モリちゃんの酒中日記 5月その4

5月某日
「ブロークン・ブリテンに聞け」(ブレイディみかこ 講談社 2020年10月)を読む。ブレイディみかこを読んだのは一昨年の「女たちのテロル」(岩波書店)を読んだのが初めて。ブレイディみかこが何者かも知らず、図書館の新着案内で書名だけでリクエストした。金子文子はじめ、アイルランド独立戦争の女スナイパーや大英帝国の女性参政権運動のリーダーの生き方を追った本だった。それからすぐに「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)がベストセラーになった。こちらは図書館にリクエストが殺到していたので書店で購入した。ブレイディみかこは左翼である。それもアナキスト系のかなり過激な左翼で、日本共産党系や旧社会党系の旧左翼とも反日共系の新左翼とも一線を画す。本書でも英国のデヴィッド・グレーバーの階級論を「マルクスではなくクロポトキンの思想の延長上にある」とし、「人間には他者をケアしたい本能が備わっていて、人はそれをしながら生きる方向を転換せねばならない」と彼の思想を紹介している。ステレオタイプの左翼思想ではない。ブレイディみかこは福岡修猷館高校を卒業後、ロック好きが高じて渡英、アイルランド系のトラック運転手と結婚して男児を得る。この男の子が「ぼくはイエローで…」の「ぼく」である。英国で保育士の資格をとり「最底辺保育所」で働きながら、ブログでエッセーを発表していた。英国在住ということも彼女の視点のユニークさと関連しているかも知れない。島国で「王制」であるということから日本と英国は共通点が多いように日本人は勝手に思っているが、それは大いなる勘違いであることを本書は示してくれる。それもアッパーミドルや上流階級ではなく、労働者階級の視点で、英国のEU離脱やロイヤルファミリー、エリザベス女王に対する庶民の評価、コロナウイルスへの対応などについて縦横に筆をふるう。私は70歳前後になってブレイディみかこと加藤典洋の著作に出会えたことは幸運だと思っている。

5月某日
図書館でサンデー毎日の最新号に目を通していたら下山進という人の「2050年のメディア」という連載コラムが目についた。萩尾望都という女流漫画家の語り下ろしの「一度きりの大泉の話」(河出書房新社 2021年4月)を取り上げていて、なんでも萩尾と当時(1970年代)、萩尾以上に人気のあった漫画家、竹宮恵子との出会いと別離の話がメインストーリーのようだ。私は大学生が漫画を読むようになった1960年代後半から70年代にかけて学生生活を送ったからもちろん漫画は読んでいた。ただその頃の大学生は圧倒的に男子学生が多く、「右手に少年サンデー、左手に朝日ジャーナル」というように、私らが愛読していたのはもっぱら少年漫画だった。したがって私の場合、萩尾望都や竹宮恵子は名前を知っている程度で作品は読んだことはない。というわけで「一度きりの大泉の話」にもそれほど興味を持ったわけではなかったが、図書館の新刊コーナーにはその本が並んでいるではないか。早速、借り出して読んでみるとこれが面白い。萩尾は1949年生まれで私の一歳年下、同じ時代の空気を吸ってきたわけだ。萩尾は上京後、大泉で竹宮と共同生活をしながら、漫画の制作に励むのだが、ある日竹宮から絶縁を宣言される。それは半世紀後の今も続く。今日の朝日新聞(5月29日)の書評欄でトミヤマユキコという人がこの本を取り上げ、読者としての私たちの仕事は「真相究明でも善人悪人のジャッジでもなく、彼女の戸惑い、恐れ、苦しみにそっと触れることだろう」と記している。その通りだと思う。思うのだが、この本のきっかけとなったのは同時期を描いた竹宮の「少年の名はジルベール」だという。我孫子市民図書館のHPで検索したら在庫と出た。さっそくリクエストした。

5月某日
「少年の名はジルベール」(竹宮恵子 小学館 2016年2月)を読む。この間読んだ「一度きりの大泉の話」は竹宮や萩尾望都が参加した大泉サロンとその周辺について萩尾の視点から描いたものだが、「少年の名は…」竹宮側の見方が明らかにされている。竹宮はもちろん漫画家なのだが、2000年に京都精華大学教授に、2014年には学長に就任している。竹宮は漫画家として優れているだけでなく教育者、あるいは大学の管理者、経営者としても名をなしたと言えるだろう。「少年の名は…」にも「一度切りの…」にも1972年に竹宮、萩尾、山際涼子(漫画家)に加えて、その頃から竹宮のプロデューサー的存在だった増山法恵の4人で行ったヨーロッパ旅行のことが記されている。旅行の準備や旅行中の庶務的なことは竹宮が引き受けていたようだ。やはり管理能力が抜群なのだと思う。それに対して萩尾望都はやはり芸術家肌何だなぁ。竹宮はこの本のラストで萩尾や増山らの若いころ友人たちを振り返り、「あの一瞬とも思える時間のなかで、なぜ巡り合えたのだろうか。それ自体がこの世の奇跡だ」と記している。同じ体験を共有しながら萩尾は傷つき、記憶を封印し、竹宮は追憶し懐かしむ。面白い。

