モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
「ひそやかな花園」(角田光代 講談社文庫 2014年2月)を読む。たまたま我孫子の本屋で目にした。新刊本でもないので平積みされていたわけではなく、講談社文庫の角田光代のコーナーに差し込まれていた。角田光代は割とよく読む作家なんだけれど、「紙の月」を去年読んで以来、「人生の深淵を描いているなぁ」と思うようになった。「ひそやかな花園」はAID(非配偶者間人工授精)によって産まれた7人の男女の物語だ。7人は母親同士が同じクリニックで不妊治療を受け、幼少期の数年間、夏休みの数日を同じ別荘で過ごしたという共通の記憶を持っている。AIDということは実の父親、つまり母親の卵子にたどり着いた精子の持ち主は母親の夫ではないことを意味している。角田光代はAIDを通して家族の絆とは何か、親子とは何か?もっと言うなら「人生の幸せとは何か?」を描きたかったように思う。7人は成長して歌手やイラストレーター、広告代理店勤務、親の会社の役員などになっている。しかしプロローグとエピローグは職を転々とし容姿も冴えない紗有美の視点から描かれている。結論を言っちゃうと冴えない紗有美が自己肯定へ転ずるのだ。自分の日常に幸福を見出すわけね。この結論に至るまでが何ともミステリアスで読ませる。

3月某日
1週間ぶりで東京へ。西新橋の社会保険福祉協会で「保健福祉活動支援事業」運営委員会に介護経営コンサルタントの堀口先生や小規模多機能など福祉事業の経営者の柴田先生と出席。素人の私が出席するのはおこがましいが、勉強になるので出席している。運営委員の任期は2年で今年3月末で切れるのだが、あと2年運営委員を委嘱されてしまった。少し勉強しないとね。

3月某日
「太平天国の乱―皇帝なき中国の挫折」(菊池秀明 岩波新書 2020年12月)を読む。太平天国の乱とは清末に起こったキリスト教を基盤とし洪秀全をリーダーとした内乱程度の知識しかなかったので今回、この本を読んでいろいろなことを知ることができた。太平天国の主張は、キリスト教という外来思想の影響を受けながらも、儒教の「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」という中国古来の伝統的価値観への回帰をめざすものだった。一種の原理主義で清末の世俗的な価値観とは相容れなかった。著者はこれを人民公社を設立して人々の画一的な生活を理想とした毛沢東時代と鄧小平の改革・開放路線の先取りではないかとしている。太平天国は清朝皇帝を否定する。太平天国で皇帝を名乗るのは上帝ヤハウエのみで洪秀全は真主とされ、救世主イエス・キリストの弟という位置づけだった。太平天国が発生したのは1850年、滅亡したのは1864年である。日本でいえばペリー来航(1853年)の少し前に発生し、禁門の変の年に滅亡した。アメリカの南北戦争が1861年から65年だから世界史的な激動のときだったのかも知れない。

3月某日
「小さいおうち」(中島京子 文春文庫 2012年12月)を読む。先日、テレビでこの小説を原作にした映画を放映していた。主人公の女中タキを倍賞千恵子、回想シーンの少女時代、戦前のタキを黒木華、若く美しい奥様を松たか子、奥様と許されぬ恋に落ちる青年、板倉を吉岡秀隆が演じていた。私たちは昭和20年8月15日の終戦までの日本を、特高警察が暗躍する暗い時代と想像しがちだ。むろん、共産主義を信奉する左翼にとってはそうかもしれないが、庶民とくに東京の山の手に暮らす、この小説に出てくる一家などにとってはそれなりに暮らしやすい時代だったのではないか、と思う。戦争も当初は真珠湾奇襲の成功や、シンガポール陥落など連戦連勝であった。それがミッドウェー海戦の敗北以降から日本軍の敗勢が明瞭になっていく。この物語でも奥様は夫と一緒に空襲で亡くなる。タキは戦後も女中を続けるが「小さいおうち」のような家庭に出会うことはなかった。この小説は戦時下の山の手の中流家庭と、戦争によるその暮らしの崩壊を描く。反戦小説としても読むことができる。

