3月某日
図書館で借りた瀬戸内寂聴の「遠い声 菅野須賀子」(岩波現代文庫 2020年7月)を読む。実はこの本、昨年の9月に読んでいるんだよね。「酒中日記」の昨年9月分に感想が記されている。でも内容はほとんど覚えていない。赤瀬川源平がいうところの老人力がついてきた証拠かな。解説はアナキズム研究家の栗原康でこれがなかなかいい。2月に村山由佳の伊藤野枝の評伝小説「風よあらしよ」を読んで以来、主に瀬戸内寂聴の伊藤野枝、金子文子、朴烈らの大正期のアナキストの評伝小説を読んできた。彼らは殺されたり(伊藤野枝、大杉栄)、自殺したり(金子文子)するのだが、菅野須賀子は刑死である。市ヶ谷監獄の断頭台で処刑された。この小説は全編、菅野須賀子の独白、それも処刑前日と処刑当日の独白で綴られている。菅野須賀子は最初、荒畑寒村と結婚する。寒村との結婚前にも何人かの男と恋愛し性交渉もあった。寒村が獄中にあるとき幸徳秋水と同棲するが、寒村は出獄後ピストルを懐に二人を付け狙ったという。菅野須賀子には性に奔放、淫乱、毒婦というイメージが付きまとうことになるのだが、瀬戸内寂聴はそんなイメージに惑わされることなく、天皇制や封建制に抗った一人の女性として菅野須賀子を描いている。伊藤野枝、金子文子、菅野須賀子の三人に共通しているのは、自分自身に対する正直さかな。
3月某日
図書館で借りた「女たちのテロル」(ブレイディみかこ 岩波書店 2019年5月)を読む。この本は前にも読んだ記憶はあるが、例によって内容はさっぱり覚えていない。本扉の次のページに「百年前の彼女たちから、百年後を生きるあなたへ」という言葉が刻まれている。この本は百年前に生きた日本のアナキスト、金子文子と英国のサフラジット(女性参政権運動家)のエミリー・デイヴィソン、アイルランドの独立運動を戦い女性の狙撃兵としても優秀だったマーガレット・スキニダーの短い物語である。金子文子の評伝小説の「余白の春」(瀬戸内寂聴)を読んだばかりだが、こちらの金子文子像はより実録っぽい。彼女たちに共通するのは、世の中を変えるという目的のためには暴力やテロルも辞さないということである。現代の日本では暴力はとかく否定されがちである。私などの学生時代は、全共闘の学生たちはマスコミや日本共産党・民青から暴力学生と呼ばれていた。ヘルメットとゲバ棒で「武装」し、投石を繰り返す学生たちを暴力学生と彼らは呼んだ。たぶんこの言葉には学生の本分たる勉学を放棄したものへの蔑視も含まれている。実際、早稲田の全共闘運動の最盛期だった1969年頃、文学部の社青同解放派の活動家が「お前ら、勉強なんかしたくないだろ。だからストやるんだよ」とアジテーションしているのを目撃している。私たちは「異議ナーシ」と答えたものである。そうか50年前の全共闘の源流は100年前の金子文子にあるんだ。
3月某日
東日本大震災から10年。あのとき私は八丁堀の地下鉄の駅に入る直前だった。もちろん地下鉄は動かず、八丁堀から東京駅の八重洲口を通って丸の内口へ。そして内神田の年友企画へ帰った。歩いて帰ることのできる社員は帰し、私は校正のナベさんと神田駅西口の焼き鳥屋で呑むことにした。この店はビルの5階にあり窓から神田駅のホームを見渡せた。電車が動くようになれば直ぐ分かるのだ。ところが電車は一向に動き出さず、私はナベさんと湯島のスナック「マルル」まで歩くことにする。マルルのシャッターは降りたままなので、地下のスナックに入る。中年のママが「今日は女の子が出てこれないのよ、それでもいい?」という。「もちろん」と10時近くまで呑む。10時なるとオープンするスナックが根津の「ふらここ」。ここで朝まで時間をつぶす。朝になっても電車は動かない。ナベさんと上野まで歩き、ナベさんと別れ私は南千住行きのバスに乗る。南千住から動き出した日比谷線で北千住へ。北千住から綾瀬、亀有当たりまで歩いたところで千代田線が動き出した。我孫子駅に着いたのは15時くらいだったろうか。気持ちが高揚しているせいかほとんど疲れを感じなかった。
3月某日
家にあった「思い出袋」(鶴見俊輔 岩波新書 2010年3月)を読む。この本は2010年3月に私が脳出血で倒れ、船橋市立リハビリテーション病院に入院していたとき友人の西村美智代さんが差し入れてくれたものだ。なんとなく読みそびれて10年以上たってしまった。岩波書店のPR誌「図書」に2003年から2009年に連載された「一月一話」を新書にまとめたものだ。新書出版当時87歳だった鶴見が不良少年だった幼少期、ハーバード大学への留学時代、日米捕虜交換船で帰国し海軍軍属として経験したインドネシアのことなどがアトランダムに綴られている。「学校という階梯」という項目では金子ふみ子のことがとりあげられている。アナキストで皇太子暗殺未遂の容疑で死刑を宣告され、恩赦で無期懲役に減刑されたにもかかわらず、刑務所で縊死した金子文子である。通常は文子と表記するが鶴見はふみ子と表記しているので、ここでは鶴見の表記に従う。金子ふみ子は22歳で自死するが小学校も満足に通えず、家庭は貧困で父は外に女を作って出奔、母は男を家に誘う。しかしふみ子は単身上京し働きながら夜学で学ぶ。私は今、金子文子の獄中手記「何が私をこうさせたか」(岩波文庫)を読んでいるが文章の構成などたいしたものである。パソコンもワープロもない時代、難しい漢語や漢字も易々と使っている。もっとも獄中手記では満足に通えなかった小学校でも彼女の成績は群を抜いていたそうである。
3月某日
我孫子市民図書館の蔵書を「大逆事件」をキーワードに検索していたら「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響」(我孫子市教育委員会 我孫子市文化財報告第3集 2010)がヒットした。早速リクエストする。A4判で24ページのパンフレットだ。明治、大正、昭和を通じて活躍したジャーナリスト、杉村楚人冠は我孫子に在住し自宅は杉村楚人冠邸として公開されている。楚人冠邸で発見されたのが菅野須賀子から楚人冠に出された書簡である。針で書かれたような筆跡で「爆弾事件ニテ私外三名近日死刑ノ宣告ヲ受クベシ御精探ヲ乞ウ 尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士ノ御世話切ニ願フ 六月九日 彼ハ何ニモ知ラヌノデス」と書かれた書簡で、封筒には同じく針文字で「京橋区滝山町 朝日新聞社 杉村縦横様 菅野須賀子」とあった。この書簡は明治43(1910)年6月11日に牛込から統監されている。杉村縦横とは楚人冠の別号で幸徳秋水、菅野須賀子と楚人冠は事件以前から交流があった。このパンフレットでは書簡が須賀子の手によるものと断定はしていない。が私はホンモノと思いたい。書簡の最後の「彼ハ何ニモ知ラヌノデス」の一文に、幸徳を救おうとする須賀子の一念がうかがえるではないか。