モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「総員玉砕せよ!」(水木しげる 講談社文庫 1995年5月)を読む。あとがきで水木自身がこの物語は「90パーセントは事実です」と書いている。大東亜戦争下の南方戦線における兵隊の現実を巧みに描いている。兵隊の現実とは「軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ」「将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というのは“人間”ではなく馬以下の生物と思われていた」(あとがき)ということである。解説で足立倫行が、水木は妖怪マンガ家として広く知られ評価されているが「戦記マンガ家としての水木氏の業績がもっと注目されてもいいと思う」と記している。まったく同感である。

6月某日
「〔続〕少子化論-出生率回復と〈自由な社会〉」(松田茂樹 学文社 2021年3月)を読む。一般的な少子化対策論とはやや趣を異にする論旨で私にはそこが面白かった。出生率が2.0となるためには2つの方向性があるとする。方向性1はほぼ全員が結婚して、夫婦はおよそ2人の子どもを持つようにする。方向性2は、結婚する人しない人、子どもを多くもうける人とそうでない人がいながら、全体の出生率をおよそ2.0に回復させるものである。松田は方向性2を目指すことを提案する。方向性2のような社会は、「人々の結婚・出生に関して〈多様〉である。個人が結婚・出生するか否かが〈自由な社会〉」だからだ。書名のサブタイトルに〈自由な社会〉と謳われている意味がやっとわかる。日本社会の将来的なイメージは〈自由な社会〉であるべきだと思う。そのためには市民が選べる選択肢をできるだけ豊富に社会が用意することが必要だし、その前に市民ひとり一人が自由な市民であることが必要だ。

6月某日
「私はスカーレット Ⅳ」(林真理子 小学館文庫 2021年4月)を読む。あの大作、「風と共に去りぬ」を林真理子が新しく翻訳、というか「翻訳協力」として巻末に2人の名前が記されているから、林が翻訳をもとに林版の「風と共に去りぬ」を創作したということか。私は「風と共に」は未読、主人公のスカーレット・オハラをビビアンリーが演じた映画は観たけれど。しかし、「私はスカーレット」は私にとっては滅法面白い小説である。第4巻は夫を南北戦争で失ったスカーレットが北軍の猛攻に晒されるアトランタを逃れ、故郷の「タラ農園」にたどり着いたところから始まる。スカーレットを待っていたのは最愛の母の死と、老耄が進行する父の姿であった。農園で働いていた黒人奴隷たちの多くは逃亡し、スカーレットは自ら食料を調達したり綿花摘みに勤しむことになる。一種の逆転人生だよね。南北戦争は共和党の北部と民主党の南部による奴隷解放を巡る戦争だった。一面では工業化が進んだ北部の新興ブルジョアジー対南部の綿花栽培に依存する大農場主との戦いでもあった。つまり新興ブルジョアジー対封建的大農場主の階級闘争という側面があるのだ。

6月某日
「歴史認識 日韓の溝-分かり合えないのはなぜか」(渡辺延志 ちくま新書 2021年4月)を読む。著者の渡辺延志(のぶゆき)は元朝日新聞記者のジャーナリスト。日本と韓国には主に歴史認識を巡って対立があることは認識していた。そして私の見るところ、韓国政府や韓国世論の方に日本政府や日本世論よりも分があると考える。日本は豊臣秀吉の時代に二度にわたって朝鮮半島を侵略し、さらに明治以降、日清・日露戦争では朝鮮半島を経由して中国本土、満洲に進出した。挙句、韓国民衆の気持ちを無視する形で韓国併合を強行した。どう考えても日本は加害者で韓国は被害者。というのが私の素朴な考えだった。今回、本書を読んで私の考えが大筋において間違っていなかったと思うことができた。著者の渡辺は、私が感性的に感じていたことを資料を駆使して立証している。1904年から1905年にかけて闘われた日露戦争に勝利した日本は、朝鮮半島への支配を強め、ついに1910年、韓国は日本に併合される。韓国の民衆は日本帝国主義の意のままに併合されたわけではなかった。1907年から1911年にかけて日本の支配に抵抗する民衆蜂起、義兵闘争が戦われ日本軍から徹底した弾圧を受けた。これに先立って「日清戦争の原因になった」とされる東学農民戦争が1894年に戦われる。これに対しても日本軍は徹底した弾圧で臨む。そして1923年の関東大震災では東京、横浜で多くの朝鮮人が「武装蜂起を企てている、井戸に毒投げ入れた」などのデマ情報のもとに虐殺された。虐殺したのは自警団として組織された日本の民衆である。私が思うに虐殺した日本の民衆には、朝鮮半島での民衆蜂起に対する弾圧の記憶が残っていた。「関東大震災の混乱に乗じて復讐される」という潜在的な恐怖心があったのではなかろうか。