5月某日
石巻市の地酒、日高見(平孝酒蔵)が6本届く。送り主は石巻出身の神山さん。石巻の母上のところに帰郷するので石巻の地酒を贈るというので日高見を所望した。6本も送られてきたのでひたすら恐縮。東日本大震災のとき石巻に取材に入り、確か駅前の物産館で買ったのが初めて。日高見国とは古代日本または蝦夷の地を美化していて用いた語とある。具体的な地名というよりも王権の東方の地、太陽が出てくる地域を意味していたらしい。北海道の日高地方(サラブレッドの産地として有名)も日高見国に因んでいるという。平安時代初期まで蝦夷は東北地方まで進出していた。坂上田村麻呂の蝦夷征討を高校の日本史で習った記憶がある。田村麻呂に与えられた征夷大将軍の称号が、後に源頼朝や足利尊氏、徳川家康へ武家の棟梁として与えられた。朝日新聞朝刊(5月31日)に「北海道・北東北の縄文遺跡群」のことが紹介されていた。数千年から1万年以上さかのぼるこれらの遺跡を築いた縄文人は蝦夷やアイヌの祖先だったのか、弥生人との関係は、興味は尽きない。なおこの記事によると、縄文文化は農耕・牧畜と定住がほぼ同時に始まった世界の他地域と異なり、農耕以前の「狩猟・採集・漁労の段階で定住を確立したのが特徴だ」としている。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「敗戦後論」(加藤典洋 ちくま学芸文庫 2015年7月)を読む。巻末に「本書は1997年8月5日、講談社より刊行され、2005年12月10日、ちくま文庫で再刊された」とある。本書には加藤の3つの論文が収められているが、それぞれの初出誌は「敗戦後論」が「群像」95年1月号、「戦後後論」が「群像」96年8月号、「語り口の問題」が「中央公論」97年2月号である。今年が2021年だから今から25年前に発表された論文である。私が50歳になる手前、40代後半の頃である。その頃、加藤典洋なんていう批評家の存在を知っていたのだろうか? 名前くらいは知っていたかも知れないが、ほとんど興味を覚えなかったと思う。加藤の本を読んだのも昨年の「戦後入門」(ちくま新書 2015年10月)が初めてだ。それも我孫子の香取神社境内で月一で開かれる朝市で500円で購入したものを数カ月、放っておいて読みだしたのだ。加藤は私と同年で彼が早生まれのため学年は一つ違い(大学では私が一浪したため学年は二つ違い、私が早大に入学したとき、彼は東大の3年生)だ。私は20歳のころ(1968年)、25年前は昭和18年、戦中であった。それは歴史としてしか存在しなかった。現在から「敗戦後論」が書かれた25年前を振り返ると、それは現在(現代)としてしか意識されない。私が年を重ね時間の流れる速度を短く感じるようになったためだろうか。あるいは逆に経済が高度成長から減速経済に移行し、時間がゆっくり流れるように感じるようになったためだろうか。
「敗戦後論」は先の大戦で敗れた国家としての日本と日本人を問い直そうとする試みである。敗戦そして戦後を日本人はどうとらえたか?加藤は日本古代史の津田左右吉や天皇機関説の美濃部達吉の戦後の言説に注目する。津田は戦前、実証的な古代研究で当局からの弾圧を受け、戦後は民主主義陣営に立つ学者として期待された。しかし津田が「世界」に寄せた論文は「建国の事情と万世一系の思想」と題するもので「天皇は『われらの天皇であられる』。『われらの天皇』はわれらが愛さねばならぬ」と「世界」の編集者を困惑させるものだった。美濃部は新憲法を審議する枢密院でただ一人反対する。理由は憲法改正を定めた帝国憲法73条は日本がポツダム宣言を受け入れた時点で無効である、というものだった。加藤によると津田も美濃部も敗戦による「ねじれ」の感覚に自覚的だったことを示している。この「ねじれ」に自覚的な文学者として加藤は中野重治と太宰治をあげる。中野や太宰の作品にあらわれるのは「ねじれ」の感覚と戦後の一種の解放感に対する違和感である。この違和感は大岡昇平の「俘虜記」や「レイテ戦記」にも通底する。大岡はエッセーにテレビの1日の終わりに日の丸が画面一杯に映るのに「いやな感じがする」と書く。大岡はさらに外国の軍隊が日本にいる限り、絶対に日の丸をあげないと断ずる。大岡のエッセーが書かれたのは1957年である。半世紀以上たった今も沖縄には米軍が駐留している。「敗戦後論」は十分に存在の意味があるのである。