3月某日
社保研ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラム」の会議。社会保険研究所の松澤、水野氏、社保研ティラーレの吉高会長、佐藤社長と私が参加。4月のフォーラムの参加者は低調、「泣く子とコロナ」には勝てない。次の会はオリンピック後。ポストコロナでの会の在り方を考えて行かなければならない。社保研ティラーレの後、虎ノ門のフェアネス法律事務所へ。

3月某日
図書館で借りた「今夜、すべてのバーで」(中島らも 講談社文庫 2020年12月)を読む。中島らもは1952年兵庫県尼崎市に生まれる。確か中学から灘に進学してる。高校から酒や薬物に親しんで灘高と言えば進学校だが、らもは大阪芸術大学に進む。2004年に転落事故で死んでいる。「今夜、すべてのバーで」の前に読んだのが中島京子の「小さいおうち」で、同じ中島姓だが二人は関係ない。しかし二つの小説には驚くべき共通点があった。それは「赤マント、青マント」のエピソードである。「小さいおうち」では、ぼっちゃんが学校で赤マント、青マントの話を聞いて眠れなくなるというエピソードが紹介されている。「今夜、」では、アル中で入院中の主人公がアル中の現実を受け入れるか、アルコールの海で入水自殺するかという不毛な選択に悩むとき、「赤マント、青マント」という「古くから全国スケールで、子供たちの間に連綿と継承されている」話を思い出す。たまたま続けて読んだ二冊の小説に「赤マント、青マント」という同じエピソードが紹介されていたわけだ。中島らももアル中で苦しんだらしいが、中島らもの分身とも言えるのが主人公の小島容。アル中治療のために入院し、医師や自分自身との葛藤を通して退院へ至る過程がリアルに描写される。アル中のリアルな描写はさすがに中島らもである。巻末に引用文献と参考文献が列記されている。リアルな描写には根拠があるのだ。

3月某日
13時過ぎに社保研ティラーレで吉高会長と佐藤社長に面談。15時に虎ノ門のフェアネス法律事務所。神山弓子さんに渡邊弁護士を紹介。夕方、大学の同級生の雨宮弁護士から携帯に電話。やはり大学の同級生だった清君が上京するので久しぶりに呑み会を予定。雨宮先生の事務所は西新橋なので「今、虎ノ門なのでこれから行きます」と電話する。雨宮先生の事務所で日本酒をご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
13時30分から監事をやっている一般社団法人の理事会があるので東京駅八重洲口へ。近くの中華料理屋で中華飯を食べて少し早いが会場へ。13時15分には全員が揃ったので開会、13時35分には全議事が終了したので閉会。社会保険出版社の入っているビルの1階で校正の香川さん、印刷会社の金子さんと待ち合わせていると、出版社の高本社長が通りかかったので挨拶。香川さんと金子さんが揃ったので出版社で校正紙を金子さんに渡す。私と香川さんは都営地下鉄の神保町駅へ。新宿方面に行く香川さんと別れ、私は内幸町へ。虎ノ門の日土地ビルで弁護士の渡邊さんと打ち合わせ。新橋あたりで一杯やろうと思ったが、千代田線の霞ヶ関駅から帰ることにする。松戸行きが来たので乗車、シルバーシートが空いていたので座って読書。松戸に着いたので快速取手行きに乗り換え。またシルバーシートに座る。
私は65歳以上(今年で73歳)でしかも障害者手帳を持っているので堂々と座ることにしている。我孫子駅に18時頃到着、「しちりん」で一杯やっていこうと思ったが、その気になれず自宅へ。

