10月某日
「ジョゼと虎と魚たち」(田辺聖子 角川文庫 昭和61年1月)を読む。表題作を含む9編の短編が収録されている。「ジョゼと…」をはじめ何度か読んだものばかりである。でも田辺の短編は読むごとに違った感懐を抱かせる。テーマは男と女の恋愛なのだが、「恋の棺」「ジョゼと…」「男たちはマフィンが嫌い」「雪の降るまで」は性が重要なテーマになっている。「恋の棺」は29歳のインテリアデザイナーでバツ1の宇禰と長姉の末息子で大学浪人中の有二の物語。遅い夏休みを一人で六甲のホテルの過ごす宇禰の物語。二人は宇禰の部屋で結ばれる。「しかし宇禰はこの悦楽を先鋭化するために、二度と有二と機会を持とうとは思わないのだ。宇禰はそういう決意を匕首のようにかくし持ちながら、微笑んでいる自分の「二重人格」が、いまはいとしく思えている。これこそ、女の生きる喜びだった」。性愛の男女行き違いを象徴的に描いているように思う。「ジョゼと…」は脳性麻痺のジョゼと大学生の恒夫の物語。ジョゼと同居していた祖母が死に恒夫は市役所に就職が決まる。アパートにジョゼを訪ねた恒夫は「信じられぬほどに小さく、まことに格好のいい美しい唇を目の前で見ていると急にそうしたくなって、接吻した」。それから二人は交わる。恒夫は「女子学生と何べんか体験はあったが、こんなこわれもののようなもろい体ははじめてだった。その日、はじめてジョゼの繊(ほそ)い脚を直接(じか)に見て、これも人形のような脚だと思った。しかし人形は人形なりに精巧にできていて、外から見るより、少なくとも女の機能はかなり図太く、したたかに、すこやかに働いているのがわかった」「繊い人形のような脚のながめは異様にエロチックで、その間に顫動している底なしの深い罠、鰐口のような罠がある。恒夫はそこへがんじがらめに括りつけられたように目もくらむ心地になる」-何とも巧みな表現でさすが田辺先生である。二人は一緒に住み始める。「恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りはそれでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった」。これはもはや哲学ではないでしょうか。
10月某日
社保研ティラーレで吉高会長、岸工業の岸社長、OHANA税理士事務所の琉子代表とGバスターの販売戦略会議。新型コロナウイルス対策にGバスターが有効なことに何とか納得が行く。岸社長も琉子代表も熱心なので応援したいと思う。17時30分から神田美土代町の「花の碗」で社保研ティラーレの佐藤社長と年友企画の岩佐さんと食事。「花の碗」の基本はイタリアンだが、ランチに行くと赤だしの味噌汁とお新香が付き、ナイフとフォークに割り箸も付いているのでありがたい。ディナーでも割り箸が付く。料理も厨房で取り分けてくれるのもうれしい。家庭的な雰囲気で値段もリーズナブルだ。
10月某日
「駆けこみ交番」(乃南アサ 新潮文庫 平成19年9月)を読む。世田谷区等々力の交番に勤務する新米巡査、高木聖大が主人公。交番が舞台だから極悪人は出てこない。本書には「とどろきセブン」「サイコロ」「人生の放課後」「ワンマン詐欺」の4編が収められている。冒頭の「とどろきセブン」は、交番の近くのマンションのオーナーで自身もその最上階に住む老女、神谷さんをマドンナとする7人組の物語。「サイコロ」はサイコロのようなコンクリート製のモダンな住宅に住む小学生兄弟に対する育児放棄がテーマ。「人生の放課後」は神谷さんのもと住んでいた家がマンションに建て替えられる経緯と、そのなかで神谷さんを中心にした7人組が形成されてきたことが明らかにされる。「ワンマン詐欺」は愛犬が誘拐される事件が発生、犯人の元総会屋が逮捕され、犯人と亡くなった神谷さんの夫との意外な接点もあらわれる。高木聖大は主人公というよりも狂言回しと言った方が適切かもしれない。主人公はむしろ「とどろきセブン」を中心にした町の住民であり、隠されたテーマは「高齢社会における都市コミュニティ」だ。
10月某日
桐野夏生の最新作「日没」(岩波書店 2020年9月)を読む。帯に「『表現の不自由』の近未来を描く、戦慄の警世小説」と書かれていた。この小説を読み進むうちに、私は日本学術会議が推薦した新会員のうち6人が菅総理から任命されなかった件を連想し、一瞬心が暗くなったが半面で小説家桐野の時代を見抜く鋭さに驚かされもした。主人公は女性で40代バツイチの小説家マッツ夢井。「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」から召喚状が届くことから驚愕の物語は始まる。読者からの提訴に基づいて作家に対して若干の講習などを行うという召喚状だ。召喚状に従ってJR線のC駅へ向かった夢井は待っていた車に乗せられて茨城県方面に向かう。着いたのはコンクリートの塀がぐるりと取り囲んだ七福神浜療養所だ。この療養所でマッツ夢井が体験したことを軸に物語は展開していく。まぁ時の政権に気に入らない小説を書いている小説家はコンクリートの壁に囲まれた「療養所」に収監されるのだ。ナチスはナチスの意向に逆らった知識人を弾圧したが、戦前の日本でも共産党だけでなく民主主義者や特定の宗教の信者が弾圧された。京大前総長の山際寿一氏が朝日新聞(10月22日朝刊)に「学術会議問題と民主主義 全体主義への階段上がるな」と題するエッセーを寄稿している。そのなかで「民主主義とは、どんな小さな意見も見逃さず、全体の調和と合意を図り、誰もが納得する結論を導き出すことだ」と書いている。なんの説明もなく学術会議が推薦した6名を任命拒否した菅首相は民主主義に背いていると言えないか? 私は今こそマルティン・ニーメラー(1892~1984 ドイツの神学者)の次の言葉をかみしめたい。「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄へ入れられたとき、私は声を上げなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は労働組合員ではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。
10月某日
16時頃、有楽町の東京交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」に大谷源一さんを訪問したら17時30分頃まで会議ということなので、近くのガード下の呑み屋で時間をつぶすことにする。ウイスキーのソーダ―割を2杯飲み、つまみに頼んだポテトサラダを食べたところで大谷さんから「会議が終わった」との連絡が入る。「ふるさと回帰支援センター」に行くと高橋公理事長がいたので雑談。「学術会議問題は民主主義の危機」であることで一致、「団塊の世代に最後の頑張りが求められているね」と言ったら、ハムさんも「そーだよう」と大きく頷いていた。大谷さんと近くのイタリアンへ。厚労省から財務省に出向している吉田昌司さん、全国社会福祉協議会の古都賢一副会長、共同通信の城和香子記者と呑み会。城さんが同僚の岩原奈穂さんを連れてくる。よく食べよく呑んだ。
10月某日
御徒町の清瀧酒蔵でHCM社の大橋進会長とデザイナーの土方さんと呑む。コロナ禍、学術会議問題、経済の行方と話題は各方面に飛んだがたいへん面白かった。土方さんは3人の子持ちで奥さんがキャリアウーマンなので保育所の送り迎えと食事の支度は土方さんの役目。その奮闘記をユーモアたっぷりに聞かせてくれる。しかし、土方さんのような家庭が男女共同参画社会を実践しているのだ。大橋会長にすっかりご馳走になる。