5月某日
「南北戦争-アメリカを二つに裂いた内戦」(小川寛大 中央公論新社 2020年12月)を読む。南北戦争については奴隷解放を巡って、それに賛成する北部の州と反対する南部の州が戦ったアメリカの19世紀の内戦、程度の知識しかなかった。今回この本を読んでアメリカにおける南北戦争の存在の大きさが分かった。戦前戦後という言葉は日本ならば太平洋戦争の前と後ということで理解されるが、アメリカでは戦前(antebellum)と戦後(postbellum)は1861年から1865年にかけて行なわれた南北戦争の前か後かを指す言葉という。戦死者は南北両軍併せて約60万人。アメリカ独立戦争のアメリカ側の戦死者2万5000人、第二次世界大戦では約40万人、ベトナム戦争では約5万人である。南北戦争は、最も多くのアメリカ人が命を落とした戦争なのだ。南北戦争は奴隷制の維持か否かを争って戦われた戦争であることは正しいのだが、より正確に言うと奴隷制の維持を主張する南部諸州が合衆国から脱退、南部連合国という新国家を作り、それを認めない合衆国と戦闘状態に入ったということであろう。当時の黒人奴隷は主として南部で綿花の栽培、収穫に使役されていた。それに対して北部では小麦、トウモロコシなどの穀類が主要な農作物であり、牛や馬を使役していた。南部は綿花に完全に依存した地域であったのに対し、北部は多様な農産物、さらに鉄鋼業や造船業などの諸工業に依存していた。南北の格差は明らかなのだが、それでも4年間にわたって南部は抵抗したと言える。よく知られているように当時の大統領はリンカーンで戦争中に再選され、戦後に暗殺された共和党の大統領である。南部は民主党の地盤であった。現在のアメリカはバイデン、オバマ、クリントンらの民主党大統領にはリベラルの印象が強い反面、トランプ、ブッシュらの共和党大統領には保守のイメージが強い(個人の感想です)。どうなっているのでしょうか?

5月某日
「百合中毒」(井上荒野 集英社 2021年4月)を読む。井上荒野は好きな作家で図書館に新刊が入るとリクエストする。「百合中毒」もひと月ほど待ったが読むことができた。八ヶ岳の麓で園芸店を営む一家の物語。女主人の歌子は25年前に夫に出て行かれるが、現在は園芸店の従業員との再婚を考えている。夫はイタリア料理店のイタリア人の女と暮らすようになるが、女がイタリアへ帰国し、夫は園芸店に戻ってくる。長女は元銀行マンと結婚し夫婦で店を手伝っているが、夫の不倫を疑っている。次女は勤め先の上司と不倫の仲だが雲行きが怪しくなっている。タイトルの百合中毒は、園芸店で売られた百合に飼い猫が中毒したとクレームを付けられた作中のエピソードによる。不倫がテーマなのだが、より正確に言うと男と女が主題なんだろうね。そう言えば井上荒野の父は井上光晴。瀬戸内晴美と長く不倫関係にあった。瀬戸内はその関係を清算するのも出家の一因という説がある。井上荒野には光晴と瀬戸内の関係をモデルにした「あちらにいる鬼」という作品があるが、これももちろん面白く読んだ。

5月某日
今日の朝日新聞朝刊の千葉版に「千葉県の新型コロナウイルスワクチンの高齢者への接種率が、全国ワースト2の4.3%」という記事が出ていた。ちなみに全国平均は6.1%で最も高かったのは和歌山の17.5%、次いで山口の14.3%だった。首都圏は東京が6.6%、神奈川が4.6%、埼玉が4.5%と軒並み低い。人口が多ければ高齢者の数も多く準備も大変だろうと自治体関係者に同情はするが、なるべく早めに接種してもらいたいものだ。近所の80歳過ぎの高齢者には6月接種のお知らせが届いたということなので、私は7月かな。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
「〈階級〉の日本近代史-政治的平等と社会的不平等」(坂野潤治 講談社選書メチエ 2014年11月)を読む。本書は日本近代史を「階級」という視点から描いたものと言える。士農工商という身分制度をはじめとした封建制度は1871年の廃藩置県で完了する。主導したのは武士階級それも幕藩体制下では下層の武士階級であった。その3年後に「民撰議院設立建白書」が、租税を払う者には参政権が与えられるべきであると主張している。明治初期の租税は大部分が地租であったから、租税を払う者とは上層農民、地主を意味していた。1890年に第1回の総選挙が実施されたが、当選者の多くは地主階級であった。一定以上の税金を納めている者にしか選挙権を与えられなかった制限選挙だったからこれは当然であった。制限選挙は徐々に緩和されると同時に、所得税を払う都市ブルジョアジーが台頭してきた。殖産興業のスローガンのもと、日清・日露、第一次世界大戦を経て繊維産業中心から重化学工業化も進められた。1925年に男子の普通選挙法が成立し、無産階級にも選挙権が与えられた。この動きは坂野先生によると明治維新、自由民権運動、大正デモクラシー、昭和デモクラシーに対応し、担い手は「士」⇒「農」⇒「商」⇒「工」の順で時間をかけて広がってきた。この流れは総力戦体制のもとでも、戦時下でも、占領下でも進んで、時代を動かしていったというのが坂野先生の考えである。これぞ坂野史観である。