3月某日
図書館で借りた「U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面」(森達也 講談社現代新書 2020年12月)を読む。著者の森達也はもともとテレビのドキュメンタリー作家なんだけれど、オウム真理教信者のドキュメンタリー作品の制作過程でテレビ局や制作会社の意向に従うことができなくなり、結果的に自分でビデオカメラを回して作品を完成させた。映像作品だけでなく活字媒体でもオウム真理教信者の真実に迫っている。その「A3」には感銘を受けたことを覚えている。さて本書であるが書名にあるUは相模原市の津久井やまゆり園で、多数の重度心身障害者を殺傷した植松聖のことである。植松は一審で死刑判決を受け、上告をせずに死刑判決が確定している。本書は作家やジャーナリスト、精神医学者、植松を取材した新聞記者などを森がインタビューし、この事件の独自性と同時に普遍性をあぶりだしている。それだけでなく日本の司法制度の限界、あるいは間違った方向に進んでいるかに見える裁判院制度の問題点も指摘している。裁判員制度は裁判への市民参加の道を開いたという意味で私は賛成していたのだが、本書を読むとどうやらそうでもないらしい。裁判員となるのは多くは仕事を持つ人々である。何年も長期にわたる裁判には付き合いきれない。したがって裁判はスケジュール化され、裁判期間は短縮化される。裁判所に提出される精神鑑定書も以前は分厚いものだったが、現在は裁判員の負担を考えて薄いものになっているという。そもそも裁判とは何か、ということも本書は問うているように思う。証拠や証人調べにより有罪か無罪を確定し、有罪なら量刑を宣告する。しかし植松や麻原彰晃は死刑宣告ありきで、事件の真相究明がなされたとは言い難い。裁判の大きな役割には事件の真相究明とそれによる同種の事件の再発防止がある筈だ。本書のインタビューをベースとした構成は森達也のドキュメンタリー作家としての面目を遺憾なく発揮させているように思う。

3月某日
図書館で借りた「何が私をこうさせたか-獄中手記」(金子文子 岩波文庫 2017年12月)を読む。金子文子は明治36(1903)年横浜に生まれ、大正12(1923)年9月3日、関東大震災後に内縁の夫、朴烈とともに予防検束され10月には治安維持法違反で起訴されている。大正14年の夏ころから自伝(本書)の執筆をはじめ、翌年3月には朴烈、文子ともに死刑判決を受け、後に御社により無期懲役に減刑。文子は宇都宮刑務所栃木支所に移送され、7月23日に獄中で縊死している。文子は小学校、高等小学校は卒業しているが、家庭の事情から満足に通学していない。20歳で検挙され21歳で本書を執筆し22歳で自死。生き急ぎ死に急いだ22年間だった。獄中で執筆された本書は、貧しさや親戚に虐待された幼少期から朴烈に出会うまでが記されているのだが、不思議と悲哀の感情や悲壮感は感じられない。むしろユーモラスな場面さえ随所に出てくる。自分の境遇をバネにして社会の変革を決意したからなのだろうか。それならなぜ自殺なんかしたのだろう。金子文子は獄中で朴烈と結婚したことから遺骨は朴の家族に引き取られ、墓は韓国にある。

3月某日
「ファザーファッカー」(内田春菊 文春文庫 2018年11月新装版第1刷)を読む。内田春菊1959年長崎生まれの現在61歳。これは養父つまり母の二番目の夫に性的虐待というか強制性交を強いられる娘の話で、内田春菊の自伝的小説である。図書館でたまたま目にして借りたのだが、内田春菊って金子文子に似ていると思った。家庭の愛に恵まれずに育った、頭が良く学校の成績も良かったが、学歴は低い(金子文子は高等小学校卒、内田春菊は高校中退)。上京後、職を転々とする(文子は夕刊売り、女中、おでん屋の店員、春菊は写植屋、ホステス、ウエイトレスなど)といった共通点が多いのだ。既成の価値観にすがることなく自分の価値観を押し通すところなどもそっくりではないか?春菊が文子と同時代に生きていたらアナーキストになっていたかも知れないし、文子が現代に生まれたら漫画家になっていたかも知れない。

