モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
香取神社の朝市で買った古本「戦艦大和ノ最期」(吉田満 講談社文芸文庫 1994年8月)を読む。戦争文学の名作として名前は知っていたが読むのは初めて。吉田は1923年生まれ、1944年東京帝大法学部在学中に学徒動員で海軍に入隊、少尉、副電測士として戦艦大和に勤務。「戦艦大和ノ最期」は終戦後、1日で書き上げたという。全編文語体で書かれているが、文語体が米軍機との戦闘場面、大和の撃沈場面、その後の漂流、救助の極度に緊迫した場面を描くのに効果を挙げている。吉田は復員後、日本銀行に就職、国庫局長、監事を務めたが、1979年56歳で亡くなっている。戦争文学は戦争を体験したものにしか書き得ないものではない。現に浅田次郎の優れた戦争小説を読んだことがある。しかし「戦艦大和ノ最期」は、体験したものしか書き得ないものだ。大和は1945年3月、母港呉港を出港、豊後水道を下り沖縄島を目指す。米軍機に襲われ激闘2時間の末、轟沈される。乗員3332名のうち約3000名が艦と運命を共にした。制空権を完全に失った状況で大和はよく戦ったというべきだろう。しかし、私はミッドウェー海戦以降、勝ち目のない戦を継続した東条英機らの戦争指導者を憎むね。

6月某日
「ハコブネ」(村田沙耶香 集英社文庫 2016年11月)を読む。本書の初出は「すばる」の2010年10月号、単行本化は2011年11月である。精神科医で批評家の斎藤環は「村田沙耶香は闘っている。何と? 異性愛主義、ならびにそれに由来する性交原理主義と」と、村田の「消滅世界」(河出文庫 2018年7月)の解説で述べている。村田の闘いは「ハコブネ」においても同様に展開されている。この小説の書かれた2010年頃は現在よりももっとLGBTなど性的少数者に対する理解は進んでいなかったと思う。「ハコブネ」は異性とのセックスが辛く、自分の性に自信が持てない19歳の里帆、セックスに実感が持てない31歳の知佳子、知佳子の友人で女であることに固執する椿の、それぞれの性を巡る物語である。斎藤環の言うように村田の異性愛主義と性交原理主義との闘いは一貫している。文学は元より孤独な闘いであるが、村田の孤独は「性的観念、性的通念」を相手にしているだけにその孤絶感はまたひとしおだろう。私は村田沙耶香を支持します。

6月某日
「人口減少社会の未来学」(内田樹編 文藝春秋 2018年4月)を読む。内田が序論「文明史的スケールの問題を前にした未来予測を執筆、構造主義生物学の池田清彦やブレイディみかこ、平川克美、隈研吾、姜尚中ら10人が寄稿している。人口減少は自然過程というのが各論者にほぼ共通した認識。そのなかで内田は今後、我々がやらなければならないのは「後退戦」と位置付ける。「どうやって勝つか」ではなく「どうやって負け幅を小さくするか」だ。確かに労働力人口が増加し、高度経済成長が続いた時代には「勝つこと」が求められていた。池田は「動物の個体群動態(人類の場合は人口動態)を考える上で、一番重要な概念はキャリング・キャパシティ(環境収容力)である」とする。そのうえでAIやロボットが普及すれば労働者は失業し、社会環境は悪化する。ベーシックインカムの支給によってそれを防止すれば定常経済が当たり前の世界になり、「そうなればキャリング・キャパシティがほぼ一定で、人口もほぼ一定という、生物種の生存戦略としては最適な社会になる」と予言している。人口問題について考えるには人類史的な視点が必要ということか。

6月某日
2回目のワクチン接種。1回目は駅前のイトーヨーカドーの3階だったが2回目は中山クリニック。中山先生は私の高血圧症の主治医で東京大学医学部出身の秀才。名前を呼ばれて接種室に行くと中山先生が「あぁ森田さん」と一言。無事接種を終え15分ほど休憩して中山クリニックを出る。イトーヨーカドーのCDで現金を降ろし、レストラン「コビアン」でランチ。「ハンバーグ&ウインナー」のBランチ(660円)と生ビール(550円)を頼む。「コビアン」を出て公園通りを下って手賀沼公園で休憩して帰る。

6月某日
10日ほど前に読んだ「現代思想の冒険者たち」シリーズの⑰「アレントー公共性の復権」の月報に森まゆみが早稲田の政経学部の藤原保信ゼミでアレントやローザ・ルクセンブルグを学んだことを記していた。ウイキペディアによると藤原保信は1935~1994年、父が戦死して祖父に育てられ南安曇農業高校を卒業後、働きながら第2政経学部で学び大学院に進んだ。我孫子市民図書館で藤原保信を検索すると「自由主義の再検討」(岩波新書 1993年8月)がヒットしたので借りることにする。藤原は1994年に亡くなっているので、本書は彼の最後の著書になるのかも知れない。「あとがき」で「本書は、ほんらいならばもう少しはやく書き上げられるはずであった。しかしちょうど半分ほど書き進んだところで体調を崩し、中断を余儀なくされた」と記されている。病魔と闘いながらの執筆だったのだろうか。ソ連が崩壊したのが1991年だから、「社会主義に勝利した自由主義」という当時の一般的な風潮に一石を投じたかったのかも知れない。序章の「自由主義は勝利したか」で藤原は自由主義を経済的には資本主義、政治的には議会制民主主義を基本とする社会と定義したうえで、「自由主義そのものが自己修正し、自己克服を遂げていかなければならない」としている。また自由主義の遠い将来は「形を変えた社会主義かも知れない」とも記している。第Ⅱ章「社会主義の挑戦は何であったか」ではマルクスの思想を好意的に概説している。この章の終わりは、完成した共産主義社会では「まさに『各人の自由な発展が、万人の自由な発展』の条件になり、各人はその能力に応じて働きつつ、必要に応じて受けとる。そこにひとつのユートピアをみるのは間違いであろうか」と結ばれている。完成した共産主義社会に「ひとつのユートピアをみる」のは高卒で現場の労働者であった経験がいわせているのだろうか。