5月某日
監事をしている一般社団法人の監事監査があるので東京虎ノ門へ。小1時間で監査が終わり、お茶の水の社会保険出版社の1階で印刷会社の金子氏と待ち合わせ。若干の打ち合わせをした後、社会保険出版社の高本社長を訪問。日経新聞の「交友録」に高橋ハムさんが書いたエッセーのコピーを貰う。金子氏に車で御茶ノ水駅まで送って貰い我孫子へ帰る。

5月某日
「大きな字で書くこと」(加藤典洋 岩波書店 2019年11月)を読む。加藤典洋は1948(昭和23)年4月1日生まれ。私と同年だが4月1日生まれなので学年は1947年と一緒。1966年に東大に入学、1967年10月8日の第1次羽田闘争に衝撃を受け、11月の第2次羽田闘争に初めてデモに参加、それまでは非政治的な人間だったという。私は1948年の11月生まれで加藤と同年だが、学年は1年下。大学は一浪したので大学の学年は2年下。第1次羽田闘争は浪人生のときだった。「大学に入学したら学生運動をやろう」と秘かに決意した。加藤はその後、東大全共闘として全共闘運動に参加、卒業は私と同じ1972年だ。大学院の入試に落ちて国立国会図書館に勤務、1978~1982年、カナダのモントリオール大学東アジア研究所に派遣される。カナダでフランス文学者の多田道太郎と知りあい、多田から大学教師になるきっかけを与えられ、明治学院大学の教師となる。「大きな字で書くこと」には、加藤の「自分史」にまつわることが記されているのだが、時代的に共通するところもあって、私には面白かった。加藤の父は1916(大正6)年生まれ、20代で山形県巡査となり「特高」(特別高等警察の略、政治犯や思想犯を取り締まった)に配属される。全共闘運動に参加した加藤は、後に干刈あがたに「じつは父親が警察官だったので捕まるわけにはいかなかったんです」というと、「干刈さんが、あ、私のところもそうなんです、といって私の顔を正面から見た」と書かれている。当時の活動家(今や死語、学生運動に主体的に参加し暴力も辞さなかった)にとって「親が警察官」というのは深刻な問題だった。加藤典洋はなかなかいいと思うのだが、残念ながら2019年5月に亡くなっている。

5月某日
NHKBSプレミアムで「タクシー運転手-約束は海を越えて」を観る。1980年に起きた光州事件を題材にした韓国映画で日本公開は2018年4月。ソンガンホが演じるソウルのタクシー運転手は妻を亡くして娘と2人暮らし。光州での取材を希望するドイツ人の記者を乗せて光州事件真っ只中の光州市に入る。記者と運転手が目撃したのは、軍に抗議する市民、学生と彼らを容赦なく銃撃する軍の姿だった。2人を案内してくれた学生も銃撃され死亡する。運転手は記者から謝礼を渡され、いったんはソウルへ帰りかけるが、記者と市民のことが心配になり引き返す。記者と運転手はタクシー運転手仲間の援けもあって無事に金浦空港に脱出、記者のレポートはドイツで放映される。私はこの映画を観て、現在のミャンマーの状況に思いを馳せた。ミャンマーでも軍事政権に反対して市民が立ち上がったが、軍は発砲で応じ何百人単位での死者も出ている。光州事件も軍事クーデターで実権を握った全斗煥大統領のもとで起こった。「歴史は繰り返す」という言葉を思い出す。