3月某日
家にあった「黄昏の橋」(高橋和巳 筑摩書房 1971年6月)を読む。2年ほど前に家の近所の喫茶店兼古書店で3冊200円くらいで買ったうちの1冊だ。高橋和巳は1971年5月3日に39歳で死んでいる。「黄昏の橋」は当時あった新左翼系の総合誌「現代の眼」の68年10月号~70年2月号に断続的に連載された。高橋の死によって未完とされている。主人公の時枝はK大卒の博物館学芸員。高校の歴史教師などを経て現在の職にありついた。職場近くに下宿し、酒飲みで仕事にも熱意を持てない。高橋は1967年6月に京大文学部助教授に就任するが、大学闘争で全共闘側を支持、69年3月に辞職する。時枝は親の見舞いに伊丹空港に向かう途中、学生のデモ隊と機動隊が激しくぶつかる現場に遭遇し、学生が機動隊に追われ橋から墜落して死亡するシーンも目撃する。救援組織から時枝に証言が求められるところで小説は未完のまま終わる。時枝は高橋から小説家と思想家の部分を除いた分身である。酒飲みで気のいい奴ではなかったんじゃないかなー、高橋は。

3月某日
「大逆事件-死と生の群像」(田中伸尚 岩波現代文庫 2018年2月)を読む。2月に伊藤野枝の評伝小説「風よあらしよ」(村山由佳)を読んで以来、明治大正期のアナーキストの評伝やドキュメントを読んできたがどれも面白かった。当時のアナーキストの反抗心や自由さに共感したのだと思う。明治政府はその反抗心や自由さを、体制を覆そうとしているととらえ、幸徳秋水ら26人を起訴、12人を絞首台に送った。本書は死刑になった12人の実像や遺族のその後を追ったばかりでなく、無期懲役に減刑された人たちの出獄後の人生を追ったドキュメントである。大逆事件といっても幸徳秋水や菅野須賀子については扱った小説も少なくないが、残りの人たちの情報に接することは少ない。本書を読んで事件以降、起訴された人の家族は世をはばかってひっそりと生きてきたことが分かる。菅野須賀子や宮下太吉は実際に明治天皇の暗殺を企て爆弾も用意したと思われるが、その計画自体かなり杜撰なものだった。まして、その他の人々については明治政府によって大逆罪に陥れられたのだ。死刑後、社会主義者の堺利彦は刑死者の家族を慰めに行脚したこと、さらに徳富蘆花が一高で「謀反論」という講演を行い、幸徳らを擁護したことなどが明らかにされている。死刑を宣告された後、無期に減刑されたもののうち、坂本清馬は釈放されたのち戦後、再審活動を本格的に始めた。最高裁は1967年7月に再審請求の特別抗告の棄却を決定する。戦前の司法が軍部や時の政権に迎合した反省が感じられない、と田中は憤慨する。私も思う。新型コロナに対する性具の対応、総務省の接待疑惑に対する菅首相の対応、モリカケ、桜を見る会の疑惑に対する安倍首相の対応、日本は本当に民主主義国家なの?

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
図書館で借りた瀬戸内寂聴の「遠い声 菅野須賀子」(岩波現代文庫 2020年7月)を読む。実はこの本、昨年の9月に読んでいるんだよね。「酒中日記」の昨年9月分に感想が記されている。でも内容はほとんど覚えていない。赤瀬川源平がいうところの老人力がついてきた証拠かな。解説はアナキズム研究家の栗原康でこれがなかなかいい。2月に村山由佳の伊藤野枝の評伝小説「風よあらしよ」を読んで以来、主に瀬戸内寂聴の伊藤野枝、金子文子、朴烈らの大正期のアナキストの評伝小説を読んできた。彼らは殺されたり(伊藤野枝、大杉栄)、自殺したり(金子文子)するのだが、菅野須賀子は刑死である。市ヶ谷監獄の断頭台で処刑された。この小説は全編、菅野須賀子の独白、それも処刑前日と処刑当日の独白で綴られている。菅野須賀子は最初、荒畑寒村と結婚する。寒村との結婚前にも何人かの男と恋愛し性交渉もあった。寒村が獄中にあるとき幸徳秋水と同棲するが、寒村は出獄後ピストルを懐に二人を付け狙ったという。菅野須賀子には性に奔放、淫乱、毒婦というイメージが付きまとうことになるのだが、瀬戸内寂聴はそんなイメージに惑わされることなく、天皇制や封建制に抗った一人の女性として菅野須賀子を描いている。伊藤野枝、金子文子、菅野須賀子の三人に共通しているのは、自分自身に対する正直さかな。

