12月某日
図書館で借りた「日本習合論」(内田樹 ミシマ社 2020年9月)を読む。習合とは二つの異なる宗教が出会う中で敵対することなく、融合していく状態のことを言うようだ。日本では仏教の伝来以降、仏教と日本の在来の宗教であった神道が融合していく。神仏習合である。キリスト教はユダヤ教の分派として発生し、ローマ帝国の迫害を受けながらついにはローマ帝国公認の世界宗教となっていく。当時のゲルマン民族はローマ帝国からすれば蛮人でそれぞれが原始宗教を信仰していた。キリスト教はこれらの原始宗教と融合することなくゲルマン民族への布教に成功する。もっともクリスマスや復活祭にはゲルマン神話の痕跡が残されているという指摘もある。さて内田の習合論には学ぶべきものが多かった。ひとつは農業と市場(マーケット)についての考え方だ。私などは市場で貨幣と交換されることにより農産物は効率よく配分されると信じてきたが、どうも違うようだ。「農作物は商品ではない」と内田は断言する。農業は宇沢弘文のいう社会的共通資本であり、「政治とマーケットは社会的共通資本の管理をしてはいけない」とする。こうした考え方は内田の習合論の「習合というのは、受け入れ、噛み砕き、嚥下し、消化し、自分の一部とする」という考え方と通底すると思う。ポストコロナの生き方を内田の習合論は示唆しているように思える。
12月某日
今年最後の床屋に行く。私が行く床屋は私の住んでいる我孫子市若松の「髪工房」。私より年上のマスター(75歳くらいか)とその娘さんらしき人(30~40歳代)の二人でやっている。年末なので混んでいると思ったが、待つこともなく顔剃りから始めてもらった。顔剃りとシャンプー、仕上げは娘さん、カットするのはマスターと分業化されている。隣の年配の客とマスターは年末年始の過ごし方を話題にしていた。お天気にもよるがマスターは釣りに行くそうで、金沢八景から船で東京湾のアジ釣りらしい。髪工房はマスターの腕がしっかりしてるうえに安いのが特徴。大人2000円だが高齢者は1800円、そして5回に1回はさらに500円引きとなる。「よいお年を!」と挨拶して店を出る。
12月某日
酒場を巡る番組が好きでよく見る。とくにコロナ禍で外に呑みにいけないとなるとテレビ番組で不満を解消することになる。「吉田類の酒場放浪記」に「女酒場放浪記」はこの種の番組では一番古いのではなかろうか。ビール、酎ハイ、ホッピー、日本酒を店の勧めるままに呑むのがいい。割と日本酒にこだわっているのが「太田和彦のぶらり旅・居酒屋百選」。玉袋筋太郎の「町中華で飲ろうぜ」は生ビールから酎ハイが定番。スポンサーが宝酒造なので酎ハイで乾杯するのがきたろうの「夕焼け酒場」である。以上は多少は演出があるにせよ基本はドキュメントである。これに対して「この番組はフィクションです」とクレジットが着くのが「孤独のグルメ」で久住昌之原作、松重豊演じるサラリーマン、井の頭五郎が主に大衆食堂や町中華を食べ歩く。食堂の店主や店員なども役者が演じているのだが、お店はホンモノ。ドラマが終わった後で原作者の久住がその店を訪ねるシーンが放映されることもある。それと忘れてはならないのが「六角精児の飲み鉄本線、日本旅」である。俳優で鉄道マニアの六角精児が、鉄道で日本各地を旅し居酒屋や造り酒屋を訪れると番組。列車の中で六角が缶ビールやワンカップの日本酒を呑む、その表情がいいんだよね。
12月某日
図書館で借りた「金閣を焼かなければならぬ―林養賢と三島由紀夫」(内海健 河出書房新社 2020年6月)を読む。1955年生まれ、東大医学部卒の精神科医である。今年は三島由紀夫没後50年ということもあって三島関連の図書がずいぶんと出版されたらしい。本書は三島の小説「金閣寺」を題材に、金閣寺に放火した犯人の青年僧のモデルとなった林養賢、そして作家の三島由紀夫の生をたどった精神分析的ドキュメントである。三島由紀夫の作品は割と好きでよく読んだ。「金閣寺」も高校生のときに読んだ覚えがあるが、これを機会に読み返してみようと思う。私には本書は理解できたとは言い難い。だがエピローグの「まつろわぬ者たちへ」で著者が林養賢とその母親の墓に林養賢の親戚の案内で参るシーンは、ちょっと心打たれた。