5月某日
BSフジのプライムニュースを観る。反町というキャスターが偉そうでもなく、庶民的でちょっと気に入っている。識者を3人呼んで異なった角度からニュースを解説する形式も悪くない。新聞のテレビ欄には「気鋭哲学者×伊吹文明 コロナ感染と資本主義 緊急事態宣言と日本人」となっていたのでチャンネルをBSフジに合わせる。伊吹文明は自民党の重鎮で衆議院議員、気鋭哲学者というのは昨年「人新世の資本論」で注目を集めた斎藤幸平と日本思想史の先崎彰容。伊吹は80代、先崎は40代、斎藤は30代なので議論は嚙み合うのかと心配したが、コロナ禍の世界の現状についての認識は危機感の深刻度に違いはあっても、おおむね一致していた。伊吹は京大経済学部から大蔵省を経て政治家になった。政治家としての哲学を持った人だと思う。こういう人は与野党を通じて少なくなった。斎藤は産業革命以降の資本主義の過剰な発展による地球温暖化などの環境破壊について危機感を強く表明していた。

5月某日
朝日新聞の「科学季評」で山極寿一京大前総長が「環境問題は技術のせいか」を投稿していた。新型コロナウイルスの感染源は正確には特定できていないが、中国の市場で売られていたセンザンコウやコウモリではないかとし、エボラ出血熱に直面したアフリカ、ガボンでの体験を記している。ゴリラがエボラウイルスに感染して死に始めた。森林伐採で樹木が減り、ゴリラが寝ている木に感染源のコウモリがやってきて接触、ゴリラが感染し人間にも広がった。さらに森林伐採によって現金経済が奥地まで浸透し、伐採会社が去って失業した人々が野生動物の肉を都市で売りさばき始め感染が広がったという。山際は「地域の自然に合った人間の幸福な暮らしとは何かを考え、実現するための技術を導入する必要があると思う」とする。科学者としての山際の結論はそれでいいと思うが、私たちにはポスト産業資本主義を見つめた議論が求められていると思う。

5月某日
「ウィーン近郊」(黒川創 新潮社 2021年2月)を読む。表紙にエゴン・シーレの「死と乙女」が使われている。ベッドの上で乙女が黒衣の男に抱きついている図柄で黒衣の男が死をあらわしているのだろうか、気持ちのいい絵とは言えない。黒川創の小説を読むのは初めてだが、私には面白かった。「ウィーン近郊」を読んでいて途中から辻原登の作風に似てるなと感じた。イラストを生業とする西川奈緒のもとにウィーンの兄、優介が自殺したという連絡が入る。奈緒は新生児の特別養子縁組制度で迎えた洋を連れてウィーンへ向かう。ウィーンの兄の友人たちや在オーストリア日本国大使館の久保寺領事との交流が描かれる。ニューヨークやロンドン、パリではなくウィーンが舞台というのが面白い、というか作品的にはある種の必然性がある。ウィーン滞在最後の日、奈緒が訪れた美術館はクリムトやエゴン・シーレのコレクションで知られる。領事の久保寺は奈緒を日本に送った翌週に美術館でエゴン・シーレの大作「死と乙女」に目をとめる。この本の表紙に使われた絵である。ギャラリーの売店で求めた解説書によると、これは1915年、作者が25歳のときの作品だという。久保寺は大学生の英語のテキストだったグレアム・グリーンの「第三の男」を思い出す。映画にもなったこの小説の舞台もウィーンだった。小説の中で話が連関していく、ロンドのように。この感じが辻原の作風に似ているのかも知れない。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
「時代の異端者たち」(青木理 河出書房新社 2021年2月)を読む。スタジオジブリ出版部が刊行する月刊の小冊子「熱風」での青木をホストとする連載対談「日本人と戦後70年」が土台となっている。本書に掲載されているのは翁長雄志沖縄県知事(当時)はじめ9名との対談である。権力者、為政者、政治家の役割は何か、を考えさせられたのは翁長、そして長く国会議員を務めた河野洋平、ジャーナリストの半田滋、ふるさと納税に反対して総務省の局長を飛ばされた平嶋彰英との対談であった。翁長は戦後の日本の繁栄は沖縄の犠牲のもとになされてきたと憤り、普天間基地の返還と辺野古移設に関連して「普天間は沖縄県民が自ら差し出した基地ではありませんと。強制的に接収された土地なんですと。それが老朽化したから、世界一危険になったから、また沖縄に負担しろというのは(略)本当の意味で日本という民主主義国家が品格ある成熟したものにはなっていないということではないでしょうか」と語る。河野は自民党が絶対多数を握る国会の現状と、さらに小選挙区制などで変質した自民党の現状を憂うる。半田も安倍政権下で進行してきた専守防衛論からの逸脱を語り、対米一辺倒の防衛政策に疑問を呈している。平嶋はふるさと納税制度の拡充に反対して当時の菅官房長官の逆鱗に触れ左遷された。ふるさと納税は比較的裕福な層にメリットがある制度で、この拡充などもってのほかとの発言が問題視された。他にもゲイであることをカミングアウトしたジャーナリスト、北丸雄二、「国境なき医師団」の看護師、白川優子との対談など、大変面白くまた考えさせられた。