3月某日 
図書館で借りた「女たちのテロル」(ブレイディみかこ 岩波書店 2019年5月)を読む。この本は前にも読んだ記憶はあるが、例によって内容はさっぱり覚えていない。本扉の次のページに「百年前の彼女たちから、百年後を生きるあなたへ」という言葉が刻まれている。この本は百年前に生きた日本のアナキスト、金子文子と英国のサフラジット(女性参政権運動家)のエミリー・デイヴィソン、アイルランドの独立運動を戦い女性の狙撃兵としても優秀だったマーガレット・スキニダーの短い物語である。金子文子の評伝小説の「余白の春」(瀬戸内寂聴)を読んだばかりだが、こちらの金子文子像はより実録っぽい。彼女たちに共通するのは、世の中を変えるという目的のためには暴力やテロルも辞さないということである。現代の日本では暴力はとかく否定されがちである。私などの学生時代は、全共闘の学生たちはマスコミや日本共産党・民青から暴力学生と呼ばれていた。ヘルメットとゲバ棒で「武装」し、投石を繰り返す学生たちを暴力学生と彼らは呼んだ。たぶんこの言葉には学生の本分たる勉学を放棄したものへの蔑視も含まれている。実際、早稲田の全共闘運動の最盛期だった1969年頃、文学部の社青同解放派の活動家が「お前ら、勉強なんかしたくないだろ。だからストやるんだよ」とアジテーションしているのを目撃している。私たちは「異議ナーシ」と答えたものである。そうか50年前の全共闘の源流は100年前の金子文子にあるんだ。

3月某日
東日本大震災から10年。あのとき私は八丁堀の地下鉄の駅に入る直前だった。もちろん地下鉄は動かず、八丁堀から東京駅の八重洲口を通って丸の内口へ。そして内神田の年友企画へ帰った。歩いて帰ることのできる社員は帰し、私は校正のナベさんと神田駅西口の焼き鳥屋で呑むことにした。この店はビルの5階にあり窓から神田駅のホームを見渡せた。電車が動くようになれば直ぐ分かるのだ。ところが電車は一向に動き出さず、私はナベさんと湯島のスナック「マルル」まで歩くことにする。マルルのシャッターは降りたままなので、地下のスナックに入る。中年のママが「今日は女の子が出てこれないのよ、それでもいい?」という。「もちろん」と10時近くまで呑む。10時なるとオープンするスナックが根津の「ふらここ」。ここで朝まで時間をつぶす。朝になっても電車は動かない。ナベさんと上野まで歩き、ナベさんと別れ私は南千住行きのバスに乗る。南千住から動き出した日比谷線で北千住へ。北千住から綾瀬、亀有当たりまで歩いたところで千代田線が動き出した。我孫子駅に着いたのは15時くらいだったろうか。気持ちが高揚しているせいかほとんど疲れを感じなかった。

