1月某日
飲み友達の本郷さんから借りた「漂流」(角幡唯介 新潮文庫 令和2年4月)を読む。著者のことはまったく知らない。どうも漂流した漁民のノンフィクションらしい。文庫本で700ページ近くあるのだが2日ほどで読み切った。宮古島のすぐ隣の島、伊良部島の佐良浜が主人公と言ってもいいかも知れない。佐良浜は教員と役人以外はみな漁民と言われるほど、漁業、漁民の街である。1994年3月、フィリピンのミンダナオ島の沖合で1隻の救命筏が発見され、沖縄のマグロ延縄船、第一保栄丸の船長、本村実と8人のフィリピン人船員が救助される。「漂流物」を手掛けたいと考えていた角幡は新聞社のデータベースでこの記事を入手、本村の沖縄県浦添市の本村の家に電話を入れる。電話に出た本村の妻、富美子の答えは10年ほど前から行方不明になっている、前と同じように漁に出て帰ってこない、というものだった。そこから角幡の沖縄本島、伊良部島、グアム、フィリピンを巡る長い旅が始まる。角幡は本村の体験を追体験するために、グアムからマグロ延縄漁船に乗り込む。
本書は行方不明となった本村を追うドキュメントという一面、角幡がわずか19tの漁船に乗り込んでグアムからフィリピンまでの航海を体験するという冒険譚の一面、そして伊良部島とその母島となる池間島の島民からなる海洋民族に対する考察という側面がある。最後の海洋民族に対する考察からの文章。「本来の生というのは死を感じることができなければ享受することができないものである。科学技術や消費生活が進展することで都市における生は便利に、安逸になり、快楽指数も上昇したが、そのことによって私たちが知ったことは、日常が便利で快適になることと、自分の生が深く濃密になることとはまったく関係がないということであった」「死が近くにある生。佐良浜の人たちの話に耳をかたむけているうちに、私には、それが彼らの世界観を形成していることにほぼまちがいのないことのように思えてきた。私が彼らに接したときに感じていた、生にたいしてどこかわりきった感覚、過去や人間関係のしがらみや執着のなさなどは、そこに起因しているように感じられた」(第4章 消えた船、残された女)。角幡って若いのに(1976年生まれ)、熟成を感じさせる。76年生まれじゃ若くもないけれど。
1月某日
1月も半ばを過ぎた。世間ではとっくに正月休みは終わり動き始めているようだ。だが私は年金生活者で高年齢、高血圧の持病持ち、つまりコロナに感染すると重病化しやすいハイリスク者である。外出は控えなければならない。テレビを観てもニュースはコロナとトランプばかり。ドラマ、歌番組、バラエティーは若者向け。私は松重豊の「孤独のグルメ」や六角精児の「呑み鉄本線日本旅」など好んで観る。「孤独のグルメ」では群馬県の大泉町を訪ねていた。大泉町はブラジル人の出稼ぎ労働者が多く、したがって町にはブラジル料理屋やブラジル物産店がある。「呑み鉄本線日本旅」では会津鉄道で南会津の造り酒屋訪問である。数年前会津若松に行ったことがある。新鹿沼でゴルフをやった後、東武線で鬼怒川へ。鬼怒川で野岩鉄道に乗り、終点で会津鉄道に乗り換え、途中駅で下車、温泉宿に1泊した。温泉宿の客は私一人だけだった。会津若松では東日本大震災で被災した福島県浜通り地方の人々のための住宅が建設されていた。お城を観て白虎隊が自刃した飯森山に寄った。帰りは福島か郡山に出て、新幹線で帰った。
1月某日
図書館で借りた「青春とは、」(姫野カオルコ 文藝春秋 2020年11月20日)を読む。主人公は乾明子(いぬい・めいこ)、2020年3月現在、都下の南部線沿線のシェアハウスに住み、去年からスポーツジムのインストラクターをやっている。というようなことは小説の本筋とはあまり関係しない。小説の主な舞台は45年前、すなわち1975年の明子の高校時代である。高校は滋賀県立虎水高校。姫野カオルコは1958年滋賀県生まれだから、姫野自身の高校生活がモデルと思いがちだが巻末に「この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません」とあるからそうでもないのかも。姫野カオルコの小説は、実際にあった東大生による集団強制性交事件に想を得た「彼女は頭が悪いから」を読んだだけと思う。「青春とは、」には別に大きな事件が描かれるわけでもなく、明子の日常が淡々と描写される。これが私には何とも心地よかった。私は姫野のちょうど10歳年長、私の高校3年生は1965年、北海道立室蘭東高校であった。私も十分にバカで愚かであったが、それは青春の特権だろう。
