11月某日
「海洞(KAIDO)-アフンルパロの物語」(三浦清宏 文藝春秋 2006年9月)を読む。三浦は先週、旧友の山本良則君から借りた「長男の出家」を読んだばかりだ。三浦は北海道室蘭市生まれ、私は生後1歳から予備校のために上京した19歳まで室蘭で育ったので親近感がある。「海洞」は刊行直後に図書館で借りた読んだ記憶があるが、内容はまったく覚えていなかった。「あとがき」まで含めると四六判で600ページ、しかも2段組と来ているから読みおわるまで4日ほどかかってしまった。だけど私にはたいへん面白く長さを感じさせなかった。主人公の名前は大浦清隆、三浦清宏と二字が同じということからも分かるようにこの小説は三浦の自伝的な大作なのだ。オリンピックを1年後に控えた昭和38年、清隆は10年ぶりに帰国する。アメリカに留学し、大学を卒業した後にアメリカやヨーロッパで働いていたのだ。帰国後、親戚の代議士、南原徳蔵の屋敷にしばらく居候する。南原は当時の北海道4区選出の南條徳男である。岸派のちに藤山派に属し農林大臣や運輸大臣を歴任した自民党の重鎮である。小説の主な舞台は清隆の居候先の東京と故郷の室蘭。
私の育ったのは水元町といって、その名の通り水源地に近い山の中であったのに対して、清隆が生まれたのは母の実家の武林写真館で、これは当時の室蘭の繁華街である海岸町にあった。清隆の母方の祖父、武林孝一郎が明治時代に苦労して創業した。北海道で3番目か4番目の開業であった。孝一郎のモデルと思われるのが武林盛一という実在の写真家だ。孝一郎の家は信州の本陣、脇本陣の家柄だが武林盛一は弘前の出身で、幕末に箱館奉行所で写真術を学び維新後、札幌で開業する。南原徳蔵は仙台の東北中学から一高、東京帝大法学部に進み弁護士になる。政友会の院外団で頭角を現し、北海道から衆議院選挙に挑戦し代議士となる。戦争中の大政翼賛会での活動が響いて戦後は一時、公職追放の憂き目を見るが追放介助後、保守党の有力政治家として復活する。要するに「海洞」は南原家と武林家のファミリーヒストリーを縦軸とし、清隆の仕事や恋愛で成長していく姿を横軸とした一大叙事詩なのだ。私はNHKの番組の「ファミリーヒストリー」を好きでよく見るが、「海洞」を面白く読んだのも同じ理由かもしれない。
11月某日
私の住んでいる町内(我孫子市若松です)にいつも行列ができているラーメン屋がある。床屋さんに行ったついでに、桂という名前のそのラーメン屋に行ってみた。私が行ったときはたまたま行列が途切れて並ばずにカウンターに座ることができた。ラーメン750円の食券を購入、待つこと10分ほどでラーメンと体面。煮干し味でチャーシュー2枚とシナチク、刻んだネギが載っている。確かに旨いとは思うが「行列して並ぶほどの味か」という疑問は残る。カウンター席だったので店主らしき人(30代後半から40代くらい)がラーメンやチャーハンを作る姿を見ることができた。当たり前ですが非常にまじめに作っていた。いらっしゃいませー、毎度ありがとうございます、またどうぞ、という店員の声、態度も心地良い。今度はチャーハンを食べにいこう。ラーメン屋を出るとまた行列ができていた。私はラーメン屋の向かいのスーパーカスミによってポーランドのウオッカ、ズブロッカを買って帰る。
11月某日
昨日は私の73回目の誕生日であった。私の誕生日は三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で自決した日でもあるし、私の母親の命日とも重なる。私の母親は政治的な人ではなかったがかなり徹底した平和主義者だった。ちょうど今、NHKテレビの朝ドラで上白石萌音が演じている主人公と同じくらいの年齢だったからね。今朝の朝ドラ「カムカム、エブリバディ」は萌音の夫の戦死が伝えられる場面だった。私の母親も晩年、何度か手紙をくれて「シゲオ、戦争だけはダメだよ。分かっているね」と書いてきたものだ。安倍、菅内閣の姿勢はどうも平和志向とは言い難い。被爆地広島選出の岸田首相はどうですか?