3月某日
家にあった「思い出袋」(鶴見俊輔 岩波新書 2010年3月)を読む。この本は2010年3月に私が脳出血で倒れ、船橋市立リハビリテーション病院に入院していたとき友人の西村美智代さんが差し入れてくれたものだ。なんとなく読みそびれて10年以上たってしまった。岩波書店のPR誌「図書」に2003年から2009年に連載された「一月一話」を新書にまとめたものだ。新書出版当時87歳だった鶴見が不良少年だった幼少期、ハーバード大学への留学時代、日米捕虜交換船で帰国し海軍軍属として経験したインドネシアのことなどがアトランダムに綴られている。「学校という階梯」という項目では金子ふみ子のことがとりあげられている。アナキストで皇太子暗殺未遂の容疑で死刑を宣告され、恩赦で無期懲役に減刑されたにもかかわらず、刑務所で縊死した金子文子である。通常は文子と表記するが鶴見はふみ子と表記しているので、ここでは鶴見の表記に従う。金子ふみ子は22歳で自死するが小学校も満足に通えず、家庭は貧困で父は外に女を作って出奔、母は男を家に誘う。しかしふみ子は単身上京し働きながら夜学で学ぶ。私は今、金子文子の獄中手記「何が私をこうさせたか」(岩波文庫)を読んでいるが文章の構成などたいしたものである。パソコンもワープロもない時代、難しい漢語や漢字も易々と使っている。もっとも獄中手記では満足に通えなかった小学校でも彼女の成績は群を抜いていたそうである。

3月某日
我孫子市民図書館の蔵書を「大逆事件」をキーワードに検索していたら「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響」(我孫子市教育委員会 我孫子市文化財報告第3集 2010)がヒットした。早速リクエストする。A4判で24ページのパンフレットだ。明治、大正、昭和を通じて活躍したジャーナリスト、杉村楚人冠は我孫子に在住し自宅は杉村楚人冠邸として公開されている。楚人冠邸で発見されたのが菅野須賀子から楚人冠に出された書簡である。針で書かれたような筆跡で「爆弾事件ニテ私外三名近日死刑ノ宣告ヲ受クベシ御精探ヲ乞ウ 尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士ノ御世話切ニ願フ  六月九日 彼ハ何ニモ知ラヌノデス」と書かれた書簡で、封筒には同じく針文字で「京橋区滝山町 朝日新聞社 杉村縦横様 菅野須賀子」とあった。この書簡は明治43(1910)年6月11日に牛込から統監されている。杉村縦横とは楚人冠の別号で幸徳秋水、菅野須賀子と楚人冠は事件以前から交流があった。このパンフレットでは書簡が須賀子の手によるものと断定はしていない。が私はホンモノと思いたい。書簡の最後の「彼ハ何ニモ知ラヌノデス」の一文に、幸徳を救おうとする須賀子の一念がうかがえるではないか。

モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
今日から3月。暖かいので散歩。家の前の「手賀沼ふれあいライン」と称するバス通りを渡って、そのまま成田街道に出る。成田街道を左折して横断歩道を渡って我孫子駅へ。我孫子駅構内を通って北口へ。構内のキオスクがスシローに代わっていた。北口のショッピングプラザ3階の書店に寄る。ちくま文庫の「はたらかないで、たらふく食べたい」(栗原康)を購入。我孫子駅南口でレストラン「こびあん」によってランチ。「生姜焼き定食」を食べる。

3月某日
「はたらかないで、たらふく食べたい 増補版」(栗原康 ちくま文庫 2021年2月)を読む。本書は2015年4月にタバブックスから刊行された単行本に未収録原稿などを加えたから増補版というわけだ。著者は1979年生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業後、同大学の政治学研究の博士課程を修了した。だけど定職につかず親のもとで暮らしている。結婚を決めた彼女に振られる話は本書の「豚小屋に火を放て」に詳しい。「文庫版あとがき」によると栗原先生の現在の年収は200万円、この本を書き始めた頃の、「およそ20倍だ」。栗原先生独特の踊るような文体のカゲで実は、現在の資本制社会に根本的な批判を行っていることを見逃してはならないと思う。船本洲治って人について書かれた「だまってトイレをつまらせろ」では、山谷、釜ヶ崎での暴動を「秩序紊乱だ。たのしすぎる」と肯定的に評価する。栗原先生は著者略歴では「アナキズム研究家」となっているし、読み込んでいる文献はアナキズム関係に止まらず「老子」「荘子」「本居宣長」などにまで及んでいる。相当な勉強家であることは確かである。しかし先生は大杉栄がそうだったように、すぐれた実践家だと思う。書斎におさまりきらないのである。

