モリちゃんの酒中日記 7月その4

7月某日
「女たちのポリティクス-台頭する世界の女性政治家たち」(ブレイディみかこ 幻冬舎新書 2021年5月)を読む。「小説幻冬」の2018年12月号から20年11月号に連載されたもの。英国のブライトンに労働者階級のアイルランド系の夫とハーフの息子と暮らすブレイディみかこは「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」がベストセラーとなって以来の読者である。というか私はその少し前に発売された「女たちのテロル」(岩波書店)を面白く読んだ。その頃、私にとってはブレイディみかこはまったくの無名のライターだった。「女たちのテロル」では20世紀の女性のテロリストを何人か取り上げているのだが、日本人では関東大震災直後に、摂政の宮(昭和天皇)暗殺未遂事件で夫の朴烈とともに逮捕され、後に宇都宮刑務所で縊死した金子文子の生涯がスケッチされている。貧しい人々への共感が彼女の考え方の基本にはある。政治思想的には無政府主義ね。そしてブレイディみかこが英国在住ということも見逃せない。日本、日本人という限定的な視点から解放されているのだ。英国首相だったメイ、ドイツ首相のメルケルには辛口の評価。ニュージーランドのアーダーン首相、フィンランドのマリン首相らには肯定的な評価が下されている。メイはEU離脱後の国家運営における無能さ、メルケルはこてこての財政再建論者であることが否定的な評価の理由である。私はブレイディみかこの本に出合うまでは財政再建主義者であったのだが、少し考えを改めようかなと考え始めているところ。MMT(現代貨幣理論)を少し勉強してみるか。

7月某日
「身分帳」(佐木隆三 講談社文庫 2020年7月)を読む。佐木隆三は1937~2015年。「復讐するは我にあり」はじめ、犯罪小説の第一人者。「死刑囚 永山則夫」「小説 大逆事件」は未読だがそのうちぜひ読みたい。人生の大半を刑務所で送った主人公の山川一は、昭和61年2月に旭川刑務所を出所、東京の弁護士が身元引受人となったことから上京する。生活保護を受けながら職を探し、運転免許取得の苦労や近所の人々との交流などが描写される。
私はこの本を読みながら大学生の頃、交流のあったMさんのことを思い出した。今から半世紀以上前の1969年の4月28日(4.28沖縄闘争)で私の友人が逮捕された。そのとき留置所で同房だったのがMさんである。Mさんはその頃30代前半だったと思うが、少年の頃から素行が悪く刑務所を出たり入ったりの生活だったらしい。留置所でも警官に反抗し「エビ固め」で攻められるなどの拷問を受け、同房の私の友人に「留置所を出たら証言してほしい」と依頼した。この一件の結末は知らないが、この年の夏以降、私たちはMさんのもとで土方のアルバイトに精を出すことになる。その年の9月、私は早大第2学生会館屋上で凶器準備集合、傷害、公務執行妨害、現住建造物放火などの容疑で逮捕される。学生会館の屋上から押し寄せる機動隊に向けて火炎瓶や石ころを投げつけたわけね。逮捕起訴されて東京拘置所(その頃はまだ東池袋に会った)にMさんから「私がもっと若かったら君と一緒に戦いたい」という内容の封書が届いた。在学中はよくMさんのもとで土方のバイトをしたっけ。かなり割のよいバイトだった。なお「身分帳」は西川美和監督、役所広司主演で「すばらしき世界」として映画化されている。

7月某日
東京神田の社保研ティラーレを訪問。吉高会長、佐藤社長、議員秘書の神戸さんと懇談。吉高さんから高級焼酎「百年の孤独」を頂く(ネットで値段を調べたら、定価5726円!)。キタジマの金子さんの営業車で社会保険出版社へ。近藤さんと「真の成熟社会を求めて」の打ち合わせ。御茶ノ水の社会保険出版社から上野駅まで金子さんに送って貰う。我孫子で「しちりん」に寄る。
「蟲息山房から-車谷長吉遺稿集」(新書館 2015年12月)を読む。蟲息山房は「ちゅうそくさんぼう」と読み、車谷と奥さんで詩人の高橋順子さんが住む家のこと。車谷が命名した。全集に入らなかった短編小説や俳句、連句、対談、インタビューなどが収められている。玄侑宗久との対談で車谷は何を目指しているかと問われ、「人間が人間であることの不気味さをテーマに書きたいわけです」と答えている。今思えば覚悟を持った小説家だったように思う。「10年夏に全集を刊行してから執筆意欲を失った」と高橋順子さんが書いている。10年とは2010(平成22)年のことである。車谷が妻の留守に食べ物を喉に詰まらせて窒息死したのが、それから5年後の2015(平成27)年5月であった。