5月某日
NHKBSプレミアムで「六角精児の呑み鉄本線日本旅」を観る。本日は再放送ではなく新作「春、秩父鉄道を呑む」。埼玉県は意外に酒蔵が多いらしい。羽生駅から秩父鉄道に乗ってスタート、沿線の酒蔵を訪問する前にちょうど見ごろの桜を鑑賞。秩父はセメントの原料となる石灰の産地、武甲山がある。確か秩父セメント発祥の地。秩父鉄道や秩父セメントにも渋沢栄一が関係しているはずだ。秩父ではもつ焼きを肴に地酒を一杯。石灰の採掘やセメント工場に全国から働く人が集まり、その人たちを相手にもつ焼き屋が増えたらしい。秩父はウイスキーの産地でもある。翌日、六角精児は秩父ウイスキーの蒸留所を訪問する。NHKだから蒸留所名は明らかにされないが、肥土(あくと)伊知郎氏が創業した秩父蒸留所である。六角精児はウイスキーも堪能し絶好調である。この番組のナレーションは壇蜜。これがまたいい。

5月某日
「明治維新の意味」(北岡伸一 新潮選書 2020年9月)を読む。北岡伸一は1948年生まれ、東大法学部、同大学院卒業後、東大教授、国連大使、国際大学学長などを歴任、現在は国際協力機構(JICA)理事長である。明治維新をどうとらえるかは日本の近代をどう位置付けるか、とほぼ同義であると私は考えている。戦前のいわゆる講座派は明治維新を絶対主義の確立と捉え、他方の労農派はブルジョア革命と捉えた。講座派に結集したのは日本共産党系の学者に対して労農派は非日共系のマルクス経済学者が多かった。来るべき革命のイメージとしては日共系(講座派)が、絶対主義を打倒するブルジョア民主主義革命に対して、非日共系(労農派)はプロレタリア革命であった。この論争は戦後も持ち越され、日本共産党は講座派を引き継いで当面する革命はブルジョア民主主義革命とし、対して労農派理論を継承した共産主義者同盟(ブント)は、プロレタリア革命を主張した。これらの論争は今からするとあまり生産的とも思えないが、私の学生時代(今から半世紀前)は結構、真剣な論争課題だった。著者の北岡は「明治維新は以上のマルクス主義のカテゴリーにあてはまらない民族革命であるという主張を行った」岡義武の立場をとる。すなわち「明治維新は、西洋の脅威に直面した日本が、近代化を遂げなければ独立を維持できないと考えて行なった革命」という見方である。いずれにせよ私はこの本を大変面白く読ませてもらった。以下、いくつか挙げてみる。

ペリー来航
1853年6月3日ペリーが浦賀に、7月にはプチャーチンが長崎に来航しそれぞれ開国を求めた。ペリーやプチャーチンと接触した幕府の役人は、「はるばる地球のかなたからやってきて、何年も家に帰ることなく、嵐の中をものともせず出航する彼らを見て、真の豪傑だと感じ入った」。それと同時に圧倒的な装備の黒船に対して全国的に危機感が共有された。これは清国や朝鮮には見られなかったことである。

五箇条の御誓文と政体書
公卿や諸侯に対し明治政府の基本方針を示したのが五箇条の御誓文である。文脈を素直に読む限り封建的でも絶対主義的とも思えない。公卿や諸侯に対しての宣言であり市民や農民に対してのものではなかったという限界はあったにせよである。1868年6月、新しい統治機構を示す政体書が出された。政体書には三権分立の思想が取り入れられ、アメリカ憲法がモデルになっていたという。

版籍奉還と廃藩置県
「すべての土地人民は天皇のもの」(王土王民)の考え方からすると版籍奉還は当然だったし、少なくない藩で財政がひっ迫していたことから統治の責任を放棄したい藩も存在した。版籍奉還後も藩主は潘知事となったが、中央政府は全国3000万石の仕事をするのに、実収は800万石しかなかった。名実ともに中央集権体制を確立するためには廃藩置県は不可避であった。

徴兵制と地租改正
武士という身分を最終的に解体したのは徴兵制で、これを担ったのは武家ではなく村医者の家出身の大村益次郎である。大村が暗殺された後、徴兵制を推進したのは山縣有朋だった。国家財政を支えるため税制改革が不可避となったが、明治初期の段階で課税に耐えうる主体は農民であった。年貢として物納されていた税金を明治政府は土地に対する課税、地租とした。地租は一定であり農業の生産性が高まれば農民は剰余価値を手にすることができ、農民の生産意欲は物納の年貢よりも向上したと思われる。