3月某日
「余白の春 金子文子」(瀬戸内寂聴 岩波現代文庫 2019年2月)を読む。初出は「婦人公論」1971年1月号~72年3月号に連載された。大杉栄とともに虐殺された伊藤野枝を主人公にした評伝小説「風よあらしよ」(村山由佳)から読み始めた大正期のアナキストの評伝小説も、これで5作目。金子文子は伊藤野枝とほぼ同時代に生きた。伊藤野枝が虐殺されたときと同じ頃に大正天皇と皇太子(後の昭和天皇)の暗殺を企てた容疑で逮捕され、大逆罪で死刑判決を受けた後、無期懲役に減刑される。宇都宮刑務所栃木支所に収監されたが、独房で縊死。金子文子は山梨の貧しい家に生まれた。肉親の愛には恵まれなかったようで10代の頃朝鮮の祖母と叔母に引き取られるが虐待に近い扱いを受け、日本に逃げ戻る。親類を頼って上京、働きながら正則学園と研数学館に通う。社会主義者が通うおでん屋に勤めていたときに朝鮮人の朴烈と知りあい同棲する。朴烈は朝鮮独立を志すのだが思想的にはニヒリストだ。金子文子も思想的に朴烈と同化していく。アナキストとニヒリストは同じような思想ととられがちだが、違うようだ。アナキストは無政府共産主義社会の実現を目指すが、ニヒリストは国家や社会そのものの否定を目指す。金子文子は朴烈との刑死を望むが減刑によりその望みは叶えられなくなる。その絶望感が縊死を選ばせたのか。瀬戸内寂聴が金子文子の韓国の墓を訪ねる場面が描かれているが、これが何とも美しくも悲しい。

3月某日
阿部正俊さんの本の校正紙の受け渡しを社会保険出版社の1階で、キタジマの金子さんから校正者の香川さんへ。その後、香川さんとニコライ堂を観に行く。コロナで一般公開は中止で中には入れなかった。聖橋を渡って湯島の聖堂の脇を通って神田明神へ。お参りした後、急な階段(男坂)を下る。以前、よく利用した章太亭の前を通って大きな通りへ出る。2時過ぎだがイタリア料理店が空いていたので入る。香川さんが「今日はご馳走しますよ」と言ってくれたので遠慮なくご馳走になる。食べ終わって私は千代田線の湯島駅へ、香川さんは秋葉原へ。

3月某日
私の故郷室蘭を舞台にした映画「モルエラニの霧のなか」を観に行ったとき、一緒に行った山本良則君が貸してくれた「猛スピードで母は」(長嶋有 文藝春秋 2002年1月)を読む。表題作と「サイドカーに犬」の2編の中編小説が収められている。表題作の舞台は北海道の南岸沿いの小都市M市。もちろん室蘭である。離婚した母と団地に二人暮らしする慎の物語である。ウイキペディアで調べると長嶋は幼い頃両親の離婚で室蘭に引っ越し。港南中学、清水が丘高校をへて東洋大学2部に進学。サラリーマン生活を経て作家になった。なんか面白そうなのでもう少し読んでみようかな。

3月某日
鎌倉河岸ビルの地下1階「跳人」でランチ。お店の大谷君が「サッパリですよ」とさえない表情で嘆く。「そのうちコロナも収まるよ」と根拠のない激励をする。「社保研ティラーレ」によって吉高会長と雑談。神田からお茶の水経由で社会保険出版社へ。高本社長と近藤役員に故阿部正俊さんの「真の成熟社会求めて」出版のお願いをする。お茶の水から秋葉原、上野経由で我孫子へ。

モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
室蘭の小学校、中学校、高校で一緒だった山本良則君と岩波ホールで待ち合わせ。「モルエラニの霧の中」という映画を観るためだ。坪川拓史という室蘭市在住の監督が撮ったこの映画の舞台はもちろん室蘭である。モルエラニとはアイヌの言葉で「小さな坂道をおりた所」という意味で室蘭の語源の一つと言われているそうだ。上映時間3時間を超える長編だが、「冬の章」「春の章」「夏の章」「晩夏の章」「秋の章」「晩秋の章」「初冬の章」の7話で構成されており、長さは苦にならなかった。ただ映画の舞台となったのはかつての室蘭の中心地だった絵鞆半島で、私や山本君が少年時代を過ごした水元町や知利別町はまったく登場しない。水元町や知利別町は室蘭岳の麓に位置し、どちらかというと山の入り口。対して絵鞆半島は噴火湾(内浦湾)に突き出た海の街でモルエラニの言葉通り、坂の多い街だ。室蘭というタイトルを避けてモルエラニという言葉を使ったのは、抽象的な海の街での物語としたかったためではなかろうか。画面がとても美しく、私はこの映画を気に入りました。私が生まれ育ったのは水元町の公務員宿舎なのだが、父親の退職後、家を建てたのは絵鞆半島の突端でこの映画にも出てくる白鳥大橋のすぐ近くだった。私は高台の上に建ち海からの風がビュービュー騒ぐこの家が割と好きだったのだが、父も母も亡くなり家を継いだ弟はこの家を売却して新しくコンパクトな家を建てたそうだ。

2月某日
社会保険出版社で阿部正俊さんの遺稿集のゲラの受け渡し。校正者の香川さんからキタジマの金子さんへ。その後、香川さんと神保町の古書店街へ。久しぶりに建築専門書店の南陽道をのぞく。ランチに香草の香り高い蘭州拉麺を頂く。香川さんと別れ私は新御茶ノ水から千代田線で我孫子へ。駅前の「しちりん」でホッピー。

2月某日
「諧調は偽りなり-伊藤野枝と大杉栄」(上下)(瀬戸内寂聴 岩波現代文庫 2017年12月)を読む。伊藤野枝の生涯を描いた小説だが、同じ作者の「美は乱調にあり」が葉山の日蔭茶屋で大杉栄が神近市子に刺されるまでを描いているのに対して、こちらは日蔭茶屋以降、甘粕正彦らに虐殺されるまでを描いている。「美は乱調にあり」が月刊文藝春秋に連載されたのが1865年、「諧調は偽りなり」は同誌の1981年3月号~83年8月号に連載されている。15年ほどの期間があるが、甘粕正彦像を確定させるのにそれだけの時間がかかったということも一因という。大杉と野枝、さらに満6歳の甥の橘宗一を虐殺したことにより甘粕は懲役10年の判決を言い渡されるが、2年10カ月務めただけで出所している。出所後、満洲に渡った甘粕は満洲映画(満映)の理事長として満洲の政財界で重きをなした。日本の敗戦時に甘粕は青酸カリで服毒自殺を遂げているが、満洲時代の甘粕は人の面倒見がよかったという。これがのちの甘粕善人説に繋がっているようだ。瀬戸内寂聴は甘粕善人説も紹介しながら、甘粕の本質が虐殺者であり弾圧者であることをきちんと描いている。ちなみに大杉らの虐殺に対する報復として、和田久太郎、村木源次郎、古田大次郎らが関東大震災時の戒厳司令長官だった福田雅太郎大将暗殺未遂事件を起こしている。村木は逮捕後獄死、古田は判決後わずか1カ月で死刑が執行され、終身刑の和田は昭和3年2月、秋田刑務所で縊死した。甘粕は3人殺して3年足らずで出獄、和田ら3人は未遂でも刑死、獄死、獄中での自死である。この不公平さにはやりきれないものを感じてしまう。