7月某日
「財政赤字の神話-MMTと国民のための経済の誕生」(ステファニー・ケルトン 早川書房 2020年10月)を読む。MMTとは現代貨幣理論のことで、アメリカ、イギリス、日本など自国通貨の発行権を有する国の政府は、赤字国債を発行し続けても問題ない(ただしインフレには注意)という理論である。今回のコロナ対策に関しても多くの公費が使われているが、その多くの(おそらくすべての)財源は国債である。私は長く「健全財政論者」で、借金を子や孫の世代に残すのには反対という立場である。だがこの本を読んで私の考えは揺らぎ始める。この本の第1章は「家計と比べない」で章の扉にはタイトルの文字とともにオバマ大統領の2010年一般教書演説から「アメリカ中の家族が支出を控え、困難な決断をしている。政府もそうしなければならない」という文言が添えられている。そして扉の裏には「神話1 政府は家計と同じように収支を管理しなければならない」と並べて「現実 家計と異なり、政府は自らが使う通貨の発行体である」という言葉が掲げられている。「自らが使う通貨の発行体」というのがミソでEU加盟国や地方政府は除外される。ステファニー・ケルトンはニューヨーク州立大学の教授で経済学者。2015年の米上院予算委員会でチーフエコノミスト、大統領選挙では民主党の予備選でバーニー・サンダース候補の政策顧問を務めたという。社会主義者ではないがバリバリの左派である。

7月某日
MMTについてさらに「MMT-現代貨幣理論とは何か」(井上智洋 講談社選書メチエ 2019年12月)を読む。ステファニー・ケルトンは自ら現代貨幣理論派を名乗っているが、井上智洋はMMTに「全面的に賛成でも、反対でもありません」(はじめに)としている。当然、ステファニー・ケルトンの語り口には迫力があり、井上智洋にはそれが欠ける。井上はベーシック・インカム(BI)の導入論者として知られるが、本書でもAI・ロボットが高度に発達した未来にBIが導入されると多くの人が労働から解放される「脱労働社会」が実現する、と主張している(第5章)。私はそれがマルクスの言う共産主義社会と思えるのだが。

モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
午前中、月1回の高血圧治療のため我孫子南口駅前の「中山クリニック」へ。治療と言っても「お変わりありませんか?」「特にありません」という簡単な問診のあと、中山先生が血圧を測って「お大事に」「ありがとうございました」で終わり。高血圧は自覚症状がほとんどないので厄介だ。私も11年前の2010年3月、HCM社のゴルフコンペの朝、フラフラしてズボンをはけず、HCM社のMさんに「こういうわけでコンペは欠席します」と電話した。そうしたらMさんが「親父が高血圧で倒れたときと同じだから直ぐに救急車を呼んだ方がよい」と言われてそうした。会社の検診で高血圧と診断され、当時から中山クリニックに通っていたのだが、何しろ自覚症状がないもので服薬もサボり勝ちだった。今は真面目に服薬を続けています。中山クリニックから我孫子薬局でいつもの薬を調剤してもらい帰宅する。

7月某日
厚労省の医系技官だった高原亮治氏。上智大学の教授を務めた後、高知県の医療法人で働いていたが持病の心臓病が悪化、急死した。高原さんの生前、堤修三さんと私の三人で何回か呑みに行った。高原さんが岡山大学医学部の全共闘、堤さんが東大駒場、私が早大政経の全共闘という全共闘つながりだった。7月の命日には堤さんと奈良女子大学元教授の木村陽子さんとの3人で高原さんの墓参りに行くことにしている。お墓と言っても高原さんの遺骨は四谷の聖イグナチオ教会の納骨堂に納められているから、そこにお参りする。お参りした後、近くの喫茶店で休憩。木村さんにCDを頂く。