岩倉使節団
1871年11月岩倉具視を正使、木戸、大久保、伊藤らを副使とする岩倉使節団が横浜港を出港した。使節団の一行は欧米の文明に大きな衝撃を受けた。とくにイギリスの富強の根源が工業力にあることを痛感した。大久保は帰国後、西郷らの主導する征韓論に反対し内治優先を貫き、内務卿として殖産興業を推進したが岩倉使節団による見分が大きく影響した。革命後、新政権の幹部が大挙して本国を留守にすることは考えられない。留守中に反革命が起こる可能性が十分あったからである。

大久保独裁の現実
大久保は帰国後、国政をリードし朝鮮との国交問題、琉球の帰属問題などの外交案件にめどをつける一方、国内では殖産興業を推進し士族の反乱も鎮圧した。大久保は公論と衆論を明確に区別し、公論を得るための手段が衆論であり、多数の意見だからといって、それを採るのは誤りと断言している。これを現代の政治に当てはめれば、国会で多数派を形成しているのは衆論による。国会での議論によって公論を得るのが筋である。それが行われているとは言い難い。大久保は1878年5月に暗殺される。鹿児島では西郷を倒した人物としてはなはだ評判が悪く、銅像建立は1979年のことだった。

明治憲法の制定
1882年、伊藤博文は憲法研究のため渡欧する。ウイーンでシュタインから講義を受け大きな影響を受ける。シュタインの憲法論は立憲君主制度であったが、伊藤の憲法案は議会に予算の審議権を与えるなど、さらに進歩的であった。伊藤はトックヴィルの「アメリカにおける民主政治」を高く評価していたが、彼の憲法構想に影響を与えたのは「ザ・フェデラリスト」と言われる。1885年12月内閣制度が発足し総理大臣には伊藤が就任した。1889年に憲法が発表されたが、世間はこれを高く評価した。著者の北岡も「参加の拡大が一つの頂点に到達した」と評価している。

明治維新の意味
北岡は明治維新以来の政治を「ベストの人材を起用して、驚くべきスピードで決定と実行を進めている」と評価し、それに対して現代の日本は「きわめて閉塞的な状況にある」としている。そして「重要な判断基準は、日本にとってもっとも重要な問題に。もっとも優れた人材が、意思と能力のある人の衆知を集めて、手続論や世論の支持は二の次にして、取り組んでいるかどうか、ということである」とし、明治維新はそれを教えてくれているというのだ。まったく同感。

5月某日
「明治14年の政変」(久保田哲 集英社インターナショナル 2021年2月)を読む。明治14年の政変についてこれまであまり考えてこなかったが、本書を読んで概略が理解できた。 
著者の久保田は1982年生まれ。明治14年の政変って複雑な政治過程が背景にあり、政治的な人間関係もまた複雑、そうしたなかで久保田は新書版で手際よく分かりやすく叙述している。明治14(1881)年という年は西南戦争から4年後である。維新の3傑のうち西郷は西南戦争で敗死し、その数カ月前に木戸孝允は病死、木戸の病死の1年後に大久保は暗殺されている。大久保亡き後、政権を担ったのが伊藤博文と岩倉具視であった。伊藤と岩倉は薩長勢力のバランスを取りながら政権をリードした。政権の中枢にありながら薩長藩閥に属さなかったのが肥前出身の大隈重信であった。大隈は幕末、明治維新にこれといった功績はなかったが、財政家として維新以降の積極財政を担ってきた。明治10年代は国会開設に対する議論が盛んになってきた時期でもあり、大隈は明治14年3月に立憲政体に関する意見書を提出した。英国の議院内閣制を範とした意見書だった。一方、北海道開拓使の払い下げ事件が発覚する。参議兼北海道開発史長官だった黒田清隆が、同じ薩摩出身の五代友厚に開拓使の官有物を払い下げた事件である。明治14年の政変は結局、大隈が政権を去ることによって決着する。憲法の制定と国会開設こそが近代化のカギとする伊藤は、政変の翌年に憲法研究のため渡欧する。

モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
「いっちみち」(乃南アサ 新潮文庫 令和3年3月)を読む。「乃南アサ短編傑作選」と銘打たれていてすでに発行されている単行本や雑誌に掲載されたものを収録している。表題作となった「いっちみち」は「小説新潮」の昨年7月号に掲載されたもの。新型コロナウィルスが蔓延するなか松山の高齢者施設に勤める芳恵は、30年間帰っていなかった故郷、臼杵へ行ってみることを思いつく。「いっちみち」は臼杵の言葉で「行ってみよう」ほどの意味。芳恵は臼杵で初恋の人に再会するが…。あとはホラーの短編。

