出の野望を剥き出しにして、満州事変を引き起こす。結果生まれたのがこちらも傀儡政権としての満洲国である。モンゴル人は傀儡政権としての人民共和国と満洲国に引き裂かれることになる。とくに人民共和国ではスターリンによる粛清が、ノモンハン戦争前後に繰り返され、その数は2万人を超えるという。ちなみにノモンハン戦争におけるモンゴル人民革命軍の死者は237人に過ぎない。モンゴル側の死者の大半はソ連軍のものだったのだ。

8月某日
岩波新書の「ノモンハン戦争」を読んでいわゆるノモンハン事件が、従来言われているたんなる、満洲国とモンゴル人民共和国との国境紛争に止まらず、日本やソ連さらに中国をも巻き込んだ国際的な紛争の一つの表れであることが理解できた。さらに、その底流には民族問題がある。民族問題は20世紀に解決を迫られ21世紀に持ち越された大きな課題である。例えばモンゴル民族は現代でもモンゴル人民共和国、中国、旧ソ連などに分断されている。その責任は帝国主義国としてのロシア帝国や日本帝国、そして旧宗主国としての清、中華民国にある。さらにソ連の利害をモンゴル民族の利害に優先させたソ連共産党、中国共産党の責任も大きい。民族問題は宗教と密接な関係がある。モンゴル族の宗教は仏教だったが、ソ連共産党はこれを弾圧した。現代では仏教を国教とするミャンマーでは少数のイスラム教徒、ロヒンギャが迫害されている。キリスト教が主体のフィリピンでもイスラム教徒が迫害されている。人種差別に対する抵抗では白人警官が黒人容疑者を虐待、殺害した「ジョージ・フロイト事件」から始まった#BlackLivesMatter運動は記憶に新しい。民族問題、宗教問題、人種問題、さらにあらゆる差別問題は21世紀の人類共通の課題である。

8月某日
図書館で借りた「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」(丸山俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班 東洋経済新報社 2020年3月)を読む。岩井克人は「会社はだれのものか」を読んだことがある。内容は例によって覚えていないが、株主のものでも経営者のものでもなく、従業員のものでもなく……といったような内容で「法人」という概念について独自の見解を述べていたような気がする。今回の本は貨幣について仮想通貨のビットコインからアリストテレス、ケインズ、ハイエクなどの思想に触れつつ、岩井の見解を吐露している。岩井は日本に現存する経済学者としては巨人の地位を築いているが、それは単に経済学だけではなく、文学、芸術、歴史などの幅広い知見に支えられたものであることがよく分かる。ちなみに奥さんは小説家の水島美苗。

8月某日
ほぼ1週間ぶりで東京へ。虎ノ門のフェアネス法律事務所で渡邉弁護士と遠藤弁護士と打ち合わせ。社会福祉法人に関する案件なので、私が「全国社会福祉協議会(全社協)と話したほうがいいかも知れない。副会長の古都さんは知り合いなので」と言って、全社協のことを少し説明する。会長は慶應大学の塾長をやった清家篤さんと伝えると、遠藤弁護士は「えっ清家さん、そんなことやっているの」という。古くからの知り合いだそうだ。フェアネス法律事務所は明日から夏休みということだ。千代田線で大手町に出て社保研ティラーレで佐藤社長と吉高会長と次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせ。会場参加とリモート参加がほぼ半分くらいだそうだ。

8月某日
図書館で借りた「乳房」(伊集院静 文春文庫 2007年9月)を読む。巻末の小池真理子の解説によると、収録された5作の短編はすべて「小説現代」(講談社)に短期連載されたという。伊集院はこの作品によって平成3(19991)年の吉川英治文学新人賞を受賞した。単行本は講談社から発行され文庫本も講談社からであった。講談社文庫の解説は久世光彦が書いていて、この解説は文春文庫にも再録されている。久世は伊集院の作品の「色っぽさ」に着目し、さらに「愚昧なほど古典的な作家だと思う」「無頼の生活を傍らに置いておかないと安心できない不良の性情である」とも。伊集院は1950年の確か早生まれ、立教大学に入学し野球部に入ったのが1968年だと思う。私が1年浪人して早稲田に入ったのが同じ1968年。グラウンドで白球を追っていた伊集院に対して、私は街角で学園で機動隊に石ころを投げていました。

8月某日
「ある死刑囚との対話」(加賀乙彦 弘文堂 1990年3月)を読む。死刑囚Aと加賀との実際の手紙のやりとり公開したものである。1967年8月15日から69年12月7日、Aが処刑される前日までの2年4カ月間の文通の記録である。Aをはじめ死刑囚は未決囚を勾留する東京拘置所に収容される。この酒中日記にも何度か書いたが、私は69年の9月3日の早稲田大学第2学生会館屋上で公務執行妨害、現住建造物放火、傷害その他の容疑で現行犯逮捕され大森警察署に留置された。起訴猶予になるかという淡い期待も外れ、起訴された私は東京、北池袋にあった東京拘置所に移管された。私は統一公判組には入らず、反省組として分離公判を希望したので11月末か12月には東京拘置所を出ている。が、私は1カ月か2カ月、東京拘置所でAとすれ違ったかもしれないのだ。Aが犯した犯罪は強盗殺人事件で事件当時は典型的なアプレゲール(戦後派)の事件としてマスコミに取り上げられた。しかし死刑判決後、Aはカトリックの神父と出会いカトリックに入信する。加賀への手紙でもカトリックに対する深い信仰が伺える。加賀はAの処刑時は未だ信者ではなかったが、Aの死後、ほぼ20年の後、1988年のクリスマスに洗礼を受ける。本書は死刑囚と小説家にして精神医学者との往復書簡ではあるけれど、私には信仰について考えさせるきっかけを与えてくれた本である。