7月某日
家にあった「それからの海舟」(半藤一利 ちくま文庫 2008年6月)を読む。前に一度読んだことがある筈だが、例によって内容はほとんど覚えていない。著者の半藤は元文藝春秋社の編集者で最後は専務を務めた。東京は向島の生まれで、先祖は越後長岡藩の出。江戸は幕府のおひざ元だし、長岡も薩長の倒幕勢力に抵抗して敗れた。半藤は根っからの薩長嫌いなのである。勝海舟も江戸っ子だが、三河以来の幕臣ではなく「祖父の平蔵が三万両で株を買い、千石取りの男谷家をついだ」。父の小吉が男谷家から勝家の養子に入る。勝小吉は無役の貧乏旗本だったが勝海舟、幼名麟太郎は幼い頃から文武両道に励み優秀だった。表題の「それから」について半藤は「あとがき」で三田薩摩屋敷での勝・西郷隆盛の会談のときと記している。会談の結果、「江戸城は無血開城となり、近代日本は華やかに幕を開いた」のである。海舟は1823(文政6)年に生まれ1899(明治32)年に75歳で没している。当時としては長命だったのではないか。ちなみに維新の三傑といわれる西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通の終焉についても本書に触れられている。西南戦争の最終局面、城山で政府軍の総攻撃を受ける西郷軍。「流れ弾が股と腹に当たるに及んで、傍らの別府晋介を顧みて言った。『晋どん、晋どん、もうこん辺でよか』」。1878(明治10)年9月24日、享年51。木戸は西南戦争の真っ最中の同年5月26日に「西郷、もういい加減にせんか」の一言を最後に病死した。享年45。翌年、1879(明治11)年5月14日、大久保利通が暗殺される。享年49。三人ともずいぶん若くして死んだことが分かる。そういえば半藤さんも今年1月に亡くなっている。こちらは享年90。

7月某日
林弘幸さんと我孫子駅南口の「しちりん」で呑む。林さんは元年金住宅福祉協会の幹部職員。確か九州支所長や東京支所長を務めた。九州支所長のとき博多でご馳走になった覚えがあるが、仲良くなったのはむしろ林さんが年住協を止めて以降だ。林さんは年住協の前の職場が永大産業。この会社は合板とプレハブ住宅のメーカーだったが、オイルショック後に倒産した。年住協の実質的な創業者だった坂本専務、その後を継いだ中谷、米田さんも永大出身だ。年住協の創業当時の話を聞けた。

7月某日
「ロッキード」(真山仁 文藝春秋 2021年1月)を読む。600ページ近い大著だが、週刊文春に2018年~2019年にかけて連載されていた「ロッキード 角栄はなぜ葬られたか」をもとにしているだけに読みやすかった。私が大学を卒業したのが1972年、田中角栄が首相になったのがその年の7月、文藝春秋に立花隆の「田中角栄研究」が掲載されたのが74年の10月、田中内閣が総辞職したのが11月だ。角栄は首相は辞めたが最大派閥の田中派を率いて自民党の実力者であり続けた。角栄が逮捕されたのは76年の7月である。東京地裁は83年10月に角栄に懲役4年、追徴金5億円の判決を下す。85年2月に角栄は脳梗塞で倒れ入院、退院後も本格的な回復を見ないまま93年12月に波乱に満ちた生涯を閉じている。私が23歳のときに角栄は首相となり、死んだのは私が45歳のときである。感慨深いものを感じながら読了した。角栄の起訴、有罪判決は無理筋であったのでは?と思わせるものがあった。今度、弁護士の雨宮先生に会ったら聞いてみよう。