4月某日
今日(4月27日)の朝日新聞朝刊のオピニオン欄に阿古智子東大教授の「香港、強まる共産党支配」というインタビューが掲載されていた。阿古さんは1997年に香港が英国から中国に返還されたときに香港大学に留学していた。当時、阿古さんは「香港が英国の植民地支配から解放され、現地の人々が自らの政治制度をつくっていく。一方、中国は香港を『世界への窓』と位置づけ、経済を発展させ、政治体制もオープンにしていく」と楽観していた。今は「見方が甘かったと言われればその通りです」と。阿古さんは香港の民主活動家、周庭(アグネス・チョウ)とも親交があり、実刑判決を受けた周さんたちを心配していた。昨年6月のオンラインセミナーでの周さんの発言が紹介されていた。「私たちは命をかけて闘っています。将来には不安しかありません。来年、私は生きているでしょうか。人権、民主主義、自由を空気のように思っていてよいのでしょうか。なくなると分かるのです。その価値を」。うーん、この言葉は重い。日本でも菅首相の学術会議会員の任命拒否について何ら合理的な説明がされない事態が続いている。「自由を空気のように思っていてよいのか」という周さんの言葉をかみしめるべきだ。

4月某日
NHK BSプレミアムで「内藤大助の大冒険」を見る。内藤大助ってプロボクシングの世界チャンピオンだった人でテレビのバラエティ番組に出演したりしてるちょっとした人気者だ。
北海道の豊浦町出身で生後間もなく両親が離婚、母親に育てられた。「内藤大助の大冒険」は京成立石駅前の居酒屋から始まる。常連の内藤が「オレ、今度アラスカに行くんだよ」と店の大将に話すシーンである。京成立石駅前の呑み屋街っていかにもディープでね。私も飲み友達の大越さんに連れられて行ったことがあるけれど。アラスカでは犬ぞりで奥地の温泉まで何日もかけて行くのだ。犬ぞりの指導をするのは30歳の女性で子供のころからそりを引くシベリアンハスキー犬と親しんでいる。女性に厳しく指導される内藤はカゲで悪態をつく。ゴールの温泉に着いたとき、女性は初めて内藤のことを誉めてくれる。内藤は女性に尊敬の念さえ抱くようになる。ここら辺には内藤の「素」の良さが出ている。「内藤大助の大冒険」ってシリーズものなのかなぁ、また観てみたい。

4月某日
「もう死んでいる12人の女たちと」(パク・ソルメ 斎藤真理子訳 白水社 2021年3月)を読む。難解!ストーリーがよく分からない。しかし斎藤真理子の解説を読んでパク・ソルメに対する興味がわいてきた。もともとパク・ソルメはデビュー以来、「個性的」「独創的」「前衛的」という評価がされてきたようなのだ。パク・ソルメは1986年、光州市に生まれる。作品には光州事件の影響を思わせるものも多い。2011年の3.11フクシマ原発事件に言及している作品もある。パク・ソルメの作品は難解ではあるけれど、現代社会が抱える困難さと向き合った作品と言えるのかも知れない。

4月某日
「大暴落 ガラ 内閣総理大臣三崎皓子」(幸田真音 中公文庫 2020年3月)を読む。日本初の女性総理大臣に就任した三崎皓子が、大洪水に見舞われた首都、東京の危機に対処していく姿を描いた小説と一口に言ってしまえばそうなのだが、私には現在のコロナ禍への対応に右往左往している政治家たちと二重写しに感じられとても面白かった。本作はシリーズ2作目で、「スケープゴート 金融担当大臣三崎皓子」に続くもの。「スケープゴート」は未読だが、気鋭の経済学者だった三崎皓子が民間人として金融担当大臣となり、請われて参議院選挙に出馬して当選、官房長官に抜擢される。前総理の引退後、与党の一部と野党の支持により初の女性総理となった三崎皓子の活躍を描くのが本書だ。タイトルの大暴落は、東京を襲った大洪水と時を同じくして起こった株式市場の暴落と円相場の急落のことを指している。自然災害と金融危機が同時に日本を襲うというストーリーである。洪水は三崎の的確な指揮と現場の頑張りとによって被害の拡大を防ぐことができ、金融危機は三崎の学生時代からのライバルで財務省に入省後、中国のインフラ投資銀行の幹部に転職した北条由紀子の協力により収束に向かう。現実はどうか?コロナ禍は縮小の兆しさえ見せず、首都圏、大阪圏、中部圏を中心に拡大を続けている。小説と違って現実の対応は後手後手に回っているように思える。経済はアメリカの好景気に支えられて株価も円ドル相場も安定しているかに見える。しかしコロナ対策費は新規国債の発行により賄われている。金利が超低金利だから何とか財政が持っているようなもので、金利が上昇局面になれば日本財政は危険水域に入ってしまう。現実は小説よりもはるかに厳しいのである。