この時期、作家の車谷長吉さんと2回ほど呑んだことがある。浅草の大鳥神社のお酉様の帰りに入谷の「酒処侘助」だった。なんで車谷さんかというと私の兄の奥さんが小学館の編集者をしていた関係で詩人の高橋順子さんと親しく、高橋さんの夫が車谷さんというわけである。私が車谷長吉の小説のファンを知っている兄嫁が私にも声を掛けてくれたのだ。そういえば侘助にも行っていないなぁ。
11月某日
柏高島屋ステーションモールに出店している成城石井にウイスキーを買いに行く。品揃えは高島の酒類売り場よりはるかに充実している。バーボンの「オールドグランドダッド114」(OLDGURAND-DAD)を購入、114というのはアルコール度数57%ということ。海外産のジンやウオッカの場合、アルコール度数×2の数値が記載されていることがある。家に帰って早速試飲すると私好みの「濃くてほんのり甘い味」である。そういえば昔、根津のスナック「ふらここ」でママに呑ませてもらったことがある。これも昔であるが我孫子駅前の関野酒店にバーボンの「クレメンタイン」を置いてあってアルコール度数が50%くらいあったように思う。店のオバサンが「アルコール度数が高いほど旨いんですよね」と語っていた。
「オリンピックにふれる」(吉田修一 講談社 2021年9月)を読む。東京オリンピックって今年だったっけ?と思うほどオリンピックの印象は薄い、私にとっては野球の大谷選手のアメリカでの活躍や大相撲の横綱白鵬の引退の方が記憶に強く残っている。「オリンピックにふれる」は香港、上海、ソウルでの若者たちのスポーツと恋愛模様が描かれ、表題作では無観客の東京オリンピックの国立競技場にこだわる若者の話である。吉田修一は過去に台湾やタイを舞台にした小説を描いているが、アジアの若者の屈託を描かせるとさすがに巧い!
11月某日
「暗殺者たち」(黒川創 新潮社 2013年5月)を読む。ちょいと変わったスタイルの小説だ。著者と思しき作家が、サンクトぺテルブルグ大学日本語学科の学生たちに「ドストエフスキーと大逆事件」という演題で講演するという形で、安重根や幸徳秋水、菅野須賀子ら大逆事件に関係した人たちの人生の一端に触れていく。安重根は伊藤博文を哈爾濱(ハルピン)駅頭で暗殺し、幸徳らは明治天皇の暗殺を企てたとしていずれも処刑されている。大逆事件については何冊かの本を読んできたが、安重根については高校の歴史の教科書程度の知識しかなかったので、この本は興味深く読んだ。日本の初代内閣総理大臣にして、最初の韓国統監、暗殺当時は枢密院議長だった伊藤が暗殺されたのは1909(明治42)年10月26日、であった。暗殺者の安は1879(明治9)年に現在は北朝鮮に含まれる黄海沿岸で生まれる。伊藤をピストルで射殺したときは満30歳、その翌年、1910年3月に遼東半島の旅順監獄で死刑に処される。日本は明治維新前後から朝鮮半島進出の気持ちを持っていた。西南戦争の原因の一つも西郷の征韓論を巡るものだったし、日清、日露戦争も朝鮮半島の支配を巡る帝国主義戦争であった。日露戦争に勝利した日本は朝鮮半島支配、朝鮮人民支配を露骨に進め、1907年には韓国皇帝・高宗に退位を求め、韓国軍も解散させるに至る。ナショナリストであった安は抗日運動に身を投じる。伊藤が暗殺された翌年、安が処刑された韓国は日本に併合される。
一方、大逆事件は1910年5月25日、信州・明科で工員・宮下太吉が逮捕され、6月1日には幸徳が連行される。菅野は獄中にあったため改めて検挙されることはなかった。6月22付の時事新報に弁護士・横山勝太郎に不思議な手紙が届けられたという記事が掲載される。一見すると真っ白な紙だが、よく見ると、針で刺したような細かな穴が点々とあいていて、背後に黒い紙を当てると、はっきり文面が読み取れる。獄中の菅野からで「私外三名近日死刑ノ宣告ヲ受クベシ 幸徳ノ為ニ何卒御弁護ヲ願フ」と記されていた。いわゆる「針文字書簡」だ。これに対して、東京朝日新聞の記者であった杉村楚人冠は、「かくの如き密書を他に漏らすことを横山君は別に不徳と考えなかったのであろうか」という公開状を紙面に載せている。著者の黒川創は「社会主義者、無政府主義者に対する風当たりが猛烈につのるなかで、ただちに、こんな抗議を公にした杉村楚人冠は、勇気ある人物だったと言わずにおれません」と杉村の勇気を称賛している。杉村は後に我孫子市に居を構えることになるのだが、没後半世紀以上たった21世紀になってから一通の封筒が発見された。菅野から楚人冠に当てたもう一通の針文字書簡だった。横山弁護士への手紙と同様に幸徳の弁護士を依頼する一方で「彼ハ何モ知ラヌノデス」とも書かれている。幸徳秋水を事件に巻き込んでしまった菅野の気持ちが伺える。なおこの「針文字書簡」は我孫子市の楚人冠記念館に保管されている。ところで菅野は大逆事件当時は幸徳と結婚していたが、それ以前は荒畑寒村と事実婚の関係だった。寒村が赤旗事件で千葉監獄に入獄していたとき、「罪と罰」の英訳本が菅野から差し入れられる。この本には寒村のアルファベットによる署名と菅野の英文よる謹呈の言葉が遺されている。献辞入りの「罪と罰」を寒村は晩年、菅野の伝記小説を書き上げた女流作家贈呈している。最近亡くなった瀬戸内寂聴のことであろう。