7月某日
「夫・車谷長吉」(高橋順子 文藝春秋 2017年5月)を読む。最後の文士とも呼ばれた小説家、車谷長吉との日々を描いたエッセー。本作で高橋は講談社エッセイ賞を受賞している。
車谷との出会いから車谷の直木賞受賞、豪華客船による世界一周、そして車谷が晩年、体力と同時に執筆意欲を失ってゆく様子が赤裸々にかつユーモラスに描かれる。私は実は車谷と高橋と二度ほど酒を呑んだことがある。私の兄の奥さん(義理の姉)が小学館に勤めていて高橋順子さんと親しく、酉の市に鳳神社にお参りした後、入谷で4人で呑んだのだ。私が車谷のファンであることを知った義理の姉が誘ってくれたのだ。高橋さんは東大、車谷は慶應の仏文を出たインテリなのだが、お会いしたときは普通のオジサンとオバサンに見えた。高橋さんの方が1年、年長なのだが高橋さんがかいがいしく車谷のお世話をしているように見受けられた。「夫・車谷長吉」を読んで、そのときのことを思い出した。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
11時45分に社会保険研究所の入るビルでキタジマの金子さんと待ち合わせ。「真の成熟社会を求めて」のゲラを返すつもりだったが、肝心のゲラを自宅に忘れてしまった。後でメールすることにする。年友企画の石津さんとランチ。「跳人」で三色丼をご馳走になる。「跳人」でホールを担当している大谷さんと話す。大手町から霞が関へ。厚労省1階ロビーで社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ。樽見事務次官に「地方から考える社会保障フォーラム」への出席のお願い。厚労省で佐藤社長と別れ、虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせを済ませた後、霞が関から千代田線で帰る。北千住で快速に乗り換え我孫子へ。南口駅前の「しちりん」に寄る。

7月某日
「政治家の責任-政治・官僚・メディアを考える」(老川祥一 藤原書店 2021年3月)を読む。著者の老川は読売新聞グループ本社会長・主筆代理、同グループではナベツネこと渡辺恒雄主筆に次ぐナンバー2ということだろう。1941年東京都出身、早稲田大学政経学部政治学科卒業後、1964年読売新聞社に入社。入社以来、多くの期間を政治部で過ごし政治部長も務めた。この本を一読して私も色々な感慨を持ったが、一つは衆議院選挙制度の中選挙区から小選挙区への移行であろう。一選挙区に3~5人程度の定員を設ける中選挙区制は選挙に金がかかり過ぎる、同一政党から複数の候補者が立候補するため派閥政治が助長される、などの批判があり小選挙区制への移行が決まった。政党には税金から政党助成金が交付されるようにもなった。中選挙区時代は派閥のボスから盆暮れ、選挙時に金が配られていた。党執行部の力が強まり派閥の力は低下した。現在の菅首相(総裁)は無派閥だが、かつては考えられなかった。安倍一強を謳歌できたのも小選挙区制の賜物と言えまいか。政治家が小粒になったのも小選挙区制に源がありはしないだろうか。

7月某日
「何とかならない時代の幸福論」(ブレイディみかこ×鴻上尚史 朝日新聞出版 2021年1月)を読む。ブレイディみかこは一昨年だったか、金子文子らの女性テロリストを描いた「女たちのテロル」(岩波書店)を読んで以来のフアン。鴻上尚史の芝居は観たことはないけれど、彼が司会をやっているNHKBSの在日の外国人を集めてのトーク番組「COOLJAPANN」はときどき観る。二人とも日本社会を外から(批判的に)見ているのが共通点と言えようか。コロナで同調圧力が高まっている現在、二人の視点は重要だ。コロナと言えば、明日から東京に緊急事態宣言が発出される。これに関連して西村担当大臣が、酒類を提供する飲食店には金融機関や種類の卸業者を通じて圧力をかけるとか発言して批判を浴びた(後に撤回したらしいが)。西村大臣は灘高から東大を出て通産省に入った秀才らしいが、だめだねぇ。コロナで窮地に立たされている飲食店等の弱者に対する想像力が欠けている。「何とかならない時代の幸福論」でも「『エンパシー』とは、その人の立場を想像する能力」としてブレイディみかこが「『エンパシーという能力を磨いていくことが多様性には大事なんだよ』と、息子が学校で習ってきた」と語っていた。そういうことなんだよなぁ。