1月某日
「青春とは、」が「何とも心地よかった」ので、姫野カオルコの本を続けて図書館で借りる。「近所の犬」(幻冬舎文庫 平成29年12月)である。姫野カオルコは2015年に「昭和の犬」で直木賞を受賞している。「昭和の犬」の単行本が発行されたのが2014年3月、「近所の犬」は同年9月である。「昭和の犬」と「近所の犬」はタイトルも似ているし、単行本発行時期も近いので姉妹作?と思ってしまうが、それは大違い。「近所の犬」の「はじめに」で著者自身が「前作『昭和の犬』は自伝的要素の強い小説、『近所の犬』は私小説である」と書いている。自伝的要素の強い小説と私小説はどこがどう違うのか。同じく「はじめに」で「事実の占める度合いであろう。それとカメラ(視点)の位置。『私小説』のほうが、事実度が大きく、カメラ位置も語り手の目に固定されている」と。なるほどわかりやすい。「近所の犬」はタイトル通り、作者の「近所の犬」との出会いを描いたものだが、独身で家では犬を飼えない50歳代のオバサンと近所の犬との交情である。ユーモラスでありちょっぴり切なくもある。そういえば一昨年、自宅の火事で亡くなった福田博道さんも犬好きだった。「犬名辞典」という著作もある。
1月某日
ジョー・バイデンの大統領就任式。日本時間で午前2時からだ。夜中に目が覚めたらちょうど午前2時。NHKで中継を観る。バイデン78歳とは思えない力強い演説だ。アメリカの政治家に比べると日本の政治家は演説が下手と思います。国会の演説や答弁は官僚の作った(と思われる)原稿を棒読みだものね。大統領は国民の選挙で選ばれるけれど日本の首相は国会で選ばれる。国会で多数を握れば首相になれる。具体的には自民党の過半数を取り込めば首相になれる。国民に直接訴えることなく、自民党の派閥の領袖との取引で首相が誕生する。必ずしも国民に訴える必要はない。小泉首相誕生のときは違った。あのときは確か国会議員票で劣勢だった小泉が街頭で国民に直接訴えて、地方代議員の票を集めて勝利したのだ。安倍政権から自民党の体質が変わってきたのではないか。派閥の連合体が切磋琢磨してこその自民党だと思いますが。
1月某日
図書館で借りた「コモンの再生」(内田樹 文藝春秋 2020年11月)を読む。雑誌「GQ JAPAN」に連載中のエッセーをまとめたもの。「GQ」の鈴木正文編集長と担当が神戸の内田の家でインタビューしたものがもとになっているという。鈴木編集長というのは慶應中退で50年前はブント(共産主義者同盟)の戦旗派だったと思う。内田自身、50年前は東大の革マル派だったらしい。だもんで私は長く、内田の書いたものは認めても内田自身は許せなかった。私が在学していた当時の早稲田大学は革マル派の牙城であった。ということは革マル派以外は迫害されていた。で「内田は許せない」と元ブントの友野君やレヴィナス研究家としての内田を評価していた友人に言っていた。二人とも「昔の話でしょ」と取り合ってくれなかったが。だが「コモンの再生」を読むと内田の考えにほぼ全面的に賛成せざるを得ないことが分かった。だいたい内田は合気道の高段者らしく、喧嘩しても勝てそうもないし(苦笑)。
コモンとは共有地のことだ。内田によるとマルクスとエンゲルスによって「コモンの再生」が提言され、それが「共同体主義」すなわち「コミュニズム」としている(まえがき)。この考えは「資本論の哲学」の熊野純彦の考えに近いと思う。内田はさらに、最初にマルクスを訳した人たちが「コミュニズム」を(共産主義ではなく)「共有主義」や「共同体主義」にしていたら日本の左翼の歴史は違っていたかも知れないと言っている。これも大賛成。そしてマルクスを共産主義に向かわせたのは、当時の労働者たちのあまりに悲惨で過酷な労働条件に対する「共苦の涙」だとし、しかしその運動の過程で「いくらかの人間が苦しんだり、死んだりすることは『正義のコスト』なんだから気にならないという倒錯が生じる」。そして内田は「僕はどれほど高貴な政治的理想を掲げた運動でも、生身の人間の弱さや愚かさや邪悪さに対して、ある程度の寛容さを示すことが必要だろうと思うのです」と続ける。これは日本の新旧の左翼運動に対する根源的な批判になっていると思う。