7月某日
家にあった「幕末維新変革史」(下)(宮地正人 岩波書店 2012年9月)を読むことにする。上巻を10年近く前に読んで下巻は読まずに放っておかれた。読まずに死んでしまうのももったいないので読むことにする。下巻は第Ⅲ部「倒幕への道」、第Ⅳ部「維新史の課程」、第Ⅴ部「自由民権に向けて」という構成。著者の宮地正人は1944年生まれ、東大の史料編纂所教授、国立歴史博物館館長を務めている。東大の国史学科を卒業しているから昨年亡くなった坂野潤治先生の後輩にあたる。ウイキペディアでは宮地のことを「左派」としているが、そういう決めつけは如何なものか。第Ⅲ部は政治史的に言うと薩長同盟の成立から大政奉還までを扱っている。そうそうこの本を読むきっかけとなったのはNHKテレビの大河ドラマ「青天を衝け」がちょうど、渋沢栄一が一橋慶喜に仕官し、慶喜が大政奉還をする当たりを扱っているからだ。渋沢を演ずる吉沢亮という役者がなかなかいい。二枚目なんだけれど三枚目的でもあるし、熊谷あたりの方言「だっぺ」丸出しなのも好感が持てる。
本書が面白いのは中央の政治史だけでなく経済や地方、文化や学問にも焦点を当てている点だ。第Ⅲ部ではこれまであまり知られていなかった蘭学者や東国の平田国学者、豪農や豪商にも言及している。「青天を衝け」でも渋沢家が熊谷の豪農で藍玉を扱う商人を兼ねていることが描かれている。第33章「幕末期の東国平田国学者」では宮和田光胤という国学者が紹介されている。この人は今は取手市と合併した藤代町宮和田の出身、今でも宮和田という地名は残っているし宮和田小学校も存在する。水戸街道沿いということもあって水戸学の影響も受けたらしい。本陣の当主だから名字帯刀は許されたが基本は農民ないしは町民であった。この辺は渋沢家と一緒だ。新選組の近藤勇や土方歳三も三多摩の農民出身。だけれども剣術も学問も学び江戸へ出て道場を開く。道場を開く資金はおそらく実家からも出ていただろう。米だけでなく生糸も扱っていたと思われる。開国によって藍玉や生糸の価格が乱高下した。渋沢や近藤らの生産者が攘夷思想に魅かれていく一因となったのでは。

7月某日
「幕末維新変革史」(下)の第Ⅳ部「維新史の過程」を読み進む。明治維新の性格については、講座派(日本共産党系)の絶対主義革命と労農派(戦後の日本社会党に繋がる)のブルジョア民主主義革命という二つの見方があった。本書はそのどちらに与するものではない。講座派と労農派の論争そのものが観念的であったのかも知れない。本書は明治維新が政治体制、経済社会、暮らしを含めて幅広い変革であったことを明らかにしていく。私としては士農工商の近世的身分制度の解体など、明治政府の民主的、進歩的な性格は評価する一方、後の大逆事件をはじめとした反動的な性格も見逃せないと思っている。そういえば坂野潤治先生は明治時代から大正デモクラシー、5.15事件まで日本は民主的とファシズム的の政権交代が繰り返されてきたと述べていたように思う。

7月某日
「幕末維新史」(下)を読了。今回読んだのは第5部「自由民権にむけて」。第48章「福沢諭吉と幕末維新」、第49章「田中正造と幕末維新」の2章で構成される。福沢は九州中津の中津藩、奥平家の下級武士の家に生まれる。天保5(1835)年生まれだから、ペリー来航がなければ九州の片田舎で平凡な一生を送った可能性が高い。しかしペリー来航が福沢の運命を一変させる。蘭学の習得を命じられた福沢は長崎、次いで大阪の緒方洪庵の塾で学ぶ。オランダ語を学んだ福沢は開港した横浜に出かけるが、欧米世界での共通語は英語であることを知り愕然とする。オランダ語を学んだ友人の多くは「今さら」と英語学習に背を向けるが福沢は果敢に挑戦する。これが福沢の咸臨丸による渡米、さらに帰国後の幕臣への登用につながる。幕臣としての福沢は、統一中央政府の幕府という形で幕府をとらえ、幕府権力の維持、強化を訴える。維新後の福沢は幕臣の静岡移住にも加わらず、新政権にも参加しなかった。維新前からの英語塾、のちの慶應義塾の経営に務めることになる。明治という時代は薩長を中心とする藩閥政府とそれと結びついた三井、三菱、住友、安田らの政商(後の財閥)の時代と理解されやすいが、福沢らの慶應義塾の力も無視できない。なにしろ東京大学が1977年に設立され、最初の卒業生を出すまでは、慶應義塾は最大の管理養成校だったらしい。それ以降は経済人を輩出していくが、彼らが明治期のブルジョア民主主義を担ってゆくことになる。田中正造は下野国小中村の庄屋の家に生まれる。幕末期には近隣の農民や浪人たちと共謀して倒幕の挙兵を試みるが鎮圧される。この辺の反権力の志は後の足尾銅山の鉱毒反対闘争に引き継がれてゆく。本書を読んで感じたのは、われわれが享受している民主主義や平和は当たり前のように存在しているように見えるが、そうではないということ。先人たちの命がけの労苦のうえに成り立っている。事実、幕末から明治期にかけて倒幕運動や反政府運動に携わった者のうち少なからぬ人が死罪となっている。当時の死罪は斬首だからね。文字通り「首を賭けた」闘いだったわけだ。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
社保研ティラーレで次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせを吉高会長、佐藤社長とする。缶ビールをご馳走になる。キタジマの金子さんと「真の成熟社会を求めて」のスケジュールを打ち合わせ。金子さんに車で上野まで送って貰う。我孫子で営業再開した「しちりん」に寄る。

7月某日
「アンソーシャル ディスタンス」(金原ひとみ 新潮社 2021年5月)を読む。コロナ禍の5組の若い男女の恋愛とセックスを描いた5編の中編小説が収められている。恋愛もセックスも引退の身ですがそれなりに面白かったけれど、最近は「厨房」が罵倒する言葉となっていることを学ぶ。中学生を意味する「中坊」が同音の「厨房」となったらしいけれど、わけがわからないよ。

7月某日
「敗戦後論」(加藤典洋 ちくま学芸文庫 2015年7月)を読む。「敗戦後論」は①「敗戦後論」②「戦後後論」③「語り口の問題」-の3部構成になっていて、初出は①が「群像」95年1月号、②が「群像」96年8月号、③が「中央公論」97年2月号で、単行本は1997年8月に講談社より刊行されている。2005年12月にちくま文庫で再刊され、2015年7月にちくま学芸文庫に収録された。単行本、ちくま文庫、ちくま学芸文庫のそれぞれに、著者の「あとがき」が掲載され、ちくま文庫には内田樹の「卑しい街の騎士」、ちくま学芸文庫には伊東祐史の「1995年という時代と『敗戦後論』」というタイトルの解説が付けられている。単行本、文庫の「あとがき」も文庫の解説も、学芸文庫にすべて収められており、これは加藤典洋のことをあまりよく知らない私のような読者にとっては大変ありがたい。以下、「敗戦後論」の内容紹介を「あとがき」と解説に沿って進めたい。
単行本の「あとがき」で、加藤は「この本は互いに性格の異なる三本の論稿からなっている」と述べ、「敗戦後論」が政治編、「戦後後論」が文学編、「語り口の問題」がその両者をつなぐ蝶番の編と位置付ける。これに対して学芸文庫版の解説で伊東祐史は、加藤の位置づけを肯定しつつ第二論文「戦後後論」が「加藤のすべての著作の“扇の要‟に位置」し、「加藤の『文学』の原論である」とし、それをもとに、日本の戦後を論じたのが第一論文「敗戦後論」であり、デリケートな政治社会問題を論じたのが第三論文の「切り口の問題」となる。私は「あとがき」も解説も本文を読んでから読んだから、3つの論文のそういった関係はこれらの文章を読んで初めて知った。何しろ私にとってはいささか難解で、しかも巻末の注釈にも目を通しながら読んだので、文庫本一冊を読み終わるのに三日かかってしまった。
第二論文は太宰治とサリンジャーを軸に戦争(第2次世界大戦)と文学の関りを論じたもので、第三論文はハンナアーレントが戦後、ユダヤ人大量虐殺の罪で裁かれたアイヒマンを描いたルポルタージュ「エルサレムのアイヒマン」を軸に批評を展開している。二つの論文共に私が完全に理解したとは思えないが、文学や思想に真剣に向き合おうとする加藤の姿勢には共感できた。しかし私が一番問題意識を持って読んだのが最初の「敗戦後論」であった。第一論文の「敗戦後論」を貫く加藤の最大の問題意識は「ねじれ」である。日本の現行憲法は日本人の手によって書かれたものではなくGHQの英文の原文を翻訳したものであることはもはや常識である。進駐軍の圧倒的な武力を前に、日本国および日本国民は憲法を「押し付けられた」。しかしその「押し付けられた」憲法は、戦力の放棄をうたう世界に誇るべきものだった。これが加藤の言う「ねじれ」の一つである。もう一つの「ねじれ」は先の戦争(日中戦争、太平洋戦争)の犠牲者は日本人は3百万人、アジア・太平洋地域は併せて2千万人に及ぶ。これらの犠牲者に我々は真摯に向き合っていないのではないか? というのが加藤の提起する第2の「ねじれ」である。
「ここには二種の死者がいる。死者もまた私たちのもとでは分裂している。この分裂を超える道はどこにあるのか」と加藤は書いて、吉田満の「戦艦大和ノ最期」から兵学校出身の哨戒長、白淵大尉の言葉を引用する。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ」。加藤は「ここにいるのは、どれほど自分たちが愚かしく、無意味な死を死ぬかと知りつつ、むしろそのことに意味を認めて死んでいった一人の死者だからである」と書く。私は2、3カ月前、我孫子の香取神社の朝市で「戦艦大和ノ最期」を入手、初めて読んで今までにない何とも言えない気持ちになった。だから加藤の気持ちはよく分かる。だが私は同じ朝市で買った「総員玉砕せよ!」(水木しげる)という戦争マンガを取り上げたい。昭和18年末、陸軍部隊の一支隊が中部太平洋ニューブリテン島に進駐する。マンガは重労働と下士官のビンタに明け暮れる一人の新兵の視点で描かれる。偵察に行った同僚が鰐に襲われたり、熱病に倒れていく。そんななかで戦局は確実に悪化していき、昭和20年3月部隊に玉砕命令が下される。玉砕戦でも生き残る兵や士官がいる。それを察知した司令部はさらなる玉砕戦を命じる。兵たちは猥雑で娑婆に未練たっぷりに描かれる。海軍士官の白淵大尉のような高潔さやインテリジェンスは微塵もない。私はそこにむしろ感動した。白淵大尉は自分の死に意味を見つけた。だがニューブリテン島の兵たちは意味を見つけることもなく死んでいく。

7月某日
社保研ティラーレで佐藤社長と吉高会長と雑談。その後、社会保険出版社の1階でキタジマの金子さんから「真の成熟社会を求めて」の最終ゲラを貰い、次いで社会保険出版社の高本社長に挨拶、金子さんに上野まで送って貰う。上野駅で大谷源一さんと待ち合わせ。一緒に有楽町の交通会館の「ふるさと回帰支援センター」に行って高橋公理事長に挨拶。交通会館地下1階の博多うどんの店「よかよか」に行く。ビール、シャンペンと日本酒を頂く。この店は博多うどんの店だが、おいしい日本酒と日本酒にあったつまみを揃えている。店を仕切っているのはネパール出身の青年。日本語は日本人と変わらないし、顔もほぼ日本人である。

7月某日
近所の「髪工房」という床屋で散髪。髪工房は私より2~3歳年上のご主人とその娘さんがやっている。65歳以上は1800円のうえ、スタンプが5回になるとさらに500円引きになる。今日は500円引きの日だったので1300円だった。申し訳ないほど安価。床屋さんのすぐ前が坂東バスのバス停、我孫子高校前だ。床屋さんを出るとすぐバスが来たので乗る。終点の我孫子駅で降りて南口駅前の「ココ一番屋」に入って「野菜カレー」を食べる。雨が降ってきたので帰りもバス。このところ障害者割引を利用しているので片道75円である。「モリちゃんの酒中日記」を読み返していたら6月に加藤典洋の「敗戦後論」を読んでいたことが判明。認知症発症か?「どっかで読んだことが…」と思ったのは事実ですが1カ月前に読んだことを忘れる?